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第五章 ブルーラグーンの戸惑い
新人のバーテンダー(1)
しおりを挟むいつもの店は、ひと月前と変わりなく、マホガニーの色に統一された空間と静かに流れる音楽が「馴染みの隠れ家」を演出していた。
L字型の大きなカウンターの向こうに、ようやく灯りがつき始めた夕暮れの街並みが広がっている。見慣れた夜景とは少し趣が違うが、それはそれで美しい景色だった。
入り口で立ち尽くしている美紗に、灰色の髪をオールバックにまとめたバーテンダー姿の男が、話しかけてきた。
「いらっしゃいませ。おや、鈴置さん。しばらくぶりですね」
にこやかな笑顔ながらベテランの貫禄に満ちているマスターに、美紗は会釈だけを返し、下を向いた。
「カウンター席でよろしいですか?」
「……はい」
マスターに導かれて店内に入った美紗は、歩きながらそっと周囲を見まわした。まだ時間が早いせいか、それとも盆休みの直前だからなのか、客は数人しかいない。一番奥にある「いつもの席」も空いているようだった。
マスターは、眺めの良いカウンター席に美紗を案内すると、水の入ったタンブラーをすすめた。
「毎日こう暑いと、体にこたえますでしょう。夏バテは大丈夫ですか?」
美紗は「まだ、何とか……」と答えながら、早速タンブラーに手を伸ばした。水を口に含んで初めて、喉がカラカラに乾いていたことに気付いた。
「それは何よりです。さすが、お若いですね」
マスターは、カクテルメニューをカウンターに置くと、おもむろにショットグラスを磨き始めた。
「あの……」
言いかけて、美紗は口を閉じた。マスターなら、聞きたいことの答えを、おそらく知っているだろう。しかし、品性に欠けるその質問を口にするのは、やはりはばかられた。
日垣や吉谷のように人生経験が豊かであれば、暮れゆく都会の景色を眺めながらスマートに探りを入れることもできるのだろうが、若い美紗はそんな術など持ち合わせてはいない。
ひとしきりグラスを磨いたマスターは、それを照明にかざし、輝き具合をチェックした。
そして、やおら口を開いた。
「日垣さんの読みは外れたようですね。珍しいこともあるものです」
「ヨミ?」
「日垣さんは、このひと月ほど、おひとりでいらしてましたが、先週でしたかな、言っておられたんですよ。鈴置さんは新しい『隠れ家』を見つけたんだろう、って」
美紗は、不思議そうにマスターを見た。隠れ家と思う所は、このバーだけだ。あの人に連れられて来たこの場所は、ひとり自宅にいる時よりも、なぜか心が落ち着く。
「自分の役目は終わったらしい、とおっしゃっていましたね」
「役目、ってどういう……」
「さあ、詳しいことは存じませんが、日垣さん、安心したような、少し寂しそうな、お顔をしていましたよ」
六十代とおぼしきマスターは、目を細めてクスリと笑った。そして、美紗が更に何かを問う前に、カウンターの上に置かれたままのカクテルメニューを指し示した。
「今日も、『いつもの』ですか?」
頷こうとして、ためらった。今夜は、マティーニのカクテルグラスだけが独りぼっちで佇むのを見るのは、なんだか、辛い。
「今日は、別のものを……」
「何にいたしましょう?」
問われて、カタカナが並ぶメニューを開いても、マティーニの代わりを急に選ぶことはできなかった。
「私どもに『お任せ』というオーダーの仕方もありますよ。ベースとなるお酒の種類や味のお好みをおっしゃっていただければ、お客様に合いそうなものをお作りいたします」
沈黙したままの美紗に、マスターは優しげにそう言うと、「少しお待ちを」と軽く頭を下げた。そして、カウンターの外に出て、店の奥へと歩いていった。
その姿を横目に見ながら、美紗は大きく息をついた。八嶋香織は、少なくともこの一か月、この店に来てはいないらしい。妙な安心感で、体の力が抜けそうになった。
マスタ―は、三十代前半と思しき年齢のバーテンダーを連れて、カウンターに戻ってきた。
「鈴置さん。こちらは、最近うちで働き始めた新人でしてね」
マスターに続いて、物腰の柔らかな声が「初めまして」と美紗に挨拶した。
さほど背の高くないマスターの横に立つバーテンダーは、相対的にかなり上背があるように見えた。黒々とした髪を、マスター同様にオールバックにしている。しかし、目鼻立ちが地味なせいか、どこにでもいるサラリーマンのような印象を受ける。
「カクテル作りの腕は保証します。ただ、彼はまだ、お客様とのやり取りに少々不慣れでございましてね。お嫌でなければ、彼の修行にお付き合い願えませんか? お代は店が持ちますので」
マスターの言葉に、美紗は当惑の表情を浮かべた。この店に頻繁に通うようになって一年近くになるが、店の人たちと話をするのは、いつも日垣だった。一人で訪れた時も、声をかけてくれるマスターとわずかに言葉を交わす程度だ。カウンターを挟んでのトークに不慣れなのはこちらのほうなのに、と思った。
しかし、マスターは、新人のバーテンダーに微かに目くばせをすると、店の入り口に顔をのぞかせた新しい客のところへと行ってしまった。
渋みのあるマスターに比べるとこれといった特徴もない印象のバーテンダーは、優雅な動作で、「よろしくお願いします」と一礼した。洗練された雰囲気はあるものの、顔も声も表情に乏しく、そっけない感じすらする。
「マティーニを、よくお飲みになるんだそうですね」
「え? あ、はい」
「では、ベースはジンがよろしいですか?」
「いえ、何でも……。あの、さっき来るとき、暑かったので、えっと、すっきりした味のものが、いいです」
「柑橘系にいたしましょうか。レモンの風味では……」
「あ、それで、お願いします」
接客に不慣れな新人という割には特に緊張している風でもないバーテンダーに、美紗のほうが急かされるように答えていく。
「アルコールは、少し強くても大丈夫ですね」
「……」
美紗は一瞬言い淀み、そして恥ずかしそうに頷いた。カクテルの中でもアルコール度数の高い部類に入るマティーニを、店に来るたびに飲んでいるのだから、「酒豪」と解釈されても当然かもしれない。
バーテンダーは、身を小さくする美紗に背を向けると、まだ紫色が残る夕空を背にずらりと並んだ瓶の中から、迷うことなく二つを選んだ。正面に向きなおると、今度は何かを切り、それを絞っているらしい仕草をする。
美紗は、彼の手元を見ようと少し伸びあがってみたが、座の高い椅子から転げ落ちそうな気がして、カウンターの向こう側を覗くのは諦めた。
やがて、バーテンダーは、照明の光を受けて煌めくシェイカーを構え、いかにも慣れた様子でそれを振り始めた。
リズミカルな音と、銀色の鋭い光が、カウンターの中で軽快に踊る。
十五秒ほどして、シェイカーの動きが止んだ。美紗の目の前に細身のグラスが置かれ、その中へ、透き通った青い液体が静かに注がれる。
カクテルグラスの半分ほどが青で満たされると、バーテンダーはさらに、小さく煌めく光を含んだ無色透明の液体を注ぎ入れた。
「ブルーラグーンです」
美紗は息を飲んだ。幻想的なその色には、見覚えがあった。
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