俺が想うよりも溺愛されているようです。

アオハル

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過去話

始まりの前-A-

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 アルノシトの両親は共働き。
 職場で知り合い、それが縁となって結婚、自分が生まれたと聞いている。だから出勤も一緒だし、帰ってくる時も一緒だった。

 そんな風にいつも一緒にいた二人だったから、死ぬ時も一緒で良かったのだと思う。

 いつもと同じように祖父母の雑貨店に預けられた後。笑顔で行ってきます、と出かけて行ったのが覚えている最後の姿。
 その後、爆発音が響いて周囲が騒然となった。

 当時子供だったこともあり詳細なことは覚えていないが、路面電車の内燃機関に問題があり、それが原因で電車が爆発、周囲を巻き込んで大惨事になったらしい。
 連日テレビも新聞もその話題で持ち切りとなり、どこを見ても頭を下げている大人が写っていて、少し可哀想だな、と思ったのも覚えている。

 自分が最後に見たのは、いつもと同じように明るく笑う両親の姿。
 遺体の損傷が激しいからと亡くなった後の姿は見せてもらっていないから、いなくなったという実感が持てなかったのかも知れないし、祖父母の落ち込み方が激しかったから、逆に冷静になれたのかも知れない。

 これが唯一残ったものだと、涙を流しながら祖父が渡してくれた溶けて繋がった一対の指輪。
 哀しみや寂しさよりも、最後の瞬間まで一緒にいたのだと分かったことに安堵した。自分には祖父母もいる。だから大丈夫だと告げた時、祖父母に抱き締められて戸惑ったことも今となっては懐かしい。

 ────そんな事故の日から少し経った頃の話。

 凄惨な傷跡は完全になくなったわけではないけれど、それでも修復された路面電車に乗り、まだ崩れている道路を歩いて人々は日々の暮らしを営むようになっている。

 祖父母に引き取られた自分も、雑貨店の手伝いをすることに慣れてきた。とはいえ、一番の本分は学業だと言われて、簡単な荷物運びや棚の整理くらいしか手伝わせてくれないのだが。
 今日も学校から帰った後、店番をしている犬のジークと少し遊んでから宿題を片付けにかかる。
 勉強よりも店の手伝いの方が楽しいんだけどな、なんて考えていては進むものも進まなかったから、思い切って場所を変えてみることにした。
「ちょっと出かけてくるね。晩御飯までには帰るから」
 宿題と筆記用具一式を鞄に入れて外に出た。
 祖父母にも言っていないのだが、アルノシトには特技と言えることが一つある。
 いわゆる、抜け道、近道を探し出すのが得意なのだ。なんとなくこっち、で選んだ道がおかしな場所に出たことは一度もない。
 学校の帰り道に寄り道をして自分だけの「秘密の場所」を見つけるのがささやかな趣味でもあった。
 今日はそんな「秘密の場所」の一つで宿題をしよう、と思って足を向ける。

 何年か前に売りに出されたままの屋敷。いつのまにか、「販売中」の看板はなくなっていたけれど、植物に覆われた外観は変わっていない。学校ではお化け屋敷だとあだ名されているが、中はそれほど傷んでいなかった。
 ぱっと見、植物に覆われて入れる隙間も出入口もなさそうだが、アルノシトだけの抜け道を通れば家の中まで行くことが出来る。
 かつてのリビングだったであろう場所には、ソファとテーブルが置かれたままで意外と居心地は良かったのだ。掃除をしてそれなりに使えるようにはしておいたので、そこで勉強しよう。
 そう思って向かったのだが……

──誰かいる?

 家の中に入った瞬間の違和感。今まで感じたことがなかったから、うきうきとした足取りが自然と忍び足になった。
 このまま回れ右をして抜け出そうと思ったが、危険な気配は感じなかったから少し考える。
 今まで何度かこういった「秘密の場所」を見つけた経験から、ホームレスや犯罪者はじめ、誰か人の気配がある場所、特に危険な場所には特有の気配がある──気がしている。
 そういったものではなかったから、もしかしたらうっかり迷い込んでしまって困っているかも知れない。とりあえず、目的のリビングだけ見てから決めよう。
 そろそろと歩き出す。リビングルームへの扉が開いたままになっている。
 前回来た時はきちんと閉めたはず。そう思って、こっそりのぞき込んだ。

