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第五章 ブルーラグーンの戸惑い
新たな女(1)
しおりを挟むその週の木曜日の夕方、東南アジア全域の情勢分析を担う第5部のミーティングに顔を出した美紗は、会議が終わった後も、所属部の専門官たちとしばらく話し込んだ。
年度初めに第5部を一人で担当するようになってから四カ月以上が経ち、調整先との人間関係もそれなりにできていた。
所掌範囲を勉強中の美紗に、第5部の人間は快く専門分野の知識を教えてくれる。その見返りに、美紗の側は、第1部で仕入れた人事の噂や事業計画に関わる情報を「オフレコ」で提供した。
そのような「持ちつ持たれつ」のやり方を教えてくれたのは、第1部長の日垣貴仁だった。
美紗がようやく調整先を後にしたのは、六時も過ぎてからだった。一つ上の階にある第1部に戻ろうと階段を上がってきたところで、頭上から、やや甲高い女の声が聞こえてきた。
「どうして私じゃダメなんですか」
ひどく感情的な物言いに、反射的に足が止まる。
あまり聞きなれない声。吉谷綾子ではない。すべてにおいて洗練されている大先輩は、間違っても、職場で声を張り上げるようなことはしない。
「……そういう問題じゃない。今回は――だ。君は何か誤解……」
相手の男の言葉は、低くくぐもっていて明瞭には聞こえない。しかし、声の主が日垣貴仁であることは分かる。
「年が若いからですか? 経験がないから? それで、ダメだって言われるんですか?」
若そうな声が、1等空佐を相手に、無遠慮にまくしたてている。
美紗は、足音を立てないように、残りの階段をそっと上り、エレベーターホールにつながる階段出口にたどり着くと、そこからわずかに顔を出した。
人気のない廊下で、地味な紺色のワンピースにカーディガンを羽織った女が、日垣の行く手を遮るように立っていた。
八嶋香織だ。
美紗は息を飲んで、壁際に身を隠した。以前、吉谷や大須賀に啖呵を切った八嶋が、日垣に何か抗議している。日垣のほうも言葉を返すが、女の声ばかりがエレベーターホールに反響し、会話の流れはあまりつかめない。
「吉谷さんのほうがいいなんて、あの人は……。そんなの、納得できません!」
「良い悪いという話では……」
美紗は、手にしていた書類ファイルをぎゅっと抱きしめた。以前、大須賀が奇妙なことを言っていたのを、急に思い出した。
『……八嶋さん、実は自分が日垣1佐を狙ってたりとか!』
まさか、こんなところで、告白……?
それにしては険悪な空気だ。告白、というよりは、すでにそれなりの関係にある二人の人間の口論、というほうが近いかもしれない。
「理由を教えてください。私が至らないところは努力します」
「だから、そういうことじゃないんだ。それに今更……」
壁越しでは、日垣の低い声は切れ切れにしか聞こえない。美紗がもう一度顔を出そうとした時、エレベーターの到着を知らせるチャイムが鳴った。
慌てて階段側に身体を引っ込めると、数人がエレベーターの中から出てくる靴音が聞こえた。その中の一人が日垣に話しかけている声がする。
少しの間、男性二人のやり取りが聞こえ、やがて、複数の足音は第1部の部屋の中へと消えていった。
「八嶋さん、この件はまた後で」
「待ってください。最後まで聞いて……」
「悪いが、急ぎの話がある。後にしてくれ」
日垣がため息交じりに応えるが、八嶋は引き下がろうとしない。
「後って、いつならいいんですか? もう時間がないじゃないですか」
「話をしてどうにかなる問題じゃない」
「結局、私はずっと、今のままなんですか……」
冷静さを欠いた高い声が、急に止まる。
どうしたのだろう。美紗が、再び階段出口から顔を半分ほど出すと、八嶋が日垣のほうに半歩ほど歩み寄り、口元を抑えてうつむくのが見えた。
ショートボブの黒髪が、完全に彼の制服に触れていた。
美紗の身体の中を、冷たい何かが、ずるりと流れ落ちていく。
