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1、雅の新しい恋人
芽生えた恋に
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「それで、先々週の土日はずっと雅の家で過ごしたんだ。」
緑山は今日も派手なブルーのシャツで、雅と隼人が待ち合わせしている食堂の一番隅っこのテーブルで興味津々に二人の行く末を聞き入っていた。
両手で頬杖をつき、顔を寄せ、食い入るようなまなざしを向けると、いつも見慣れている顔とは言え少し照れた。
「で、付き合うことにしたの。」
「まだ、何も言ってない。あの日から外で会うこともやめてるし、食堂で待ち合わせるのも久しぶりなんだ。
あっちも忙しいみたいで、もうどうでもいいやって思っているころにメールくるから、仕方なく合わせてるって感じ。」
「なんだ・・・三週間も会わなかったから、てっきり付き合っているのかと思った。」
「そうだ、緑山は三週間も何やっていたんだ。全く会わなかったじゃないか。」
「如月教授の手伝いだよ。また辞めちゃったんだ研究助手。
山波先生と僕だけで大変だったの。雅も手伝いに来てよ。」
「薫さんが嫌がるだろ。」
「だったら、隼人も誘えば。雅が恋人連れて来たならあの人も諦めて研究に没頭してくれると思うよ。それに雅はもともと忘れる気持ちなんかないんでしょ。
だったらいいじゃん。そばにいたいんでしょ。」
「隼人が可哀そうだろ。」
「そんな気持ち、最初からないくせに。」
緑山は小声で言った後、今まで見せたことがない冷たい目で一瞬だけ雅を見た。
そのあとはすぐに、入り口で背伸びをして雅を探す隼人の姿を見つけ、「あ、隼人だ。」と手を振り話をそらした。
「すっごく微笑んでいるね。雅に完全に惚れてるね、あの顔。
死ねって言ったら死ぬくらい惚れてるよ。雅はそうでもないのに、哀れだね。」
「そんな言い方するなよ・・・」
「じゃあ付き合おうって言ってあげたら。それだけであの笑顔はあと3倍はきらめくよ。
見て、あの花びらみたいにかわいい唇。あの唇に何度もキスしたんでしょ。
それに雅のあれもあの口に・・・」
「やめろよ・・・そういうこと言うなって。」
「そこまでさせても付き合ってあげないんだ。
まあ、どっちでもいいや。僕には関係ないし。助手の話は考えておいてね。
本当、困っているんだ。教授と山波先生には僕から言っておくから。」
「一緒に食べて行かないのか。」
「僕は相変わらず外食禁止なの。ごめんね。」
緑山は言いたいことだけを言って雅の前から去っていった。
人が多い場所は嫌いだといいながら、わざわざ人ごみの中へ向かっていく緑山をずっと目で追うと、隼人の目線に合わせるように膝をまげ、顔を近づけて何やら話を始め、隼人もその話ににこやかに答えを返していた。
そのあとすぐ緑山は後ろ手に手を振り食堂を後にしたが、隼人と親しげに話をしている姿を見せつけられるのはなんだか嫌な気がした。
「先輩、遅れちゃってごめんなさい。」
「なんで、まち合わせの時間にはまだ20分もあるよ。俺が早く来たんだ。そんなに謝らなくていいよ。」
そう言い終わりにふと隼人を顔を見ると、目の下にうっすらと青い痣があった。唇の端も切れているような跡があった。
「どうした。それ。」
「なんでも・・・・」
「ちょっとこい。」
隼人の手を引いて一番近いトイレの個室に連れ込みシャツをめくった。
背中には棒で叩いたような赤黒く血をにじませた痣が古い傷の上に幾重にも醜い跡を残していた。
「これ、誰にやられたんだ。こうした奴はこの学校にいるのか。」
「大丈夫ですよ。先輩。僕、慣れてますから。」
