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変な三人の男・ここはミッチェの店
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そしてそれは、今年初めての雪が降ってから3日目のすごく、すごく寒い日の夜。
その日も雪が降っていた。
もう止んでもいいのに・・・と誰もが願っていただろうが、ミッチェ・セリスティはそんな雪の日が好きだった。
バーバークロバラ。
彼の店は人通りの少ない細い路地の中にあり、普段からも賑やかではないが、雪の日は特に静かで、その静寂の中、店の明かりを落とし、暖炉の明かりだけで、バーバーチェアの背を倒し、うつらうつらしているのがとても好きだった。
そうやって時間をつぶしていると、冷たく凍った風が店の中を横切った。
「いらっしゃ・・・い・・・」
ミッチェが振り返ると子供が一人立っていた。
「どうした少年。髪を切りに来たのか?」
「ち…違います…暖かそうな火が見えたので、つい扉を開けてしまいました…ごめんなさい…」
子供は扉から手を離し、早足でそこから立ち去ろうとしていた。
いつものミッチェなら、知らん顔で見送るのだが、この日は、なぜか子供を追いかけた。あまりにも静かすぎて、少し寂しかったのかもしれない。
かといって友達の店 こーひーへびいちごへ行ってバカ騒ぎする気にもなれない。
だから、この子供くらいでちょうどいいと、その時、咄嗟に思った。
・・・ただ、それだけだった。
「まてよ。温まっていけよ。俺一人だけだし、もう客も来ねえ。」
「いいのですか。」
「ああ…」
きっと暖炉が珍しいんだろう…
その程度にしか考えてなかったミッチェは、子供は単純に喜ぶものだと思っていたが、その子は大粒の涙を流し、声を殺して泣き出した。
子供の髪に着いた雪を払おうと手を伸ばすと、目を固く瞑り体に力を入れた。
「大丈夫だよ。」
ミッチェはタオルを頭にかぶせ、暖炉の前に椅子を置き子供を座らせた。
子供は10歳くらいに思えたが、この寒いのに上着もなく、足首がまる見えの短いズボンをはき、サンダルからは踵がはみ出し、指先はしもやけだらけだった。
「待ってろ、今お湯を持ってきてやる。」
ミッチェはバケツに湯を汲むと子供の足元に置き、体には毛布を掛けてやった。
「足をいれろ。暖かいぞ。」
「いいんですか?」
「ああ・・・」
ミッチェは短くそういうと、又、バーバーチェアに腰かけ、暖炉の炎を眺めた。
「少年、名前は?」
「僕は…多分… “おい”です。」
「はあ?変な名前だな。」
「そうですか?
“おい” か “おまえ” か “てめえ”と呼ばれていました。
そう呼ばれて返事しないとぶたれるので、多分、それが僕の名前です。」
「・・・誰に・・・」
「おとうさん・・・です。」
「そうか・・・
・・・暖かいか?」
「はい。こんなに暖かい火は生まれて初めてです。お湯も…こんなに気持ちよかったんだ…」
「知らなかったのか?」
「はい。痛くて苦しいものだと思っていました。」
「じゃあ、今日の火は少年にとって優しい火だな。」
「優しい?」
「ああ…優しいというのは、今、少年が感じているような…そんな気持ちだ。
言葉にするのは難しい。けど、そういう時は笑え。気持ちいいのに苦しそうな顔をするな。」
子供の涙も小さな震えもなかなか止まらなかった。
しばらくの沈黙が続いた後、子供はとても小さな声で
「親切にしていただいて・・・こんな事を言うのは嫌なんですけど・・・これを買ってはもらえませんか?」
子供は小さな手のひらを広げると、使いかけのゴミのようなマッチを3個出した。
「いくらだ。」
「三万円・・・でも、いくらでもいいです・・・ごめんなさい・・・」
ミッチェは大きくため息をついた。
何を言い出すんだこのガキは・・・というため息ではなくて、なぜこの子供は、こんな悲しみを背負って生まれてきてしまったのだろうか・・・というため息だった。
子供は申し訳なさそうに、伏目がちにミッチェを見た。
「わかった。買ってやる。お前の家にこれはまだあるのか?」
「はい…あと5つあります…」
「全部持ってこい。全部買ってやる。」
「ほんとう…ですか…」
「ああ。本当だ。」
子供は口に手を当てて泣いた。声を上げて・・・
ミッチェはひじ掛けに頬杖をつき、その子供の姿を漫然と眺めていた。
「少年は父親と二人か?」
「いえ・・・弟が・・・一人・・・」
「だったら弟と一緒にそれを持ってこい。」
「ムリです。二人一緒に家から出ることは許されません。僕がお金を持って帰らないと、弟がぶたれます。
けれど・・・この優しい火を、弟と一緒に見たいな・・・」
子供はぎこちないとてもへたくそな笑顔を見せた。
「じゃあ、俺に頼め。俺の頬に少年の手を当てて心から願え。ただ一心に、自分の願いを俺にぶつけろ。」
少し身を乗り出してそう言ったが、子供は口を一文字に結びうつむいたまま、微動だにしなかった。
その様子を見て、三万を子供の前に投げ、チェアに深く腰掛けて目を瞑った。
(その気がないのなら、それで構わない、その気にならないものを自分から救ってやるほど、俺は気のいいやつではない。第一、自分の人生を変えたいと本気で願わない奴に、何をしても無駄だ。適当に暖まったら、そのうち帰るだろう。)
上着を胸にかけてこのまま今日はここで眠るつもりだった。
数十分・・・数分かもしれない、時がたった時、ミッチェの頬にカサカサの冷たい手が触れた。まだ少し震えていた。
「おねがい・・・おねがい・・・おねがい・・・」
小さな声で何度も言った。
ミッチェは目を見開き、薄紫の瞳で子供を正面から見た。
「俺が父親に電話をかけてここへ来るように言う、少年は急いで帰って弟を連れて来い。」
「お父さんの電話番号を知りません・・・」
「俺はなんでもわかるんだ。心配するな。
少年はただ弟を連れてこればいい。いいか、弟だけだぞ。
ほかには何も持ってきてはいけない。家から出せるのは弟だけだ
約束できるか。」
「大丈夫です。僕にも弟にも無くなって困るものは何もない。」
「よし、それでいい。
そしてこの街に帰って来たら、俺が迎えに行くまで、弟と一緒に向かいの“コーヒーへびいちご”で待ってろ。なんでも好きなものを腹いっぱい食え。金のことは心配するな。
ただし、店の男が握手をしようと言っても、絶対に手を出すなよ。いいな。
それだけは守るんだぞ。」
「いいんですか・・・食べても・・・」
「ああ。とにかく、腹がはちきれそうになるまで食え!
