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第六章 ブルーラグーンの資格
交錯する思惑
しおりを挟む琥珀色のグラスが、ペンダントライトの灯りに照らされて、柔らかな光を放つ。それをもてあそびながら、日垣はクスリと笑った。
「松永が、ずいぶん喜んでいたよ」
マティーニのグラスに手を伸ばしかけた美紗は、ギクリと顔を上げた。和やかな眼差しが、いたずらっぽく見つめ返してきた。
「直轄チームで続投したいと言ったそうだね」
「ご存じだったんですか」
直属の上司である松永から事業企画課渉外班への異動を打診された美紗は、その場で「今の仕事を続けたい」と答えた。八嶋香織に自分の居場所を取られてしまうと思うと、堪らず正直な思いを口にしてしまった。
松永は、特に何の反応も見せず、「分かった」とだけ言うと、美紗をその場に残して自席に戻っていった。それから数日が過ぎたが、人事に関する話は特に聞いていない。
「……松永2佐は、きっと、困っていらっしゃると思います。私が余計な事を言ってしまったので」
「彼も素直じゃないな」
日垣はますます面白そうに目を細めた。
「佐伯に聞いた話では、松永は渉外班長に『うちの鈴置はやれない』と嬉々として回答したそうだよ」
「え、あの、では……」
「なんだかんだ言って、やはり松永自身が君を手放したくなかったんだろう」
大きな手が水割りのグラスをゆるりと動かすと、中の氷が軽やかな音をたてた。それを見ながら、美紗は泣きそうな笑顔を浮かべた。
「渉外の仕事も、やっておいて損はないよ。海外の関係機関との接触も多いし、直轄チームにいるより面白いかもしれない」
「私は、今のままで、いたいです」
日垣さんの傍に、いたいから
湧き起こる想いを、マティーニと共に飲み込んだ。ジンの強烈なアルコールが、喉を焼き、胸を焦がした。
「確かに、君は直轄チームに来てまだ一年余りだし、異動するには早すぎるだろうな。そもそも、今回の『席替え話』は、八嶋さんが私に直接ねじ込んで来たところから始まったんだ」
「どういうことですか?」
カクテルグラスをテーブルに戻す手が、わずかに震えた。耳に心地よい低い声が八嶋香織のことを語るのは、ひどく不快だった。それを顔に出すまいとするほど、胸の中に嫌悪感が広がる。
「コトの発端は、七月のフランス大使館のレセプションだ。会場で空幕副長(航空幕僚副長)が吉谷女史に声をかけたのを、八嶋さんが見ていたらしくてね」
日垣の話は、数日前に八嶋本人から聞いた内容とほぼ同じだった。美紗は、身じろぎもせず、黙っていた。すでに八嶋香織と刺々しく対峙したことは、言いたくなかった。
「八嶋さんは、年度が変わる頃から、異動を強く希望していたらしい。渉外班長も、彼女の行き先をいろいろと探してやっていたそうだ。ただ、この前の空幕(航空幕僚監部)の件に関しては、人選の余地もなかったから……」
テーブルの端に置かれたキャンドルホルダーが、水割りとマティーニをほの暗く照らす。
「……それでも、八嶋さんのほうは全く納得してくれなくてね。しまいには、『空幕がダメなら、直轄チームに入れてくれ』と言い出した。なぜ『直轄ジマ』がいいのか知らないが……。そこも当面は空かないと言ったんだが、それでも引き下がろうとしない」
日垣は、小さくため息をつくと、しかし急に、思い出したように口元をほころばせた。
「あまりにしつこいから、『どうしても直轄チームに行きたいなら、取りあえず直轄班長に自分で自分を売り込んでみろ』と言ったんだ」
「えっ……」
美紗は、前髪をかき上げて楽しそうに笑う日垣の顔を一瞬見つめ、急いで下を向いた。胸の中に、何かがうごめくような違和感を覚えた。それを抑えようと、透明なグラスの中に沈むオリーブに、無理やり視線を落ち着かせた。
