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第三章 ハンターの眼差し

第1部長の正体(1)

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「声を立てるな。気付かれる」

 日垣は、大きく目を見開いた美紗がわずかに頷くのを確かめると、血の気の引いた小さな顔からゆっくりと手を離した。

「とにかくここを出るんだ」

 日垣に腕を掴まれたまま、美紗は部屋の外へ連れ出された。その時、遠くから大声で日垣に呼びかける者がいた。会議場から十メートルほども離れた小部屋の戸口で、背広を着た男がこちらを見ている。
 日垣は、美紗をドアの裏側へ押しやると、声がしたほうに体を向けた。

「もう会議場に入ってもよろしいですか?」

 日垣が手を挙げて合図すると、背広の職員は、名札やペットボトルなどが入った段ボール箱を抱えて歩いてきた。やはり事業企画課の所属とみられる彼は、最後のセッションの準備をする係らしい。
 近づいてくる靴音が、ドアの影に隠れる美紗の心臓を突き刺すように、コツコツと響く。

「スモーカーの『お客』はどうしてる?」
「一階の喫煙スペースに案内しました。うちの課の人間が一人、ずっと張り付いています。他の『お客さん』は全員向こうの部屋で一息入れてもらってます」

 二十代後半とみられる男性職員は、自分が出てきた所のすぐ隣の小部屋を指し示した。
 ドアが開けられたその部屋からは、ざわざわと人の声が聞こえる。煙草を吸わない「お客」たちが、コーヒーでも飲みながら談笑しているのだろう。

 その中にCIAの人間が混じっていることを、おそらく彼は、知らない。



「そのまま真っ直ぐ歩くんだ。早く」

 美紗がはっと振り向くと、日垣がすぐ脇に立っていた。

 すでに、先ほどの背広はいなかった。彼は、ドアの影で立ちすくむ美紗に気付くことなく会議場の中に入り、せっせと自分の仕事をしているようだった。

 美紗は、足が震えるのを感じながら、そっと歩き出した。自分の不始末について何と説明すべきか、頭の中でぐるぐると考えた。
 落とし物をして部屋を出そびれたとは、余りにも間が抜けている。セキュリティ・クリアランス(秘密情報取扱資格)の格上げ手続きも終わらないうちに、統合情報局を追い出される羽目になるかもしれない。
 無事に会議場を出られると、今度は情けなさで涙が出そうになった。

 うつむいて歩く美紗の前を、日垣は急かすように大股で歩いていく。エレベーターホールが右手に見えてきたが、彼は足早にその脇を通り過ぎた。

「あの……、どこに、行くんですか?」
「次のセッションには松永が来る。奴は勘が鋭い。そんな顔をして、鉢合わせるわけにいかないだろ」

 日垣は、青ざめた顔で見上げる美紗に苛立たしそうに答えると、人気のない廊下を無言のまま進んでいった。


 やがて、二人は階段へとたどり着いた。地下六階の階段入り口は、しんと静まり返っていた。空調の音だけがやけに低く響く。

 自分たちの他に階段を上り下りする人間がいないのを確認すると、日垣は速足で階段を上り始めた。仕方なく、美紗も彼の後について上った。
 二人分の人間の靴音が、不安げにこだました。




 地下二階下の踊り場まできたところで、日垣は突然、美紗のほうに振り返った。

「どういうつもりだ」

 眉を寄せた険しい顔が、厳しい口調で尋ねる。

「第五セッションが終わったら、すぐに部屋を出ることになっていたはずだ。比留川から聞いていなかったのか」

 美紗は何も答えられなかった。三階半分を駆けるように上らされてかなり息切れしていた。何より、普段とは全く違う上官の強圧的な態度に、完全に気が動転してしまった。

「いや、聞いてなかった、というのは不自然だな。私は、第五セッションの後、地域担当部の人間が全員エレベーターに乗るのを確認してから、対テロ連絡準備室に電話を入れて会議場に戻った。その時、君は、比留川の指示どおり、確かに部屋にいなかった。正確には、私には見えないところにいたわけだ。何をしていた」

「USBメモリを、落として、それを……探していて……」

 絞り出すような声で答える美紗に、日垣はさらに詰問する。

「USB? なぜそんなものを持ってくるんだ。中身は?」
「比留川2佐に……言われたんです。待ち時間に議事録を作って、USBメモリに保存して持ってくるようにと……。中はまだ空です」
「空のUSBを落として、それを探していたら部屋を出そびれた、と言うのか。もう少しそれらしい嘘を考えたらどうだ」
「嘘……?」