店には、ミッチェのところから来たといえばわかるから。」
「はい!」
ミッチェは自分がかけていた上着を子供に着せて袖を折ると頭を撫で、不器用に微笑んだ。
(この子供の為に頑張ってみよう)
などと、普段では絶対思いもしない事を考えていた。
「よし、いい返事だ。行け!」
扉を開くと子供は勢いよく飛び出した。
路地を抜けるまでその小さな背中を見送ると、店の窓のカーテンを下ろした。
店の奥に置いたダイヤル式電話の受話器を取ると、子供の父親に電話をかけた。
ダイヤルなど回さない。ただ、受話器を取っただけで父親は電話に出た。
ミッチェは女の声色を使い言葉巧みに父親を誘い出した。
父親は今すぐに家を出ると言った。
ミッチェは、ハサミや櫛カミソリをカウンターに並べて待った。
腰につけた鍵の束から古ぼけた鍵を選び、壁面の戸棚の上から2番目の扉の鍵穴に指し、右に一回、左に2回まわしたあと、ぐっと押すとバーバーチェアの脇にバラの蔓があしらわれた黒い鉄のレバーが現れた。棘すらも忠実に模った荒々しい造りのそれは、磨き込まれた木目と革の重厚な造りのこの店には少し不釣り合いな感じがした。
一通り用意が終わると、窓際で煙草に火をつけた。煙をふーっと長く吐くと、細い指先でカーテンを持ち上げ、隙間から外を覗いた。
雪がハラハラと舞っていた。
(少年は弟を連れ出す事ができるだろうか…)
ミッチェは思わず“プッ”と噴き出した。
(この俺が誰かの心配をするなんて…)柄にもない自分が可笑しく思えた。
もう一度だけ深く煙草を吸い、火を灰皿に押し付けると店のドアが開いた。
「いらっしゃい。」
「電話をもらったものだが、あんたか、マッチを買ってくれるのは。」
父親は店の中を見渡した。店の作りを見ていたのではない。ミッチェが一人なのを確認していた。
「女から電話を貰ったが…」
「帰りました。雪が降って来たので。」
「女よりお前さんのほうが話が早そうだ。」
父親は暖かそうなふわふわしたダウンのコートに毛糸の帽子をかぶり、革の手袋をしていた。
ミッチェが手を出すと、そのコートを渡し、靴に着いた雪を絨毯で拭うと、店の中央のテーブルの上に子供が持っていたような、どこかの飲み屋の名前が印刷されている使いかけのゴミのようなマッチを5つ置いた。
「おいくらですか。」
「10万だ。」
「ほう…それはまた。」
「珍しいものなんだろ。そのくらいの価値はあって当然だ。」
「それもそうですね。」
父親はそのマッチが価値のあるものではなく、そこら辺の道端で子供が拾ってきたどうしようもないものだと言うことを理解していた。そのうえで金を吹っかけて来た。
払ってやると言い出したのはそっちなのだから、思い切りふんだくってやろうと考えていた。
(こいつはただのマッチ収集家でもなさそうだ。ひょっとしたら、このマッチには、こいつらの組織に必要な密書かマイクロチップでも隠されているのだろうか。とんでもないものが隠されているなら、もっとふんだくれるかもな。)
「やっぱり、三十万だ。」
父親の欲望はどんどんと膨れ上がっていった。
ミッチェもまたそんなことは重々承知の上だった。
そして、欲深い人間は警戒心が強い事もよく知っていた。
「では、それで。」
ミッチェはテーブルの上のブランデーをグラスに注ぐと、1つを父親に差し出した。
「酒の前に、金だ。」
「わかりました。」
ミッチェは戸棚の引き出しから金の束を出すと、三十万を父親の前にポンと置いた。
「乾杯をしませんか。」
父親は指を舐めながら金を数えた。
「金を数え終わってからな。けど、あんたの飲みかけを貰う。」
「毒など入れていません。」
「そうか。」
ミッチェは自分の飲んでいたグラスを父親の前に出し。父親の飲んでいたグラスの酒を一気に飲み干した。
「髪を切って行きませんか。髭も伸びていますし…」
「そんなことを言って、俺の喉を掻っ切るつもりか。」
「そんなこといたしません。床屋としてのプライドがありますから、商売道具で傷つけるなんて考えたこともございません。それより、無精ひげで見苦しいのが大嫌いなんです。
この店のドアから出る者は皆、美しくなければ出られないことになっています。」
「へえ…プライドね…でも金は払わねえぜ。」
「ええ、サービスです。」
ミッチェは満面の笑みでバーバーチェアを父親の方へ向け、座らせると蒸しタオルを取りに行った。
「なんかかけないのかよ。」
「掛けますよ。でも、いきなり掛けたら首でも締められるのかと、驚くでしょうから、蒸しタオルで首の後ろを温めてリラックスしてもらうと思いまして・・・。」
ミッチェは蒸しタオルを少し冷ましてから父親の首の後ろに当て、少しだけマッサージすると、首周りをよく拭き、ケープを掛けた。
「ヘエ気が効くな。」
ミッチェはシャンプーをはじめた。
父親は目を閉じ、ミッチェの指の動きにうっとりとしていた。
「気持ちがよくなってきた。さっきのブランデーのせいかな。」