直轄チームに限らず、多くの人員ポストは、陸海空及び事務官の別に管理され、そこに座る者の階級までもが大まかに指定されている。少なくとも、自衛官ポストに事務官が座ることはない。幹部職員である内局部員の席に勤続年数の浅い事務官が配置されるケースも有り得ない。
入省して五年弱の八嶋香織が、増員予定のない直轄チームのポストを得ようとすれば、必然的に、美紗の席を奪い取ることになる。
人事課を含む第1部の長である日垣が、それを承知していなかったはずはない。自身の手足として働くメンバーの一人が鈴置美紗から八嶋香織に入れ替わることなど、彼にとっては微々たる変化にすぎないのだろう。
ますます深くうつむく美紗に気を留めるふうでもなく、日垣は、椅子の背にゆったりと身を預け、再び水割りのグラスを揺らした。
「しかし、本当に売り込みに行くとはね。彼女の執念には驚かされるよ」
グラスと氷が触れ合う澄み透った音が、唇を引き結ぶ美紗の胸に刺さる。
彼に想われたいと、望んでは、いけない
想われないことを、悲しんでは、いけない
「まあ、松永は君の希望を優先するだろうと、初めから確信していたけどね」
美紗はびくりと体を震わせた。マティーニのグラスに付く水滴を見つめながら、続きの言葉に耳をそばだてた。
「松永は観察眼が鋭い。普段は八嶋さんとほとんど接触もないだろうが、それでも、彼女の思惑ぐらいは瞬時に見抜く」
笑顔のままの日垣は、しかし、その切れ長の目に冷ややかな光を浮かべていた。
「仕事そのものより己の立ち位置に意識が向きがちな人間は、能力的に優れていても、管理する側にとっては、使いづらい存在だ。八嶋さんは外資系企業に勤めていた経験があるらしいが、きっと、向こうの文化が悪い意味で身に沁みついているんだろう」
「向こう?」
「欧米では、自分の成果や積極性を最大限アピールして上司と『交渉』しながらキャリアアップを図る、というスタイルが主流だ。一見、合理的で、年若い者にはウケの良さそうなイメージだが、実際には弊害もそれなりに多いらしい」
「どうしてですか?」
「以前ワシントンに出張に行ったとき、DIA(米国防情報局)の管理職と話す機会があったんだが、『若い職員は実績も出さないうちからプロモーション(昇進)のことばかり口にする』とこぼしていたよ。自信があるのは結構だが、やはり、先立つものがないとね」
美紗は、航空幕僚監部に転属していった吉谷綾子のことを思い浮かべた。異動の直前、美紗に「もっと自信を持て」という言葉をくれた彼女は、間違いなく己に対する自信に満ちていた。
その大先輩と、「吉谷に負けない自信がある」というようなことを豪語していた八嶋香織は、確かに何かが違うような気がする。
「情報職は基本的には『一人一担当』のやり方だが、それでも、一人で仕事が完結するわけじゃない。直轄チームにいる君なら分かると思うが、一つの案件を複数で処理するケースは多いし、部をまたがって対応する場合もある」
「……そうですね」
「そもそも私たちの仕事は、他の部署や部外のユーザーの需要に応えられてこそ意義がある。自分の仕事を真摯にやって、幾ばくかでも関係者の役に立ち、周囲の信頼を得るのが、何より先だ。そういうのが積み上がって、初めて評価されるんだ。キャリアアップに有利だの不利だの、誰より上だの下だのと、そういうことにばかり気を取られていては、いい結果は出ない」
手厳しい言葉に、美紗は身を固くした。八嶋香織の思惑を完全に見透かしている日垣は、今、目の前に座る女の心の内に、気付いてはいないのだろうか。
本当は気付いていて、気付かないフリをしているの?
ずっと忘れていたことを、思い出す。日垣貴仁は、嘘と偽りの世界を長く経験している。そんな男が顔色一つ変えずに「気付かぬフリ」をすることなど、造作もないはずだ。
気付けば、拒絶しなければならないから、気付かないフリをしてるの?
用心深く生きることに長けた男の心を知ることは、とてもできない……。
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