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第三章 ハンターの眼差し

突然の指名

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 米国のカウンターパートを迎えて行われている情報交換会議に入ってほしい、と直轄班長の比留川2等海佐から唐突に言われた美紗は、立ち上がって、きょとんとした顔を彼に向けた。

 比留川は、「議事録を作ってもらいたいんだが……」と言いかけ、白黒のチェック柄のワンピースを着る小柄な女性職員を、まじまじと見た。そのふわりとしたシルエットが、元からの童顔にますます頼りなさそうな印象を加えていた。

 比留川は軽く咳払いをすると、早口で仕事の内容を説明した。

「日垣1佐が、午後一のセッションだけ、メモ取りにあんたを入れてほしいと言ってた。時間の半分はたぶん双方のブリーフィングだから、それは基本的には聞いてるだけでいい。すべて配布資料があるらしいし、必要に思うことだけ適宜記録してくれ。質疑応答の部分は、できる限り詳細に頼む。後で議事録にしてもらって、関係各所に回すことになるから。高峰にもあんたが責任もって申し送ってくれ」

 美紗は、不安な気持ちを正直に顔に出した。統合情報局に来てから数回ほど、先任の松永3等陸佐に連れられて在日米軍のカウンターパートとの会議に同席したことはあったが、いずれも研修に毛の生えたような補佐業務だった。
 今回は完全に一人だ。しかも、問題のセッションの議題は、高峰3等陸佐の担当するテロ問題だった。美紗は、これまでこの分野には全く接したことがない。

「部長の『ご指名』じゃ、断れないよ」

 内局部員の宮崎が、銀縁眼鏡の下でニヤリと笑った。

「それ、絶対、日垣1佐の前で言うなよ。あの人、そういう冗談、大っ嫌いなんだから」

 比留川は、丸い顔をしかめて宮崎を睨みつけると、美紗のほうに向き直り、話を続けた。

「松永から聞いてる限りじゃ、あんたなら今日の仕事は支障なくできる。日垣1佐もそう思うからあんたに任せると言ったんだろ」

 普段、何かと辛口の発言が多い比留川が、珍しく言葉を選んでいた。見るからに半人前といった雰囲気の美紗を相手に、管理者の彼のほうもやや落ち着かないらしい。

「あんたの出番は第五セッションってやつだ。それが終わったら、次のセッション終了まで、会議場の近くの別室で待機しててくれ。場所は行けば分かる。事業企画課の連中が近くにいるはずだから、何かあったら彼らに聞けばいい」

 事業企画課は、国内外の情報機関との折衝や人事交流などに一義的に携わる部署であり、海外関係機関を招いた大がかりな会議では、ロジ面(管理調整)を一手に取り仕切っていた。直轄チームと同じ第1部にあるが、美紗がこの課に属する人間と話す機会は、これまでのところ全くなかった。
 そのことも、ますます美紗を心細くした。

「待っている間は、何をすればよろしいんですか?」
「特に仕事はないんだ。単にクリアランスの問題でな。あんたはまだ会議場のある棟には自由に出入りできないから、第1部長と一緒に行動してもらうことになる。第五、第六セッションは、基本ぶっ続けでやる予定になってるから、あんたの出番が終わっても、日垣1佐が身動き取れないんだよ」

 件の情報交換会議が行われる場所は、美紗の勤務する部署が入る棟の隣の建物の地下階にあった。そこは、特に秘区分の高いエリアに指定されていて、自由に立ち入ることのできる人間は非常に限られていた。常駐者以外は、統合情報局所属の職員であっても、事前申請をしなければ入ることが許されない。
 二か月前に情報局に異動したばかりの美紗は、まだそのクリアランスすら取得していなかった。このため、上官である第1部長の便宜で、本来立ち入り不可のエリアに「監視者付」で入るという体裁をとることになったらしい。


「まあ、今うちに来てる海外の『お客さん』と同じ扱いだな。不愉快だろうが、そういうところは、うちは融通きかないから」

 すまなそうに眉をひそめる比留川に、美紗は「全然構いません」と笑顔で答えた。新しい仕事を一つ任せてもらえたことが、単純に嬉しかった。

「二つ目のセッションでは、私にできることはないですか? ただ待っているだけでしたら何か……」
「いや、二つ目のには出なくていい。日垣1佐がどうにかするだろ?」

 比留川は、自分の席に戻ると、足元のキャビネットの中から紙の束をごそっと出した。

「うちから出すのはこれだ。昨日、高峰が全部準備しててくれて良かったよ。二十部あるから、名札が置いてある席に全部配布してくれ。この内容に沿って、日垣1佐が冒頭のブリーフィングをする」

 そして、書類の山の上に、当該会議の関連資料とUSBメモリを置いた。


「会議の概要はこれを見ろ。USBは議事録作成用だ。待ち時間に作っちまえば後が楽だろ。フォーマットはこの中に入ってる。パソコンは別室に置いてあるのを使えるはずだ。作成したものは向こうの端末には残すな。あんたの作る議事録は『秘』指定になるからな」

 書類の山を受け取ろうと比留川に歩み寄った美紗は、最後の言葉を聞いて、差し出しかけた手を思わず引っ込めた。
 よく見ると、配れと言われた資料にも、赤字で「秘」と印字してある。自分がそんな内容に関わることになるのかと思うと、なんとなく怖い気がした。

