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第四章 二杯のシンガポール・スリング

灰色の家

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 美紗の父親は、美紗が二十歳の誕生日を迎えた頃、四半世紀ほども勤めた商社を会社都合で解雇された。
 娘が大人へのステージを上り始めたのと同時期にこれまでの人生を否定された父親は、人が変わったように怠惰になり、職探しをすることもなく、突然与えらえた無限の時間を無意味に過ごすようになった。

 退職金を投じて家のローンは完済したものの、美紗が私立大学を卒業するまでには、まだ二年以上あった。美紗は、中学生の頃から夢見ていた海外留学をあきらめ、大学を中退して就職する決心をした。
 短期間に老け込んだ父親は、娘の決意に謝意を示すこともなく、「無理して大学まで出してやっても、どうせ女はたいして稼ぎもしないうちに家に入ってしまうんだから」と、吐き捨てるように言った。

 一方、大学で父親と出会い、卒業後結婚するまでの八年余の間を出版業界で過ごした母親は、全く別の意見を持っていた。美紗には、奨学金を申請して何としても大学を卒業するよう強く勧め、自身はパートの仕事を始める傍ら、出版社を寿退社してからも人脈を生かして細々と続けてきたフリーライターの仕事に精を出した。

 幸い美紗は、一定の成績を修めることを条件に、返済義務のない給付型奨学金を受けられることになった。それでも少し足りない分は、学生仲間のツテを頼りにアルバイトに励むことで、どうにか自力で工面した。
 美紗の母親は、タイミングよく編集プロダクションを立ち上げた現役時代の同期に誘われる形で、徐々にライターとしての仕事を増やしていった。

 経済的な将来がわずかに明るくなったことを、父親は喜ばなかった。社会に置きざりにされた者にとって、妻と娘が未来を切り開こうとする姿は、無言の圧力であり、己の惨めさを再認識させるものであり、ついには妬みの対象になった。
 エリート意識だけが残る男は、忙しく働く妻が家事をおろそかにしていると文句を並べるぐらいしか、やることがなかった。

 入学当初から寮住まいだった美紗は、大学から電車で二時間ほどの所にある実家に、月に数回ほど顔を見せた。しかし、父親の失職後は、いつ帰っても、両親は口論してばかりだった。

 家にいるだけで何もしない父親と、ライターの仕事にかかりきりの母。

 美紗の目には、自分が勉学を続けることで、両親の関係がますます悪化していくように見えた。特に、学業資金を少しでも援助しようと奮闘する母親には、心苦しさを感じた。無事に卒業して就職し、早く母を安心させたい。その思いが、留学をあきらめた自分を奮い立たせる原動力となった。


 母親は、しかし、美紗の想像とは少し違う方向を向いていた。それに気付いたのは、三年次の正月に帰省した時だった。
 失職して一年半近くが経っても、父親は再就職を目指そうとせず、相変わらず家にこもる状態だった。

 深夜に人の声で目が覚めた美紗は、自室から出て、リビングのほうへ向かった。明々と電気の付いた部屋からは、明らかにアルコールの入った父親の乱暴な声が聞こえてきた。


 これまで長年家族を支えてきたのは俺だ。
 職を失う直前まで、安定して一千万以上の年収を得て、家族が安心できる生活を提供してきた。
 にわかに百万そこそこを稼ぐようになったからと、何を威張っているんだ。


 酔っぱらいの言いがかりに、母親はヒステリックに応じた。

「私だって、あのまま勤めていれば、今頃は平均年収くらいの給料はもらってたわよ。誰のせいで会社を辞めたと思ってるの? 美紗が生まれなければ、ずっと働いていられたのに。私がお気楽に子育てを楽しんでたとでも思ってた? 人の人生をへし折っておいて、何よその言い草!」


 『美紗が生まれなければ……』


 女の会社勤めは所詮「腰かけ」と言われた時代、美紗の母親は、厳しい就職戦線を経て小さな出版社に入り、苦労の末に社内の信用を獲得して、当時は数少ない女性編集者の一人となった。仕事が軌道に乗る中、学生時代から付き合っていた美紗の父親との結婚には、簡単には踏み切れなかった。
 しかし、突然の妊娠で彼女のキャリアはあっけなく終わった。当時は、産休育休という制度がないばかりか、婚前交渉は貞操に欠けるとあからさまに非難される時代だった。

 追われるように退職して、慌ただしく結婚。その半年後に美紗が生まれた。

 長い間結婚を待ち続けた父親が、意図的にそのような行為に及んだのか、本人以外には分からない。
 確かなのは、美紗の母親が、娘の誕生を心待ちにしてはいなかったということだけだ。


 人の人生をへし折って、と喚いた母親は、今にも手をあげそうになる父親に、本格化し始めたライターの仕事を辞める気はないと言い放った。

「過去の威光にすがるだけのあなたに、また人生を台無しにされちゃたまらないわ。私は、失った二十年間を、これから取り戻すんだから」

 金銭的な問題にこだわる父親と、キャリアを潰された過去を恨むばかりの母親は、全くかみ合わない議論を延々と続けた。
 美紗は、二人に気付かれないよう、そっと自室に戻った。

 部屋には、父親が海外の出張先で買ってきたお土産の置物や、母親が昔に手作りしてくれた編みぐるみが、家族旅行の写真と共に、所狭しと飾ってあった。彼らが人並みに娘を慈しんだ証と思っていたそれらのものが、すべてくだらないガラクタに見えた。もうここにはなるべく帰らないようにしよう、と心に決めた。


