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第一章 アイリッシュ・コーヒーの温もり
アイリッシュ・コーヒーの温もり(1)
しおりを挟む開店間もないバーに、まだ客は入っていなかった。六十代とおぼしきマスターが一人、L字型のカウンターの中で、ショットグラスを照明にかざしては、その輝き具合をチェックしている。
長身のバーテンダーに連れられて美紗が店に入ると、マスターは無言で、おしぼりだけが載ったトレイをカウンターに置き、再び視線をグラスに戻した。
マホガニー調に統一された店内は、三日月にぼんやりと照らされた先ほどの屋上と同じくらいの明るさで、しっとりとした気品にあふれていた。三面に大きく広がる窓に映る街の光のほうが、眩しいくらいに煌めいている。
若いバーテンダーは、落ち着いた空気を乱すことなくカウンターに近づくと、やはり無言でトレイを手にし、テーブル席のほうへと歩き出した。
二十席ほどありそうなその空間では、各テーブルに置いてあるガラス製の小さなキャンドルホルダーだけが、ほのかに温かい色をにじませている。
見慣れた店の光景が、今日は別世界のように見える。そんなことを思いながら、美紗はとぼとぼとバーテンダーの後を付いていった。
店の中ほどまで来たところで、長身のシルエットは立ち止まった。そして、洗練された身のこなしで美紗のほうを振り返ると、
「まずはこちらで落ち着かれたほうがよろしいですね」
と言って、右手を横に軽く差し出した。
指し示す先には化粧室があった。次いで彼は、美紗の目の前におしぼりの載ったトレイを無遠慮に突き出し、意地悪そうな笑みを見せてささやいた。
「いくら暗くても、灯りの下では涙の跡がはっきり見えてしまいますよ」
美紗は顔を伏せておしぼりを掴むと、逃げるように化粧室に入った。
しばらくして、美紗が化粧室のドアを恐る恐る開けると、ちょうど先のバーテンダーが飲物とメニューをトレイに載せて近づいてくるところだった。
「どうぞこちらへ」
シックなバーに相応しいモノトーンの服を着こなし颯爽とした足取りで店の奥へと向かう男の後ろを、美紗はうつむいて歩いた。
化粧直しできるものなど何も持っていなかった。おしぼりで目元と頬を拭いたら、ほとんど素顔になってしまった。
社会人になってから、己の素顔を晒した相手は、あの人だけだったのに……。
バーテンダーは、美紗を一番奥の二人席に案内した。隣のテーブルとの間に、飾り棚を兼ねた衝立がある。夜景が良く見える「いつもの席」だ。
美紗はテーブルの前で立ちすくんだ。そのまま座ることにいささかのためらいを感じたが、違う席にしてほしいと言う気にもなれなかった。
「取りあえず、温かいものをお作りしました」
濃茶色と白の液体が入ったホットグラスをテーブルの真ん中に置かれ、美紗はその席に座らざるを得なくなった。
体が自然に、奥側の「いつもの場所」を選ぶ。
店の人に声をかけやすい手前側の席には、いつもあの人が座っていた。あの人は、そこでいつも水割りばかり飲み、いつも和やかに話し、いつも穏やかな笑顔を見せていた。
美紗は、誰もいない向かい側の席をぼんやりと眺めた。仕事中には決して見せることのなかったあの優しい眼差しを最後に見たのは、もう数か月以上も前になる。
「どうぞ」
若い男の明るい声が、あの人のいた風景を掻き消した。バーテンダーが、テーブルを挟んで向かいの席に座っていた。
美紗は口の中で、あ、と驚きの声を出し、慌ててそれを飲み込んだ。一人客を案内したバーテンダーがそのまま同じテーブル席に座り込んだことにも意表を突かれたが、それ以上に、天井から吊られた照明の灯りを受けた彼が実に頼りなげな若者だったことに気付いたからだ。
つい先ほど、美紗におしぼりを押し付けて冷たく笑った人間と、目の前に座る人懐っこそうなバーテンダー姿の男が、同一人物とは思えなかった。よく見れば、背丈はあっても全体的に線が細い。顔つきも、雰囲気も、少年のような幼さを残している。