「おいしかったでしょう。とても特別なブランデーなのです。」
「ああ、とてもうまかった。寒い日には最高だな。」
「そういえば、暖かそうなコートを着ていましたね。」
「ああ、最高級のダウンだ。」
「お子様がうちへ着た時、上着も着ずに薄くなったシャツ1枚しか着ていませんでしたが。」
「子供なんてアレで丁度いいんだよ。すぐでかくなるからもったいねえ。
欲しけりゃ自分で稼げばいいんだ。」
「だからあんなモノを売らせているのですか。」
「俺があれを売らせているわけじゃねえ。俺はただ、稼いでこいと言っているだけだ。
あたり前だろ、生きていたいなら稼がないとな。」
「でも・・・まだ子供でしょう。ほかに一杯やらなければならないことも、やりたいこともあるはずでは。」
「そんなこと知るか。アンタ俺に説教するつもりか。
あいつはオレの持ち物なんだからどうしようとオレの勝手だろう。」
「いえいえ、説教だなんて・・・ただ・・・まだ、お小さいようですが・・・学校へは行っていないのかな・・・と・・・」
「弟もいるんだし、学校へ行っている暇があったら稼がねえと。
毎日百円やそこらしか持ってこねえんじゃ学校なんか行かせられねえし、飯だって毎日は食わせられねえ。
そんなこと当たり前だろ。」
「当たり前・・・」
「ああ、当たり前だ。やることもやらねえで、腹が減っただの、寒いだの、痛いだのって。うるせえんだ。ガキのくせに。」
「くせに・・・私には彼の言うことのほうが正しく思えますが・・・
お腹がすけば空いたという、寒ければ寒いという、痛ければ・・・ぶたないでと言いますよ。子供でも、大人でも・・・」
父親は目を開きミッチェを見た。そこにはピンクのシャツを着た美しい青年のミッチェはいなかった。
ギラギラと光る紫色の目が付いた、ただ黒い人の形をしただけのものが髪を洗っていた。父親は目を見開き、ぶるぶると震えだし、シャンプーの泡が床に飛び散った。
「流しますから、シャンプー台に頭を下げていただけますか。」
黒いものは真っ赤な口を開いてにっこりと笑った。父親は椅子から降りようとしたが、黒いものに首の後ろを掴まれていて動けなかった。
黒いものはシャンプー台を出し、【HELL】と書いた蛇口をひねった。
洗面台は橙の光を放つ炎の湯を貯めだした。
「さあ、さあ、往生際の悪いお客様ですね。仕方ない、手伝って差し上げましょう。」
もう一度真っ赤な口を見せて大きく笑うと、バラの蔓が巻き付いたレバーを強く握り、引いた。椅子は洗面台に向かって緩くカーブを描き、じわじわと・・・父親の頭から・・・じわじわと・・・踵までをその中に放り込んだ。
すかさず洗面台の栓を抜くと、橙の光を放つ炎の湯は一気にどこかへ流れて行った。
ミッチェはその中に父親が着て来たフワフワのコートも、ニットの帽子も、手袋も全部を放り込んだ。靴を拭った跡も、足跡も、父親がいた気配さえも、すべてをその中へ入れて流した。
それだけで怒りは収まらず、その住まいも、父親が生きていたという事実も、子供の過去もすべてを燃やし尽くした。
全部を焼き尽くした後、一通り掃除をし、壁面の戸棚の上から2番目の扉の鍵穴に指し、ぐっと押した後、左に2回、右に一回まわして、レバーを片付けた。
片づけが終わると向かいのアニューの店 コーヒーへびいちごへ、ゆっくりと歩いた。
「いらっしゃ・・・なんだ、ミッチェか・・・」
「なんだとはなんだ。客だぞ。」といつもなら喧嘩腰に言うのだが、今日は狭い店内を何度も見渡して子供の姿を探した。パッと一目見れば見渡せるような狭い店内なのに、何度も何度も視線を往復させた。
(ここが判らなかったのだろうか・・・道に迷った・・・ひょっとして、俺は時間を読み間違えて子供も燃やしてしまったのだろうか・・・)
「どうしたミッチェ。・・・怪我してるじゃねえか。」
「ああ・・・大した事ねえよ。」
ミッチェは右の手のひらに着いた傷を握って隠した。
「君の小さな探し物はここにはないのかね。」
いつものテーブル席にいた友人のフィッシュが言った。
「ああ、仕方ねえ。」
別に子供がここに来なければそれでもいい。
自分が荷物を背負い込むこともなくて、今まで通り気楽に生きていける・・・けど、なぜか心に冷たい風が吹き込んでくるような変な気分だった。
「タバコ吸うか。」
「ああ・・・もらうよ。あとコーヒー。生クリームは入れるなよ。」
「わかった。」
「アニュー、私にもコーヒーを。生クリームをたっぷり入れて・・・」
フィッシュもカウンターに煙草を取りに来て、マッチを擦るとまずミッチェに火を貸し、アニューの煙草に火をつけ、最後に自分の煙草に火をつけた。
「それと・・・ホットチョコレートはあるかな。」
「あるよ。」
「では・・・それの用意を。あと少しで到着する予定じゃ。」
「フィッシュの客が来るのか。」
「いや、わしのじゃない。ミッチェの探し物じゃ。
