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第四章 二杯のシンガポール・スリング
理想の先輩(2)
しおりを挟む「全然。子供が生まれたらライフスタイルが変わるのは、当たり前なんだし。それまでやってきたことに固執したって、しょうがないじゃない。私は8部の仕事に合わない人材になって、8部の仕事は私に合わなくなった。だから自分に合う職種に変わったの。そういう意味では、今でも好きなように働いてる。また地域担当部でやれる状況になった時に、古巣の8部からお呼びがかかればラッキーだなー、なんて思ってるけど、あまりこだわりはないかな」
吉谷は、軽やかな笑みを浮かべると、残り少なくなったコーヒーを飲んで目を細めた。美紗の心の奥底で数年もの間凝り固まっている疑念は、経験豊かな大先輩にとっては、愚問でしかないようだった。
美紗は、恥じ入りながら、不躾な質問をしたことを詫びた。
「美紗ちゃん、今いくつだっけ?」
「二四です」
「そっか。まだ若いもんね。いろいろ考える時期だろうけど、いつでも、何か楽しいことを探してれば、結構いいことあるって。無理に富澤クンを愛でろとは言わないけど」
吉谷は、「またいつかランチ付き合ってくれる?」と美紗に問いつつ、席から立ちあがった。店の壁時計が十二時四十分を指していた。
昼休みが終わる間際の女子更衣室では、五、六人が部屋の真ん中に置かれたテーブルを占拠して、とりとめのない雑談に興じていた。他にも、数人がそれぞれのロッカーの前で身支度を整えている。
美紗は、吉谷に続いて、遠慮がちに部屋に入った。更衣室にこれほど人がいるのを見たのは初めてだった。自席で出来あいの弁当を食べ夜遅くまで仕事をすることの多い美紗は、人が集まる時間帯にこの場所に来る機会がほとんどなかった。
吉谷は、かつて所属していた第8部の職員らしい数人につかまり、楽しそうに仕事絡みの話を始めた。賑やかに話す面々は、三十歳手前から吉谷と同世代の四十代前半まで、年齢にかなりの開きがあるようだが、皆、実力に裏打ちされた自信に満ちた顔をしているように見える。
とても、その一団の中に入り込む気持ちにはなれず、美紗は隠れるように部屋の隅に移動した。
九月半ばの日差しが差し込む窓際で、美紗は鞄から携帯端末を取り出した。
規則上、勤務場所には私用の電子機器類を持ち込めないため、メッセージなどの着信状況をチェックする機会は、まとまった休み時間に限られる。普段、美紗が日中に友人とやり取りをすることはほとんどなかったが、それでも昼休みに一度は携帯端末をチェックするのが習慣になっていた。
第1部長の日垣の私用携帯のアドレスから、メールが入っていた。
『Y女史との接触には気をつけてください』
更衣室に溢れていた話声が、消えた。
美紗が手元の液晶画面からゆっくりと視線を上げると、色を失った視界の中で、吉谷の姿だけが鮮やかに浮き上がって見えた。
周りより抜きん出て背が高く、凛とした笑顔で周囲の人間と話している彼女に、暗い何かを思わせるイメージは見つけられなかった。
気を付ける? 吉谷さんに?
「美紗ちゃん、今日はどうもね。お先に!」
快活な声とともに、日常の色合いと物音が戻ってきた。美紗が声のした方を見ると、吉谷が手を振りながら更衣室を出て行くところだった。
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