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第三章 ハンターの眼差し

初めての仕事

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 面倒見のいい第1部長は、これまでも新米の美紗によく声をかけていたが、二人が仕事上のやり取りをする機会は、実のところ、ほとんどなかった。
 これまでの美紗の仕事は、先任の松永との間で完結する補佐的なものばかりだった。厳しい内容を求められても、最終的には、指導役である彼のフォローが入る。その点では、ある意味「半人前」の気楽さがあった。

 しかし今回は、自分のやることがそのまま第1部長の評価対象になる。たとえ会議の議事録作成などという些細な事柄でも、無様な失態を披露するようなことだけは、できれば避けたい。そう思うと、美紗の表情はつい固くなった。

「そんなに緊張しなくていいよ。仕事の流れは比留川2佐から聞いたね?」

 日垣がにこやかに話しかけると、美紗が答えるより早く、松永が口を挟んだ。

「よろしくお願いします。なにぶん不慣れな奴なんで……」
「それは承知だ。君は指導役というより、鈴置さんの保護者みたいだな」

 苦笑する日垣に、松永はイガグリ頭を掻きながら、はあ、と間の抜けた返事をした。

「ほら、言われた。子離れしないと子は育たないぞ」

 班長の比留川が得意の嫌味を披露すると、直轄チームはますます騒がしく盛り上がった。
 日垣は、最後のセッションに入る松永にいくつかの指示を出すと、「そろそろ行こうか」と美紗を促した。美紗は、背後から聞こえる仰々しい声援に当惑しながら、第1部長の後をついていった。


「相変わらず『直轄ジマ』はにぎやかだな。は民間より人間関係が濃いらしいが、私から見ても、あのシマは特別だ」

 エレベーターを待ちながら、日垣は静かに笑った。「かえって仕事の邪魔になっていないか」という問いに、美紗は「いいえ」と返しながら、上官をそっと見上げた。

 自分のすぐ脇に立つ日垣は、思っていた以上に長身だった。肩の階級章が、目線より十センチ以上は高い位置にある。

 これまで職場で見ていた第1部長の姿といえば、部長室で座っているか、美紗の机のそばでパイプ椅子に座っているかの、どちらかだった。彼が妙に厳格そうに見えるのは、やや立ち話がしづらいほどの身長差に慣れていないせいだ、と美紗は思った。


 美紗と日垣は、統合情報局第1部がある十三階から一階に降りた。建物を出ると、残暑の日差しが強烈に照りつけてきた。冷房で冷えた体が汗ばむ前に、隣の棟へ逃げ込むように入る。
 セキュリティを通過すると、エレベーターホールの奥に、さらに有人のセキュリティゲートがあるのが見えた。すでに連絡を入れてあったのか、そこの管理者は、日垣と少しやり取りをしただけで、通常は閉鎖されているサイドドアを開放した。

 中に入ると、地下階のみに向かうエレベーターがあった。

 ここから先にどんな部署があるのか、美紗は全く知らなかった。この棟でもそれなりの人数が勤務しているはずだが、人の気配を感じさせる物音は、一切ない。知られることを拒否するような静けさが、建物全体に満ちている。

 ほどなくして、三基あるエレベーターのうちの一基が到着したことを知らせるチャイムが、ホール中にやけに大きく響いた。

 誰も乗っていないエレベーターに、日垣は足早に歩み寄った。
 その足音も、妙に耳に響く。

 この閉鎖的な空間で働く人たちは、一日中、隣の人とすら話すことなく過ごしているのではないだろうか。いや、保全上、話すことを禁じられているのかもしれない――。


「鈴置さん」

 やや大きな声で名前を呼ばれ、はっと顔を上げると、第1部長がエレベーターのドアを手で押さえて立っていた。
 美紗は、書類ケースを胸に固く抱きしめ、慌ててエレベーターに乗った。図らずも、上官にエスコートされた格好になってしまった。

「海外の人間との会合には、ここを使うことが多いんだ。部外者は完全にシャットアウトできるし、『お客さん』の出入りを気兼ねなく監視できるから、かえってやり易い。今後もこういうことは時々あるから、今回がいい勉強の機会だと思って……」

 日垣は、行き先の階数ボタンを押しながら、静かに語った。そして、美紗が気まずそうな顔をしていることに気付くと、柔らかい笑顔を浮かべた。

「君は、思ったことがすぐ顔に出るタイプだね」

 午前中、班長の比留川に言われたのと全く同じセリフだ。美紗が返答に詰まると、日垣は、
「細かいことを気にするより、本来の仕事のほうに集中してくれればいい」
 と、慰めとも苦言とも取れるような言葉を継いで、手にしていた制服の上着を羽織った。


 エレベーターが地下六階に着くと、日垣は先に降り、大股で歩き出した。その後を、美紗は小走りするようについていった。
 会議場はエレベーターホールからさほど遠くない位置にあり、廊下を挟んで向かい側に、いくつかの小部屋があった。そのひとつが比留川の言っていた別室なのだろう、と美紗は見当をつけ、会議場のほうに入った。


 長方形の広い部屋には、幕板付きの重厚な長机と、それに見合う大きな革張りの椅子が、コの字型に配置されていた。すでに、地域担当部所属の佐官たちが、大きなモニターと机上のパソコンを交互に見やりながら、ブリーフィング画面の最終チェックをしている。
 日垣もそこに加わり、持参した画像データを確認しながら、先着の面々と話しだした。

 その間、美紗は、比留川に持たされたブリーフィング資料を各席に配った。

 自国側の末席に、当該セッションの本来の担当者である高峰3等陸佐の名札があった。彼が急遽欠席になったことが、ロジ担当の事業企画課には伝わっていないようだった。
 さすがに、そこに座るのははばかられる。

