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第六章 ブルーラグーンの資格
不穏な動き(3)
しおりを挟む「日垣1佐、その噂、本当なんですか?」
「細かい話はまだ調整中だが、九月一日付けで空幕(航空幕僚監部)に行くのは決まりだ」
答える日垣の口調は、急に沈んだように聞こえた。
「ずいぶん、突然なんですね」
「副長の『ご指名』でね……」
美紗は床を拭く手を止めた。思っていた「噂」とは違っていが、予想だにしない人物の異動話は、純粋にショッキングだった。
言われてみれば、このひと月ほどの間、第1部長の日垣と吉谷綾子が人目をはばかるように話している姿を、頻繁に見かけたような気がした。親しい仲かもしれないなどと思っていたが、人事の話だったのだろうか……。
美紗が膝立ちになって机の影から顔だけを出すと、高峰が腕組みをして天井を見上げているのが目に入った。
「自分が余計なことを言ったせいですね。吉谷女史には悪いことをしてしまった」
「何かあったのか」
「先月、フランス大使館のレセプションがありましたでしょう? 独立記念日の祝賀行事の。その話を吉谷女史が総務課長と話しているところに、たまたま居合わせまして……」
高峰は、一か月半ほども前になる出来事を日垣にかいつまんで語った。
文書班長の吉谷は、フランス大使館に勤める古い友人から祝賀行事に招待され、それに出席したい旨を、上司である総務課長に話していた。第1部でも、外国人と接触する際には事前に上司の了解を取ることが望ましい、という不文律があるためだった。
総務課長は快諾したが、吉谷は浮かない顔をしていた。子供のいる彼女は、普段は、部下を残して早めに帰宅しなければならない身だ。「残業はできないが酒の席には参加できるのか」と陰口を叩く声もあるだろう。情報局一と言われる才女は、気心知れた人の良い上司に、そのようなことを遠慮がちにこぼしていた。
「うちで、あの吉谷女史にそういうことを言う輩がいますかね」
佐伯が身を伸ばして、第1部の部屋を見渡した。
「できる人間をやっかむ奴は、どこにでもいるからなあ。それに彼女は、8部で専門官になった時から『女性初』という肩書をずっと背負ってるから、これまでも、つまらん人間につまらんこと言われることもあったんじゃないかねえ」
情報局勤務の長い高峰の言葉を聞きながら、美紗は床に膝をついたまま、総務課のほうを見やった。
いつの間にか自席に戻っていた吉谷は、文書班先任の3等空佐と顔を寄せ合って、書類ファイルをめくりながら何か話していた。すでに、異動を見越して申し送りを始めているのかもしれない。
再び日垣のほうに向いた高峰は、「それで、なんだか彼女が気の毒になりましてね」と言って、申し訳なさそうにため息をついた。
「1部長のカミさん代理という名目で行くことにしたらどうか、などと二人に言ってしまったんですよ。『仕事』の体裁を取れば彼女は出やすいでしょうし、日垣1佐も……」
「因縁の相手と出くわした時に吉谷女史を隠れ蓑に使えて一石二鳥、というわけか」
「すみません。軽々しいことを……」
高峰は、己より六、七歳ほど年下の1等空佐に、白髪交じりの頭を下げた。「直轄ジマ」の面々が一様に不安げな顔になる。
しかし、日垣は照れくさそうに笑うばかりだった。
「そういえば、前にここでそんな話をしてたな。コトの発端は私の愚痴だから、気にしなくていい。実際、助かったのは確かだよ。現地では、副長は彼女とばかり話していたから」
「それで、吉谷女史を気に入って『うちに欲しい』という話になったわけですか」
やおら銀縁眼鏡を外した宮崎は、不快そうに目を細めた。
「権力者のセクハラか、それとも、二年前の嫌がらせの続きなんでしょうかね」
「そこまでの意図は、さすがにないと思うが……。あの副長もキレる人間には違いないんだ。吉谷女史の力量を瞬時に見抜いたんだろう」
「しかしですねえ」
と、佐伯が顔を曇らせた。
「彼女、子供だっていますでしょう? 幕勤務自体、無理なんじゃないですか? 副長の引き抜きなら、異動先は庶務室ですよね」
各幕僚監部の庶務室は、民間企業でいうところの秘書室に相当し、各自衛隊トップの幕僚長と幕僚監部次席である副長を、細々とした事務面で補佐する役どころである。庶務室に勤める人間は、二人の重鎮が在室している限り待機していなければならないため、必然的に勤務時間は不規則になってしまう。
「いや、今、総務部か運支部(運用支援・情報部)かで、詰めているところらしい。どちらにしても、今よりは彼女も本来の能力を活かせるだろう」
「対外広報か、在外公館にいる防駐官(防衛駐在官)の支援か、情報関連の仕事……ってとこですか。職務内容だけを見れば、確かに吉谷女史は適任ですが……」
「人事の話では、空幕側は、勤務形態については彼女の希望をすべて受け入れた上で、幹部相当のポストを用意するんだそうだ」
へえ、と一同は嘆息をもらした。
「一見、至れり尽くせりという感じですけど、有能な人材を取りあえず確保しようという魂胆が見え見えですよ。究極のトップダウンじゃないですか」
ベテラン勢の話にようやく口を挟んだ小坂は、先ほどまでの騒ぎようとはうって変わって、静かに怒りを滲ませていた。
「副長はともかく、今の総務部長と運支部長は人徳のある人間だから、どちらかの管理下にあるなら、吉谷女史も悪い扱いは受けないと思う。私も二人とは面識があるから、内々に頼んでおくが……」
言いかけて日垣は、机の上に顔だけ出した格好の美紗に視線を向けた。
「そっちは、任務完了?」
すっかりコーヒー色になってしまった雑巾を握りしめていた美紗は、慌てて「はい」とだけ答えて立ち上がった。穏やかに笑い返す彼の眼差しは、やはり、わずかに暗く陰っていた。
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