「こんなことに慣れるな。やめてくれってなんで言わないんだ。痛い時は痛いって言えよ。」
「言えばやめてもらえますか。先輩も僕の事だけを見てって言ったらあの人の事、忘れてくれますか?僕、苦しい。痛いよ・・・先輩の事好きだから・・・背中の傷なんてすぐ忘れる。
でも先輩のことは毎日毎日、どんどん好きになっていくから、辛くてもう耐えられないです。これでいいですか・・・・」
はじめは作り笑いで話をしていた隼人も、だんだんに真剣な顔で涙を浮かべながら声を押し殺し吐き捨てるように言った。小さな体を震わせて、怒りを自分の中へ閉じ込めて押し殺そうとしているのがよく分かった。
「隼人・・・」
「ごめんなさい。こんな事、いうつもりなかったのに・・・ごめんなさい。」
隼人はトイレを飛び出し、そのままもう食堂には戻っては来なかった。
教科書の入った隼人がいつも持っているカバンが、いつも二人が座る席の近くに落ちていた。
それを見たとき、雅の心は急に空っぽになった。
次の授業も普通に受けはしたが、ぼんやりとして何も耳に入ってこなかった。
ただ、涙をこらえながら言葉を吐く、苦しそうな隼人の顔を思い浮かべ、その事だけを繰り返し考えていた。
「雅、どうしたのぼんやりして。」
授業が終わると同時に緑山が声をかけてきた。
「ノートもとっていないでしょ。」
「ああ・・・少し時間あるか・・・」
一番近いベンチにへたりこむと、頭を抱え話を始めた。
絶対誰にも言いたくなかったことだけれど、誰かに聞いてもらわないと、もう自分だけでは抱えきれないほど苦しみの膿が大きくなっていた。
「隼人の背中に痣があってさ・・・前からあったけど、さっきトイレで見たら新しい傷がいっぱいあって・・・どうしてやめてって言わないんだって言ったら、背中の傷はすぐ治るって。それより、俺に自分だけを見てくれるのかって、ほかのだれかを忘れて隼人だけを愛せるのかって言われたよ。苦しいって。」
「そう・・・もう終わりだね。よかったじゃん、付き合う前で。深入りする前でよかったね。」
「よくないだろ・・・そんな目に合わせたまま別れるなんてできないよ。」
「何、今更言っているんだよ。やめとけよ。絶対。
雅は、教授とちゃんとわかれるなんて絶対できないって。
隼人には可哀そうだけどこれで終わりだ。ほっとけば学校もやめるって。そしたら嫌でも忘れられる。」
「俺・・・ムリだ、あいつの事不幸にしたままで何もしてやれないなんて。」
「いいか、絶対やめとけよ。雅には絶対何もできないって。二人とも不幸になるだけだって。」
緑山は、いつになく真剣な顔で、雅の腕を痛いほど握りしめて言った。
「う、うん・・・」
そうは言われたものの、あの悲しそうな顔が頭から離れず、緑山と別れるとすぐ学校中を探し、それでも見つけられず、隼人のマンションに向かった。
何度かチャイムを押したものの、中から応答はなかった。
電話もメールも何もなかった。隼人を探そうにもどうやって探していいか全くわからなかった。
知り合って約2か月になろうとしていたが隼人の好きな物、行きたいところ、いろいろ話をしていたと思うが何も覚えてはいなかった。
ただ気が付くと自分のそばでいつもニコニコと自分を見上げていて、その笑顔になんとなく救われて、でも自分は何も与えない。
それでも隼人は好きでそばにいるんだからそういう扱いで構わないんだと、今までそう考えていたことを改めて知ると、自分のしてきたことがとてもつもなく恐ろしいことのように感じて来た。
散々探し回ったが、結局なんの手がかりもつかめないまま、隼人のカバンを持ったまま自分のマンションへ帰って来た。
駐車場に車を止めエントランスに向かうと、植え込みの縁にうつむいて座っている隼人の小さな姿があった。