 美紗は驚いて顔を上げた。切れ長の目が鋭く美紗を睨んでいた。

「USBに偽装したレコーダー、というのが本当のところじゃないのか」

 USBメモリ程度の大きさの録音機が存在することさえ知らない。美紗はただ首を横に振り、震えながら日垣の言葉を否定した。
 しかし、上官の冷たい声は、なおも辛辣な言葉を返してきた。

「自分がその場に残るより、レコーダーを仕込んだものを置いて出て、後から忘れ物をしたとでも言って回収に戻るほうが、よほど利口だったんじゃないか?」

 射るような目つきが美紗の挙動を探っている。
 美紗は、自分の身に起こったことを説明しようと口を開きかけた。しかし、焦るばかりで、言葉が出てこない。

「そのUSBはどこだ」

 日垣は、固く握りしめられた小さな右手をちらりと見やり、すぐに美紗の顔に視線を戻した。
 押しこもった声が詰め寄る。

「持っているなら出せ。指示に従わないなら、君はこの時点でクロだ」

 美紗は、催眠術にでもかかったように日垣の目をじっと見つめながら、右手をゆっくりと広げた。

 マニキュアも塗っていない手の中から現れたスライド式の記憶媒体を、日垣は素早くむしり取ると、それを一瞥して、自分の制服のポケットに入れた。

「レコーダーというよりカメラか? それなら、置きっぱなしというわけにいかないのも分かるな。何を撮っていた」
「そんなこと……してません」

 小さく掠れた声が、精一杯反論する。

「そのUSBメモリは、比留川2佐から渡されたものです。比留川2佐にお聞きになってくだされば……」
「中には何も入っていないんだな」
「はい」
「言っておくが、もしこの中に何らかのデータが入っていたら、君は虚偽の申告をしたことになるぞ」

 美紗ははっと体を震わせた。午前中、比留川から受け取ったUSBメモリの中身を、事前に確認していなかった。もし、以前にこの記憶媒体を使った人間が何がしかのものを残していたら、自分が相当難しい立場に陥るであろうことは、容易に想像できる。

「あ、あの……私は、まだ……」

 慌てて何か言いかけた美紗は、日垣の顔を凝視したまま、凍り付いた。

 長身の第1部長は口元に冷たい笑みを浮かべていた。

 ターゲットを追い詰めた時の、勝利を確信したような目つき。
 これが、彼の「本当の姿」なのか。


 美紗は、二、三歩下がると、さっと身を翻した。自由に行動するクリアランスを持たないまま秘匿性の高いエリアに閉じ込められている身では、自力で建物の外に出る手段はない。しかし、そんなことすら完全に忘れていた。
 ただ、目の前の日垣貴仁が、怖い。

 彼の視線から逃れるように背を向け、足を一歩踏み出そうとした瞬間、恐ろしく強い力が左腕を掴んだ。脇に抱えていた書類ケースが下に落ち、人気のない階段に派手な音が響いた。

「ずいぶん不用心なスパイだな。振り向きざまに下の踊り場まで落ちるところだったぞ」

 日垣は、今にも階段を踏み外しそうな美紗の身体を軽々と引き戻すと、そのまま壁際へと突き飛ばした。白黒のチェック柄のワンピースの裾がふわりと舞った。
 よろめいた美紗の背中に冷たい壁が当たる。顔を上げると、仁王立ちになった男が完全に逃げ道をふさいでいた。

「私は……、何も、してません」
「なら、逃げる必要はないだろう」

 日垣は、美紗に一歩近寄ると、壁側を向いて両手をつくよう求めた。

「悪いが、他に妙な物を持っていないか、調べさせてもらう。さっきのUSBがダミーということもあるからな」
「そんな物、何も持って……」
「壁に向かって立て。足を肩幅に開いて、両手を壁につくんだ」

 抑えた声が有無を言わさぬ強さで迫った。美紗は、言われた意味を理解しないまま、ゆっくりと体を回し、壁のほうへ向いた。手をあげると、先ほど日垣に捕まれた左腕がつきんと痛んだ。

 日垣は無言で、華奢な体を軽くたたくように触れていった。大きな手が衣服の上から手際良く、しかし、あらゆる場所を容赦なく探っていく。
 一瞬の躊躇もないその所作は、美紗を明らさまに犯罪者として扱っていた。

 初めて受ける汚辱に、小柄な身体は小刻みに震えた。強烈に湧き起こる恐怖と不快感で、気が遠くなる。足の力が抜け、体が崩れ落ちた。冷酷に自分を取り調べる男の声が何か言うのが聞こえるが、頭の中でそれが幾重にも反響して、意味を取ることができない……。



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