八嶋香織は、下を向いたまま、何か喋っていた。しかし、手で口を覆っているせいで、その内容までは分からない。彼女の声より、美紗自身の心臓の音が大きくて、言葉も何もかき消される。
「分かった。細かい話は――、明日……」
さらに声を落とした日垣の言葉は、ますます聞き取れない。八嶋は小さく頷いている。泣いているようにも見える。
「……いつもの……来てくれれば……」
そう囁くように言って、日垣は一歩身を引いた。八嶋はそれで納得したのか、無言で第1部長に一礼し、固いヒールの靴音を残して、どこかに去っていった。
翌日は金曜日だ。特段の用がなければ、日垣貴仁が「いつもの店」を訪れる。
重い足音もその場からゆっくりと遠ざかっていく。
やがて、エレベーターホール付近は完全に無音になり、階段出口の壁に張り付くように立ちすくんだ美紗だけが、そこに取り残された。
八嶋香織も、日垣の行きつけのバーに通っていたのだろうか。美紗がしばらく顔を出さない間に、彼女が「いつもの席」に座り、彼と共に、あの夜景を見ていたのだろうか。
それとも、美紗より一年半ほど長く第1部に在籍する八嶋の定位置を、美紗のほうが奪っていたということなのだろうか。
『……まさか、すでに二人こそこそ付き合ってるなんてことないですよね?』
以前に女子更衣室で騒いでいた大須賀の言葉が、頭の中で反響する。吉谷は彼女の推測を笑い飛ばしていたが、八嶋は先ほど、その吉谷の名を口にしていた。
『どうして私じゃダメなんですか。……吉谷さんのほうがいいなんて……』
吉谷綾子と八嶋香織は、日垣をめぐり、対立する関係だったのか。日垣貴仁は、吉谷を軸に、八嶋と美紗を天秤にかけ、弄んでいたのか。
そうは思えない。思いたくない。
すっかり強張った身体を引きずりながら、美紗がようやく直轄チームに戻ると、「直轄ジマ」はすでに無人となっていた。いつもならメンバーの半数近くが九時近くまで残っているのだが、盆休みが間近だからなのか、出勤組もさっさと帰宅してしまったらしい。
美紗は慌てて事務所内を見渡した。八嶋香織の姿はなかった。
日垣は、「直轄ジマ」から少し離れたところにある、第1部共通の応接エリアにいた。人事課長と何やら顔を突き合わせて話し込んでいる。先ほど日垣が「急ぎの話」と八嶋に言っていた件に関することかもしれない。
美紗は、第5部との調整事項で生じた処理業務を急いで済ませると、逃げるように第1部の部屋を出た。
昼間の熱気を残す真夏の都会の夜は、窒息しそうなほど不快な空気に満ちていた。防衛省の正門を出てすぐの三差路で信号を待ちながら、美紗は、頭の中でまとわりつく八嶋香織の言葉に、顔を歪めた。
『私はずっと、今のままなんですか……』
八嶋の言う「今のまま」は、何を意味するのだろう。吉谷をライバル視しているらしい彼女は、いつ、どこで、日垣と逢瀬を重ね、現在はどのような関係を持っているのだろう。
情報局の「主」と言われる吉谷ですら承知していないのだから、美紗には全く想像もつかない。
ただ一つ確かなのは、八嶋香織は「今のまま」に不満を抱いているということだ。
伝えないままでいい
想われないままでいい
あの人との「今のまま」を守りたい
そう思っていたのに
信号が変わり、美紗はゆっくりと横断歩道を渡った。湿気で空気が重いせいか、周囲の街路樹や建物が、水の中に沈んでいるかのように、揺らめいて見える。
月に数回、金曜日の数時間だけを、日垣貴仁と二人で過ごすようになって、もうすぐ一年が経とうとしている。彼は、管理者として、若い部下の一人をずっと気遣ってきた。そして、美紗は彼の厚意をありがたく享受してきた。その関係は全く変わっていない。
変わったのは、美紗の心だけだ。
心密かに想うだけの美紗に、日垣が別の女性に心を砕くのを、止めることはできない。
伝えられずに、想われずに、
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