「そんなに構える話じゃないだろ。海外の情報機関から仕入れたネタは、ほんの一行でも『秘』区分に指定されることになってんだよ。松永も言ってたが、あんたちょっと気が弱すぎる。おまけに、考えてることがすぐ顔に出るんだな。もう少し図太くならんと、ここじゃ生き残れないぞ」

 比留川は、半分笑いながら、書類一式をまとめて美紗に押し付けた。美紗は、聞き取れないほど小さな声で、すみません、と答えた。気にしていることをあからさまに指摘され、悲しくなった。それがまた、態度に出る。
 ついさっきまで盛大に愚痴をこぼしていた1等空尉の片桐までが、恰幅のいい直轄班長とますます小さく見える美紗のやり取りを、心配そうに見ていた。

「第五セッションが終わったら、うちの地域担当部の出席者はごっそり帰るはずだから、そのタイミングであんたも別室に移ればいい。質問は?」

 そう聞かれても、美紗には、指示されたこと以外に何を確認すべきかも分からない。

「まあ、場数を踏んでいけば、勝手も分かるし自信もつく。いよいよ困ったら、後で日垣1佐に助けてもらえ。別に怒られることもないだろ。今回はあんたのデビュー戦だからな」

 比留川が大きな笑い声を立てる横で、宮崎が浮かない顔の美紗に声をかけた。

「確かに、慣れないテーマでは話についていくのが難しいだろうから、まだ時間もあるし、会議に入る前に、テロ関係の資料を少し読んでいったほうがいいね。うちの情報データあされば、使えそうなのが出てくるはずだけど……」
「今、検索してます。ヒラ文ならプリントアウトしていいっすよね」

 美紗より早く、片桐が返事をする。比留川は、先輩二人の素早いサポートぶりを眺め、満足そうに目を細めた。


 昼休みに入り、美紗は自席で手早く昼食を済ませると、フロアの端にある女子更衣室に入った。皆まだどこかで食事中なのか、部屋には誰もいなかった。

 情報局に所属する女性陣は、制服組と事務官を合わせてもさほど多くはなかったが、美紗はまだ、彼女らとは挨拶程度のやり取りしかしたことがなかった。
 直轄チームの業務が忙しすぎて他の部署にいる女性職員と顔を合わせる機会がほとんどないせいもあったが、美紗自身が周囲に気後れして、誰とも馴染めずにいるのも確かだった。

 第1部長に引き抜かれる形で来た職場では、要求される能力も、勤務する人間の質も、格段にレベルが高かった。
 特に、情報局専属の事務官は、以前に日垣が話していたとおり、男女を問わず、大半が留学経験のある院卒か、民間企業で海外駐在の経験を持つ中途採用者ばかりだった。入省と同時に情報局に配置された彼らは、さほど年数を経ずして、情報分析の専門家としてのキャリアを積み、担当専門官として活躍している。

 ただの記録取りで怖気づく自分とは雲泥の差だ、と美紗は思った。

 学部卒の三年目、二四歳の美紗は、確かに情報局内ではほぼ最年少だった。しかし、自分の実力が周囲とは年齢差以上に開いていることを、この二か月で否応なく実感させられた。留学経験がないことも、気が弱い性格も、実年齢より七、八歳は年下に見える頼りなげな背格好も、すべてが漠然とした劣等感となっていた。
 第1部長の日垣は、成績優秀な職員には海外研修の機会があると言っていたが、今はとてもそんな夢を目指す状況にはない。

 小さくため息をついた美紗は、部屋の壁際に置いてある姿見に目をやった。そこには、心細そうな顔をした小柄な女が映っていた。柔らかなラインの半袖のワンピースが、滑稽なほど子供じみて見える。
 見かけも、中身も、とても周囲からの信頼を得るには程遠い。

 美紗は、ロッカーに常に置いてある紺色の夏物のジャケットを出した。それをワンピースの上に羽織ると、少しは落ち着いた雰囲気になったような気がした。服装で仕事をするわけではないが、気持ちを引き締めるくらいの役には立つかもしれない。


 一時を少し回った頃、先任の松永が「直轄ジマ」に戻ってきた。松永は、比留川から事の経緯を聞くと、露骨に心配そうな顔をして、美紗の目の前で、件の会議の関連資料をすべてチェックし始めた。
 それを、比留川が遮った。

「だいたい、指導役のお前がミリミリと世話を焼き過ぎるから、鈴置がますます萎縮するんだろうが。任せると決まったら、本人が何か聞いてくるまで放っとけって」
「前もって決まってた話なら別にいいですけどね。いきなり行かせても、要領も何も分からんでしょう。鈴置はぶっつけ本番ってタイプじゃないんですから」

 美紗は、二人の幹部が言い争うのを、申し訳なさそうに黙って見ていた。松永に何かと気にかけてもらえるのは有難いが、裏を返せばそれは、頼りないという評価の現れだろう。
 そんなことを考えていると、背後から急に声をかけられた。

「鈴置さん。急遽、助っ人を頼んで悪かったね。次の時間、よろしく頼むよ」

 振り向くと、第1部長の日垣が、濃紺の制服の上着と薄い書類入れを小脇に抱えて、立っていた。

 美紗は、必要なものを詰め込んだ書類ケースを抱えて立ちあがった。「よろしくお願いします」と言いかけて、声が尻すぼみになった。
 いつも通り穏やかな顔をしている上官が、なぜか少し威圧的に見えた。


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