カクテルの紡ぐ恋歌(うた)

弦巻耀

文字の大きさ
上 下
3 / 84
第一章 アイリッシュ・コーヒーの温もり

アイリッシュ・コーヒーの温もり(2)

しおりを挟む
 
「前に日垣さんとマスターがそんな話してるのを聞いたことあるんです。それで、日垣さんと来てた鈴置さんも……」

 そこまで言って、ようやく征は話すのを止めた。客の様子が落ち着かない理由を、誤解したようだった。

「あ、お、おおお、お仕事の話するのって、もしかして、かなりヤバい?」

 美紗は下を向いたまま、かすかに笑みを浮かべた。この若いバーテンダーは本当に新米なのだろう。客を苦笑いさせるのが大の得意らしい。

「篠野さんの言うとおり、私は防衛省の職員で、今は統合情報局に勤務しています」
「いいの? そんなハッキリ言っちゃって……。後で『正体を知った奴は消す』とか言われたら、すごく困るんですけど!」

 征は慌てて席を立とうとした。美紗は小さく笑って彼を止め、指を口に当てた。

「そんな声出さないで。所属くらいは公にしても問題ないから。細かい話はあまりできないけど、でも、うちの職場に変な道具抱えて人の家に忍び込んだりする人はいない、と思う」
「え、『思う』なの? じゃ、もしかしたらホントはいるかもしれないってこと?」

 征はひきつった声を出した。頭の中がすっかりスパイ映画のワンシーンになってしまったようだ。美紗は困った顔をして、征の現実離れした推測を否定した。

「私は事務職だし、情報局に配置されてまだ三年目だから、知らないこともたくさんあるの。立ち入れない所もあるし……。でも、統合情報局は、基本的には軍事情報専門のシンクタンクって感じです。人込みに紛れて隠密行動なんて、警察の方のお仕事ですよ」

 そう説明しても、征は目を大きく見開いたまま、美紗をまじまじと見つめるばかりだった。窓ガラスに映る街明かりのせいなのか、驚きを正直に表す若いバーテンダーの瞳は、澄んだ藍色に揺れていた。


 アイリッシュ・コーヒーを飲み干す頃には、美紗はなぜか、久しぶりに心が静かになっていくのを感じていた。体の中に温かさと甘さが広がるにつれ、この若いバーテンダーに対する戸惑いと親近感が、心の中でゆらりと混ざり合っていく。
 まるで、カクテルグラスに注がれた二色の液体が、熟練のバーテンダーによって優しくステアされていくように……。



「よろしかったら、次はさっぱりめのテイストのものをお持ちしますよ」

 空になったホットグラスを見つめていた美紗は、落ち着いた声に問いかけられ、驚いて顔を上げた。

 美紗を柔らかな眼差しで見つめるバーテンダーは、つい先ほど客の勤め先を聞いて慌てふためいた若者とは、目鼻立ちは同じでも、全く別の人間のように見えた。
 かなり年上、というよりも、あの人と同じくらいの年齢の、包容力を感じさせる大人の男性の雰囲気が、ゆったりと漂っている。

 美紗は、吸い寄せられるように征を見つめ返した。
 藍色の目が、深い光を湛えて、美紗を圧倒する。

「ここは、あなたの大事な思い出がたくさん詰まった席なんでしょう? 最後に、少しの間だけ、心を休めていってはいかがですか」


 最期に、少しの間だけ、心を休めていってはいかがですか


 美紗は無言で頷き、下を向いた。



*アイリッシュ・コーヒー
  ウィスキーベース/中甘口
  アルコール度数 5度
  カクテル言葉:「暖めて」


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…

PMに恋したら

秋葉なな
恋愛
高校生だった私を助けてくれた憧れの警察官に再会した。 「君みたいな子、一度会ったら忘れないのに思い出せないや」 そう言って強引に触れてくる彼は記憶の彼とは正反対。 「キスをしたら思い出すかもしれないよ」 こんなにも意地悪く囁くような人だとは思わなかった……。 人生迷子OL × PM(警察官) 「君の前ではヒーローでいたい。そうあり続けるよ」 本当のあなたはどんな男なのですか? ※実在の人物、事件、事故、公的機関とは一切関係ありません 表紙:Picrewの「JPメーカー」で作成しました。 https://picrew.me/share?cd=z4Dudtx6JJ

妻への最後の手紙

中七七三
ライト文芸
生きることに疲れた夫が妻へ送った最後の手紙の話。

彼女にも愛する人がいた

まるまる⭐️
恋愛
既に冷たくなった王妃を見つけたのは、彼女に食事を運んで来た侍女だった。 「宮廷医の見立てでは、王妃様の死因は餓死。然も彼が言うには、王妃様は亡くなってから既に2、3日は経過しているだろうとの事でした」 そう宰相から報告を受けた俺は、自分の耳を疑った。 餓死だと? この王宮で?  彼女は俺の従兄妹で隣国ジルハイムの王女だ。 俺の背中を嫌な汗が流れた。 では、亡くなってから今日まで、彼女がいない事に誰も気付きもしなかったと言うのか…? そんな馬鹿な…。信じられなかった。 だがそんな俺を他所に宰相は更に告げる。 「亡くなった王妃様は陛下の子を懐妊されておりました」と…。 彼女がこの国へ嫁いで来て2年。漸く子が出来た事をこんな形で知るなんて…。 俺はその報告に愕然とした。

夫は平然と、不倫を公言致しました。

松茸
恋愛
最愛の人はもういない。 厳しい父の命令で、公爵令嬢の私に次の夫があてがわれた。 しかし彼は不倫を公言して……

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。

松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。 そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。 しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...