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第六章 ブルーラグーンの資格
青の幻想(2)
しおりを挟む「いつもの店」を出ると、涼しい夜風が吹いていた。
細道を抜け、四車線の大きな通りに出ると、にわかに視界が明るくなる。道に沿って立ち並ぶビルの窓は未だに煌々と光り、深夜にも関わらず、人通りは絶えない。
美紗と日垣は、タクシーが行きかう大通りを並んで渡り、高層ビルのすぐ手前にある脇道に入った。
ライトアップされた緑の遊歩道が都会の喧騒を徐々に遠ざけ、二つの足音は夜の木立に吸い込まれていく。
言葉少なに歩を進めながら、美紗は右隣の日垣を遠慮がちに見上げた。目線より少し上にある広い肩。彼の横顔が、穏やかな中にも精悍さを漂わせているように見えるのは、照明が作り出す夜の木漏れ日のせいなのか……。
やがて、二人は広いガーデンスペースへと導かれた。
「確かに、海の中にいるようだね」
一面に広がる青と紺色の合間のような色合いの光の水面を前にして、二人の足がほぼ同時に止まった。
少しの間を置いて、日垣がゆっくりと青一色の中へと近づいていく。その後を、美紗は黙ってついて行った。
夜の闇の中、青く映し出された彼のシルエットは、背広姿にも関わらず、濃紺の制服を着ている昼間と同じように、姿勢よく引き締まって見えた。見慣れているはずの背中に、突然、衝動的な何かを感じて、美紗は慌てて足元に視線を落とした。
アスファルトの上に、彼の影がぼんやりと映っている。それを追って後ろを見やると、自分の影が、彼のそれと交わることなく、ただ長く伸びていた。
並行に並ぶ二つの影は、美紗と日垣の関係を象徴しているかのようだった。
二人の未来は、決して交わらない
共通の未来が、あってはならない
突然、美紗は息苦しいほどの動悸に襲われた。青い光に責め立てられ、貫かれているような気がした。息を吸うたびに、胸に痛みが走る。
共通の未来なんか、いらない
あの人に未来なんて求めない
ただ一瞬だけ、許されるなら――
気が狂うほど煌めく青い海の中で、美紗は苦しげに吐息を漏らした。
その一瞬を願うことすら、罪深いと分かっている。せめぎ合う思いに、どうしようもなく混乱する。
無意識のうちに、足が止まっていた。やや冷たく感じる秋の風が、体の中を吹き抜けていく。
美紗の気配が離れたことに気付いた日垣は、青い光の中で振り返った。
「この時間になると、さすがに冷えるね」
日垣は、着ていたスーツの上着を脱ぎながら美紗のほうへ歩み寄ると、それを華奢な肩にかけた。大きな上着は、夏物ながら、小柄な美紗にはかなり重く感じられた。襟元から、男物の整髪剤のツンとした匂いがした。
その上着の上から背中を軽くたたかれ、美紗は日垣と一緒に歩き出そうとした。足が、なぜか、思うように動かなかった。
上半身だけが前に出て転びそうになるのを、日垣が素早く抱き留めた。
「すみません。やっぱり少し……飲みすぎてしまって……」
美紗は見え透いた嘘をついた。アルコールを飲むようになってから、飲んだ後に体調が悪くなったことなど一度もなかった。
酔いとは違う、激しい違和感。
息をするのさえ辛く、両足の感覚がどんどん消えていくようだった。美紗の体を支える太く逞しい腕が、理性的なものを急速に奪っていった。
私はずっと、こんなふうにされたいと思ってたんだ
そのことを自覚してはならないと、この一年ほどの間、無意識に自分を抑えてきた。でも、たぶん、もうだめだ……。
美紗は、鈍く痛み続ける胸を手で押さえた。
小さなベンチを見つけた日垣は、美紗を半分抱きかかえるようにして、そこへ連れて行った。崩れるように座り込んだ美紗は、彼の腕の中で、ただ震えていた。
「寄り道するには、少し時間が遅すぎたね」
日垣は、申し訳なさそうに言うと、Yシャツのポケットから携帯を出した。
「家まで送っていくから。タクシーには乗れそう?」
タクシー会社の番号を検索する手を、美紗は強く掴んだ。
私を帰さないで
今夜だけでいいから、一緒にいて――
息が詰まって、声が出なかった。気を失いそうなほど、苦しかった。
