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日常
選択-5-A-
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「アルノシト、あの書類は?」
問いかけられてびくっと肩が跳ねる。
「はい、ここに──」
多少もたつきはしたが、間違えずに渡せた。さっと目を通した後、礼を述べてルートヴィヒはペンを走らせる。
「……」
かりかりと文字を書く音が響く執務室。
所定の位置へと戻ったアルノシトへと、エトガルが無言のまま片目を閉じて笑みを向ける。少しばかりの茶目っ気と励ましとに自然とアルノシトの表情は緩んだ。
だがそれも一瞬。すぐに真剣なものに戻り、背筋を伸ばして次の指示を待つ。
祖父と共に屋敷へ来たあの日。翌日、屋敷を出たのは祖父とジークだけだった。一人残ったアルノシトは「エトガルの助手」として、住み込みで働くことになったのだ。
そうして、ルートヴィヒの傍で働くことになってはや数ヶ月。
最初は「一般的な礼儀作法を覚えること」から始まった。社交界の常識その他、今まで知る由もなかったあれこれを覚えるだけで過ぎていく毎日に焦ることもあったが、エトガルとルートヴィヒ、それに屋敷の者達に支えられて何とか形になった。
その次は車の運転。それから──
あまりにも知らないことが多過ぎて、自分はどうやって今まで生きて来たのだろう。なんて哲学的な事を考えたりもしたが、今はかろうじて「助手」の体裁は整えられた──ように思う。
とはいえ、エトガルに比べればまだまだ質も量もこなせない。困った時にさりげなくフォローしてくれる彼と、ルートヴィヒの存在がなければ、何も出来ない子供と同じである。
──改めて。自分とは住む世界が違うのだと見せつけられる毎日。一人なら、とっくに心が折れて帰っていたかも知れない。
だが、この屋敷の者達は、厳しくはあるが冷徹ではない。足の運び、話し方などの練習に付き合ってくれる執事やメイドたち。わざと食べにくい料理を作り、食べ方のコツや食器の使い方を教えてくれた料理長。
他にも多分。自分で気付いていないだけで、色々な人が自分を助けてくれている。
それもこれも全て──ルートヴィヒのおかげ。
屋敷の使用人達に紹介された時。ずらりと並んだ面々を前にして、ただ頭を下げるしか出来なかった。がちがちに固まっていた自分に対しても、呆れるでも怒るでもなく「ルートヴィヒ様の傍に居ても恥ずかしくないように」と、皆が手を差し伸べてくれた。
一つずつ出来る事が増える度、喜んでくれた。
時折、祖父に書いていた手紙に泣き言が一切なかったのは、安心させるための嘘ではない。本当に、この屋敷でよくしてもらっていたから。
強調すると返って嘘くさくなるかと思い、さらっと書くだけにとどめてはいるが。
「──午後の予定は?」
エトガルの代わりに読み上げた。普段なら、すぐに下がれと言われるのだが、今日は考える間が空く。何か間違えただろうかと不安になる一歩手前で、ルートヴィヒがエトガルを見る。
「ユルストレーム夫妻なら……大丈夫かと思うが」
「……せやな。ええんちゃう?」
顔を見合わせて頷いた二人が、同時にアルノシトを見た。
「アルノシト。今日は君を──紹介しようと思う」
「え……?」
ルートヴィヒとエトガルは、上司と部下、幼馴染の切り替えが早い。アルノシトはまだ、仕事中の助手としての自分と、恋人──伴侶と言うには、まだ足りないと自覚しているから──としての自分の切り替えがうまく出来ないから、どちらの態度で接すればいいのか迷ってしまって、奇妙な言葉遣いになってしまう。
「今日の午後の予定。ユルストレーム夫妻とのお茶会で、君を私の助手だと紹介しようと思う」
今までは、エトガルの後ろで何も言わずに控えているだけだった。仕事の流れを見るだけで言い、といわれ、質問も何もせず、ただ立って待っているだけの役割。
時折、あれは誰だと聞かれても、見習いとしか言ってもらえなかったのだが、今日はどうもそうではないらしい。
「夫妻なら、多少の粗相をしても多めにみてくれるだろうし……何より、君もそろそろ自分で話すことを練習しなければ」
「そないな顔しなって。ユルストレームさんは、おおらかやし、多少なんかやっても、あらあらまあまぁで許してくれるから」
エトガルの明るい物言いにもぎこちなく笑ってしまう。助手である自分が何か問題を起こしたら、それはエトガル──そしてルートヴィヒの問題になってしまう。
頭の中でぐるぐると考えてしまいそうになり、慌てて頭を振った。
「──大丈夫、です。やらせてください」
覚悟を決めて言葉を紡ぐと、エトガルとルートヴィヒが目を軽く見開いた。ほんの少しの間を置いて、エトガルが笑い出す。
「アルのそういうとこ、俺好きやわー。全力でフォローするから」
軽く肩を叩いたエトガルが部屋を出ていく。多分車を準備するのだろう。慌てて後を追いかけると、一人残されるのはルートヴィヒ。
「……」
行き場のなくなった手をひらりと振ってから座り直す。先程までペンを走らせていた書類。書類を渡す時の少しおどおどとしたアルノシトの姿と、覚悟を決めたアルノシトの姿を重ねて一人笑みを深めた。