 ────いた。

 ソファに座っている人物。自分よりも年上ではあるが、大人ではない。が、少年というには大人びて見える。ソファに深く腰かけ、足を組み、肘掛けに肘をついている。
 目閉じて項垂れているから眠っているのかと思ったが、不意に顔を上げた。
「誰かいるのか?」
 まっすぐにこちらを見る青い眼。問いかけられて素直に前に出た。驚いたような表情を見て頭を下げる。
「ごめんなさい。誰も住んでいないと思って……俺のひみつきちにしていました」
 正直に答える。ソファに座っていた男はふぅ、と大きく息を吐き出した。
「いや……別に構わない。誰も住んでいないのは確かだし……ただ、手入れもしていなかったから埃っぽかっただろう?」
「……だから、時々そうじをしてたんです」
「なるほど。それで予想していたよりも綺麗だったんだな」
 見た目もだが、言葉遣いも妙に大人びている人だ。自分へと向けられる眼はどこかしら寂しげに見えるのは、大人びた物言いのせいだろうか。
 追い出そうとも出て行こうともしない相手を見て少し迷った後、持っていた鞄を持ち上げて見せた。
「……えっと。これからもここで勉強してもいいですか?」
 中に入っていたノートと筆記用具も取り出すと、相手はふ、と小さく微笑んだ。
「あぁ。……せっかくだ。私が見てあげよう」
「本当に?!ありがとう」
 実のところ勉強は苦手──というか嫌いだった。単純に先生が好きじゃない、という理由だが。
 いそいそとソファに座ってテーブルにノートを広げる。と同時に隣の彼が噴出した。
「……私が悪い人だったらどうするつもりだったんだ、君は」
「?お兄さん、わるい人なの?」
 今度はこちらがきょとんとした。ふむ、と何か考えた後、彼はゆっくりと頷いた。
「そうだな……人によっては、極悪人と私を呼ぶかも知れない」
「でも……わるい人だったら、しゅくだいをてつだおう、なんていわないと思う」
「……君を油断させて傍に来させるためかも知れないとは思わないのか?」
「どうして?」
 黙る。少し逡巡した後、ノートへと視線を落とす。
「世の中には……君くらいの年齢の子を誘拐して、よその国に売り飛ばす連中もいるから。次からは気をつけなさい」
「そうなんだ。ありがとう、おしえてくれて」
 やっぱり悪い人には見えない。変なことをいう人だ。
 そんな印象。とりあえず、宿題を教えてもらおうと、わからない部分を指し示す。ある意味子供らしい切り替えの早さだが、それに呆れるでも怒るでもなく向き合おうとしているこの人は、本当に悪い人ではないのだろう。

「……それなら、この公式を使って──」
 教科書とノート。こことここ、と指で示しつつわかりやすく丁寧に教えてくれる。あれだけ学校では理解できない、したくない、と思っていた問題がするすると解けていくことにアルノシトは笑顔になった。
「すごい!お兄さん、すごいね」
 全然進まなかった宿題があっという間に片付いた。ついで、と言ってはなんだが、授業でわかりにくかったことも質問してみたが、それもあっさりと片づけられる。
「お兄さんのおかげで、しゅくだいぜんぶおわっちゃった。本当にありがとう!」
 広げた道具を片付けながら笑う。毎回、こんな風に教えてくれる人がいたらいいのに。
 そんな独り言にも眼を細めていたが、片づけ終わるのを見るとゆっくりと立ち上がった。
「どういたしまして。そろそろ私は行くが──君はどうする?」
「俺も帰るよ。ばんごはんまでには帰るってやくそくしたし」
 鞄を持って、忘れ物がないか周囲を確かめる。
「良ければ送っていくが?」
「一人でかえれるから大丈夫。ありがとう、お兄さん」
 提案を断って首を左右に振った後、あ、と声を上げた。
「おひるねのじゃまをしてごめんなさい……それと。もし、良かったらまたべんきょう、おしえてほしいです」
 学校の先生よりもずっとわかりやすかった。
 素直な言葉と真っ直ぐに向けられる感情。やや間をおいてから、彼はゆっくりと頷いて返した。
「来週もこの時間に来よう。……もちろん、それまでは自由に使ってくれて構わない」
「本当に?!ってことは、ここはお兄さんの家なの?」
 そうではない、と首を左右に振った。
「私はここに住んでいないから……家かと聞かれたら違う、となるが。私の所有物であることは間違いない」
 難しいことをいう。とアルノシトの眉間に皺が寄せられたのを見て、ふ、と笑った。
「とにかく。もう少しきれいに掃除しておこう。他に欲しいものがあれば用意するが?」
「……んー…あ」
 名前。
 散々に質問をしていて今更だが、名を聞いていなかった。
「俺はアルノシト=クベツと言います。お兄さんは?」
 沈黙。やや間をおいてから
「私は──オストグ」
「それじゃオストグさん。またね」
 一礼してから抜け道へと向かう。色々と質問するのが楽しくて少し遅くなってしまった。
 やや急ぎ足で家へと戻ると、いち早く気配に気づいたジークが吠える。
「ただいま、ジーク。おばあちゃん。遅くなってごめんね」
「お帰り。先にご飯にするかい?」
 看板を片付けていた祖母の質問に首を左右に振る。
「先にジークのおさんぽに行ってくるよ。おなか空いてた方が、ごはん、おいしいから!」
 ワン、とジークも同調するように尻尾を振る。気を付けて行っておいで、の声を背に、リードをもって歩き出した。

