上 下
52 / 84
第五章 ブルーラグーンの戸惑い

新たな女(1)

しおりを挟む
 


 その週の木曜日の夕方、東南アジア全域の情勢分析を担う第5部のミーティングに顔を出した美紗は、会議が終わった後も、所属部の専門官たちとしばらく話し込んだ。

 年度初めに第5部を一人で担当するようになってから四カ月以上が経ち、調整先との人間関係もそれなりにできていた。
 所掌範囲を勉強中の美紗に、第5部の人間は快く専門分野の知識を教えてくれる。その見返りに、美紗の側は、第1部で仕入れた人事の噂や事業計画に関わる情報を「オフレコ」で提供した。
 そのような「持ちつ持たれつ」のやり方を教えてくれたのは、第1部長の日垣貴仁だった。


 美紗がようやく調整先を後にしたのは、六時も過ぎてからだった。一つ上の階にある第1部に戻ろうと階段を上がってきたところで、頭上から、やや甲高い女の声が聞こえてきた。

「どうして私じゃダメなんですか」

 ひどく感情的な物言いに、反射的に足が止まる。

 あまり聞きなれない声。吉谷綾子ではない。すべてにおいて洗練されている大先輩は、間違っても、職場で声を張り上げるようなことはしない。

「……そういう問題じゃない。今回は――だ。君は何か誤解……」

 相手の男の言葉は、低くくぐもっていて明瞭には聞こえない。しかし、声の主が日垣貴仁であることは分かる。

「年が若いからですか? 経験がないから? それで、ダメだって言われるんですか?」

 若そうな声が、1等空佐を相手に、無遠慮にまくしたてている。
 美紗は、足音を立てないように、残りの階段をそっと上り、エレベーターホールにつながる階段出口にたどり着くと、そこからわずかに顔を出した。

 人気のない廊下で、地味な紺色のワンピースにカーディガンを羽織った女が、日垣の行く手を遮るように立っていた。

 八嶋香織だ。

 美紗は息を飲んで、壁際に身を隠した。以前、吉谷や大須賀に啖呵を切った八嶋が、日垣に何か抗議している。日垣のほうも言葉を返すが、女の声ばかりがエレベーターホールに反響し、会話の流れはあまりつかめない。

「吉谷さんのほうがいいなんて、あの人は……。そんなの、納得できません!」
「良い悪いという話では……」

 美紗は、手にしていた書類ファイルをぎゅっと抱きしめた。以前、大須賀が奇妙なことを言っていたのを、急に思い出した。


『……八嶋さん、実は自分が日垣1佐を狙ってたりとか!』


 まさか、こんなところで、告白……?


 それにしては険悪な空気だ。告白、というよりは、すでにそれなりの関係にある二人の人間の口論、というほうが近いかもしれない。

「理由を教えてください。私が至らないところは努力します」
「だから、そういうことじゃないんだ。それに今更……」

 壁越しでは、日垣の低い声は切れ切れにしか聞こえない。美紗がもう一度顔を出そうとした時、エレベーターの到着を知らせるチャイムが鳴った。
 慌てて階段側に身体を引っ込めると、数人がエレベーターの中から出てくる靴音が聞こえた。その中の一人が日垣に話しかけている声がする。

 少しの間、男性二人のやり取りが聞こえ、やがて、複数の足音は第1部の部屋の中へと消えていった。

「八嶋さん、この件はまた後で」
「待ってください。最後まで聞いて……」
「悪いが、急ぎの話がある。後にしてくれ」

 日垣がため息交じりに応えるが、八嶋は引き下がろうとしない。

「後って、いつならいいんですか? もう時間がないじゃないですか」
「話をしてどうにかなる問題じゃない」
「結局、私はずっと、今のままなんですか……」

 冷静さを欠いた高い声が、急に止まる。

 どうしたのだろう。美紗が、再び階段出口から顔を半分ほど出すと、八嶋が日垣のほうに半歩ほど歩み寄り、口元を抑えてうつむくのが見えた。
 ショートボブの黒髪が、完全に彼の制服に触れていた。

 美紗の身体の中を、冷たい何かが、ずるりと流れ落ちていく。

 八嶋香織は、下を向いたまま、何か喋っていた。しかし、手で口を覆っているせいで、その内容までは分からない。彼女の声より、美紗自身の心臓の音が大きくて、言葉も何もかき消される。

「分かった。細かい話は――、明日……」

 さらに声を落とした日垣の言葉は、ますます聞き取れない。八嶋は小さく頷いている。泣いているようにも見える。

「……いつもの……来てくれれば……」

 そう囁くように言って、日垣は一歩身を引いた。八嶋はそれで納得したのか、無言で第1部長に一礼し、固いヒールの靴音を残して、どこかに去っていった。


 翌日は金曜日だ。特段の用がなければ、日垣貴仁が「いつもの店」を訪れる。


 重い足音もその場からゆっくりと遠ざかっていく。
 やがて、エレベーターホール付近は完全に無音になり、階段出口の壁に張り付くように立ちすくんだ美紗だけが、そこに取り残された。