耳を澄ませてみろ。小さな音を立てながら少しづつ近づいてくるのがわかるじゃろ。」
ミッチェには聞こえなかった。
けれど、アニューには聞こえたようで、ニコニコと笑いながら鍋にミルクを温めだした。
「お前ら、また俺を担いでいるだろ。シャレになんねえ冗談はやめろ。」
「いいから、煙草を吸え。」
アニューの言葉でミッチェは少しイライラしながらも煙草を吸った。この一服ですべてを忘れられる訳はないが、多少気がおさまれば・・・そう思い、大きく吸って、長く煙を吐いた。
フィッシュも、アニューも細く長く煙を吐き、その煙が天井近くで1本の線になった時、扉が勢いよく開いた。
「あの・・・ミッチェの・・・」
あの子供だった。
顔を高揚させ、乱れた息で、雪を被った髪からは水蒸気が上がっていた。
ミッチェが着せた大きめの上着は、背中に背負った小さい者に着せて、自分は薄くなったヨレヨレのシャツと短いズボン、サンダルは片方だけだった。
「走って来たのか。」
子供はコクリと強く頷いただけで、息が上がりうまく話せずにいた。
「さあ、寒かっただろう。ホットチョコレートを飲みなさい。」
フィッシュが子供の肩に手をかけるとミッチェの上着の隙間から小さな手が、指をきゅっとつかんだ。
「弟か?」
「弟は・・・靴を持っていなくて・・・」
すまなそうに俯く子供の背中から、小さな弟を下ろしフィッシュはヒザに乗せた。
「靴がなくてもいい方法で来ることができた。よかった。よかった。」
「ガリガリじゃねえか、たんまり食って太らねえとミッチェに嫌われるぜ。」
「ああ、俺は男も女もムチムチっとしたのが好きなんだ。
さ、なんでもいい。好きなものを好きなだけ食え。ここは全部まずいが、言ったものはなんでも作る。何が食いたい。」
「じゃあ・・・白いご飯のおにぎり。あったかいの・・・」
少し遠慮がちに言う子供の目の前に、小さめの白いおにぎりを2個出した。
持つのが大変なほど熱々だった。
二人はそれをふうふうして笑いながら食べ、三人の男はその幸せそうな顔をうっとりと見ていた。
「フィッシュ、よだれが垂れてるぜ。」
「チッコイ方は2か月くらいしたら食べごろか?」
「フィッシュも、アニューもやめろ!」
ミッチェは短くなった煙草を灰皿に押し付け、新しい煙草を取った。
「流してもいいぜ・・・うれし涙ってやつ。」
アニューはカウンターに身を乗り出し、ミッチェの顔を覗き込んだ。
フィッシュも同じようにカウンターへやってきて、ミッチェの顔を覗き込んだ。
「できないことを言うなよ。お前らにだってそれは出来ないだろ。」
「そうだった。」
「でも、あこがれはあるぞ。自分が流したうれし涙でこの身がドロドロに溶けて終わりを迎えるなんてロマンティックな最後だと思わんか。」
フィッシュも新しい煙草に火をつけた。
「名前・・・名前つけるか。」
「そうだな・・・1号、2号でいいんじゃね。」
「大判、小判はどうじゃ。神々しくっていい・・・」
「ハピとネス・・・」
二人の子供もアニューとフィッシュもクスリと笑った。
「死神が幸せって・・・・」
「不思議じゃな・・・子供の力は・・・死神にまでも幸せにさせるのか・・・」
「うるせえ!」
ミッチェはヤニで薄汚れたカーテンを指先でつまみ上げ、窓の外を見ながら2度指を鳴らした。
すると空から大粒の雪が舞い始めた。
雪は子供の小さな足跡を静かに消しながら、夜を静寂の闇へと連れ込み、小さな店の幸せの明かりをより際立たせた。
その幸せはそう特別なものではない。
極々ありふれた、どこにでもあるような小さな、小さな幸せ・・・感じようとしなければ見過ごしてしまうような小さな、小さな明かりだった。
その日も雪が降っていた。
もう止んでもいいのに・・・と誰もが願っていただろうが、ミッチェ・セリスティはそんな雪の日が好きだった。
バーバークロバラ。
彼の店は人通りの少ない細い路地の中にあり、普段からも賑やかではないが、雪の日は特に静かで、その静寂の中、店の明かりを落とし、暖炉の明かりだけで、バーバーチェアの背を倒し、うつらうつらしているのがとても好きだった。
そうやって時間をつぶしていると、冷たく凍った風が店の中を横切った。
「いらっしゃ・・・い・・・」
ミッチェが振り返ると子供が一人立っていた。
「どうした少年。髪を切りに来たのか?」
「ち…違います…暖かそうな火が見えたので、つい扉を開けてしまいました…ごめんなさい…」
子供は扉から手を離し、早足でそこから立ち去ろうとしていた。
いつものミッチェなら、知らん顔で見送るのだが、この日は、なぜか子供を追いかけた。あまりにも静かすぎて、少し寂しかったのかもしれない。
かといって友達の店 こーひーへびいちごへ行ってバカ騒ぎする気にもなれない。
だから、この子供くらいでちょうどいいと、その時、咄嗟に思った。
・・・ただ、それだけだった。
「まてよ。温まっていけよ。俺一人だけだし、もう客も来ねえ。」
