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第五章 ブルーラグーンの戸惑い
新人のバーテンダー(2)
しおりを挟む一か月ほど前に、高層ビルの裏手で見た、青い光の海と同じ色だ。青と紺の間のような色合いが、そのままグラスの中に広がっている。小さな泡は、輝くイルミネーションのようだ。
「ウォッカがベースのカクテルに、ソーダを足して清涼感を増してみました。『青い礁湖』というからには、本来はコバルトブルーのような色になるべきなのですが、貴女さまには、より濃い青のほうがお似合いかと思いまして、ブルーキュラソーを少し多めに入れております」
バーテンダーは無機質な口調で語ったが、セリフ自体はなかなか気取っている。聞いている美紗のほうが、気恥ずかしくなってほんのりと頬を染めた。自分をイメージしてカクテルを作ってもらうのは、初めての体験だった。
「あの……、ありがとうございます」
「お口に合うとよろしいのですが」
客の狼狽振りなど全くお構いなしで、バーテンダーは、ゆったりと一礼した。
美紗は、恐る恐るグラスの脚に触れると、吸い込まれそうなほどに色鮮やかな青いカクテルを、じっと見つめた。
「きれいな……色ですね」
バーテンダーがようやく微かな笑みを見せる。美紗はグラスに静かに口を付けた。爽やかな柑橘系の香りに包まれる。レモンの酸味と苦味が炭酸の泡とともにはじけ、それが過ぎると、心地よい甘酸っぱさが口の中に広がっていった。
美紗はもう一口飲んで、カクテルグラスをゆっくりとテーブルに置いた。
改めてその中を見ると、イルミネーションで出来たあの青い海の一部が、切り取られて、そこにあるような錯覚を覚えた。
一面に広がる青と紺の間のような色合いの光が、自分に問いかけるかのように、冷徹な美しさを放っていたことを思い出す。
心の中で想うだけ、決して伝えずに想うだけ
貴女にそれができるのか
あの人の傍にいるためなら、できると、思っていた。
傍にいられるなら、自分の想いを隠すことなど大した問題ではないと、思い違いをしていた。好きになってはならない人を黙って想うことが、これほど苦しいとは、想像もしていなかった。
「すみません。そんなに不味かったですか」
ぼそりとした声に、美紗は驚いて顔を上げた。バーテンダーが怪訝そうに美紗を凝視していた。
「いいえ! ……とても美味しいです。どうしてそんな……」
「泣くほど不味いのかと」
言われて、美紗は顔に手をやった。両方の目から、涙がこぼれていた。
「ごめんなさい。……もう、ここには、来られないかもしれないと思って……」
「お引越しなさるのですか?」
美紗はうつむいたまま、頭を横に振った。
「当店で、何かお気に召さないことがございましたか」
物腰柔らかなバーテンダーは、しかし、ビジネスライクな口調で矢継ぎ早に問いかけてくる。
「私はきっと、……邪魔だから」
「そのようなことは、ございませんよ」
美紗は、再び頭を振り、耐えかねたように言葉を吐き出した。
「少し前まで、私と一緒に、ここに来ていた人が、いたんです。でも、その人が本当に連れて来たいのは、私じゃないかもしれないと、思って」
カウンターを挟んで真向かいに立つバーテンダーにようやく聞こえるほどの小さな声は、感情を抑えきれずに震えていた。
「私は、その人の、迷惑になりそうだから……」
「ずいぶん、お優しい、というか、及び腰なんですね」
柔らかみのある声が、不躾な言葉で美紗の心をえぐる。「接客に慣れていない」というマスターの評は、やはり間違いないらしい。
美紗はカクテルグラスから離した手をぎゅっと握りしめた。目の前にある青いカクテルが滲み、青と紺の合間のような色が、ぼんやりと広がっていく。
心の中で想うだけ、決して伝えずに想うだけ
想われることもなく、気付かれることすらなく
やがて、遠くなり、忘れられる
「身を引いてしまって、貴女はそれで、よろしいのですか」
美紗は、肩までかかる黒髪をわずかに揺らした。遠慮のない問いかけは、日垣に食ってかかるように話していた女性職員を彷彿とさせた。
想う相手より、相手を想う己のほうを大切にしているであろう八嶋香織。あんな人に、彼を奪われてしまう。相手の体面に配慮することもできない女のために、大切な「隠れ家」を失ってしまう。