 大学に戻った美紗はますます勉学とアルバイトに集中した。自力で住む場所を確保するためには、奨学金を受けるに足る成績を収めながら、卒業後の住宅資金を準備しなければならなかった。

 毎日を気楽に過ごす友人と、徐々に疎遠になった。
 恋人と言うにはあまりにも頼りない同級生とは、価値観が合わなくなり、いつの間にか別れていた。

 就職活動を始めてから、国家公務員になれば宿舎を用意してもらえることを知った。可能性のあるところをすべて受験し、運よく防衛省の専門職採用試験に合格した。
 実のところ、防衛問題にさほど関心があるわけではなかった。実家の事情がなければ、防衛省を就職先として選ぶことは、おそらくなかった。


 四年次の夏頃までには、両親とはすっかり疎遠になっていた。時折、母親はメールをよこしてきたが、美紗をいたわり励ます言葉がいかにも嘘くさく感じられ、返信はほとんどしなかった。
 やがて、母親からの連絡も途絶えがちになった。


 卒業式が近づき、さすがに報告ぐらいはすべきだろうと思った美紗は、紋切り型の感謝の言葉と共に、無事に卒業、就職することになった旨を母親に知らせた。
 もはや、自分の行く末などに興味は示さないだろうと思っていたが、メールを送った数日後、母親は突然、大学の寮まで訪ねてきた。

 「取材のために東京に出てきていた」と話した母親は、タイトなビジネススーツを着こなす、隙のないフリーライターに変貌していた。顔つきも、話し方も、美紗が知っている人間とは似ても似つかなかった。

 母親は、「新生活の資金に」と言って、百万円の入った封筒を美紗に渡した。大金をどうやって工面したのかと聞いても、適当にはぐらかされた。

 恐る恐る父親の様子を尋ねると、小ぎれいに化粧をした母親は、
「お父さんはもうダメよ。美紗も、早いうちに家から出て、ホント良かったわね」
 と、冷笑を浮かべた。

 母親の話によれば、父親は、美紗が実家に顔を見せなくなってからも、相変わらず自堕落に暮らしていた。
 貯蓄を切り崩して生活する五十代の息子を見かねた美紗の祖父母は、住み慣れた自宅を売ってまとまった資金を作ると、美紗の母親に一言の相談もなく、息子の家に乗り込んで来た。経済的な懸念を取り除いて息子の再起を促そうという年寄りの甘い期待があったのだろうが、美紗の父親は完全に再就職を目指す理由を失った。

「三人揃って、女は家で夫を支えるのが一番だ、なんて、バカみたいに毎日言ってるわ」

 祖父母が入ってきたことで、家の中が三対一の構図になり、母親は前にもまして父親への憎悪を深めたようだった。仕事の場を自宅から編集プロダクションの事務所に移し、そこに頻繁に泊まり込んでまで、家には極力いないようにしている、と語る母親の顔は、汚物でも見ているかのように歪んでいた。

「何と言われても、絶対に家に戻ってはだめよ。お父さんなんて、今は『女は結婚すればいい』なんて言ってるけど、あと五、六年もすれば、じじばばも足腰立たなくなって、日常生活にも介護が必要になるんだから。美紗がもしその時に家にいたら、きっと老人の面倒を見る羽目になって、一生あの家に縛られるのよ」

 母親は美紗の目の前で、一度は真剣に愛したパートナーのことを、口汚く罵り続けた。


 私が生まれなければ、お母さんは、好きな仕事を続けていられたの?
 私が生まれなければ、お母さんは、お母さんの生き方を尊重してくれる別の誰かと結婚して、もっと幸せに生きられたの?

 
 美紗は、その疑問を押し殺して、多額の祝い金を受け取った。

 しかし、それから約一年後、母親は、美紗に何の連絡もせずに住民票を移した。
 「神谷」という人間の下に身を寄せたのは、おそらくもっと前のことだったに違いない。あの百万円は、母から娘への卒業祝いではなく、侮蔑の対象でしかなくなった男の血を引く子供に対する、手切れ金のようなものだったのかもしれない――。





 不愉快な回想を振り払うように、美紗は地下鉄の階段を駆け上った。

 地上に出ると、自宅がある街とは違う、しかし、馴染みのある風景が広がった。四車線の大きな通りを、車がひっきりなしに通っている。金曜の夜だからだろう、足早に行き交うスーツ姿の人影が、やや多いように感じる。

 高層ビルの窓明かりを眺めながら少し歩き、すぐに暗く細い路地に入った。何度か二人で来た道を、一人で足早に歩く。
 突き当りにある十五階建ての雑居ビルに入ると、躊躇なくエレベーターに乗った。

 なぜあのバーに足が向くのか、分からない。ただ、今だけは、誰もいない部屋に帰りたくなかった。かといって、「親が離婚したかもしれない」などと間の抜けたことを気安く話せる相手もいない。
 とにかく一時でいい、自分の身を置く場所が欲しかった。


「いらっしゃいませ。おや、鈴置さん。こんばんは」

 L字型のカウンターの中にいたマスターは、すぐに美紗に気づき、柔らかな声をかけた。カウンターを挟んで彼の前にいた長身の客が、振り向いた。

「あ……、日垣1佐」

 美紗は露骨に当惑の色を浮かべ、一歩、後ずさった。日垣のほうも、明らかに驚いた顔をしている。

「いつもの席にお移りになります? 今、ちょうど空いてますよ」

 マスターは二人の返事を待たず、日垣が飲んでいた水割りのグラスをトレイに載せた。
 上官の顔を見るなり逃げだすのは、かなり失礼だろうか。美紗が迷っている間に、日垣は席から立ちあがった。


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