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第七章 アイスブレーカーの想い
許されざる聖夜(1)
しおりを挟む十二月も半ばを過ぎると、意気揚々と仕事に励む片桐1等空尉の斜め向かいで、ずんぐり体形の3等海佐はしきりとため息をつくようになった。
「小坂3佐、最近、元気ないわねえ。愛しい後輩が春に転属かと思うと、居てもたってもいられないのかしら?」
内局部員の宮崎が銀縁眼鏡を光らせながらオネエ言葉を口にすると、小坂が何か言うより早く、片桐が椅子ごとそろりと後ろに下がった。
「小坂3佐。気持ちは嬉しいっすけど、僕、そういう趣味ないんで」
「誰がそういう趣味だよ!」
小坂は、腰を浮かせてふざけ半分に声を荒げたが、すぐにへなへなと座り込んだ。
「大丈夫よ。市ヶ谷と目黒なんて、すぐ近くじゃない。電話一本で会えるわよ」
「宮崎さん……」
手を口に当てて奇妙な笑い声を立てる宮崎に、二人は揃って嫌そうな顔を向けた。
指揮幕僚課程の教育は、目黒にある幹部学校で行われる。そのため、入校が決まった片桐は、年度末をもって統合情報局を去ることになっていた。
しかし、小坂の気がかりは、気心知れた後輩の人事とは全く別のことだった。
「彼女、クリスマス、どうすんのかなあ」
「大須賀さんのことすか?」
元の位置に座り直した片桐が、今度は若干身を乗り出して、小声で応じる。
「彼氏っぽいのは、やっぱいなさそうなんだけどなあ」
「何でそんなこと分かるんすか」
「情報収集はオレの得意分野だ。なにしろ情報局勤めだからな」
「分析に主観を交えるのは禁物っすよ」
片桐がしたり顔で茶々を入れると、「直轄ジマ」の長の席に座る松永が呆れ顔で鼻を鳴らした。
「御大層なお言葉だな。去年、お前自身が日垣1佐に散々言われてたくせに」
「おかげ様で、すっかり身につきました」
片桐は得意の減らず口で返すと、小坂のほうにすまし顔を向けた。
「希望的観測は、正確な分析を妨げます」
「うるせーな。そんなこと分かってるって」
「仮に、大須賀さんがフリーだとしても、小坂3佐、大事なトコ忘れてるっすよ」
「何だよ」
「大須賀さんの好みは日垣1佐だって、言ってたじゃないすか」
キーボードを叩いていた美紗の手が一瞬止まる。しかし、右隣にいる小坂は、それに気を留める余裕もなく、無情な現実に一層大きなため息を吐いた。
「ダイエットでもしてみるかあ。縦方向には如何ともしがたいけど、横を少し引っ込めれば、日垣1佐を縮小したシルエットになれるかも」
「それは良い考えかもしれん」
小坂の向かいに座る高峰3等陸佐が、口ひげをいじりながら目を細めた。
「動機はともかく、今のうちに少し痩せたほうがいい。このまま順調に太って夏1種が着られなくなったら、大変だぞ」
「それは……」
ぎくりと顔を歪ませる先輩に、片桐は黙って肩を震わせた。
自衛隊の制服には夏冬の別があるが、夏服はさらに、上着を着用する第1種、長袖シャツにネクタイの第2種、半袖シャツのみの第3種、の三種類に分かれている。陸自と空自の夏服の上着は色も襟の形も冬服と同一だが、海自のそれは白の詰襟である。首が太くて一番上のボタンを留められないなどという事態になれば、海自幹部としては一大事だ。
今は黒いダブルスーツ型の冬服を着る小坂は、自分の腹を見やると、キッと顔を上げた。
「決めた。明日から昼休みに走ろ。片桐、オレに付き合え」
「いいっすけど……。来年の夏はともかく、クリスマスにはとても間に合わないすよ。緩めのシルエットを好む女性を探したほうが、まだ可能性あると思うんすけど」
「失礼な奴だな。そういうお前はどうなんだよ。二四日に会う彼女なんている……」
小坂の言葉が終わらないうちに、片桐は堪えきれないと言わんばかりの笑みを顔いっぱいに浮かべた。
「何、その余裕のツラ。めっちゃムカつくわ。クリスマスイブの夕方に、何か仕事でも押し付けてやる」
