上 下
63 / 84
第六章 ブルーラグーンの資格

飛び立つ蝶

しおりを挟む


 美紗がようやく吉谷綾子と面と向かって話ができたのは、その日の昼休みも終わろうかという頃だった。
 食事を終えて戻ってきたらしい吉谷を、美紗は第1部の部屋の入り口で捕まえた。

「異動のお話、もう決まってしまったんですか?」
「美紗ちゃん、ずいぶん『耳』がいいのね。まだ公になってない話なのに。誰から聞いたの? メグさん?」

 親しい後輩の名前を挙げた吉谷は、いつも通りの朗らかな顔をしていた。涼しげなアイボリー色のスーツが、人目を引く容姿によく似あっている。

「いえ、日垣1佐が……」
「あら、あの人、意外とおしゃべりなのね。私には『まだ喋るな』って言ってたくせに」
「断れなかったんですか?」

 美紗は眉根を寄せて、自分より十五センチほど背の高い相手の顔を見上げた。艶やかな大きな目が、不思議そうに見つめ返す。

「断る? なんで?」
「やり方が一方的だって聞いて……」

 吉谷は、周囲をちらりと見回すと、美紗を促して廊下に出た。少し歩き、人気ひとけの少ない建物の端のほうに移動した。

「さすが、1部長のおひざ元にいると詳しいのね。もしかして、日垣1佐と今の空幕副長の関係も知ってる?」

 美紗は唇を硬く引き結んで頷いた。
 上官の人間関係に巻き込まれた格好の吉谷は、選択の余地なく人事異動を受け入れたのか。それとも、日垣貴仁のために、敢えて空幕行きを選んだのか……。

「まあ、あの副長のことは、それなりに噂は聞くわね。我儘で強引らしいし。そういう人、たまにいるけど、はっきり分かりやすい分、私はあまり苦手じゃないかな。レセプションで話した時も、噂ほど悪い印象じゃなかったし。空幕くうばくにも知り合いは多いから、大丈夫よ」

 吉谷はいたずらっぽく笑った。そして、美紗のほうに顔を寄せ、声を低めた。

「それに、いつかは語学系の職に戻りたいなと思ってたしね。そういう関係の所に定時上がり前提で受け入れてもらえるなんて、好条件もいいところよ」
「前にいらした8部で、そういう配慮はしてもらえないものなんですか? 全く違うところに行くより、その方がやりやすいんじゃ……」

 美紗の遠慮がちな意見に、吉谷は肩をすくめてため息をついた。

「本音言うと、そうね。でも、専門官は緊急時に対応できないと存在価値が半減しちゃうし、そもそもポストがなかなか空かないのよ」

 地域担当部の専門官ポストには、自衛官と事務官が共に配置されているが、両者の人数枠は明確に分けられている。
 全国転勤が前提の自衛官のポストは数年おきに入れ替わるのが普通だが、事務官枠のほうはそうではない。語学系の職員として採用された事務官のうち情報局に配置された者は、一度も異動することなく各々の専門性を高め、やがて専門官のポストに就くのが通例だった。
 吉谷のように家庭の事情で別のキャリアを選択する人間も若干はいたが、専門官となった事務官の多くは、せっかく掴んだポストを手放そうとはしない。幹部自衛官とキャリア官僚が主役の防衛省内で、統合情報局の「専門官」には、それなりの処遇とステータスが与えられていたからである。


「近々に専門官ポストを増員するような話は全然聞かないし、事務官で専門官を希望する人は情報局外にもたくさんいるから、このまま待ってても、私が古巣に戻れる可能性はかなり低いのよね」

 そう言う吉谷の目は、しかし、活き活きと輝いていた。

「それよりは、一度空幕に行って将官連中に名前を売るほうが得策だと思って。大きな声じゃ言えないけど、幕の部長クラス以上にコネができれば、次の異動の時にかなり無理を聞いてもらえるのよ。空幕で四、五年働いて、子供がそれなりに大きくなった頃にでも、彼らのごり押しで統合情報局ここの専門官ポストにねじ込んでもらえれば、そのほうがかえって早道、ってわけ」
「そうですか……」

 美紗は赤面した顔を見られないように、慌てて下を向いた。日垣貴仁を軸にして物事を解釈していた自分が、ひどく愚か者に思えた。情報局の「主」と言われた彼女は、どこまでもレベルが違う。

 華麗な蝶が、あの人の元から飛び去って行く。
 その後には、飛び方を知らない哀れな蝶が、残される。


「美紗ちゃん」

 凛とした声が、美紗の名を呼んだ。

「専門官のポスト争い、結構熾烈だよ。美紗ちゃんも、5部あたりからお誘いが来たら、逃さずチャンスを掴んでね」
「いえ、私なんて、とても……」
「そういうの、あなたの良くないとこ。やれること全部やって、もしチャンスが来たらそれを遠慮なく活かす。それでいいじゃない。学歴も経歴も、関係ないでしょ」

 珍しく手厳しい言葉を口にした吉谷は、それでも、にこやかな笑顔を浮かべていた。緩くウェーブのかかった髪が、その表情をいっそう柔らかくしている。

「仕事でも何でも、自分のことだけ考えてやれる時期はあまりないんだから。つまんないことで遠慮したり物怖じしたりしてたら、もったいなくない?」

 美紗は、手を握りしめ、無言で頷いた。

 吉谷綾子は、どこまでも美紗の理想を体現する女性だった。未来の航空幕僚長と評される日垣貴仁の隣が似合っていた、完璧な存在。嫉妬の対象でもあった彼女は、それでも、フロアにその姿を見せるだけで、不思議な安心感を与えてくれた。
 その彼女が、いなくなってしまう……。

「別に、異動って言ったってさ、同じ建物の十三階から十六階に変わるだけだよ。何かあったら、内線一本ですぐこっちに来るから。今までみたいにランチしに行ったりしようよ」

 吉谷は、手に持っていたポーチからハンカチを取り出すと、うつむいたままの美紗に差し出した。

「そういえば、初めて話した時も、私、美紗ちゃんにハンカチ貸したよね。あれからもう一年近くなるけど、美紗ちゃん、ずいぶん堂々としてきたわよ。もっと自信持って」

 スラリとした美人顔が陽気に笑うと、無機質だった白い廊下に、きらびやかな蝶が舞っているかのような華やかさが広がった。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

職場のパートのおばさん

Rollman
恋愛
職場のパートのおばさんと…

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

彼女にも愛する人がいた

まるまる⭐️
恋愛
既に冷たくなった王妃を見つけたのは、彼女に食事を運んで来た侍女だった。 「宮廷医の見立てでは、王妃様の死因は餓死。然も彼が言うには、王妃様は亡くなってから既に2、3日は経過しているだろうとの事でした」 そう宰相から報告を受けた俺は、自分の耳を疑った。 餓死だと? この王宮で?  彼女は俺の従兄妹で隣国ジルハイムの王女だ。 俺の背中を嫌な汗が流れた。 では、亡くなってから今日まで、彼女がいない事に誰も気付きもしなかったと言うのか…? そんな馬鹿な…。信じられなかった。 だがそんな俺を他所に宰相は更に告げる。 「亡くなった王妃様は陛下の子を懐妊されておりました」と…。 彼女がこの国へ嫁いで来て2年。漸く子が出来た事をこんな形で知るなんて…。 俺はその報告に愕然とした。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

処理中です...