上 下
82 / 84
第七章 アイスブレーカーの想い

許されざる聖夜(3)

しおりを挟む
 
 美紗は、地下鉄を降り、駅の階段を上がった。

 いつもの街の光景が、冷え冷えとした霧の中に浮かぶ幻影のように感じられた。左手に見える高層ビルも、四車線の大通りを行き交う車も、普段にも増して華やいだ雰囲気の人々の姿も、透明な幕のようなものを通して見ているような気がする。

 ここまで来て、いつもの店に行くか、まだ迷っていた。

 十二月に入ってから、「二人の夜」はなかった。忘年会シーズンになると、顔の広い日垣の夜のスケジュールは、週末どころか週の半ばまでほとんど埋まっていたからだ。
 二人で会えないまま年末年始の休みに入ってしまうのだろう、と美紗は思った。自分が職場を出る時には、日垣はまだ会議に出ていた。仕事の後、平日のクリスマスイブを、彼はどう過ごすのだろう。自分は、本当はどうしたいのだろう……。


 答えが出ないまま、美紗は大通りから細道へと入った。急に周囲が暗くなり、人通りがまばらになった。浮ついたクリスマスソングも行き交う人々のざわめきもすぐに遠ざかり、聞こえるのは自分の靴音だけになっていく。
 下を向いて歩いていると、すぐに通い慣れたビルの前まで来てしまった。

 美紗は、最上階を見上げ、そして、冬の夜空を振り仰いだ。星はない。寒さだけが、顔に振り落ちてくる。
 それから逃れたくて、反射的に建物の中に入った。右手が勝手にエレベーターのボタンを押していた。

 十五階に着くと、人気のない事務所の脇をゆっくりと通り過ぎ、突き当りで立ち止まった。

 左に曲がるか、やはり引き返すか……。


「いらっしゃいませ、鈴置さん。平日に、お珍しい」

 灰色の髪をオールバックにまとめたマスターが、店の入り口に立っていた。彼の隣には、美紗の背丈と同じくらいの高さのクリスマスツリーが飾られていた。

「ああ、今日はイブでしたね」

 マスターの後ろに、マホガニー調に統一されたいつもの空間が広がっている。眩い光に溢れる賑やかな外の世界から隔絶された「隠れ家」は、あの人の気配を感じさせるしっとりとした雰囲気に満ちていた。

「取りあえず、カウンター席でよろしいですか」
「いえ、今日は……」

 マスターの後について中に入りそうになるのを、美紗は辛うじて堪えた。少し逡巡した後、渋みのある穏やかな目に促されるように、尋ねて良いものかと迷っていたことを口にした。

「あの、日垣さんがここでよく飲んでいるお酒は、……ウイスキーの水割りなんですけど、種類というか、何か決まっているんでしょうか」
「ええ。いつも同じものですね。国産のモルトウイスキーがお好きなようですよ」
「モルト……?」
「実物をお見せしましょう。少々お待ちください」

 マスターは、入り口で立ち止まったままの美紗に軽く会釈すると、静かな足取りで薄暗い店内に入っていった。そして、L字型のカウンターの向こう側にある低い棚にずらりと並んだ瓶のうちのひとつを手にして、戻ってきた。

「日垣様のお好みは、こちらの銘柄です」

 琥珀色の液体が入った瓶にはシックな墨色のラベルが貼られていた。金で箔押しされた二文字の漢字が、店の照明の光を受けて優雅に輝いている。

「これと同じものを、その、……ボトルキープというのは、できますか?」
「ええ、承っております。日垣様のお名前でお預かりするということで、よろしいですか」
「はい」
「……実に配慮の行き届いた贈り物でございますね」

 マスターはわずかに口角を上げ、目を細めた。彼の意味するところを図りかね、美紗は黙ったまま手を胸元にやった。
 ピンクとオレンジの二色に輝く誕生石をくれたあの人に、何がしかの返礼をしたかった。クリスマスがそのいい機会のように思えたが、彼の手元に「鈴置美紗」の痕跡を残すのはためらわれる。悩んだ末に思いついたのが、「いつもの店」に彼の好みの銘柄のボトルを入れることだった。