 八嶋香織も、日垣の行きつけのバーに通っていたのだろうか。美紗がしばらく顔を出さない間に、彼女が「いつもの席」に座り、彼と共に、あの夜景を見ていたのだろうか。
 それとも、美紗より一年半ほど長く第1部に在籍する八嶋の定位置を、美紗のほうが奪っていたということなのだろうか。


 『……まさか、すでに二人こそこそ付き合ってるなんてことないですよね?』


 以前に女子更衣室で騒いでいた大須賀の言葉が、頭の中で反響する。吉谷は彼女の推測を笑い飛ばしていたが、八嶋は先ほど、その吉谷の名を口にしていた。


『どうして私じゃダメなんですか。……吉谷さんのほうがいいなんて……』


 吉谷綾子と八嶋香織は、日垣をめぐり、対立する関係だったのか。日垣貴仁は、吉谷を軸に、八嶋と美紗を天秤にかけ、弄んでいたのか。

 そうは思えない。思いたくない。



 すっかり強張った身体を引きずりながら、美紗がようやく直轄チームに戻ると、「直轄ジマ」はすでに無人となっていた。いつもならメンバーの半数近くが九時近くまで残っているのだが、盆休みが間近だからなのか、出勤組もさっさと帰宅してしまったらしい。

 美紗は慌てて事務所内を見渡した。八嶋香織の姿はなかった。

 日垣は、「直轄ジマ」から少し離れたところにある、第1部共通の応接エリアにいた。人事課長と何やら顔を突き合わせて話し込んでいる。先ほど日垣が「急ぎの話」と八嶋に言っていた件に関することかもしれない。


 美紗は、第5部との調整事項で生じた処理業務を急いで済ませると、逃げるように第1部の部屋を出た。

 昼間の熱気を残す真夏の都会の夜は、窒息しそうなほど不快な空気に満ちていた。防衛省の正門を出てすぐの三差路で信号を待ちながら、美紗は、頭の中でまとわりつく八嶋香織の言葉に、顔を歪めた。


『私はずっと、今のままなんですか……』


 八嶋の言う「今のまま」は、何を意味するのだろう。吉谷をライバル視しているらしい彼女は、いつ、どこで、日垣と逢瀬を重ね、現在はどのような関係を持っているのだろう。
 情報局の「主」と言われる吉谷ですら承知していないのだから、美紗には全く想像もつかない。

 ただ一つ確かなのは、八嶋香織は「今のまま」に不満を抱いているということだ。


 伝えないままでいい
 想われないままでいい
 あの人との「今のまま」を守りたい
 そう思っていたのに


 信号が変わり、美紗はゆっくりと横断歩道を渡った。湿気で空気が重いせいか、周囲の街路樹や建物が、水の中に沈んでいるかのように、揺らめいて見える。

 月に数回、金曜日の数時間だけを、日垣貴仁と二人で過ごすようになって、もうすぐ一年が経とうとしている。彼は、管理者として、若い部下の一人をずっと気遣ってきた。そして、美紗は彼の厚意をありがたく享受してきた。その関係は全く変わっていない。
 変わったのは、美紗の心だけだ。

 心密かに想うだけの美紗に、日垣が別の女性に心を砕くのを、止めることはできない。


 伝えられずに、想われずに、
 私の「今のまま」は消えてしまうのかもしれない……



しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

職場のパートのおばさん

Rollman
恋愛
職場のパートのおばさんと…

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

彼女にも愛する人がいた

まるまる⭐️
恋愛
既に冷たくなった王妃を見つけたのは、彼女に食事を運んで来た侍女だった。 「宮廷医の見立てでは、王妃様の死因は餓死。然も彼が言うには、王妃様は亡くなってから既に2、3日は経過しているだろうとの事でした」 そう宰相から報告を受けた俺は、自分の耳を疑った。 餓死だと? この王宮で?  彼女は俺の従兄妹で隣国ジルハイムの王女だ。 俺の背中を嫌な汗が流れた。 では、亡くなってから今日まで、彼女がいない事に誰も気付きもしなかったと言うのか…? そんな馬鹿な…。信じられなかった。 だがそんな俺を他所に宰相は更に告げる。 「亡くなった王妃様は陛下の子を懐妊されておりました」と…。 彼女がこの国へ嫁いで来て2年。漸く子が出来た事をこんな形で知るなんて…。 俺はその報告に愕然とした。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

処理中です...