「いいのですか。」
「ああ…」
きっと暖炉が珍しいんだろう…
その程度にしか考えてなかったミッチェは、子供は単純に喜ぶものだと思っていたが、その子は大粒の涙を流し、声を殺して泣き出した。
子供の髪に着いた雪を払おうと手を伸ばすと、目を固く瞑り体に力を入れた。
「大丈夫だよ。」
ミッチェはタオルを頭にかぶせ、暖炉の前に椅子を置き子供を座らせた。
子供は10歳くらいに思えたが、この寒いのに上着もなく、足首がまる見えの短いズボンをはき、サンダルからは踵がはみ出し、指先はしもやけだらけだった。
「待ってろ、今お湯を持ってきてやる。」
ミッチェはバケツに湯を汲むと子供の足元に置き、体には毛布を掛けてやった。
「足をいれろ。暖かいぞ。」
「いいんですか?」
「ああ・・・」
ミッチェは短くそういうと、又、バーバーチェアに腰かけ、暖炉の炎を眺めた。
「少年、名前は?」
「僕は…多分… “おい”です。」
「はあ?変な名前だな。」
「そうですか?
“おい” か “おまえ” か “てめえ”と呼ばれていました。
そう呼ばれて返事しないとぶたれるので、多分、それが僕の名前です。」
「・・・誰に・・・」
「おとうさん・・・です。」
「そうか・・・
・・・暖かいか?」
「はい。こんなに暖かい火は生まれて初めてです。お湯も…こんなに気持ちよかったんだ…」
「知らなかったのか?」
「はい。痛くて苦しいものだと思っていました。」
「じゃあ、今日の火は少年にとって優しい火だな。」
「優しい?」
「ああ…優しいというのは、今、少年が感じているような…そんな気持ちだ。
言葉にするのは難しい。けど、そういう時は笑え。気持ちいいのに苦しそうな顔をするな。」
子供の涙も小さな震えもなかなか止まらなかった。
しばらくの沈黙が続いた後、子供はとても小さな声で
「親切にしていただいて・・・こんな事を言うのは嫌なんですけど・・・これを買ってはもらえませんか?」
子供は小さな手のひらを広げると、使いかけのゴミのようなマッチを3個出した。
「いくらだ。」
「三万円・・・でも、いくらでもいいです・・・ごめんなさい・・・」
ミッチェは大きくため息をついた。
何を言い出すんだこのガキは・・・というため息ではなくて、なぜこの子供は、こんな悲しみを背負って生まれてきてしまったのだろうか・・・というため息だった。
子供は申し訳なさそうに、伏目がちにミッチェを見た。
「わかった。買ってやる。お前の家にこれはまだあるのか?」
「はい…あと5つあります…」
「全部持ってこい。全部買ってやる。」
「ほんとう…ですか…」
「ああ。本当だ。」
子供は口に手を当てて泣いた。声を上げて・・・
ミッチェはひじ掛けに頬杖をつき、その子供の姿を漫然と眺めていた。
「少年は父親と二人か?」
「いえ・・・弟が・・・一人・・・」
「だったら弟と一緒にそれを持ってこい。」
「ムリです。二人一緒に家から出ることは許されません。僕がお金を持って帰らないと、弟がぶたれます。
けれど・・・この優しい火を、弟と一緒に見たいな・・・」
子供はぎこちないとてもへたくそな笑顔を見せた。
「じゃあ、俺に頼め。俺の頬に少年の手を当てて心から願え。ただ一心に、自分の願いを俺にぶつけろ。」
少し身を乗り出してそう言ったが、子供は口を一文字に結びうつむいたまま、微動だにしなかった。
その様子を見て、三万を子供の前に投げ、チェアに深く腰掛けて目を瞑った。
(その気がないのなら、それで構わない、その気にならないものを自分から救ってやるほど、俺は気のいいやつではない。第一、自分の人生を変えたいと本気で願わない奴に、何をしても無駄だ。適当に暖まったら、そのうち帰るだろう。)
上着を胸にかけてこのまま今日はここで眠るつもりだった。
数十分・・・数分かもしれない、時がたった時、ミッチェの頬にカサカサの冷たい手が触れた。まだ少し震えていた。
「おねがい・・・おねがい・・・おねがい・・・」
小さな声で何度も言った。
ミッチェは目を見開き、薄紫の瞳で子供を正面から見た。
「俺が父親に電話をかけてここへ来るように言う、少年は急いで帰って弟を連れて来い。」
「お父さんの電話番号を知りません・・・」
「俺はなんでもわかるんだ。心配するな。
少年はただ弟を連れてこればいい。いいか、弟だけだぞ。
ほかには何も持ってきてはいけない。家から出せるのは弟だけだ
約束できるか。」
「大丈夫です。僕にも弟にも無くなって困るものは何もない。」
「よし、それでいい。
そしてこの街に帰って来たら、俺が迎えに行くまで、弟と一緒に向かいの“コーヒーへびいちご”で待ってろ。なんでも好きなものを腹いっぱい食え。金のことは心配するな。
ただし、店の男が握手をしようと言っても、絶対に手を出すなよ。いいな。
それだけは守るんだぞ。」
「いいんですか・・・食べても・・・」
「ああ。とにかく、腹がはちきれそうになるまで食え!