「勘弁してくださいよ。たぶん独身最後のクリスマスになるんすから」
「何それ? お前、結婚すんの?」
間の抜けた大声に、「直轄ジマ」にいた全員が一斉に片桐を見た。
「何だ片桐、報告がないぞ、報告があっ」
イガグリ頭に怒鳴りつけられ、片桐は縮こまった。それでも顔は嬉しそうに緩む。
「あ、CS(空自の指揮幕僚課程)入校して落ち着いた頃に、と思ってたんすけど……」
「CS受かって御結婚とは、めでたいこと続きだな」
からかうように笑った松永は、片桐から小坂のほうに視線を移すと、急に意地悪そうに目を細めた。
「じゃ、クリスマスの時期に緊急の案件が発生したら、すべて『お暇』な奴が対応するってことでいいな」
「どうせ、自分らは暇なクリスマスですよ。ね、宮崎さん?」
「僕は別に暇じゃない」
ぼそりと呟いた宮崎は、銀縁眼鏡の下で片方の眉だけをつり上げた。「直轄ジマ」のベテラン勢がゲラゲラと無遠慮な笑い声を立てる。つられて、美紗も小さく息を漏らした。
「あっ、鈴置さん! 今、笑ったね?」
「いえっ、あの、……何かあったら、私も残れます。クリスマスもお正月も、特に予定はないですから」
「ホントっ? 仲良くしようねえっ!」
丸顔の3等海佐が一人で道化を演じるのを横目に、片桐と宮崎は互いに顔を見合わせ、それから松永のほうを窺い見た。以前、勤務時間中に、美紗が男に振られたのなんだのとつまらぬ雑談に花を咲かせ、当時先任だった松永に叱責されたことを思い出したからだ。
しかし、当の松永が関心を向けた先は、小坂の言動ではなかった。
「そういえば鈴置、まだ休暇予定出してないだろ。年末年始の休み期間は、基本的には佐官以上で対応するから、鈴置は特に自宅待機の必要はないからな。実家は……、あまり遠くないんだったか?」
「私の実家は東京から日帰りで往復できる所にあるので、まとまったお休みをいただかなくても大丈夫です。暦通りに休んでもいいですか」
「それは構わんが……」
松永がさらに何か言おうとした時、「直轄ジマ」の共用内線が鳴った。美紗は素早く受話器を取ると、先方と短いやり取りをしながら、机の下に置いてあった厚めの書類ホルダーを取り出した。
「宮崎さん。うちから内局(内部部局)調査課経由で問い合わせていた件、外務省から回答来たそうです」
「ああ、あれ……」
宮崎がのそりと腰を上げる。
「総務課のクーリエ(文書の運搬係)では受領できないものですよね。私のクリアランス(秘密情報取扱資格)で問題なければ、取りに行ってきます」
「ホント? 悪いねえ」
銀縁眼鏡の前で手を合わせる宮崎に、美紗は微かな笑みを返した。そして、松永に軽く会釈をすると、書類ホルダーを持って席を立った。
小柄な後姿がドアの向こうに消えるのを見送った小坂は、ふてくされた顔で椅子にふんぞり返った。
「あーあ、良かった。取りあえず『お仲間』がいて。オレ一人だけ職場で淋しいクリスマスじゃ、やってられんわ」
ふざけ半分に口を尖らす3等海佐に、宮崎は肩をすくめた。
「ホントに、まだまだ観察が甘いわねえ」
「何で?」
「彼女、たぶん独りじゃないわよ」
銀縁眼鏡がギラリと光る。
「えっ……。でもさっき、鈴置さん、クリスマスの予定ないって……」
「彼氏と遠距離、という可能性もある」
オネエ言葉から急に普通の言葉遣いに変わって声を低めた宮崎に、小坂は目を見張りつつ耳を寄せた。
「何かそのテの情報でも?」
「そういうわけじゃないけど……。鈴置さん、夏が終わったぐらいから、急に落ち着いて、何となく綺麗になった感じしない? 思っていることをあまり態度に出さなくなったし、それに、ああいう立ち回りもうまくなったような気がする」
「立ち回り?」
きょとんとする丸顔に、宮崎はそれ以上を語ろうとはしなかった。
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