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第七章 アイスブレーカーの想い
トパーズ色の夜
しおりを挟む涼しげに見えていた青いイルミネーションが徐々に寒々しい気配を帯びていく中、美紗と日垣は、依然と変わることなく「いつもの店」を訪れた。
金曜日の夜に「いつもの席」で、一人はいつも水割りを飲み、もう一人はいつもマティーニを飲む。
ひとつだけ変わったのは、二人がさほど長居せずに馴染みのバーを出るようになったことだった。「いつもの店」の後に「いつものシティホテル」が加わったからだ。
十一月半ばのある日、昼休みに女子更衣室で身支度を整えていた美紗は、鞄の中に入れてある携帯端末のバイブレーターが鳴ったのに気付いた。液晶画面に表示されたメッセージの発信元は、統合情報局第1部長の私用携帯だった。
『今夜、空いていますか』
美紗は、はっと周囲を見回した。一緒に食事に行くらしい数人が、連れ立って更衣室を出て行くところだった。
彼女らがいなくなると、部屋は無音になった。
美紗は、もう一度、携帯端末を食い入るように見つめた。
日垣がこのような文面を送ってくるのは、初めてだった。しかも、金曜日でもない日に……。
取りあえず、時間が取れる旨だけを書いた。メッセージを送信したのと同時に、更衣室のドアが開いた。
「あ、鈴置さんだ。いいところにぃ」
紅葉したモミジのような色の上下を着た女が入ってきた。第8部所属の大須賀恵だ。彼女に続き、やや背の高いパンツスーツ姿の女性職員も戸口に顔を覗かせる。
「鈴置さんに聞けば分かるかも。さっき話した奴、彼女のトコにいるから」
大須賀が同僚のほうに振り返った隙に、美紗は急いで携帯端末を鞄にしまった。
「ねえ、鈴置さんの隣の席にいる丸っこい海の人、もしかして、ちょっと変?」
「……小坂3佐のことですか?」
つい名前を出してしまってから、美紗は気まずそうに下を向いた。しかし、大須賀のほうは、いかにも期待通りの返事がきたという顔で、楽しそうに笑った。
「なんかさあ、あの人、最近よくうちの部に来るのよお。某国の内政危機の時からかなあ」
「小坂3佐はその事案をまとめて調整してたので、その関係だと……」
「でもその話、もうとっくに終わってるし」
近隣の某大国が政情不安に陥ったのを受けて情報局内が慌ただしくなったのは、夏の終わり頃だった。その当時、某大国を所掌する第4部との連絡調整を担当していた小坂3等海佐は、当該事案に限り、すべての地域担当部との連携を図るまとめ役をも担っていた。
しかし、さほど大事にはならずに、事態は一か月ほどで終息している。当の小坂も、大役から解放されてすでに久しい。
「小坂3佐、だっけ? あの人、普段は4部だけ見てるんでしょ? 何でまだうちのトコに出没するわけ?」
「そうなんですか? 今は、8部の所掌はすべて片桐1尉の担当に戻っているはずなんですけど……」
大須賀と一緒に美紗が怪訝そうに首をかしげると、傍にいたパンツスーツの女が目を細めて忍び笑いをした。
「大須賀さん見るのが目的なんじゃない? 前に食事に誘ってきたのって、その人なんでしょ?」
「でもアタシ、その時ちゃんと言ったんだよお。『アンタ好みじゃない』って」
「面と向かって、はっきり?」
「うん」
大須賀がふざけて威張ったポーズを取ると、ボタンを閉めた上着から豊かな胸がはみ出しそうになった。
「大須賀さんの好みって、どんな人なの?」
「アタシの好みぃ? それはねえ、もうねえ、1部長の日垣1佐!」
スーツと同じ紅い色をした口が、嬉しそうに横に広がる。
「1部長……って。まあ、確かにね、カッコイイかもしれないけど。でも、1佐じゃ四十過ぎてない? おじさんじゃん」
「オトコは若さじゃない! シブさよ、シブさ!」
「マジでー? 信じらんない!」
遠慮なく笑う同僚に、大須賀は口を尖らせて食ってかかった。美紗は、騒々しくオトコ談義を始めた二人の目につかないように、そっと更衣室から退散した。
同じ日の夜、美紗と日垣は、いつもの夜景が見える席に相対して座っていた。ほの暗い店の一番奥で、他の客の視線から逃れるかのようにひっそりと語り合う二つの人影を、テーブルの端に置かれたキャンドルの光が、ぼんやりと照らしていた。
「美紗」
耳に心地よい低い声が、下の名前を呼んだ。
「今日は、誕生日だったね」
日垣は、赤いリボンのかかった細長い銀色の箱を、マティーニのグラスの脇に置いた。
「どうして、ご存じなんですか?」
「情報収集は私の専門だよ。いや、この場合は越権行為と言うべきかな」
日垣はすまし顔で答えた。人事課を管理下に置く統合情報局第1部長には、局内に勤務するすべての職員の個人情報に自由にアクセスする権限がある。そのことに思い至った美紗は、苦笑しながら箱を開けた。
中には、控えめなデザインのネックレスが入っていた。プラチナの細いチェーンに、光の加減でピンク色にもオレンジ色にも見えるペンダントヘッドがついている。
「こういうのは、正直言って、全然分からなくて」
そう言って、日垣は目を伏せ、前髪をかき上げた。美紗は、息を飲んで箱の中を見つめた。人からアクセサリーをもらうのは、初めてだった。
「月ごとに『誕生石』というものがあるとは、この歳になって初めて知ったよ。店の人に、十一月の誕生石はトパーズという石だと教えてもらって、これにしたんだ。どうかな」
美紗は、ためらいがちにネックレスを箱から取り出し、手のひらに載せた。頭上のペンダントライトからの光を浴びた石が、可憐な色をいっそう輝かせた。
警告めいた、あの青く鋭い光とは違う
心を惑わす、あの紺の深い光とは違う
温かな、心安らぐ色をした、彼が選んだ石
「あの、ありがとうございます。今、着けても、いいですか?」
美紗は、柔らかな光が零れるような笑顔を浮かべた。恐る恐る、華奢なチェーンの両端を持ち上げ、首の後ろで留め具を掛けると、胸元に恥ずかしそうに収まった小さな石は、ピンクとオレンジの二つの色を交互に煌めかせた。淋しげな印象だった顔回りが、少しだけ華やかになった。
日垣は、再び前髪をかき上げて、安堵したように微笑んだ。そして、「職場には着けてきてはだめだ」と言った。
「どうしてですか?」
「君がそれを身に着けているのを見て冷静でいられるほど、私はできた人間じゃない」
美紗が意外そうな顔を向けると、日垣は照れくさそうに視線を逸らした。
「情報畑の人間は、なんだかんだ言って皆、観察力があるし、些細なことから結論を導き出すのが得意だ。特に、松永は勘がいいから」
「あ、そうですね。きっと……」
二人は声を忍ばせて笑った。
美紗は、日垣との約束を守らなかった。
朝起きて顔を洗うとすぐに、ピンクとオレンジの二色に輝く石を身に着ける。それが、いつの間にか、習慣になっていた。
仕事がある日は、チェーンを長めにし、首元までボタンのあるブラウスを着て、彼からの贈り物が決して外から見えないようにした。服の下で誕生石が揺れると、彼の温もりを感じたような気がして、心地がよかった。
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