 美紗は、高峰の名札とその傍にすでに置かれていた地域担当部の配布資料一式を手に取ると、日垣のほうを見た。彼は、モニターをチェックしながら、美紗をちらりと見やり、部屋の奥を指さした。
 壁際に簡易机があった。

 美紗は、自分の席を確保してようやく落ち着くと、筆記具類と会議資料の類を机の上に広げた。


 ほどなくして、地域担当部の部長クラス四、五人と共に、米国の「お客」が登場した。先方も、日本側と同じく、陸海空の三軍の制服と背広の人間が入り混じっている。
 会議資料に記載された出席者一覧によると、五、六人からなる一行のうちの一人は在京大使館の国防武官、もう一人は在日米軍情報部の人間で、残りは全員、米国防総省隷下にある国防情報局の所属ということだった。

 美紗は、談笑しながら着席する彼らのほうを、恐る恐る見た。

 相手も主な仕事はデスクワークのはずだ。本来、情報機関に所属する人間は、自らスパイ映画のアクションシーンを演じることはない。そのような「現場の仕事」に携わるのは、通常は、軍か公安の「実行部隊」か、情報機関から報酬を得て活動する部外者である。
 美紗もそのあたりのことは承知していた。それでも、目の前に現れた面々が世界最大の情報収集能力を誇る大国の情報関係者、というだけで、緊張感を覚えた。

 一方の彼らは、部屋の隅に座る小柄な女性職員には目もくれず、カウンターパートの筆頭である日垣と、ひとしきり挨拶を交わしていた。


 両国合わせて二十名弱が揃うと、すぐに部屋の照明が落とされ、午後一番のセッションが開始された。

 互いにメンバーを簡単に紹介し合った後、第1部長の日垣が、いかにも手馴れた様子で、相手国向けのブリーフィングを始めた。
 防衛駐在官として海外赴任を経験した彼は、英語も流暢なら、話し方も、立ち振る舞いも、実に洗練されていた。柔らかな物腰の中にも、階級に相応しい威厳がある。残業時間中に気さくに話しかけてくる時の優しい表情とは少し違う、引き締まった顔……。

 美紗は、モニターを背に淀みなく語る上官の姿にいつのまにか見入っていたことに気付き、慌てて仕事に意識を集中した。


 日垣に続き、地域担当部の各部長が担当地域のテロ問題について詳細説明を行うと、会議は質疑応答へと移っていった。
 幸いなことに、今回の「お客」は、非英語圏の人間との会議に慣れているのか、無遠慮に早口でまくしたてることもなく、美紗を安堵させた。

 後半は、米国側がテロ問題全般に関するブリーフィングと情報提供を行い、それに基づいて、二国間が討議する形式になった。
 双方が活発に発言する内容を、美紗は素早く記録していった。午前中の「予習」が効いたのか、討議内容についていくのは、予想していたより楽だった。進行役の日垣は、双方のやり取りをコントロールしながら、時折、両国の言葉で注釈を加えては発言者を補佐し、二か国間の意思疎通を助けていた。

 一時間以上続いた美紗の仕事は、特段の支障なく終了した。


 参加者が席を立ち、名刺交換をしながら雑談する中、美紗は、簡易机に座ったまま、ノートに早書きした記録内容をチェックした。第1部長と直轄班長に満足してもらえる出来になったか定かではないが、そこそこ形に出来たという自信はあった。

 ほっと小さく息をついた美紗は、周囲が妙に静かなことに気付いた。

 顔を上げると、部屋の中には誰もいなかった。半開きになった扉の向こうで、何人かが言葉を交わしているのが聞こえる。
 そういえば、自国の出席者が退席するタイミングで部屋を出るように、と言われていた。

 美紗は、急いで手元の会議資料と筆記具類をかき集めると、それらを書類ケースと一緒に腕に抱えた。会議場に近い別の部屋で、ノートに早書きしたものを議事録に作り直せば、「初仕事」は終わる。

 立ち上がって、ふと、コの字型に組まれた机の上に目が留まった。何かの書類が三、四部、置きっぱなしになっている。

 地域担当部のどこかが作成した会議資料だった。先のセッションに入っていた者が、余った資料を空いた席に置いたまま、回収し忘れてしまったのだろう。表紙には、赤く「秘」の印字が入っている。
 いささか由々しき「忘れ物」だ。誰かに見とがめられれば、担当者は保全上の問題を指摘されて面倒な事態に見舞われるかもしれない。

 後で当人にこっそり届けてやろうと思った美紗は、机の上の書類に手を伸ばした。その途端、左腕に抱えていた自分の持ち物が落ち、紙と小さな筆記具類がテーブルの下に散乱した。
 先ほど席を立つときに持ち物をすべて書類ケースにしまわず無精したのが、災いした。おまけに、ペンケースのファスナーまで閉め忘れていた。

 慌てて落ちたものを拾い集め、書類ケースの中にぐちゃぐちゃに突っ込んだが、今度は、ペンケースの中に入れていたはずのUSBメモリがない。足元を見回しても、スライド式の小さな記憶媒体は、さっぱり見つからなかった。

 たとえ中身が空でも、仕事に関するものを無くしたとあっては、「忘れ物」以上に問題になる。統合情報局という特殊な職場ならなおさらだ。
 美紗は顔面蒼白になってテーブルの下に潜り込んだ。絨毯敷きの床に顔をこすりつけるようにして、目を凝らした。

 探しものは、床近くまである大きな幕板の、少し向こう側に落ちていた。

 美紗は、心の中で安堵の溜息をつくと、幕板と床の隙間から手を伸ばし、USBメモリを掴んだ。
 その瞬間、部屋が暗くなった。


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