「隼人・・・」
「先輩・・・ごめんなさい。ここへ来てはいけなかったですよね。
でも、カバンの中に携帯も家の鍵もみんな入っていて・・・ごめんなさい・・・」
「探したよ・・・」
雅は、ずっとうつむいたまま顔を見ようとしない隼人の頭を撫でると、ぐっと抱きしめた。
その体は冷たく無反応でまるで人形を抱いているかの様だった。
「お腹すいていない?お昼も食べていないでしょ。」
「お財布もそのかばんの中で・・・」
「すぐに取りに来たらよかったのに。」
「あんなひどいことを言ってしまって、どんな顔をしていけばいいかわからなくて。ごめんなさい。」
「いいよ。俺が悪かった。部屋へ行こう。今日は俺がご飯を作るよ。」
「やめときます。
僕、やっぱり先輩の好きだった人の代わりができないことに気が付きました。
身の程知らずでした。」
「俺が好きだった人が誰か知っているの?」
「緑山さんですよね・・・」
「違うよ。あいつとは幼稚園からずっと一緒だけど恋人だったことは一度もない。
なんでそう思った?」
「今日、食堂で、雅と付き合わないなら返してもらうよって・・・」
「あいつ・・・」
「だから僕・・・・もう無理だと思ってつい・・・」
隼人はくるりとした目で今日、初めて雅を見た。
この無垢なまなざしに何度救われただろうと考えていると今度は自分がこの瞳を救わなければと咄嗟に思った。
「もう一度だけ言うよ。部屋に来ないか。今、無性に隼人とキスがしたいんだ。」
「僕と。」
「隼人と。もう誰かのことを考えてなんてしない。隼人としたいんだ。」
「先輩・・・」
「今日から名前で呼んでほしいな。ちゃんとした恋人として。」
緑山が言った通り、雅のその言葉で隼人はいつもの3倍のきらめいた笑顔で、その言葉の返事を返した。
「やめとけって言っただろ。聞いてなかったのか。」
「そんな心配するほどのことはないよ。あれ以来傷も作ってこないし。
俺もちゃんと隼人と付き合うと決めたら、薫さんのことは少し吹っ切れたような気がするんだ。」
「ような・・・ねえ。」
緑山は久しぶりに雅の家を訪ねて来た。
とりたてて用事があったわけでも、遊びに来たわけでもなく、ただ雅に大学まで車で送ってもらおうと思ってやって来ただけだった。
「とにかくさ、大変なんだ。二人じゃとても間に合わないから来てよ。今日。」
「今日は隼人と約束しているんだ。」
「じゃあ、断れよ。」
「そんな・・・隼人も連れて行くよ。あいつ思ったより頭よくて、パソコン打つのもすごく得意で・・・まとめは隼人にやってもらえばいいだろ。」
「今日は研究室に如月も来るよ。いいんだね。」
「最初に隼人もって言ったのは君のほうだぜ。」
「そうだけど・・・」
「もうちょっとで来るよ。着いたら一緒にでよう。
ところで、今日は車じゃないんだな。」
「ああ、夕べは泊ったんだ。」
「新しい恋人か。」
「恋人なんてものじゃないよ。
僕はね、たまにあって適当な時間が過ごせたらそれでいいんだ。
心の支えも日々の喜びも希望も求めない。その時の快楽さえ得られればそれでいい。
君のようなメロドラマみたいな恋愛をするくらいなら、小遣いをもらって変態おやじに抱かれるほうがましだよ。」
「そうか。相変わらずだな。」
「第一、こんな僕の心を十分に補ってくれる人がいるとも思えないしね。」
「山波先生はどう?とても仲良さそうじゃないか。」
「山波は毎日女をとっかえひっかえ、しかも金持ちの女ばかりで研究室の費用のためとか言ってるけど、どうかな・・・そもそも、教授の給料で毎日違う高級ブランドのスーツを着て高級腕時計に外車なんて、持てるはずがないじゃん。」
「山波先生はかっこいいもんな。頭もいいし。モテるだろうな。」