 不思議な人──オストグと出会ってから二日後。また秘密の場所を訪れたアルノシトは目を丸くしていた。
 外観は以前とは変わっていなかったのだが、勉強に使っていたリビングだけは綺麗に掃除され、新しいソファとテーブルが置かれていた。
 新しいテーブルの上にメモが一枚。

 ────ここでべんきょうをがんばるといい。何かあればかいておいて。

 綺麗で読みやすい文字。難しい言葉を使わず、子供の自分でも読みやすい文章。名前はなかったが、オストグと名乗ったあの人のものだろう。真新しい紙の束とペンとインク。
 一度しか逢っていない。しかも不法侵入していた子供相手に対するにはどれもきちんとしたもので、几帳面というか、誠実な人なのだと思える。
 宿題をすることも忘れてメモを読み返した後、鞄から筆記用具を取り出して返事を書き連ねる。

 ────ごはいりょ、ありがとうございます。べん強がんばります。この前、おしえてもらったところは、先生にもほめられました。

 確か祖父が取引先に対してこんな感じのことを書いていたはずだ。
 子供なりの背伸びをした文章。並べると文字の拙さが目立つが、読めないということもないだろう。
 先に置かれていたメモの横へ並べた後、宿題に取り掛かった。

 アルノシトと出会った謎の人物──オストグと名乗った人物。
 あの時名乗ったのは偽名。とっさにお化けghostを並び替えた名を名乗ったが、子供らしい純真さで深く追及をされなかったことに安堵していた。

 本名はルートヴィヒ=ベーレンドルフ。ベーレンドルフ財閥の十四代目総帥となったばかりの人物である。

 15という年齢は、大人であるとも子供であるともいえる微妙な年齢だが、彼の場合は「大人」としての振る舞いを求められた。
 それも、並の「振る舞い」ではない。

 ────連日新聞やニュースを騒がせている「路面電車爆発事故」
 
 迅速に、かつ最善の手を打つように。対応が遅れれば、その分ベーレンドルフという名の信頼も落ちていくことになる。
 十三代続いた財閥を自分の代で終わらせることにならぬように。十四代目としての責務を果たせ。

 そういって責め立てる周囲の大人達は一体何をしたのだろうか。事故現場でがれきの一つでも拾ったのだろうか。原因の究明のために、内燃機関の構造の見直しを、再発防止のための整備の手順等の改善他、何か一つでも現場の人間に指示を出したのだろうか。
 何もせず、ただ自分や両親を責めているだけで「責任」を果たすことになるのであれば、どれだけ楽な生き方なんだろう。
 喉まで出かけた言葉を飲み込むことが精一杯。押し殺した声で「わかりました」と頭を下げた後、同じ空気を吸うのも嫌で部屋を飛び出した。
 
 連日のニュースや新聞、人々の口さがない悪意に晒され、元々病弱だった父は失意のうちにこの世を去った。
 最期の瞬間まで自分の手を握り、不甲斐ない父親であることを詫びながら。

 父のことを不甲斐ないなどと思ったことは一度もなかった。とても優しく強い人だった。
 自分にも母にも。屋敷で働いている使用人たちも含めて、その日の気分や気まぐれで怒鳴ったり、困らせたりするようなことは一度もなかった。唯一、母に対してのあまりの対応に声を荒げたことがあるくらいだ。
 母もそうだ。生まれつき体の弱かった父へと献身的に尽くした母がいたからこそ、父はこの年まで生きることが出来たと常々言っていた。

 それを身分がどうとか、くだらないことで責め立てた周囲の人間を敬うことなど、自分には一生出来そうもない。

 気丈な母は自分や父親の前では常に優しく、笑顔の人だった。周囲の悪意にも嫌悪感を見せることはなく、ただ父と自分のことだけを気遣ってくれていた。
 連日の悪意に晒され、見る見るやせ細っていく父を見る母の顔。自分が覚えている限り、あんなに辛そうで悲しそうな顔をした母は後にも先にも見た記憶がない。
 今後も見ることは出来ないだろう。
 
 父が亡くなってから2ヶ月後。書置きだけを残して姿を消したのだ。

 父が母へと贈った宝石もドレスもすべて置いたまま。高価な物には何一つ手を付けることはなく、ただ一つ持って行ったのは、父が母のために依頼して作って貰ったというレースのハンカチ一枚。
 小さな文字で「自分勝手な母親でごめんなさい」と書かれていたことは周りには伏せてある。これ以上、あの人の愛情をくだらない連中に汚されたくなかった。
 
