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第二章 ホーセズネックの導き
新しい職場
しおりを挟む次の日から、美紗は、出向扱いの形で統合情報局第1部に勤務場所を移し、翌七月一日付けで正式に第1部長直轄チームの最年少メンバーになった。
セキュリティ・クリアランスの格上げに数か月の手続き期間が必要との理由で、所定の照会手続きが終わるまで、業務範囲には一定の制限が設けられた。それでも、新しい仕事は、美紗の実力をはるかに超えるレベルで、容赦なくスタートした。
直轄チームの担当業務は、まさに「調整」だった。
世界の地域情勢や軍事情報の収集分析を担当する第2部以降のセクションから上がってくる報告を取りまとめ、防衛省上層部や部外の関連機関に情報提供するまでの一切を、班長の比留川以下、八名のメンバーで取り仕切る。
国際情勢に関する最低限の知識はもちろん、情報提供先となる上層部がいかにその運用を考えているか、多面的な視点と推察が必要とされる仕事だった。
当面、美紗は、直轄チームの雑用を引き受けながら、先任の松永の補佐業務を担うことになった。
図らずも指導役となった松永は、新入りの女性職員を「適性はありそうだが三年目にしては要領が悪い」と酷評した。入省して最初の二年間をほぼ雑用係として過ごしたことが大きく響いていたのは、明らかだった。
その理由を知る松永は、豪胆なイメージのイガグリ頭に似合わず、こまごまと気を配った。そして、業務に必要な知識を早急に詰め込むべく、たくさんの「宿題」を課してきた。おかげで、美紗は連日夜遅くまで「直轄ジマ」に一人残る羽目になった。
もっと経験を積みたいなどと言い出さなければ、八時半から五時まで、決まった雑用にプラスアルファのことだけをやっていれば事足りる環境に、長くいられるはずだった。しかし、美紗に後悔はなかった。
何もしないうちに、見えない天井に阻まれて現役を終わるのでは、自分の将来を軽んじた父親の言うとおりの人生しか期待できない――。
第1部長の日垣は、一人で悪戦苦闘する美紗を見かけると、時々パイプいすを手に、「一息入れよう」と声をかけてきた。そして、美紗の席の斜め後ろに陣取ると、敷地内にある売店で買ってきたのか、二本の缶ビールを机の上に置いて、片方をすすめてきた。
初めてこれをやられた時は、美紗は相当面食らった。あまりに驚いて、きっぱり「飲めないですから」と答えてしまった。
「そうだった? 歓迎会の時、顔色ひとつ変えずに相当飲んでた気がするけど、誰かと勘違いしてたかな……」
日垣は、わざとらしく首を傾げて、その時のことを思い出すフリをした。
美紗が統合情報局に異動してすぐ、班長の比留川が第1部長も交えて歓迎会を開いてくれたのだが、その時に美紗は、童顔に似合わず平然とかなりの量を飲んで、一同を驚かせてしまった。
それがウケたのか、先輩陣はフレンドリーに接してくれるようになったが、当人にとっては、後々まで言及されて嬉しい話ではない。
「いえ、でも、まだお仕事の途中ですから」
「もう九時過ぎだし、人もあまり残っていないから、一本ぐらい構わないだろ? ここは残業代をあまり出してやれないから、休み休みやってもらわないと、なんだか申し訳なくてね」
残業の概念がない自衛官と異なり、事務官の美紗には残業手当が付く。しかし、残業手当の総額は予算で決められているため、概して業務過多な職場では、残業する者同士で予算を食い合う格好になってしまう。統合情報局では、実際の残業時間の三割分も出ればいいほう、と言われていた。
しかし、当の美紗は、残業代など気にかけるような余裕はなかった。
「私はまだ勉強させていただいているばかりなので。ちっとも役に立ってなくて、私のほうが申し訳ないです」
「そんなに気負ってると、後が続かないよ」
日垣は肩をすくめ、自分が先に一口飲んだ。