「だろうね。でもあいつは如月の忠犬。あいつも如月が死ねって言ったら喜んで死ぬタイプだね。如月の恋人でもないのに、変わったやつさ。
でも、自分の本性を隠して冷徹にふるまうところは好きだな。
人に特別な感情を残さないから付き合いやすいよ。
夕べも金持ちの女を僕が紹介したんだ。ママの友達。
如月が何とかっていうバカ高い設備がほしいとか言って相談受けたから、紹介したんだ。おかげで昨日はお休みになったから僕も久しぶりに羽を伸ばせたけどね。」
「その割には全く楽しそうじゃないな。逆に苦しそうに見えるけど。」
「そう?僕は雅と違って顔に出にくいタイプなんだよ。シャワー借りていいか。
あと、シャツも貸してくれ。昨日の男の匂いが染みついて気分が悪くなってきた。」
「ああ、好きなだけ洗えよ。ボディソープも新しくしたばかりだ。」
雅は緑山のために新しいバスタオルとシャツと下着を用意した。
どんなに冷たい言葉を吐かれても緑山のことは嫌いにはなれなかった。
それどころか、緑山の苦しみが分かりすぎるほどわかり、その苦しみを癒してやることができない自分を責めていた。
「先輩・・・おはようございます。」
インターホンに隼人が写った。
「おはよう。今開けるよ。」
エレベーターの方向から隼人のかけてくる小さな足音が聞こえるような気がして、玄関で隼人を待った。すぐに抱きしめられる準備をするために。
雅の予感通りに隼人は玄関のチャイムを一度鳴らして飛び込んできた。
「おはよう」挨拶をするより早く握りしめるように抱きしめた。
やっと捕まえたとても大切な何かを逃さないように強く優しく抱きとめた。
「おはようございます。先輩。」
「隼人・・今日は手伝ってほしいことがあるけどいいかな。一緒に来てくれるか。」
「うん。先輩の行くところならどこでも。」
「研究室の手伝いなんだ。パソコンの入力の手伝いをしてほしいんだ。」
「はい。」
「出かけようって言っていたのに、ごめんな。」
「大丈夫です。先輩と一緒ならどこでも。」
「先輩はもうやめよう。」
「雅・・・って呼ぶの、なんだか照れます。」
「なら、呼ぶな。俺の雅だ。」
「緑山・・・・」
シャワーから上がった緑山が裸でそこに立っていた。
玄関で抱き合う二人を見下したような顔でタイミング悪く出くわした。
「隼人、俺と雅はこういう仲なんだよ。悪かったな。」
「隼人、誤解するな。泊ったとかじゃないからな。何もないからな。」
「はい・・・先輩を信じます。」
「お前もか。面白くねえ。」
「緑山・・・とにかく服着ろよ。そろそろ行くんだろ。」
「もう少し。汗がひくまで待ってよ。」
緑山はそのまま開け放った窓辺にもたれかかり立っていた。
景色を見るでもなく、ただ茫然と頭を空っぽにして。
このまま幸せな時が永遠に止まればいいなんて、甘っちょろいことを考えている二人が本当はとてもうらやましくて、妬ましくてならなかった。
口では誰も愛さないし、愛されたくもないとは言っていても、真実は死ぬまでに一度でいいから身を焦がすような深い愛を感じたいと願っていた。
けれど、それは何よりもかなわない夢であることを知っていたし、その夢をかなえるまでの時間も、もうほぼ残っていないことも自覚していた。
ただ、たまにこうして今も未来も過去もすべてを忘れ、頭の中を空っぽにして風に抱かれている時が、唯一の安らぎの時だった。
「シャツと下着は今度買って返すよ。
隼人、俺と雅はなんでもないから。ずっと友達だもんな。」
振り向いてシャツを着た緑山はいつもの顔になっていた。
濡れた髪を適当にタオルで拭き、先頭を切って部屋を後にした。
雅も隼人も後に続いたが、車の中でバックミラーに写る緑山の物憂げな横顔が気になって仕方がなかった。
