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第三章 ハンターの眼差し
1等空尉の不満(2)
しおりを挟む問題の3等空佐は、一年前の春に直轄チームに着任し、在階級年数の関係から、先任の職に就いた。
本来ならば、自身の担当業務と並行して、各メンバーの管理を担いつつ班長を補佐しなければならないのだが、不幸なことに、当人は、中央で勤務させるには著しく能力が低く、先を見通して行動できないタイプだった。
更には、プライドばかりが妙に高く、的外れな主張をごり押ししては、直轄チーム全体を無駄に振り回す有様だった。中でも、当時チーム最年少で、中央勤務も初めてだった富澤が一番の被害者となった。
見かねた第1部長の日垣が再三この先任を指導したが、全く改善する兆しがなかったため、結局、着任の数か月後に、当人を空自側に突き返すことにしたのだという。
「ところがさあ、その問題児が、実は空将補(空軍少将相当)サマの親族でね。後で、日垣1佐とそのおエラさんが大喧嘩になったんだって。……という説明で合ってる?」
宮崎に肩を叩かれた富澤は、角ばった顔を不愉快そうに歪めて頷いた。
「あの一件では、日垣1佐には本当に申し訳ないことしたよ。将官相手に、戦わせてしまったようなもんだから」
統合情報局を含む統合機関に勤務する制服組の人員は、陸海空の各自衛隊から提供される。人事権はあくまで出身元の各幕僚監部が握っており、統合機関に配属された人間は、数年で再び各自衛隊組織へと戻っていくのが通例だ。
したがって、出身元の将官と対立するのは、日垣のキャリア上、当然好ましいことではなかった。
「別に富さん一人の問題じゃなかったんだし」
富澤を「富さん」と親しげに呼んだ宮崎は、美紗から憂い顔の3等陸佐へと視線を移した。
「うちの部長は、無能なコネ付き野郎は許さないタチだから、どうあっても同じ結末になったんじゃない? それに、あのヒトの信望者は部内にたくさんいるから、大丈夫だよ」
宮崎は、富澤のクリーム色の開襟シャツの襟をつつくと、つまんないこと気にしちゃだめよ、とまたオネエ言葉になった。二人は、制服と背広という異なる立場ながら、年が近いせいか、かなり気心知れた仲のようだった。
「結局、問題児を追い出すために、日垣1佐は統合情報局の副局長まで引っ張り出したらしいんだ。副局長、見たことある? 結構お腹出てる恵比須顔の人だけど」
美紗は、遠目に一度だけ見た統合情報局副局長の姿を思い出した。
宮崎の表現するとおり典型的なメタボ体形の副局長は、内局の審議官を兼任する文官で、いわゆる「高級官僚」と位置付けられる人物だった。防衛省の内外で、絶大な権限と幅広い人脈を持っている。
「内局は、三自衛隊の将官人事を握ってるから、制服のおエラ方からすれば、あんまり喧嘩したくない相手なわけ。平たく言うと、日垣1佐が、内局経由で空幕(航空幕僚監部)に圧力かけちゃったんだね」
妙に楽しそうに話す宮崎は、「あの人も涼しい顔して結構エグイのよ」と言いながら、わざとらしく手を口元に当てた。
キャリア官僚が苛烈な出世レースを繰り広げる内局で十年余の実績を積んできた彼にとっては、この手のドロ臭い話は日常茶飯事のことらしい。必要な時にあらゆる手段を講じて目的を達成するのは、管理者には必須の「芸当」だ、と物知り顔で語った。
美紗は、一人残業する自分のところにやってきては仕事の話をする第1部長の姿を思い出した。日垣は、時々眉をひそめることはあっても、終始穏やかに、どちらかと言えば、笑い話でも披露するかのように、職場の話をあれこれとしていた。
彼の静かな笑顔の影には、数多くの不愉快な出来事があったに違いない。それらをすべて胸の内にしまい、優しい物腰の彼は、日々部下を気遣い、奔走してきたのだろう。
「で、問題の奴はいなくなって良かったんだけどさ、今度は、後任が来ないんだよ。その時の空幕の人事部長が、運悪く喧嘩相手の将補サマの同期だったらしくてさ。いくら年度途中の交代っていっても、あからさまに嫌がらせなの」
「いいトシこいた将官が、ガキみたいだろ?」
目を丸くして話に聞き入っている美紗の横で、富澤が悪態をついた。宮崎は、「ホント、そうよねえ」と奇妙な声色で相槌を打った。
「そのポストをどうするかでまたひと騒ぎして、結局、比留川2佐が、別の部にいた佐伯3佐を期間限定で強引に借りてきちゃったんだ。海同士でやりやすいと思ったんだろうね。その後、少し遅れてきたのが彼と僕」
宮崎は、斜め左に座る片桐と自分を指し示すと、富澤の肩に手を置いて、話しながら肩もみを始めた。
「僕のポストなんて、実は、その時のゴタゴタで作られたんだよ。富さんには悪いけど、僕としては、アホな前任者に感謝してるくらい」
内局の審議官を兼ねる副局長は、決してただ働きをしない人間だった。問題の先任を第1部から追い出すのに力を貸した彼は、日垣にきっちり人事上の見返りを要求してきた。それまで、制服組のみで固めてきた第1部長直轄チームに、内局の部員を入れることで、情報局内部の現場の動きをより容易に把握しようと、一計を案じたのだ。
そういう意味では、宮崎は、防衛省内部における背広組と制服組の勢力争いの最前線に身を投じる、部内スパイのような立場に置かれていることになる。
残業中に日垣から様々な裏話を聞いていた美紗は、そのことに思い当たり、思わずまじまじと宮崎の顔を見た。宮崎は、美紗の心の内を見透かしたように、すまし顔を返してきた。
「いろいろ面倒な事情はあるけどさ、僕は、今はすっかり日垣1佐のファンだから。彼が異動するまでは、副局長の期待には応えられないわ」
「俺らからしたら嬉しい発言だけど、なんでわざわざ、そう気持ち悪い言い方するんだ」
嫌そうな顔をする富澤に構わず、宮崎は、「図らずも増員になってめでたしめでたし、でしょ」と話を結んだ。
それに、片桐が早口でかみついた。
「全然めでたくないですよ。こっちは、ここの空自ポストを守るために、臨時の穴埋め要員みたいに突然送られて来たんですよ。どう考えたって、尉官の僕がこんなとこ来るなんて、おかしいじゃないですか」
「いいじゃない。上級幹部のブレーン役を尉官のうちに経験できて」
「冗談じゃないですよ。他の連中はほとんど九時五時の環境でCSの勉強してるってのに、ここは拘束時間長いから、勉強する余裕なんて絶対無いし!」
声が大きくなる片桐を横目に、宮崎は美紗に向かって肩をすくめると、子供がキャスター付きの椅子をいたずらする時のように、床を足でけって、椅子に座ったまま自分の席に戻っていった。
宮崎の滑稽な様子とは対照的に、富澤は険のある顔を片桐に向けた。
「よく言うよ。それでも彼女と会う余裕はあるんだろ?」
痛いところを突かれ、片桐は露骨にむくれ顔になって口をつぐんだ。
「子供が生まれたら、本腰入れて勉強するチャンスもなくなるんだぞ。くだらない文句言ってる暇なんかないだろ。あまり日垣1佐をがっかりさせるな」
美紗が言い合う二人の間に入るか迷っている間に、富澤は書類ホルダーを持つと、「例の会議に行ってくる」とぶっきらぼうに立ちあがった。
彼がオブザーバーで入るセッションの開始時刻が近づいていた。
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