日垣は一瞬、切れ長の目に悲痛な色を浮かべた。そして、大きな手で美紗の頭をそっと撫で、小さな体を静かに寄せた。
******
「鈴置さん?」
日垣貴仁とは違う声に、美紗ははっと目を見開いた。
青一色のガーデンスペースの幻影が消え、薄暗い「いつもの席」の光景が浮き上がってきた。ついさっきまで感じていた冷たい夜風に代わり、懐かしさを感じさせる何かが、ふわりと身体を包む……。
それが静かな旋律の音楽であることに気付いた美紗は、マホガニー調に統一されたバーの店内をゆっくりと見回した。そして、正面に座る人影に恐る恐る視線を移した。
青年と少年の間のような顔をしたバーテンダーが、藍色の目で心配そうに美紗を覗き込んでいた。
「あ……」
一年半ほど前の追憶から醒めた美紗は、力が抜けたように大きく息をついた。
あの後、何があったのか、あまりよく覚えていない。
あの人の腕に支えられ、青い海を抜けた。自分を失う寸前に、彼に許しを求めた。
ずっと好きでいて、いいですか
ご迷惑はかけません……
あの人が何と答えたのかは、思い出せない。思い出せるのは、大きな骨ばった手のぬくもりと、下の名前をささやく耳に心地よい低い声。身体に触れる唇と厚い胸板。そして――。
しばしの空白の後、何かに深く満たされた心地で目覚めた時には、清らかな陽の光が射し込む、見知らぬ部屋にいた……。
美紗は、嗚咽とも呻きともつかぬ声を漏らした。あの夜の記憶を辿ろうとすると、青い光の中で立ち止まった時と同じような胸苦しさを覚えた。
未だに彼を求めてやまない想いと、激しい罪悪の念が、無秩序に絡み合い、襲いかかる。
「あの、大丈夫ですか?」
「……誰かを、悲しませてまで、日垣さんと一緒にいたかったわけじゃ、ない……」
美紗は、ブルーラグーンから顔を背けた。
「信じてはもらえないと、思うけど……」
「いえ、僕は……」
藍色の瞳が、美紗にかけるべき言葉を探して、宙をさまよう。
「日垣さんの家族は、離れていても、とても仲が良さそうで……。日垣さん、よくお子さんのこと、話してた。そういうのを、私が壊してしまうなんて、そんなこと、したくない。日垣さんが、大切にしているものは、私も大事にしたいから。ずっと、……ずっとそう思ってたのに」
好きな相手も、彼の周りの人たちも
きっと、不幸にしてしまう
それを承知で、好きになってしまった
それを承知で、想いを遂げてしまった
「だから私は、……誠実なんかじゃない」
涙を滲ませる美紗の目は、確かに、澄んでいた。征は、泣き出しそうな顔で、意を決したように口を開いた。
「僕みたいなのが何か言っても、何も知らないくせにって思われるだけかもしれないけど、僕は……、鈴置さんは、ブルーラグーンに相応しい女性だと、思います。その、……誠実っていうのは、嘘がなくて、真面目で、まっすぐってことでしょ? 鈴置さんは、そういう気持ちで日垣さんのこと好きになったんだし……。日垣さんは、たまたま家族がいる人だったけど、だけど……、誠実なのは本当だから」
美紗は何も答えなかった。テーブルの端に置かれたキャンドルホルダーの光だけが、沈黙の中で揺らめいた。
「ねえ、鈴置さん」
先ほどまでの、口下手な少年のようにもどかしい口調が、急に低く落ち着いたそれに変わる。窓に映るバーテンダーの横顔は、ゆっくりと物憂げな色を深めていった。
「この世の中、『べき論』だけでは片付けられないことが、たくさんあると思うんですよ。人を想う心なんてのは、まさにその筆頭じゃないですかね。貴女はまだお若いから、そういうのは認めたくないのかもしれませんが」
美紗は、バーテンダーの言葉を聞いているのかいないのか、ただ、ぽろぽろと涙を零した。
テーブルに置かれたままのブルーラグーンは、美紗と一緒に泣いているかのようにグラスに水滴をまとい、ペンダントライトの薄暗い光に、静かに照らされていた。
*ブルーラグーン
ウォッカベース/中口
アルコール度数 24度
カクテル言葉:「誠実な愛」
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