緑山は今日も派手なブルーのシャツで、雅と隼人が待ち合わせしている食堂の一番隅っこのテーブルで興味津々に二人の行く末を聞き入っていた。
両手で頬杖をつき、顔を寄せ、食い入るようなまなざしを向けると、いつも見慣れている顔とは言え少し照れた。
「で、付き合うことにしたの。」
「まだ、何も言ってない。あの日から外で会うこともやめてるし、食堂で待ち合わせるのも久しぶりなんだ。
あっちも忙しいみたいで、もうどうでもいいやって思っているころにメールくるから、仕方なく合わせてるって感じ。」
「なんだ・・・三週間も会わなかったから、てっきり付き合っているのかと思った。」
「そうだ、緑山は三週間も何やっていたんだ。全く会わなかったじゃないか。」
「如月教授の手伝いだよ。また辞めちゃったんだ研究助手。
山波先生と僕だけで大変だったの。雅も手伝いに来てよ。」
「薫さんが嫌がるだろ。」
「だったら、隼人も誘えば。雅が恋人連れて来たならあの人も諦めて研究に没頭してくれると思うよ。それに雅はもともと忘れる気持ちなんかないんでしょ。
だったらいいじゃん。そばにいたいんでしょ。」
「隼人が可哀そうだろ。」
「そんな気持ち、最初からないくせに。」
緑山は小声で言った後、今まで見せたことがない冷たい目で一瞬だけ雅を見た。
そのあとはすぐに、入り口で背伸びをして雅を探す隼人の姿を見つけ、「あ、隼人だ。」と手を振り話をそらした。
「すっごく微笑んでいるね。雅に完全に惚れてるね、あの顔。
死ねって言ったら死ぬくらい惚れてるよ。雅はそうでもないのに、哀れだね。」
「そんな言い方するなよ・・・」
「じゃあ付き合おうって言ってあげたら。それだけであの笑顔はあと3倍はきらめくよ。
見て、あの花びらみたいにかわいい唇。あの唇に何度もキスしたんでしょ。
それに雅のあれもあの口に・・・」
「やめろよ・・・そういうこと言うなって。」
「そこまでさせても付き合ってあげないんだ。
まあ、どっちでもいいや。僕には関係ないし。助手の話は考えておいてね。
本当、困っているんだ。教授と山波先生には僕から言っておくから。」
「一緒に食べて行かないのか。」
「僕は相変わらず外食禁止なの。ごめんね。」
緑山は言いたいことだけを言って雅の前から去っていった。
人が多い場所は嫌いだといいながら、わざわざ人ごみの中へ向かっていく緑山をずっと目で追うと、隼人の目線に合わせるように膝をまげ、顔を近づけて何やら話を始め、隼人もその話ににこやかに答えを返していた。
そのあとすぐ緑山は後ろ手に手を振り食堂を後にしたが、隼人と親しげに話をしている姿を見せつけられるのはなんだか嫌な気がした。
「先輩、遅れちゃってごめんなさい。」
「なんで、まち合わせの時間にはまだ20分もあるよ。俺が早く来たんだ。そんなに謝らなくていいよ。」
そう言い終わりにふと隼人を顔を見ると、目の下にうっすらと青い痣があった。唇の端も切れているような跡があった。
「どうした。それ。」
「なんでも・・・・」
「ちょっとこい。」
隼人の手を引いて一番近いトイレの個室に連れ込みシャツをめくった。
背中には棒で叩いたような赤黒く血をにじませた痣が古い傷の上に幾重にも醜い跡を残していた。
「これ、誰にやられたんだ。こうした奴はこの学校にいるのか。」
「大丈夫ですよ。先輩。僕、慣れてますから。」
「こんなことに慣れるな。やめてくれってなんで言わないんだ。痛い時は痛いって言えよ。」
「言えばやめてもらえますか。先輩も僕の事だけを見てって言ったらあの人の事、忘れてくれますか?僕、苦しい。痛いよ・・・先輩の事好きだから・・・背中の傷なんてすぐ忘れる。
でも先輩のことは毎日毎日、どんどん好きになっていくから、辛くてもう耐えられないです。これでいいですか・・・・」