店には、ミッチェのところから来たといえばわかるから。」
「はい!」
ミッチェは自分がかけていた上着を子供に着せて袖を折ると頭を撫で、不器用に微笑んだ。
(この子供の為に頑張ってみよう)
などと、普段では絶対思いもしない事を考えていた。
「よし、いい返事だ。行け!」
扉を開くと子供は勢いよく飛び出した。
路地を抜けるまでその小さな背中を見送ると、店の窓のカーテンを下ろした。
店の奥に置いたダイヤル式電話の受話器を取ると、子供の父親に電話をかけた。
ダイヤルなど回さない。ただ、受話器を取っただけで父親は電話に出た。
ミッチェは女の声色を使い言葉巧みに父親を誘い出した。
父親は今すぐに家を出ると言った。
ミッチェは、ハサミや櫛カミソリをカウンターに並べて待った。
腰につけた鍵の束から古ぼけた鍵を選び、壁面の戸棚の上から2番目の扉の鍵穴に指し、右に一回、左に2回まわしたあと、ぐっと押すとバーバーチェアの脇にバラの蔓があしらわれた黒い鉄のレバーが現れた。棘すらも忠実に模った荒々しい造りのそれは、磨き込まれた木目と革の重厚な造りのこの店には少し不釣り合いな感じがした。
一通り用意が終わると、窓際で煙草に火をつけた。煙をふーっと長く吐くと、細い指先でカーテンを持ち上げ、隙間から外を覗いた。
雪がハラハラと舞っていた。
(少年は弟を連れ出す事ができるだろうか…)
ミッチェは思わず“プッ”と噴き出した。
(この俺が誰かの心配をするなんて…)柄にもない自分が可笑しく思えた。
もう一度だけ深く煙草を吸い、火を灰皿に押し付けると店のドアが開いた。
「いらっしゃい。」
「電話をもらったものだが、あんたか、マッチを買ってくれるのは。」
父親は店の中を見渡した。店の作りを見ていたのではない。ミッチェが一人なのを確認していた。
「女から電話を貰ったが…」
「帰りました。雪が降って来たので。」
「女よりお前さんのほうが話が早そうだ。」
父親は暖かそうなふわふわしたダウンのコートに毛糸の帽子をかぶり、革の手袋をしていた。
ミッチェが手を出すと、そのコートを渡し、靴に着いた雪を絨毯で拭うと、店の中央のテーブルの上に子供が持っていたような、どこかの飲み屋の名前が印刷されている使いかけのゴミのようなマッチを5つ置いた。
「おいくらですか。」
「10万だ。」
「ほう…それはまた。」
「珍しいものなんだろ。そのくらいの価値はあって当然だ。」
「それもそうですね。」
父親はそのマッチが価値のあるものではなく、そこら辺の道端で子供が拾ってきたどうしようもないものだと言うことを理解していた。そのうえで金を吹っかけて来た。
払ってやると言い出したのはそっちなのだから、思い切りふんだくってやろうと考えていた。
(こいつはただのマッチ収集家でもなさそうだ。ひょっとしたら、このマッチには、こいつらの組織に必要な密書かマイクロチップでも隠されているのだろうか。とんでもないものが隠されているなら、もっとふんだくれるかもな。)
「やっぱり、三十万だ。」
父親の欲望はどんどんと膨れ上がっていった。
ミッチェもまたそんなことは重々承知の上だった。
そして、欲深い人間は警戒心が強い事もよく知っていた。
「では、それで。」
ミッチェはテーブルの上のブランデーをグラスに注ぐと、1つを父親に差し出した。
「酒の前に、金だ。」
「わかりました。」
ミッチェは戸棚の引き出しから金の束を出すと、三十万を父親の前にポンと置いた。
「乾杯をしませんか。」
父親は指を舐めながら金を数えた。
「金を数え終わってからな。けど、あんたの飲みかけを貰う。」
「毒など入れていません。」
「そうか。」
ミッチェは自分の飲んでいたグラスを父親の前に出し。父親の飲んでいたグラスの酒を一気に飲み干した。
「髪を切って行きませんか。髭も伸びていますし…」
「そんなことを言って、俺の喉を掻っ切るつもりか。」
「そんなこといたしません。床屋としてのプライドがありますから、商売道具で傷つけるなんて考えたこともございません。それより、無精ひげで見苦しいのが大嫌いなんです。
この店のドアから出る者は皆、美しくなければ出られないことになっています。」
「へえ…プライドね…でも金は払わねえぜ。」
「ええ、サービスです。」
ミッチェは満面の笑みでバーバーチェアを父親の方へ向け、座らせると蒸しタオルを取りに行った。
「なんかかけないのかよ。」
「掛けますよ。でも、いきなり掛けたら首でも締められるのかと、驚くでしょうから、蒸しタオルで首の後ろを温めてリラックスしてもらうと思いまして・・・。」