問いかけられてびくっと肩が跳ねる。
「はい、ここに──」
多少もたつきはしたが、間違えずに渡せた。さっと目を通した後、礼を述べてルートヴィヒはペンを走らせる。
「……」
かりかりと文字を書く音が響く執務室。
所定の位置へと戻ったアルノシトへと、エトガルが無言のまま片目を閉じて笑みを向ける。少しばかりの茶目っ気と励ましとに自然とアルノシトの表情は緩んだ。
だがそれも一瞬。すぐに真剣なものに戻り、背筋を伸ばして次の指示を待つ。
祖父と共に屋敷へ来たあの日。翌日、屋敷を出たのは祖父とジークだけだった。一人残ったアルノシトは「エトガルの助手」として、住み込みで働くことになったのだ。
そうして、ルートヴィヒの傍で働くことになってはや数ヶ月。
最初は「一般的な礼儀作法を覚えること」から始まった。社交界の常識その他、今まで知る由もなかったあれこれを覚えるだけで過ぎていく毎日に焦ることもあったが、エトガルとルートヴィヒ、それに屋敷の者達に支えられて何とか形になった。
その次は車の運転。それから──
あまりにも知らないことが多過ぎて、自分はどうやって今まで生きて来たのだろう。なんて哲学的な事を考えたりもしたが、今はかろうじて「助手」の体裁は整えられた──ように思う。
とはいえ、エトガルに比べればまだまだ質も量もこなせない。困った時にさりげなくフォローしてくれる彼と、ルートヴィヒの存在がなければ、何も出来ない子供と同じである。
──改めて。自分とは住む世界が違うのだと見せつけられる毎日。一人なら、とっくに心が折れて帰っていたかも知れない。
だが、この屋敷の者達は、厳しくはあるが冷徹ではない。足の運び、話し方などの練習に付き合ってくれる執事やメイドたち。わざと食べにくい料理を作り、食べ方のコツや食器の使い方を教えてくれた料理長。
他にも多分。自分で気付いていないだけで、色々な人が自分を助けてくれている。
それもこれも全て──ルートヴィヒのおかげ。
屋敷の使用人達に紹介された時。ずらりと並んだ面々を前にして、ただ頭を下げるしか出来なかった。がちがちに固まっていた自分に対しても、呆れるでも怒るでもなく「ルートヴィヒ様の傍に居ても恥ずかしくないように」と、皆が手を差し伸べてくれた。
一つずつ出来る事が増える度、喜んでくれた。
時折、祖父に書いていた手紙に泣き言が一切なかったのは、安心させるための嘘ではない。本当に、この屋敷でよくしてもらっていたから。
強調すると返って嘘くさくなるかと思い、さらっと書くだけにとどめてはいるが。
「──午後の予定は?」
エトガルの代わりに読み上げた。普段なら、すぐに下がれと言われるのだが、今日は考える間が空く。何か間違えただろうかと不安になる一歩手前で、ルートヴィヒがエトガルを見る。
「ユルストレーム夫妻なら……大丈夫かと思うが」
「……せやな。ええんちゃう?」
顔を見合わせて頷いた二人が、同時にアルノシトを見た。
「アルノシト。今日は君を──紹介しようと思う」
「え……?」
ルートヴィヒとエトガルは、上司と部下、幼馴染の切り替えが早い。アルノシトはまだ、仕事中の助手としての自分と、恋人──伴侶と言うには、まだ足りないと自覚しているから──としての自分の切り替えがうまく出来ないから、どちらの態度で接すればいいのか迷ってしまって、奇妙な言葉遣いになってしまう。
「今日の午後の予定。ユルストレーム夫妻とのお茶会で、君を私の助手だと紹介しようと思う」
今までは、エトガルの後ろで何も言わずに控えているだけだった。仕事の流れを見るだけで言い、といわれ、質問も何もせず、ただ立って待っているだけの役割。
時折、あれは誰だと聞かれても、見習いとしか言ってもらえなかったのだが、今日はどうもそうではないらしい。
「夫妻なら、多少の粗相をしても多めにみてくれるだろうし……何より、君もそろそろ自分で話すことを練習しなければ」
「そないな顔しなって。ユルストレームさんは、おおらかやし、多少なんかやっても、あらあらまあまぁで許してくれるから」
エトガルの明るい物言いにもぎこちなく笑ってしまう。助手である自分が何か問題を起こしたら、それはエトガル──そしてルートヴィヒの問題になってしまう。
頭の中でぐるぐると考えてしまいそうになり、慌てて頭を振った。
「──大丈夫、です。やらせてください」
覚悟を決めて言葉を紡ぐと、エトガルとルートヴィヒが目を軽く見開いた。ほんの少しの間を置いて、エトガルが笑い出す。
「アルのそういうとこ、俺好きやわー。全力でフォローするから」
軽く肩を叩いたエトガルが部屋を出ていく。多分車を準備するのだろう。慌てて後を追いかけると、一人残されるのはルートヴィヒ。
「……」
行き場のなくなった手をひらりと振ってから座り直す。先程までペンを走らせていた書類。書類を渡す時の少しおどおどとしたアルノシトの姿と、覚悟を決めたアルノシトの姿を重ねて一人笑みを深めた。
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