はじめは作り笑いで話をしていた隼人も、だんだんに真剣な顔で涙を浮かべながら声を押し殺し吐き捨てるように言った。小さな体を震わせて、怒りを自分の中へ閉じ込めて押し殺そうとしているのがよく分かった。
「隼人・・・」
「ごめんなさい。こんな事、いうつもりなかったのに・・・ごめんなさい。」
隼人はトイレを飛び出し、そのままもう食堂には戻っては来なかった。
教科書の入った隼人がいつも持っているカバンが、いつも二人が座る席の近くに落ちていた。
それを見たとき、雅の心は急に空っぽになった。
次の授業も普通に受けはしたが、ぼんやりとして何も耳に入ってこなかった。
ただ、涙をこらえながら言葉を吐く、苦しそうな隼人の顔を思い浮かべ、その事だけを繰り返し考えていた。
「雅、どうしたのぼんやりして。」
授業が終わると同時に緑山が声をかけてきた。
「ノートもとっていないでしょ。」
「ああ・・・少し時間あるか・・・」
一番近いベンチにへたりこむと、頭を抱え話を始めた。
絶対誰にも言いたくなかったことだけれど、誰かに聞いてもらわないと、もう自分だけでは抱えきれないほど苦しみの膿が大きくなっていた。
「隼人の背中に痣があってさ・・・前からあったけど、さっきトイレで見たら新しい傷がいっぱいあって・・・どうしてやめてって言わないんだって言ったら、背中の傷はすぐ治るって。それより、俺に自分だけを見てくれるのかって、ほかのだれかを忘れて隼人だけを愛せるのかって言われたよ。苦しいって。」
「そう・・・もう終わりだね。よかったじゃん、付き合う前で。深入りする前でよかったね。」
「よくないだろ・・・そんな目に合わせたまま別れるなんてできないよ。」
「何、今更言っているんだよ。やめとけよ。絶対。
雅は、教授とちゃんとわかれるなんて絶対できないって。
隼人には可哀そうだけどこれで終わりだ。ほっとけば学校もやめるって。そしたら嫌でも忘れられる。」
「俺・・・ムリだ、あいつの事不幸にしたままで何もしてやれないなんて。」
「いいか、絶対やめとけよ。雅には絶対何もできないって。二人とも不幸になるだけだって。」
緑山は、いつになく真剣な顔で、雅の腕を痛いほど握りしめて言った。
「う、うん・・・」
そうは言われたものの、あの悲しそうな顔が頭から離れず、緑山と別れるとすぐ学校中を探し、それでも見つけられず、隼人のマンションに向かった。
何度かチャイムを押したものの、中から応答はなかった。
電話もメールも何もなかった。隼人を探そうにもどうやって探していいか全くわからなかった。
知り合って約2か月になろうとしていたが隼人の好きな物、行きたいところ、いろいろ話をしていたと思うが何も覚えてはいなかった。
ただ気が付くと自分のそばでいつもニコニコと自分を見上げていて、その笑顔になんとなく救われて、でも自分は何も与えない。
それでも隼人は好きでそばにいるんだからそういう扱いで構わないんだと、今までそう考えていたことを改めて知ると、自分のしてきたことがとてもつもなく恐ろしいことのように感じて来た。
散々探し回ったが、結局なんの手がかりもつかめないまま、隼人のカバンを持ったまま自分のマンションへ帰って来た。
駐車場に車を止めエントランスに向かうと、植え込みの縁にうつむいて座っている隼人の小さな姿があった。
「隼人・・・」
「先輩・・・ごめんなさい。ここへ来てはいけなかったですよね。
でも、カバンの中に携帯も家の鍵もみんな入っていて・・・ごめんなさい・・・」
「探したよ・・・」
雅は、ずっとうつむいたまま顔を見ようとしない隼人の頭を撫でると、ぐっと抱きしめた。
その体は冷たく無反応でまるで人形を抱いているかの様だった。