しかし、沈黙を守ると決意した美紗には、なす術がない。
「身を引く……というより、初めから、そんな関係じゃ、ないんです。その人とは、時々ここで、お話をして、それだけだったから」
「それ以上は望んでいらっしゃらないのですね」
「……ここで会えるだけで、良かったから。そうじゃなきゃ、いけないから」
美紗の目から、またぽろぽろと涙が落ちた。日垣に連れられて、初めてこの店に来た時のことが思い出された。あの時も、涙を隠さずに泣いた。彼は、小さな嗚咽が聞こえなくまるまで、ずっと待っていてくれた。
優しい沈黙をくれた彼が、耐えがたく恋しい。
「一緒にいたいけど、でも、私からは……言えないんです。その人は、私よりずっと年上だし、それに……」
「お相手が年上の方なら、その方に甘えてしまえばよろしいではありませんか」
意外な言葉に、美紗は思わず涙顔を上げた。
黒髪をオールバックにしたバーテンダーは、ブルーラグーンの解説をしていた時とはうって変わって、ひどく優しげな笑みを浮かべていた。
冷淡な印象だったはずの目が、柔らかい光に満ちている。頭上のペンダントライトの灯りのせいなのか、その瞳がなぜか、カクテルの色と同じような藍色に見える。
「人と人との関係のあり方は、千差万別です。どこまで許されて、どこから禁じられるのか、その線引きも、人によって様々です。お若い貴女には、それが不誠実に感じられるかもしれませんが」
美紗は、藍色の瞳を見つめたまま、黙っていた。既婚の日垣貴仁がいつもの席で自分と向かい合うことは、不誠実なのだろうか。
そうすることになったきっかけは、社会的倫理を云々する範疇の外にあったと信じている。彼は、気の弱い部下に一時的に手を差し伸べただけだ。美紗に帰る場所がないことを知り、ささやかな安らぎの空間を提供しただけだ。美紗の想いを知らない彼にとって、その行為は誠実の範囲内にあるのだろう。
しかし、八嶋香織という女が登場したことで、彼の「線引き」の位置はどう変わるのか……。
「人生経験の豊かな人は、身の振り方も、引き際も、心得ています。良識のある者なら、相手を尊重することも忘れないでしょう。互いの許容の範囲を超えないよう心を配り、至らない若い相手を傷つけることなく諫め、適切に導いていくことができるものです」
淀みなく語るバーテンダーの声は、いつの間にか、不思議な温かみに溢れていた。その口調に、美紗は覚えがあった。確信に満ちていながら、控えめで落ち着いた話し方が、少しだけ、あの人に似ている……。
「貴女は、そのお方の『一番の存在』になることを望んでおられるのですか?」
美紗は、透き通った青いカクテルに目を落とした。そして、「いいえ」と答えた。一番には、決してなり得ない。それは、八嶋香織も同じだろう。
八嶋のように、決して手に入らないものを無理矢理に得ようともがくより、あの人の優しい笑顔を遠くから見ているだけのほうがいい。
「貴女のお相手が、疑う余地なく信頼に値するお人だとお思いなら、その方の価値観に、ご自身を委ねてみてはいかがですか」
「委ねるって、でも、どうやって……」
「貴女の意思を言葉にすることに抵抗があるのでしたら、いつもの曜日、いつもの時間帯に、こちらにお越しになればいいのです。ただそれだけで、察しの良い方なら、お気付きになるでしょう」
カクテルグラスの中で、青と紺の合間のような色が、さざめくように光る。
「限りある時間を、後悔のないように、お過ごしになってください」
限りある、時間
あまりにも明白でありながら、実感し難いその事実に、美紗は息を飲んだ。
「知って、いらしたんですか。私と、日垣さ……」
新人と紹介されたバーテンダーは、穏やかな笑顔を消し、美紗の言葉を遮った。
「貴女は、何にも怯えることなく、お相手の方を、これまで通りに、大事になさればいい。年上のその方が、貴女を守り、きっと好ましい方向へ導いてくれますよ。それに、貴女自身、何を望まなければ、最後までお二人の時間を大切にできるのか、もうすでに、ご存じなのでしょう?」
無表情な藍色の瞳が、じっと美紗を、見据えていた。
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