ミッチェは蒸しタオルを少し冷ましてから父親の首の後ろに当て、少しだけマッサージすると、首周りをよく拭き、ケープを掛けた。
「ヘエ気が効くな。」
ミッチェはシャンプーをはじめた。
父親は目を閉じ、ミッチェの指の動きにうっとりとしていた。
「気持ちがよくなってきた。さっきのブランデーのせいかな。」
「おいしかったでしょう。とても特別なブランデーなのです。」
「ああ、とてもうまかった。寒い日には最高だな。」
「そういえば、暖かそうなコートを着ていましたね。」
「ああ、最高級のダウンだ。」
「お子様がうちへ着た時、上着も着ずに薄くなったシャツ1枚しか着ていませんでしたが。」
「子供なんてアレで丁度いいんだよ。すぐでかくなるからもったいねえ。
欲しけりゃ自分で稼げばいいんだ。」
「だからあんなモノを売らせているのですか。」
「俺があれを売らせているわけじゃねえ。俺はただ、稼いでこいと言っているだけだ。
あたり前だろ、生きていたいなら稼がないとな。」
「でも・・・まだ子供でしょう。ほかに一杯やらなければならないことも、やりたいこともあるはずでは。」
「そんなこと知るか。アンタ俺に説教するつもりか。
あいつはオレの持ち物なんだからどうしようとオレの勝手だろう。」
「いえいえ、説教だなんて・・・ただ・・・まだ、お小さいようですが・・・学校へは行っていないのかな・・・と・・・」
「弟もいるんだし、学校へ行っている暇があったら稼がねえと。
毎日百円やそこらしか持ってこねえんじゃ学校なんか行かせられねえし、飯だって毎日は食わせられねえ。
そんなこと当たり前だろ。」
「当たり前・・・」
「ああ、当たり前だ。やることもやらねえで、腹が減っただの、寒いだの、痛いだのって。うるせえんだ。ガキのくせに。」
「くせに・・・私には彼の言うことのほうが正しく思えますが・・・
お腹がすけば空いたという、寒ければ寒いという、痛ければ・・・ぶたないでと言いますよ。子供でも、大人でも・・・」
父親は目を開きミッチェを見た。そこにはピンクのシャツを着た美しい青年のミッチェはいなかった。
ギラギラと光る紫色の目が付いた、ただ黒い人の形をしただけのものが髪を洗っていた。父親は目を見開き、ぶるぶると震えだし、シャンプーの泡が床に飛び散った。
「流しますから、シャンプー台に頭を下げていただけますか。」
黒いものは真っ赤な口を開いてにっこりと笑った。父親は椅子から降りようとしたが、黒いものに首の後ろを掴まれていて動けなかった。
黒いものはシャンプー台を出し、【HELL】と書いた蛇口をひねった。
洗面台は橙の光を放つ炎の湯を貯めだした。
「さあ、さあ、往生際の悪いお客様ですね。仕方ない、手伝って差し上げましょう。」
もう一度真っ赤な口を見せて大きく笑うと、バラの蔓が巻き付いたレバーを強く握り、引いた。椅子は洗面台に向かって緩くカーブを描き、じわじわと・・・父親の頭から・・・じわじわと・・・踵までをその中に放り込んだ。
すかさず洗面台の栓を抜くと、橙の光を放つ炎の湯は一気にどこかへ流れて行った。
ミッチェはその中に父親が着て来たフワフワのコートも、ニットの帽子も、手袋も全部を放り込んだ。靴を拭った跡も、足跡も、父親がいた気配さえも、すべてをその中へ入れて流した。
それだけで怒りは収まらず、その住まいも、父親が生きていたという事実も、子供の過去もすべてを燃やし尽くした。
全部を焼き尽くした後、一通り掃除をし、壁面の戸棚の上から2番目の扉の鍵穴に指し、ぐっと押した後、左に2回、右に一回まわして、レバーを片付けた。
片づけが終わると向かいのアニューの店 コーヒーへびいちごへ、ゆっくりと歩いた。
「いらっしゃ・・・なんだ、ミッチェか・・・」
「なんだとはなんだ。客だぞ。」といつもなら喧嘩腰に言うのだが、今日は狭い店内を何度も見渡して子供の姿を探した。パッと一目見れば見渡せるような狭い店内なのに、何度も何度も視線を往復させた。
(ここが判らなかったのだろうか・・・道に迷った・・・ひょっとして、俺は時間を読み間違えて子供も燃やしてしまったのだろうか・・・)
「どうしたミッチェ。・・・怪我してるじゃねえか。」
「ああ・・・大した事ねえよ。」
ミッチェは右の手のひらに着いた傷を握って隠した。
「君の小さな探し物はここにはないのかね。」
いつものテーブル席にいた友人のフィッシュが言った。
「ああ、仕方ねえ。」
別に子供がここに来なければそれでもいい。