「お腹すいていない?お昼も食べていないでしょ。」
「お財布もそのかばんの中で・・・」
「すぐに取りに来たらよかったのに。」
「あんなひどいことを言ってしまって、どんな顔をしていけばいいかわからなくて。ごめんなさい。」
「いいよ。俺が悪かった。部屋へ行こう。今日は俺がご飯を作るよ。」
「やめときます。
僕、やっぱり先輩の好きだった人の代わりができないことに気が付きました。
身の程知らずでした。」
「俺が好きだった人が誰か知っているの?」
「緑山さんですよね・・・」
「違うよ。あいつとは幼稚園からずっと一緒だけど恋人だったことは一度もない。
なんでそう思った?」
「今日、食堂で、雅と付き合わないなら返してもらうよって・・・」
「あいつ・・・」
「だから僕・・・・もう無理だと思ってつい・・・」
隼人はくるりとした目で今日、初めて雅を見た。
この無垢なまなざしに何度救われただろうと考えていると今度は自分がこの瞳を救わなければと咄嗟に思った。
「もう一度だけ言うよ。部屋に来ないか。今、無性に隼人とキスがしたいんだ。」
「僕と。」
「隼人と。もう誰かのことを考えてなんてしない。隼人としたいんだ。」
「先輩・・・」
「今日から名前で呼んでほしいな。ちゃんとした恋人として。」
緑山が言った通り、雅のその言葉で隼人はいつもの3倍のきらめいた笑顔で、その言葉の返事を返した。
「やめとけって言っただろ。聞いてなかったのか。」
「そんな心配するほどのことはないよ。あれ以来傷も作ってこないし。
俺もちゃんと隼人と付き合うと決めたら、薫さんのことは少し吹っ切れたような気がするんだ。」
「ような・・・ねえ。」
緑山は久しぶりに雅の家を訪ねて来た。
とりたてて用事があったわけでも、遊びに来たわけでもなく、ただ雅に大学まで車で送ってもらおうと思ってやって来ただけだった。
「とにかくさ、大変なんだ。二人じゃとても間に合わないから来てよ。今日。」
「今日は隼人と約束しているんだ。」
「じゃあ、断れよ。」
「そんな・・・隼人も連れて行くよ。あいつ思ったより頭よくて、パソコン打つのもすごく得意で・・・まとめは隼人にやってもらえばいいだろ。」
「今日は研究室に如月も来るよ。いいんだね。」
「最初に隼人もって言ったのは君のほうだぜ。」
「そうだけど・・・」
「もうちょっとで来るよ。着いたら一緒にでよう。
ところで、今日は車じゃないんだな。」
「ああ、夕べは泊ったんだ。」
「新しい恋人か。」
「恋人なんてものじゃないよ。
僕はね、たまにあって適当な時間が過ごせたらそれでいいんだ。
心の支えも日々の喜びも希望も求めない。その時の快楽さえ得られればそれでいい。
君のようなメロドラマみたいな恋愛をするくらいなら、小遣いをもらって変態おやじに抱かれるほうがましだよ。」
「そうか。相変わらずだな。」
「第一、こんな僕の心を十分に補ってくれる人がいるとも思えないしね。」
「山波先生はどう?とても仲良さそうじゃないか。」
「山波は毎日女をとっかえひっかえ、しかも金持ちの女ばかりで研究室の費用のためとか言ってるけど、どうかな・・・そもそも、教授の給料で毎日違う高級ブランドのスーツを着て高級腕時計に外車なんて、持てるはずがないじゃん。」
「山波先生はかっこいいもんな。頭もいいし。モテるだろうな。」
「だろうね。でもあいつは如月の忠犬。あいつも如月が死ねって言ったら喜んで死ぬタイプだね。如月の恋人でもないのに、変わったやつさ。
でも、自分の本性を隠して冷徹にふるまうところは好きだな。
人に特別な感情を残さないから付き合いやすいよ。
夕べも金持ちの女を僕が紹介したんだ。ママの友達。