 それすらも余計なことかもしれないと、迷いながら……。


「お幾らになりますか」
「こちらのものですと、お預かり料込みで、通常は一万円を頂戴しておりますが、鈴置さんのお心配りに免じて、今回は半額で結構でございます」
「でも……」
「残りの分は、私からお二人へのクリスマスプレゼント、ということにいたしましょう。お席をご用意してよろしいですか?」

 美紗はうつむいて唇を引き結んだ。店内を静かに流れるジャズアレンジのクリスマスソングが、ひどく優しい音で美紗の耳元を撫でた。

「今日は……、帰ります。すみません」
「いいんですよ。またのお越しを、お待ちしております」

 マスターは、ただ穏やかに微笑み、ゆったりとした動作で一礼した。


 言われたとおりの金額を支払った美紗は、元来た道をとぼとぼと引き返した。
 再び大通りに出ると、人の波がますます増えたように感じた。二人連れが目に付く。街明かりに照らされる姿は皆、はしゃいでいるように見える。

 自宅へ向かう地下鉄の中で、美紗は高峰の言葉を思い出していた。


『子供が大きくなると、クリスマスはカミさんと二人だけになってしまう、というようなことを言ったら、日垣1佐、淋しそうな顔しましてね。そういう時期を迎えるまでには九州に帰ってやりたい、とこぼしていました』


 あの人が今夜、想うのは
 私じゃない……



 真っ暗な部屋に帰り着き、明かりをつけると、コートを着たまま、小さなソファにうずくまるように座った。また、胸が鈍く痛むような気がする。
 喉元に手をやると、プラチナの華奢なチェーンに触れた。ゆっくりとそれを引き出すと、温かな色合いに輝く誕生石が現れた。それを、美紗はぎゅっと握りしめた。これがあの人の精一杯の厚意なのだと、自分に言い聞かせた。


 何も食べないままベッドに潜り込んでいるうちに、眠ってしまっていたらしい。低いバイブレーター音に起こされて枕元の時計を見ると、十時を少し回ったところだった。美紗は物憂げに起き上がり、小さなテーブルの上に置いていた携帯端末に目をやった。

 職場に残っていた小坂からだろうか。何か緊急に対応すべき事案が起こったのかもしれない。寒い夜に再び職場に戻るのは億劫だが、急ぎの仕事を無心に片付けているほうが、気は紛れるだろう。
 そんなことを思いながら液晶画面を見た美紗は、息を飲んだ。

 着信していたのは、音声通話ではなく、メールだった。発信元は、日垣貴仁の私用携帯のアドレスになっていた。
 

『素敵なプレゼントを
 ありがたく頂戴します』


 添付されていた画像には、金色の文字が艶めく黒いラベルのボトルと、いつも見慣れた水割りのグラスが、並んで映っていた。


 どうして……?


 美紗は携帯端末を強く握りしめた。




 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

職場のパートのおばさん

Rollman
恋愛
職場のパートのおばさんと…

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

彼女にも愛する人がいた

まるまる⭐️
恋愛
既に冷たくなった王妃を見つけたのは、彼女に食事を運んで来た侍女だった。 「宮廷医の見立てでは、王妃様の死因は餓死。然も彼が言うには、王妃様は亡くなってから既に2、3日は経過しているだろうとの事でした」 そう宰相から報告を受けた俺は、自分の耳を疑った。 餓死だと? この王宮で?  彼女は俺の従兄妹で隣国ジルハイムの王女だ。 俺の背中を嫌な汗が流れた。 では、亡くなってから今日まで、彼女がいない事に誰も気付きもしなかったと言うのか…? そんな馬鹿な…。信じられなかった。 だがそんな俺を他所に宰相は更に告げる。 「亡くなった王妃様は陛下の子を懐妊されておりました」と…。 彼女がこの国へ嫁いで来て2年。漸く子が出来た事をこんな形で知るなんて…。 俺はその報告に愕然とした。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

処理中です...