43 / 84
第五章 ブルーラグーンの戸惑い
梅雨時の憂鬱(2)
しおりを挟む日垣さんの、奥様の、代理
小坂の奇妙な提案に、彼は何と答えるのだろう。美紗は一人、身を固くした。耳がそばたつ一方で、日垣のほうを見ることができない。
「それって、タダ飯食えるんすか? 大使館の?」
日垣の言葉より先に聞こえてきたのは、食い意地の張った1等空尉の声だった。
「しかもフランス! めっちゃうまそう! 僕行きたいです!」
「うちの部長の『奥様代理』に男がついてってどうすんだ」
「きっと変な誤解招いちゃうわねえ」
宮崎が再びオネエ言葉で茶々を入れると、下世話なジョークで盛り上がる若手と彼らを叱りつける班長の松永の声で、「直轄ジマ」はますます騒がしくなった。
その様子を、美紗はぼんやりと見つめていた。
レセプション、つまり、立食形式のパーティでは、大勢の関係者が一堂に会し大半の時間を自由に歓談して過ごす。二人連れで出席したとしても、当の二人で落ち着いて話す時間など全くない。
それでも、パートナーの肩書で第1部長に同行することは、あまりにも意味深なシチュエーションに感じられる。
「じゃあ、うちの鈴置でも連れて行きます? 鈴置、今週金曜の夜、何か予定あるか?」
松永の声に、美紗ははっと顔を上げた。身体中に緊張が走り、「ありません」と答えるのが、一瞬遅れた。
「隠れ蓑代わりの奥さん役なら、もう少し年長の経験豊かな人間のほうが、やりやすいんじゃないですかね」
佐伯が、ひょろりと細長い上半身を伸ばして、総務課のほうを見た。日垣と松永も佐伯の視線を追う。
「直轄ジマ」よりよほど粛々とした空気に包まれた総務課では、スラリと背の高い女性職員が、圧倒的な存在感を放っていた。
「文書班長の吉谷女史あたりなら、どんな事態にも対応できますよ。彼女はフランス語も流暢だそうですから、連れて行く理由もできますし。何より、……近寄り難い雰囲気なのが、今回の場合はうってつけかと思いますけど」
最後のほうは声が小さくなった佐伯は、吉谷と目が合いそうになって慌てて首をすくめた。「確かにな」と呟く松永の傍らで、日垣は黙って佇んでいた。その姿勢の良い立ち姿を、美紗はそっとうかがい見た。
彼は、じっと、吉谷綾子のほうを眺めている。口元にわずかに笑みを浮かべているように見えるのは、気のせいなのか。
「吉谷女史は、子供がいるから、夜は難しいんじゃないかな……」
高峰が口ひげから手を離し、眉を寄せた。美紗は、言葉を発しようとして、急に息が詰まるのを感じた。私がご一緒します、と言ったら、周囲にはどう思われるだろう。レセプションに同行するだけのことに、何か深読みをするほど、みんな暇ではないはずだ。
意を決したその時、小坂が、ガキ大将のごとく口を横に広げ、白い歯を見せた。
「8部でフランス語できる人を連れてったらどうです? 例えば……、あの子。見た目もちょっと迫力あるし、日垣1佐のことお気に入りだそうですから、きっと喜んで行きますよ」
美紗は、開きかけた口を閉じ、思わず右隣の3等海佐を凝視した。早口で話す彼の言葉の後半部分が、頭の中でエコーする。
「ええっと、名前なんだったかなあ。ほら、ちょっと丸っこくて、声大きくて、結構ケバくて、胸がこうバーンとデカい……」
「そういう言い方やめろ」
松永が睨みつけると、あやうく品のないジェスチャーを見せそうになった小坂は、胸のところに持ってきた両手を慌ててひっこめた。
「もしかして、大須賀さん?」
片桐が口だけ動かすように囁くと、小坂は数回ほど小さく頷いた。
「なんでそんなこと知ってんすか?」
「情報収集はオレの得意分野だ。なにしろ情報局勤めだからな」
「うちに着任して、まだ四カ月じゃないですか」
気心知れた仲の片桐と話す時だけ一人称が「オレ」になる小坂は、急にニヤニヤと顔を崩した。その横で、高峰が回覧中の部内誌をくるくると丸め始めたが、無駄話に興じる二人はそれに全く気付かず、ひそひそと軽々しい話を続けた。
「実はさあ、この間オレ、彼女にちょっと声かけたんだ」
「マジすか。何て?」
「まあ……、『メシおごるから一緒行かない?』みたいな。そしたら、『アタシ、日垣1佐みたいな人が好みだから、ゴメンナサイ』って、あっさり断られちった」
「いろんな意味で日垣1佐とは正反対っすからね、小坂3佐は」
「お前、しばくぞっ」
半分笑いながら声を大きくした小坂に、丸めた雑誌の一撃が飛んできた。
「何をくだらんこと言ってんだ。さっさとやることやらんかっ」