「これ、アイリッシュ・コーヒーっていうんですけど、お飲みになったことあります?」
グラスを美紗のほうにそっと押しやるバーテンダーは、それなりの敬語で話しているにも関わらず、話し方まで子供っぽかった。
美紗は「いいえ」とだけ答え、白いクリームが降り積もったカクテルを見つめた。
「これは、砂糖とコーヒーを入れたグラスにウイスキーを注ぎ入れて、その上にホイップクリームを浮かべているんです。寒い国で生まれたカクテルだそうで、カクテル言葉は『温めて』というんですよ。そのまんまで芸がないですよね」
うっかり地が出たのか、バーテンダーは楽しげに声を立てて、あはは、と笑った。滑稽なほど屈託のない笑顔が、美紗の警戒心を少しだけ和らげた。
「カクテル言葉? 花言葉は聞いたことあるけど……」
「カクテルにもそういうのがあるんだそうです。今、うちのマスターが凝ってるんですよ、あの顔で。可笑しいでしょ? あ、どうぞ、どうぞ」
やや軽い口をきいたバーテンダーは、目をきらきら輝かせながら、溶けかかったコーヒーフロートのようなカクテルをすすめてきた。
美紗はそっとグラスに手を伸ばし、ふんわりとしたクリームの部分に口を付けた。グラスを少し傾けると、クリームの下から温かい茶色の液体が流れ込み、口の中で混ざり合った。
「甘くて、あったかい……」
天井を仰ぎ見て深いため息をついた美紗は、若いバーテンダーとさほど変わらない幼顔を晒した。先ほどおしぼりで涙を拭いてほとんど素顔になってしまったうえに、真っ黒なストレートの髪型はいかにも地味で、顔周りを飾るものも特に身に着けていなかった。
二か月ほど前に二七歳の誕生日を一人で迎えたが、ビジネススーツを着ていなければ、外見はまるで十代後半だった。
しかし、スーツの袖口から見える手首も、ホットグラスに添えられた手の甲も、かさついて骨が目立ち、若い女のものとは思えないほど醜かった。
痛んだ手に目を留めたバーテンダーは、一瞬、その顔に憂いの色を浮かべた。美紗は、しかし、それに気付くことなく、コーヒーとウイスキーの香りが絶妙に混ざるホットカクテルを、静かに飲んだ。
体を温めた美紗が半分ほど中身の減ったグラスをテーブルに置いた時、バーテンダーが突然口を開いた。
「あ、あのー、僕、篠野といいます。一年ほど前からここで働いてます」
美紗は、唖然として、目の前にいるバーテンダーを凝視した。
唐突に自己紹介を始めた彼は、客の困惑にはお構いなしに、にこにこと笑顔を返した。バーテンダーというよりは、ファーストフード店で働くアルバイト店員のようだ。初々しく爽やかだが、静かな雰囲気のバーで働くには、いささか浮いているようにも見える。
きっとこの店が初めての職場なのだろう、と、美紗は想像した。階段の踊り場で人に恐怖感を与えるような態度を見せたのも、ただ接客の経験が少ないからかもしれない。特に、自分のような「珍客」には……。
「あ、えっと、名前は征です。征服とか遠征とかのセイ」
慌てて言い足したバーテンダーは、また、あはは、と笑って右手で頭を掻いた。勇ましいイメージの名前とは全くかけ離れた仕草に、美紗は思わず口元を緩めた。
「一年前から、ってことは、篠野さんより私のほうが、ここでは……古株?」
自然とくだけた口調になり、自分の名前を言いかける。それを征が人懐っこい笑顔で遮った。
「鈴置さん、でしょう? 確か、日垣さんがそう呼んでました」
再びあの人の名前を聞いた美紗は、内心ドキリとしながら、ゆっくり頷いた。自分とあの人との関係を知る数少ない人間の中に、このバーテンダーも入るのだろうか。
しかし、決してベテランには見えない彼は、嬉しそうに目を輝かせるばかりだ。
「お勤め先、もしかして、自衛隊関係?」
「どうして……分かるの?」
「よく日垣さんと一緒だったから、そうかなって。日垣さん、自衛隊にお勤めで、情報局のナントカ部長ってお役職だったんですよね」
美紗は顔をこわばらせ、征からホットグラスへと視線を落とした。
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