自分が荷物を背負い込むこともなくて、今まで通り気楽に生きていける・・・けど、なぜか心に冷たい風が吹き込んでくるような変な気分だった。
「タバコ吸うか。」
「ああ・・・もらうよ。あとコーヒー。生クリームは入れるなよ。」
「わかった。」
「アニュー、私にもコーヒーを。生クリームをたっぷり入れて・・・」
フィッシュもカウンターに煙草を取りに来て、マッチを擦るとまずミッチェに火を貸し、アニューの煙草に火をつけ、最後に自分の煙草に火をつけた。
「それと・・・ホットチョコレートはあるかな。」
「あるよ。」
「では・・・それの用意を。あと少しで到着する予定じゃ。」
「フィッシュの客が来るのか。」
「いや、わしのじゃない。ミッチェの探し物じゃ。
耳を澄ませてみろ。小さな音を立てながら少しづつ近づいてくるのがわかるじゃろ。」
ミッチェには聞こえなかった。
けれど、アニューには聞こえたようで、ニコニコと笑いながら鍋にミルクを温めだした。
「お前ら、また俺を担いでいるだろ。シャレになんねえ冗談はやめろ。」
「いいから、煙草を吸え。」
アニューの言葉でミッチェは少しイライラしながらも煙草を吸った。この一服ですべてを忘れられる訳はないが、多少気がおさまれば・・・そう思い、大きく吸って、長く煙を吐いた。
フィッシュも、アニューも細く長く煙を吐き、その煙が天井近くで1本の線になった時、扉が勢いよく開いた。
「あの・・・ミッチェの・・・」
あの子供だった。
顔を高揚させ、乱れた息で、雪を被った髪からは水蒸気が上がっていた。
ミッチェが着せた大きめの上着は、背中に背負った小さい者に着せて、自分は薄くなったヨレヨレのシャツと短いズボン、サンダルは片方だけだった。
「走って来たのか。」
子供はコクリと強く頷いただけで、息が上がりうまく話せずにいた。
「さあ、寒かっただろう。ホットチョコレートを飲みなさい。」
フィッシュが子供の肩に手をかけるとミッチェの上着の隙間から小さな手が、指をきゅっとつかんだ。
「弟か?」
「弟は・・・靴を持っていなくて・・・」
すまなそうに俯く子供の背中から、小さな弟を下ろしフィッシュはヒザに乗せた。
「靴がなくてもいい方法で来ることができた。よかった。よかった。」
「ガリガリじゃねえか、たんまり食って太らねえとミッチェに嫌われるぜ。」
「ああ、俺は男も女もムチムチっとしたのが好きなんだ。
さ、なんでもいい。好きなものを好きなだけ食え。ここは全部まずいが、言ったものはなんでも作る。何が食いたい。」
「じゃあ・・・白いご飯のおにぎり。あったかいの・・・」
少し遠慮がちに言う子供の目の前に、小さめの白いおにぎりを2個出した。
持つのが大変なほど熱々だった。
二人はそれをふうふうして笑いながら食べ、三人の男はその幸せそうな顔をうっとりと見ていた。
「フィッシュ、よだれが垂れてるぜ。」
「チッコイ方は2か月くらいしたら食べごろか?」
「フィッシュも、アニューもやめろ!」
ミッチェは短くなった煙草を灰皿に押し付け、新しい煙草を取った。
「流してもいいぜ・・・うれし涙ってやつ。」
アニューはカウンターに身を乗り出し、ミッチェの顔を覗き込んだ。
フィッシュも同じようにカウンターへやってきて、ミッチェの顔を覗き込んだ。
「できないことを言うなよ。お前らにだってそれは出来ないだろ。」
「そうだった。」
「でも、あこがれはあるぞ。自分が流したうれし涙でこの身がドロドロに溶けて終わりを迎えるなんてロマンティックな最後だと思わんか。」
フィッシュも新しい煙草に火をつけた。
「名前・・・名前つけるか。」
「そうだな・・・1号、2号でいいんじゃね。」
「大判、小判はどうじゃ。神々しくっていい・・・」
「ハピとネス・・・」
二人の子供もアニューとフィッシュもクスリと笑った。
「死神が幸せって・・・・」
「不思議じゃな・・・子供の力は・・・死神にまでも幸せにさせるのか・・・」
「うるせえ!」
ミッチェはヤニで薄汚れたカーテンを指先でつまみ上げ、窓の外を見ながら2度指を鳴らした。
すると空から大粒の雪が舞い始めた。
雪は子供の小さな足跡を静かに消しながら、夜を静寂の闇へと連れ込み、小さな店の幸せの明かりをより際立たせた。
その幸せはそう特別なものではない。
極々ありふれた、どこにでもあるような小さな、小さな幸せ・・・感じようとしなければ見過ごしてしまうような小さな、小さな明かりだった。
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