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第五章 ブルーラグーンの戸惑い
誓いの呪縛
しおりを挟む件のレセプションの後、美紗は職場の雰囲気が変わったことに気づいた。
大きな人事異動があったわけでも、組織改編が行われたわけでもない。ただ、第1部長の様子が、以前とは違う。
いや、これまでと何も変わらぬ上官の姿が、美紗の目には以前と違って見えるようになった、というのが正確なところだった。
朝、出勤した日垣が、第1部の面々と挨拶を交わす。長袖シャツの第2種夏服を好む彼は、長身のシルエットがそう見せるのか、半袖姿の他の自衛官たちよりよほど涼しげに見えた。
その彼が、課業時間中に、時折「直轄ジマ」の末席に座る美紗の横を通り過ぎる。大股で歩く姿が視野に入り、部下とやり取りする低めの声が耳に届く。そのたびに、息が詰まりそうになる。
これまで、仕事とプライベートの線引きは、支障なくできているつもりだった。日垣貴仁の姿を目に留めても、心が少し温かくなった後は、すぐに自分のやるべきことに意識を戻すことができた。
絶対に気持ちは伝えない
そう決意した今になって、彼のすべてに、ひどく敏感になっている。
職場にいる時はあくまで上官であるはずの彼に、いつもの店で真向かいに座る男の笑顔を重ねてしまう。
濃紺の制服を着ている時は「日垣1佐」であるはずの彼に、「日垣さん」と呼びかけそうになる。
幸い、第1部長は普段は個室にこもっている。会議や業務調整のために不在にすることも多い。もし、彼が直轄班長の席あたりに四六時中座っていたら、とても仕事が手につかなかったかもしれない、と美紗は思った。
もし、伝えてしまったら
もし、気付かれてしまったら
彼は、仕事のために平然と偽ることはあっても、家族にも、鈴置美紗にも、嘘をつくことはないだろう。きっと遠ざけられて、終わりだ。
気のせいか、吉谷綾子と日垣が以前より頻繁に話をしているように感じる。
「直轄ジマ」の自席に座っている時、廊下を歩いている時、ふと彼の声が聞こえ、そっと辺りを見まわすと、事務所の隅のほうで、ある時は階段の入り口で、二人が立ち話をしている。真面目な顔で、しかし、声を落とし、顔を近づけて語り合っている。
二人とも既婚だ。それぞれに家族を大事にしている。信頼できる仕事上のパートナー同士として、接しているだけだ。
そう分かっているのに、心が乱れる。
メンターと慕っていた吉谷に嫉妬しても意味がない。
そう分かっているのに、心が疼く。
想いは口にしないと決めたのだから、日垣が誰と何をしようと、彼の自由だ。
そう分かっているのに、焦燥の念に苛まれる。
梅雨が明けると、都会の街は連日、耐えがたいほどの日差しに照りつけられた。しかし、美紗の心は厚い雲に覆われたままだった。
あの青い光の海を見てから、いつもの店に、行けなくなった。
いつもの席で、いつものように、日垣貴仁と差し向かいに座ったら、自分の決意を守っていられるか、自信がなかった。
あの人の柔らかな笑顔を前にして、自分を抑えていられるか、不安だった。
会いたいのに、会うのが、怖い
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