珍しく声を荒げた高峰は、続けて片桐の頭を叩き、大きなため息をついた。さすがに縮こまる二人に、「シマ」の他のメンバーが苦笑する。
しかし、美紗は笑うどころではなかった。普段、仕事上の接点がない第8部に所属する女性陣の顔を、必死に思い出していた。
地域担当部は、それぞれ、主に分析業務を担当するセクションと、電波や画像などの特殊情報を扱うセクションに、大きく二分されている。第8部のうち、前者に所属する女性職員は、確か四、五名ほどだった。
後者は、第1部が入る棟とは別の、秘匿性の高いエリアに指定された建物の中にあるため、そこに立ち入るクリアランスを持たない美紗には、状況は全く分からない。以前に誤って紛れ込んだ極秘会議も、その建物の地下で行われたのだが、その時も、会議関係者以外の姿は全く見かけなかった。
誰だろう。とにかく、日垣貴仁に興味を抱く女性が、彼の行動範囲内に存在することは、間違いない。
「あのっ」
美紗は、書類に目をやりながら自分の背後を歩き過ぎようとする上官を、やっとのことで呼び止めた。日垣は、その小さな声を聞き漏らすことなく、背をかがめて美紗を見た。
「さっきの、レセプションは……」
「あれはいいんだ。個人的なことで、不愉快な現場に付き合わせるわけにはいかないから」
端正な顔立ちが、穏やかに笑いかける。別に構わないから連れて行ってほしい、と言うわけにもいかず、美紗は唇を噛んだ。もう少し適切な言葉はないかと焦る。
その間に、日垣は、
「それに、若い鈴置さんが私の奥さん役では、あまりに可哀想だ」
と苦笑いして、そのまま部長室のほうへ歩いて行ってしまった。
美紗の胸の中で、何かが飛び回っているような、焦燥感にも似た不快な感覚が、にわかに広がっていった。
それが、「奥様代理」という役を掴み損ねたせいなのか、それとも、突然「ライバル」の存在を聞かされてしまったせいなのか、自分でも分からなかった。
0
お気に入りに追加
44
あなたにおすすめの小説
彼女にも愛する人がいた
まるまる⭐️
恋愛
既に冷たくなった王妃を見つけたのは、彼女に食事を運んで来た侍女だった。
「宮廷医の見立てでは、王妃様の死因は餓死。然も彼が言うには、王妃様は亡くなってから既に2、3日は経過しているだろうとの事でした」
そう宰相から報告を受けた俺は、自分の耳を疑った。
餓死だと? この王宮で?
彼女は俺の従兄妹で隣国ジルハイムの王女だ。
俺の背中を嫌な汗が流れた。
では、亡くなってから今日まで、彼女がいない事に誰も気付きもしなかったと言うのか…?
そんな馬鹿な…。信じられなかった。
だがそんな俺を他所に宰相は更に告げる。
「亡くなった王妃様は陛下の子を懐妊されておりました」と…。
彼女がこの国へ嫁いで来て2年。漸く子が出来た事をこんな形で知るなんて…。
俺はその報告に愕然とした。
人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。
松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。
そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。
しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈@12/27電子書籍配信中
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
【完結】忘れてください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。
貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。
夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。
貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。
もういいの。
私は貴方を解放する覚悟を決めた。
貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。
私の事は忘れてください。
※6月26日初回完結
7月12日2回目完結しました。
お読みいただきありがとうございます。
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる