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第四章 二杯のシンガポール・スリング
二度目の会合(2)
しおりを挟む美紗は、上官の問いに答える代わりに、店に来る間に抱いた疑問を口にした。
「お昼に吉谷さんと一緒だったこと、どうしてご存じなんですか? ずっと私を……」
「監視してたわけじゃない」
身を固くする美紗とは対照的に、日垣は相好を崩して少しくせのある髪をかき上げた。
「君が吉谷女史と一緒に裏門のほうから戻って来るのを、見かけただけだ。時間からして、外で一緒に食べてきたのかと……」
拍子抜けする答えに、美紗は日垣の顔を見つめたまま固まった。自意識過剰だったかもしれない。不安感が急に気恥ずかしさに変わり、小柄な身体がますます縮こまる。
しかしあと一つ、日垣に聞かなければならないことがあった。
「吉谷さんは、どういう人なんですか? 気を付けろって……」
「彼女は、情報のプロだ」
日垣は、美紗のほうにやや顔を寄せ、声を落とした。仕事に関わる話になると、職場を離れても、切れ長の目がわずかに鋭くなる。
「吉谷女史は、民間企業にいた頃はずっと東欧地域に駐在していて、現地の日本大使館とも情報提供者の立場で関わっていたことがあるんだ」
「じゃあ、吉谷さんは、本当の……」
諜報員、という言葉を、美紗は辛うじて飲み込んだ。今日は隣席に人がいる。遅い時間帯に急に店に来ることになったため、さすがに人払いできなかったのかもしれない。
美紗の懸念を察した日垣は、ちらりとカウンターのほうを見やり、再び正面に向き直った。
「マスターが言うには、今、周りにいる客は『問題無し』なんだそうだ。何を以ってそう判断するかの基準は、彼に任せてるけどね」
ずいぶんとバーのマスターを信頼しているらしい日垣は、
「それでも、大きな声は出さないでもらいたいな」
と言って、低く笑った。アンティークな照明の灯りの下で目を細める彼は、楽しそうにさえ見えた。
美紗は、十日ほど前のやり取りを思い出して、赤面した。極秘会議の一件が露見すれば引責辞任だろう、とすまし顔で話す上官に驚いて、無遠慮な声で諫めるような真似をしてしまった。あの時の自分は、きっと引きつった顔をしていたに違いない。
「吉谷女史は、君が心配しているような類の人間ではないよ」
日垣は、気まずそうに下を向く美紗に構わず、話を続けた。
「別に、秘密裡に手に入れる機密ネタばかりが『情報』じゃない。現地の一般住民の中に溶け込んで、彼らが何に興味を持ち、どんな見方をしているか、そういったことを知るのも、立派な情報収集だ。一般報道や世間話の中にある生情報も、国情全般を理解する上では役に立つ」
「吉谷さんは、普段の生活で見聞きしたことを大使館に教える役目だったんですか」
「そうだ。彼女のような役割の人間は海外にたくさんいる。ただ、教えるといっても、普段は定期的に簡単なレポートを書いてもらうくらいで、報酬もわずかだ。金銭とは別に、大使館からは、現地政府とのコネがないと得られない治安情報を、支障のない範囲で出してやる。そうやって、お互い持ちつ持たれつでやっているのさ」
国外に出たことすらない美紗に、吉谷の経験した世界を想像することは難しかった。分かるのは、彼女が子供の誕生を機にあっさり手放した過去のキャリアが、予想以上に専門性に富んでいたらしいということぐらいだ。
「吉谷女史は、貿易関係の仕事をしていたこともあって、特に現地での人脈が広かったらしい。機転も聞く人で、いいネタを仕入れると彼女のほうから大使館の担当者に連絡を入れてくれたそうだ。分析力も洞察力も優れていると、大使館側ではずいぶん重宝していたと聞いている。統合情報局でも、8部にいた頃は、欧州関係の専門官としてまさに『君臨』してたな」
そこまで言って、日垣は何か思い出したように、クスリと笑った。
「吉谷さんと一緒にいらしたことがあるんですか?」
「半年ほどの間だけだったけどね。防駐官(防衛駐在官)として東欧に赴任する前に、現地の勉強をしろということで、8部に席を用意してもらったんだが、吉谷女史はとにかくやり手で、私も他の佐官連中もほとんど彼女の言いなりに使われていたよ」
日垣が防衛駐在官の命を受けて東欧某国に赴いたのは、五年半ほど前になる。その直前に第8部で勤務していた当時の彼は、四十手前のはずだ。彼より四、五歳ほど年下の吉谷は、三十代半ばまでには、ベテラン勢にも一目置かれる地位を確立していたことになる。
「吉谷さん、本当にすごいんですね。……でも、良かった。怖い人じゃなくて」
美紗は、心底ほっとしたように顔を緩ませた。元からの童顔が、さらに柔らかな幼顔になった。
「怖い? まあ、彼女はいろんな意味で隙がないから、一見……」
日垣はしばし怪訝な顔をすると、思いついたように鞄から携帯端末を取り出し、鈴置美紗宛てのメールの文言を表示した。
『Y女史との接触には気をつけてください』
「うん、確かに……。この文面じゃ、いかにも彼女が敵性スパイみたいだな」
日垣は苦笑いしながら右手を髪にやった。申し訳なさそうに目を伏せて何度も髪をかき上げる仕草は、冷静沈着と評される職場での彼の印象とは、ずいぶん違っていた。
混んだ店内のさざめきの中から、「お食事をお持ちいたしました」と言う落ち着いた声が聞こえてきた。
マスターと、マスターの半分ほどの年齢のバーテンダーが、二人分の平膳をゆっくりとテーブルの上に置いた。
黒い木目が美しい大きな膳の上に載る料理は、オーセンティックバーにはおよそ不釣り合いな、天ぷらの盛り合わせに小鉢がいくつかと白米味噌汁、という和食だった。
「四階に入っている和惣菜ダイニングのお店で、『本日のおすすめ』をお膳風に盛ってもらいました」
天ぷらの奥に陣取る二つの鉢には、美しく盛られた数種類の刺身と優しい彩りの煮物が、それぞれ上品に収まっていた。カクテルよりも日本酒のほうが合いそうだ。
しかし日垣は、「アルコールは後でいただくよ」と言って、二人分の日本茶を頼んだ。マスターは、ロマンスグレーの髪色に似合う渋い微笑で「かしこまりました」と答え、もう一人の店員とともに席を離れた。
「こういうお店に、お茶も置いてあるんですか?」
美紗が不思議そうに尋ねると、日垣は「どうだろうね」と言って、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
美紗の心配は全く無用だった。さほど間を置かずに戻ってきたマスターは、背の高いグラスを一つずつ、美紗と日垣の前に置いた。カクテルのような雰囲気の涼しげな翡翠色の液体は、オンザロック風の緑茶だった。
さっそく刺身に手を付ける日垣の様子を、美紗は珍しいものでも見るように眺めていた。
直轄チームの面々が美紗の歓迎会を開いてくれた時に、日垣も場に入って食事を共にしたはずなのだが、その時はシマの一同がいつにも増して騒がしく盛り上がっていたせいか、彼のことはほとんど記憶に残っていなかった。
今まで気付かなかったが、和食が好きそうな彼は、箸を持つ時だけ、左利きだった。
「吉谷女史は、君のいいメンターになってくれるかもしれないね」
日垣は美紗に食事を勧めながら、吉谷綾子の話を続けた。
「メンター、ですか?」
「一言で言うなら『良き先輩』かな。単に年上というだけでなくて、これまで培った能力と経験を活かして若い者をサポートしてくれるような存在のことを、欧米では『メンター』と呼ぶんだ」
美紗は、ほんのりと湯気の立つご飯茶碗に手を伸ばしながら、吉谷の顔を思い浮かべた。人の良さそうな大先輩は、有能なベテランであると同時に、しなやかに生きる理想の女性の姿でもあった。
しかし、どちらかと言えば内向的な美紗にとっては、自分とあまりにもかけ離れた輝く存在にアプローチするのは、かなり勇気がいる。
「何人かメンターを持っていると、勉強になるし、なにより心強いよ」
「そうですね。でも……」
「人間関係のことでも、直属の上司より、少し距離のあるメンターに相談したほうが、穏便に解決できることが多いと聞く。松永のことで困ったら、どう考えても、比留川より吉谷女史のほうが、相談相手としては適任だ」
まるで、昼の寿司屋での女同士の会話を聞いていたかのような言葉に、美紗は驚いて、食べていたものを喉に詰めそうになった。急いでお茶を口に含んで、みっともなくむせるのだけは免れた。
「いえ、そんな、違うんです。松永3佐は……」
続きの言葉が見つからず狼狽する美紗に、日垣は、「詳細は聞かないでおくよ」と返して小さく笑った。
「松永は、人当たりがいいとは言えないが、悪い人間じゃない。君への接し方が悪いと、私に文句言うくらいだからな」
「松永2佐が、日垣1佐に、ですか?」
きょとんとする美紗に、日垣はやや気まずそうに頷いた。
「確か、例の会議の次の日だ。君の様子がおかしかったから医務室に行かせようとしたんだが、松永に気付かれそうで、つい焦って大きな声を出してしまった」
美紗は、沈痛の色を浮かべて下を向いた。あの時、日垣に怒鳴られたことは、はっきりと覚えている。
大声に押し出されるように第1部の部屋を出た後、日垣と松永の間にどんなやり取りがあったのか、チームの誰からも特に聞かされてはいない。それでも、松永が無骨なやり方で自分を守ってくれようとしたことは、容易に想像できた。
ここ最近も、美紗が些細なミスをして調整先から苦情が来るたびに、彼は先方にせっせと頭を下げていた。
「私のせいです。私が松永3佐の立場を悪くしてばかりで……」
「いや、あれは私も反省している。不用意に怒鳴るなど、指揮官職に就く者の言動じゃない」
日垣は静かに詫びた。温かなペンダントライトの灯りの下で、誠実な眼差しが美紗を真っすぐに見ていた。
「私もまだまだ未熟だ。この年になるとメンターが減ってくるのが辛いところでね」
1等空佐の中でも将官への昇進がさほど遠くない位置にいる日垣には、もはや、安心して頼れる人間がなかなかいないのだろう。若い頃の彼を導いた「大先輩」たちの多くは、すでに現役を引退してしまっている。
「メンターは、できるだけ早く見つけたほうがいい。吉谷女史はきっと、快く君のメンターになってくれると思う」
そこで日垣は言葉を切り、声を落とした。
「ただ、この間の会議の件と、対テロ連絡準備室に関わることだけは、彼女にも気取られないようにしてほしい。尊敬する相手を面倒事に巻き込みたいとは思わないだろう?」
美紗は神妙な顔で頷いた。吉谷に不利益を負わせるような真似は、決してできない。
「あと数週間待って、どこからも何も言われなければ、取りあえず一安心だ。それまではやはり落ち着かないだろうが……。この件のカタがつくまでは、私で良ければ、いつでも君のメンターになるよ」
耳に心地よい低い声に、美紗は安堵の笑みを見せた。少し目を潤ませたはかなげな顔を、日垣はしばし見つめ、そして、心なしか照れくさそうに眼を伏せた。
美紗が食事を終える頃、日垣は、マスターが置いて行ったカクテルメニューを広げた。
「今日はもう遅いから、一杯しか飲めないな。何がいい?」
少し迷って、美紗はやはり、マティーニを指さした。
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