カクテルの紡ぐ恋歌(うた)

弦巻耀

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第六章 ブルーラグーンの資格

不穏な動き(1)

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 盆休みの週が終わると、欠員二名の直轄チームは早速、慌ただしい雰囲気に包まれた。班長の松永2等陸佐が予言したとおり、上層部からの報告案件がいくつか舞い込んだ上、近隣の某大国に政情不安の兆候が見られ始めたからだ。


「松永2佐、実は一番お得な時期に休み取ったんじゃないですかね」

 問題の某大国に関する連絡調整を担うことになった小坂は、当該国の情報分析に携わる第4部から提供された厚めの資料に目を通しながら、一人ブツブツとぼやいた。その隣に座る宮崎は、うんざり顔の3等海佐の相手をする暇もなく、内線電話の受話器を耳と肩の間に挟んで、器用に書類をめくりつつメモを取っている。

「結果的にそうなった感じだねえ。確かに、今の段階では、まだ休暇中の人間を呼び出すほどでもないし」

 小坂に同意する高峰も、いつもは口ひげを触ることの多い手を、パソコンのキーボードの上で忙しく動かしていた。

「今頃、松永2佐、某国の大統領に電話してるんじゃないですか? 『自分の休暇が終わるまで武力衝突は待ってくれ』って」
「きっちり休んだヒトは、文句言わずに働きましょう」

 班長代理を務める先任の佐伯が、幼稚園の先生を思わせるような口調で小坂をたしなめる。それが可笑しくて、美紗はついクスリと笑った。
 小さな吐息程度の声に、在席する四人がほぼ同時に反応した。

「鈴置さん。なんか、ずいぶん元気になったみたいだね」
「夏バテだったんだって? もう具合はいいの?」

 美紗はギクリと顔を強張らせた。「直轄ジマ」の幹部たちは、どんなに忙しくても、仲間に気を配ることを忘れない。寡黙だった富澤が騒がしい小坂に入れ替わっても、それは変わらなかった。
 ありがたい反面、油断ならないともいえる。またあの店に行ける、という嬉しさに心が弾むのを、周囲に気取られるわけにはいかない。

 内心冷や汗をかきつつ、美紗は「おかげ様で……」と何とか返した。続く言葉を探しあぐねていると、美紗を呼ぶ女の声が聞こえた。

「美紗ちゃん、忙しいところごめん」

「あっ、大須賀さん。いらっしゃーい」

 美紗が応答するより早く、さっきまで仏頂面だった小坂が、満面の笑顔で第8部所属の大須賀恵に話しかけた。大須賀は、濃い化粧をした顔をわずかに歪ませ、「どうも」と不愛想な会釈を返すと、再び美紗のほうに視線を向けた。

「今日、吉谷さん来てる?」
「いらしてますよ」

 美紗が振り返って総務課のほうを見ると、文書班長の吉谷綾子の姿はなかった。

「今たまたま席空けなんだと思いますけど……。吉谷さん見かけたら連絡します」
「あ、いいよ。個人的な用だし。お仕事の邪魔してごめん」

 大須賀は手を振って美紗の厚意を断った。相変わらずボリュームのある胸が存在感を主張しているが、口調には普段の賑やかさが全くない。ご執心の第1部長の話題を持ち出すこともなく、あっさり部屋から出て行ってしまった。

 ちょうど電話を終えた宮崎は、大須賀のグラマーな後姿を見やり、ドアの自動ロックがかかる音を確認すると、受話器を置いて小坂のほうに身体を寄せた。

「ああいう目立つタイプは、気を付けないと」
「大須賀さんのこと? 何でです?」
「前に片桐1尉も言ってたけど、あの人は立ってるだけで目立つから、うかつに接触するとすぐ噂になる」
「あっはあ、確かに狭いトコですれ違おうとしたら、うっかり『接触事故』を起こしそうだ」

 下品な想像をした小坂は、だらしなく目を細めた。パソコンのモニター画面の向こうで高峰が咳払いをすると、宮崎のほうが首をすぼめて声を落とした。

「真面目な話だって。ここは部隊と違って女の人多いから、そういう噂はあっという間に広がるし、1佐クラスの耳に入ると後々面倒だよ」
「ここ、噂だけでアウトなんですか?」
「そこまでじゃないけど。たぶん、他のコと付き合えなくなる」

 三十代前半の男二人のひそひそ話を聞きながら、美紗は、十日ほど前に聞いた不快な噂のことを思い出した。

 美紗より数歳年上の八嶋香織が第1部長に抱きついた、という根も葉もない話を持ってきたのは、先ほど「直轄ジマ」に顔を出した大須賀だったが、片桐と宮崎も以前にその話題を口にしていた気がする。確か、「目立つと周りが迷惑」というようなことを言っていた。
 てっきり、八嶋香織の話だと思っていたが、彼らの話題の対象は八嶋ではなかったのか……。

 その後、事実無根の噂はどうなったのだろう。日垣はすでに、不愉快極まりないであろうその話を、情報局内で耳にしたのだろうか。八嶋は、エレベーターホールで涙ながらに日垣に話そうとしていたことを、すでに彼に伝えているのだろうか。


 美紗は、小坂から頼まれていたブリーフィング用資料のチェック作業を中断し、少し腰を浮かせて背後を見やった。
 八嶋が所属する事業企画課では、大半の人間が出勤しているようだったが、当の彼女の姿は見当たらなかった。

 美紗は、少し迷って席を立ち、総務課の所まで歩いて行った。

 総務課の近くには、第1部に複数台置いてあるコーヒーメーカーの一つがある。美紗はそこで、備え付けの使い捨てコップをひとつ取り、コーヒーを注いだ。
 エアコンのよく効いた部屋に、熱いコーヒーの湯気が立ち上る。それを眺め、そして、ためらいがちに、八嶋の席がある方向を見た。オフィスのほぼ中央に位置する総務課からは、「直轄ジマ」とは正反対の場所にある事業企画課の様子がよく見えた。

 八嶋香織の席は小ぎれいに片付いていた。パソコンの液晶モニターには、お手製らしいカバーまでかけてある。夏季休暇中なのだろう、と美紗は思った。理由もなく、ほっとした。


 美紗がコーヒーを持って自席に戻ると、指揮幕僚ばくりょう課程の選抜試験のため不在にしている片桐1等空尉の席に、第1部長の日垣が座っていた。

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