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第四章 二杯のシンガポール・スリング

隠れ家で

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 衝立に囲まれた「いつもの席」で、久しぶりの夜景を、美紗は無言で眺めていた。日垣を見ないように視線をそらしていた、というほうが正確かもしれない。

 家族の話は、したくなかった。実の親を嫌う自分の姿は、きっと、ひどく醜いだろう。敬愛する上官にそんな姿を晒さなければならないのが、たとえようもなく惨めだった。


「鈴置さん」

 日垣の静かな声に、美紗は身体を固くした。
 しばらく間を置いて、彼はゆっくりと話しだした。

「……片桐1尉、最近急に勉強熱心になったようだけど、一念発起するきっかけでもあったのかな。何か聞いてる?」
「か、たぎり、1尉、ですか?」

 予想外の問いに、美紗はぎこちなく答えながら、日垣の顔色を窺った。
 彼は、「いつもの席」に座った時にだけ見せる和やかな表情で、年明けに指揮幕僚ばくりょう課程の選抜試験を初めて受ける1等空尉の話を始めた。

 地方部隊でのんびりと勤務していた片桐は、統合情報局に転属してきた時には、出世欲もなく、上級指揮官を目指す際に必須となる指揮幕僚課程にも全く興味を示さなかった。それを第1部長の日垣が説得し、なかなかやる気の出ない若い後輩を一年かがりで直々に指導してきた。


「物事の理解は早いほうだと思うんだが、彼は論文が全くダメでね。何度言っても支離滅裂な内容を書いて、それをしれっと出してくるんだ」

 選抜試験の受験指導にこんなに苦労したのは初めてだ、と日垣は笑い、それから急に目をいたずらっぽく細めた。

「それが最近、見違えるように整ったものを持ってくるようになった。私よりよっぽど教えるのがうまい人間が近くにいるのか……。それとも、まさか、君の代筆?」

 突拍子もない冗談を、美紗は目を丸くして否定した。

「課題文を見てほしいと言われて、結論を導きやすい構成に直したほうがいいというような話をしたことはあります。でも、私が書いたなんてことはありません。それに、片桐1尉は、試験のことは、ほとんど富澤3佐に相談していますから」
「へえ。彼も身近な先輩の意見を素直に乞うようになったのか。富澤とは反発し合うことが多いかと思ってたけど、どういう心境の変化だろうね」

 日垣はまたクスリと笑った。どうやら、指揮幕僚課程に一回で合格した優秀な富澤と、幼稚な劣等感を抱える片桐が、些細なことでしばしば言い争っているのを、部長室の薄い壁の向こうできちんと聞いていたらしい。

「前に、宮崎さんと片桐1尉と私で、海外経験があるかという話をしていて……」

 たまたま「直轄ジマ」にいた若手三人でそんな話になったのは、美紗が極秘会議に紛れてしまった日の午前中のことだった。もう、その当時を思い出しても、強い恐怖感に苛まれることはなかった。
 美紗は淡々と、その時のやり取りをかいつまんで日垣に語った。

 片桐は、自身が不利な境遇に置かれていると盛大な愚痴をこぼしていた。その彼に、美紗は「留学の機会を逃した自分も同じような引け目ともどかしさを日々感じている」と心の内を吐露した。急に悲しそうな顔をした1等空尉は、真顔で頭を下げていた。


「片桐1尉は、確かその時に、『心を入れ替えて精進する』って言ってましたけど……」
「なるほどね。口ばかり達者な甘ったれに、君が喝を入れたわけだ」

 日垣は面白そうに含み笑いをしたが、美紗はきょとんとするばかりだった。



「失礼いたします」

 衝立の向こうから声をかけてきたマスターは、無色透明なカクテルを、ゆっくりと美紗の前に置いた。グラスの中に沈むオリーブに刺し込まれた銀色のピックが、頭上の照明の柔らかい光を受けて、静かに煌めいている。

「今日は『いつもの』を飲みにいらしてくださったのでしょう?」

 テーブルの上のマティーニは、静かに、しかし、毅然と佇んでいた。
 マスターに会釈で応え、美紗はグラスに口をつけた。ジンの強烈な味が、心の中のわだかまりを、じわりと浄化していくようだった。

「この店が気に入ったなら、時々使うといい。たまにはこういう所でぼんやり物思いにふけるのも、いい休息になるよ」

 耳に心地よい低い声に、美紗はわずかに頷いて微笑んだ。心なしか安堵したような顔を見せる上官に、いつかこの場所で、自分に帰る場所がないことを心穏やかに話せる日が来たらいい……。そんなことをぼんやりと思った。

「ここの客層は質がいいから、一人で来ても大丈夫だ。マスターは、もう君のことを『常連』だと思っているようだしね」

 日垣はソファタイプの椅子に背を預け、カウンターのほうを見やった。美紗は、つられるように腰を上げて、衝立の向こう側を覗いた。

 日垣が長年通うバーは、かなり照明を落としてあるにも関わらず、各テーブルに小さなキャンドルが置いてあるせいなのか、店内全体が温かみのある色に満ちていた。三面に広がる窓から夜の街が良く見える洗練された造りでありながら、マホガニー調に統一された空間は、不思議と懐かしさのようなものを感じさせる。
 客はそれなりに入っているが、静かにアルコールを楽しむ話声と、店内に控えめにかかる音楽が、ほどよく調和していて、優しく心を落ち着かせる。

 大都会の片隅にひっそりと存在する、まさに隠れ家だ。


「ただ、週末は私がいる可能性が高いから、それじゃ、やっぱり来づらいか」

 美紗が振り向くと、日垣は、左手に水割りのグラスを持ちながら、反対の手で髪をかき上げていた。

「一人で飲みに来たのに、入り口近くの席に私が陣取っていたら、確かに興ざめだな。今度来る時は、目につきにくい場所にしてくれってマスターに頼むことするよ」
「そんな、あの……」

 彼の向こう側で、夜の街明かりが、美紗をせかすように、キラキラと瞬く。

「……これからも、ご一緒させて、ください……」

 口からこぼれるように出た言葉が、恐ろしく恥ずかしかった。美紗は身体の力が抜けたように椅子に座り込み、急いでうつむいた。

 マティーニのグラスが目に入った。それを手に取り、中身を少し多めに、口に含む。
 喉に焼かれるような熱さを感じながら、もし顔が真っ赤になっていたらマティーニのせいにしよう、と思った。


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