美紗は、恥ずかしそうに縮こまっていたが、やがて、缶の蓋を開けた。特に珍しい銘柄でもない缶ビールの味が、不思議とさわやかに感じた。
人影もまばらになる夜のオフィスで、日垣は美紗に、たびたび職場の裏話を面白おかしく聞かせてくれた。
目鼻立ちの通った精悍な顔立ちに似合わず、内容はいつも結構ドロ臭い。上層部の滑稽な人間関係、ウマイ仕事と損な仕事の見分け方、真面目にやっているだけではどうにもならない組織の不条理。
そして、いわゆる「勝ち組」になれるか否かを決めるのは「結局は実力より運だ」と、日垣は話した。
「私は運だけは最強でね。任官以来、部下にだけは常に恵まれているよ。君も含めてね」
お世辞と分かっていても、美紗は恥ずかしくなるくらい嬉しかった。
時には、日垣のほうが美紗に愚痴をこぼすこともあった。
管理職の仕事はどの組織においてもストレスが多い。人・物・カネをめぐる醜い争いもあれば、己の管理する組織を守るために些細な問題で責任を押し付けあうこともある。特に、防衛省を含む「お役所」は、概して縦割りで縄張り意識が強く、他の部署、他の機関と、日々勢力争いを繰り広げている。
しかし、美紗に仕事の愚痴話をする日垣は、なぜかいつも楽しそうだった。そして、ひとしきり話すと、必ず最後に、
「君は、細かい話をいちいち説明しなくても分かってくれるから、話していて本当に気持ちが和むよ」
と言って、部長室に戻っていった。
日垣の背筋の伸びた後姿を見送る美紗は、不思議と一日の疲れがすうっと消えるのを感じていた。
******
「確かに日垣さん、見るからに優しそうな感じですもんね」
征は、見かけなくなって久しい常連客を懐かしむように、言葉を漏らした。
「お仕事中は厳しかったんですよ。でも、いろんなところで気遣ってくれました。私だけじゃなくて、チームの人たち全員のことも」
忙しい直轄チームのメンバーが嬉々として働いていた要因のひとつには、あの人の人柄もあったのだろう。美紗は、今更ながらそう思った。
自分も、あの人の下で勤務できるという、ただそれだけのことに、喜びを感じていたから……。
「いいところで働けるようになって良かったですね」
自分のことのように嬉しそうに話す征に、美紗は「ええ」と返し、にわかに顔を曇らせた。
確かに、征の言う通りだった。
それが、どうしてこんな終わり方になってしまったのだろう。
若いバーテンダーの明るい笑顔に見つめられるのが辛くて、美紗は、レモンの皮だけになったコリンズグラスに視線を落とした。
みずみずしい黄色の「馬の首」は、まだ爽やかな香りを放っていた。
「ミリタリー関係の人って、何か大声で怒鳴ってるようなイメージだけど、日垣さんはどうなんですか? やっぱり仕事中は怒鳴ったりして怖いのかなあ」
征は、客の様子には全くお構いなしで、自分の興味を追及した。その屈託のない物言いは、美紗が陰鬱に沈むのを許してくれそうになかった。
「……どちらかというと、淡々と怒ることが多かったと思います。あ、でも、上の人と派手に喧嘩したこともあったって……」
「ホントに? 信じられないなあ。日垣さんて静かに飲んでるイメージしかないから」
征は、殴り合いのシーンでも想像したのか、前髪を揺らして楽しそうに笑った。そして、やや声を小さくすると、
「鈴置さんも怒られたことあるんですか?」
と、遠慮がちに聞いた。
美紗は、恥ずかしそうに「たくさんありますよ」と答えた。
手厳しい指導は何度も受けた。しかし、あの人から大声で怒鳴られたことはたった一度だけだ。
今思えば、その時の一連の出来事がすべての始まりとなったような気がする。
******
*ホーセズネック
ブランデーベース/中口
アルコール度数 10度
カクテル言葉:「運命」
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