如月が何とかっていうバカ高い設備がほしいとか言って相談受けたから、紹介したんだ。おかげで昨日はお休みになったから僕も久しぶりに羽を伸ばせたけどね。」
「その割には全く楽しそうじゃないな。逆に苦しそうに見えるけど。」
「そう?僕は雅と違って顔に出にくいタイプなんだよ。シャワー借りていいか。
あと、シャツも貸してくれ。昨日の男の匂いが染みついて気分が悪くなってきた。」
「ああ、好きなだけ洗えよ。ボディソープも新しくしたばかりだ。」
雅は緑山のために新しいバスタオルとシャツと下着を用意した。
どんなに冷たい言葉を吐かれても緑山のことは嫌いにはなれなかった。
それどころか、緑山の苦しみが分かりすぎるほどわかり、その苦しみを癒してやることができない自分を責めていた。
「先輩・・・おはようございます。」
インターホンに隼人が写った。
「おはよう。今開けるよ。」
エレベーターの方向から隼人のかけてくる小さな足音が聞こえるような気がして、玄関で隼人を待った。すぐに抱きしめられる準備をするために。
雅の予感通りに隼人は玄関のチャイムを一度鳴らして飛び込んできた。
「おはよう」挨拶をするより早く握りしめるように抱きしめた。
やっと捕まえたとても大切な何かを逃さないように強く優しく抱きとめた。
「おはようございます。先輩。」
「隼人・・今日は手伝ってほしいことがあるけどいいかな。一緒に来てくれるか。」
「うん。先輩の行くところならどこでも。」
「研究室の手伝いなんだ。パソコンの入力の手伝いをしてほしいんだ。」
「はい。」
「出かけようって言っていたのに、ごめんな。」
「大丈夫です。先輩と一緒ならどこでも。」
「先輩はもうやめよう。」
「雅・・・って呼ぶの、なんだか照れます。」
「なら、呼ぶな。俺の雅だ。」
「緑山・・・・」
シャワーから上がった緑山が裸でそこに立っていた。
玄関で抱き合う二人を見下したような顔でタイミング悪く出くわした。
「隼人、俺と雅はこういう仲なんだよ。悪かったな。」
「隼人、誤解するな。泊ったとかじゃないからな。何もないからな。」
「はい・・・先輩を信じます。」
「お前もか。面白くねえ。」
「緑山・・・とにかく服着ろよ。そろそろ行くんだろ。」
「もう少し。汗がひくまで待ってよ。」
緑山はそのまま開け放った窓辺にもたれかかり立っていた。
景色を見るでもなく、ただ茫然と頭を空っぽにして。
このまま幸せな時が永遠に止まればいいなんて、甘っちょろいことを考えている二人が本当はとてもうらやましくて、妬ましくてならなかった。
口では誰も愛さないし、愛されたくもないとは言っていても、真実は死ぬまでに一度でいいから身を焦がすような深い愛を感じたいと願っていた。
けれど、それは何よりもかなわない夢であることを知っていたし、その夢をかなえるまでの時間も、もうほぼ残っていないことも自覚していた。
ただ、たまにこうして今も未来も過去もすべてを忘れ、頭の中を空っぽにして風に抱かれている時が、唯一の安らぎの時だった。
「シャツと下着は今度買って返すよ。
隼人、俺と雅はなんでもないから。ずっと友達だもんな。」
振り向いてシャツを着た緑山はいつもの顔になっていた。
濡れた髪を適当にタオルで拭き、先頭を切って部屋を後にした。
雅も隼人も後に続いたが、車の中でバックミラーに写る緑山の物憂げな横顔が気になって仕方がなかった。
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社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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