 両親を取り巻く悪意も何もかも。分かっていても自分ではどうすることも出来なかった様々な事象すべて。
 それこそ、己の身すら嫌悪感でつぶしてしまいたくなるほどのどす黒いものが沸きあがってくる。

 だが、自分で自分をつぶしてしまう訳にはいかない。ここで自分が逃げ出せば、あの無能な連中が好き勝手やるだけだ。
 財閥の存続等、心底どうでもよかったが、屋敷で働いてくれている者達を始め、事故現場での原因究明のために石を投げられて、罵声を浴びても瓦礫をかき分け、部品を回収して研究を続けてくれている者達。
 
 ────大丈夫ですよ、坊ちゃん。旦那様の汚名は、俺たちが雪いでみせますから。

 そういって笑う彼らに報いたい。そして父の名を悪意と失意から救いたい。

 それだけを支えにして来た。

 父の喪が明けた後、積極的に取材にも応じた。理不尽な質問にも冷静に。隙を見せぬよう入念に準備を繰り返し、わずかな綻びも見せぬように。
 内燃機関の問題点、整備不良が起きた原因。それらすべてを包み隠さず公開することで事故の再発防止に尽くしていることを内外に知らしめた。

 ベーレンドルフの名に連なる者達への差別や偏見。彼らを謂れのない悪意から守るためだけに全力を尽くしてきた。

 だが、自分が努力すればするほどに、父の汚名を雪ぐことが出来なくなる。
 父と違ってルートヴィヒは優秀だ──そんな言葉を聞くたびに耳を塞ぎたくなる。かつて父を打ちのめした報道陣は、ルートヴィヒの賞賛のために更に父を貶めていく。

 一体自分は何のために努力しているのか。そうじゃないと言いたくて、努力すればするほどに己の願いとはすれ違っていく結果に正直なところ限界がきていた。
 いっそこのままどこかに消えてしまおうか。ベーレンドルフの名など捨てて、母を探し出して二人でどこかひっそりと父を弔いながら暮らしたい。

 なんて馬鹿げた夢物語だと分かっていても、屋敷に居ることが辛くなって抜け出してしまったのだ。

 ボディーガードである幼馴染にも行き先は告げず、父が母と暮らそうと買い求めた屋敷へと向かった。
 結局、屋敷は最低限の手入れのみで改装工事をされることもなくなったのだが、この場所を知っているのはごく一部の者だけで、仮に探しに来るとしても、気のおけない者達だけだ。

 この場所なら一人になれる。そう思って忍び込んだ先で見知らぬ少年────アルノシトと出会った。

 誰もいないと思っていた場所での予想外の出会い。立ち去ろうと思ったが、あまりの屈託のなさがまぶしく見えてそのまま会話を続けた。
 何の疑いもなく隣へと座られたことには面食らったが、多分、「普通」というのはこういうものなのだろう。
 単純な数式を解いただけで眼を輝かせて質問を投げてくる子供らしい所作にどろどろとしたものが幾分和らいだのは事実。
 本来ならば不法侵入の咎を問うべきなのだろうが、この少年との会話をもう少し楽しみたい。

 そう思って、来週も来ると言ってしまった。とはいえ、放置されていた屋敷の中は埃っぽいだけではなく安全面でも問題があるだろう。
 仮に自分がいない間に事故が起きては───と、祖父の代からの付き合いである執事に相談して、リビングだけでも整えてもらったのだ。

 今度からこの日だけはこの場所で息抜きをする。

 と、居場所を伝えることにはなったが、よほどの用事でなければ来ないように、とも伝えておいたから、横やりが入ることも早々ないだろう。

 そうして「ささやかな息抜き」のため、週に一度行方不明になる生活が始まったのだ。

 『秘密基地』で不思議な人に勉強を教えてもらうようになってから数か月。
 アルノシトの学校の成績はお世辞にもいいとは言えなかったのだが、オストグルートヴィヒのおかげで見る見る成績上位者に名を連ねるようになった。
 祖父母も喜んでくれるし、クラスの友人達にも褒められて悪い気はしない。
 ただ────自分の努力、というよりは、オストグのおかげだということを黙っていることに気持ちが少し落ち込んでしまう。

 自分のことは口外しないで欲しい。

 そう言われているから、祖父母にすら告げてはいないのだが、何となく後ろめたい。
「……どうした?わかりづらかったか?」
 問いかけられて顔を上げる。違う、と首を左右に振った。
「ううん。そうじゃなくて……あのね」
 自分の学校での評判のこと。周りの評価のこと。喜んでくれることは嬉しくもあるが、それがオストグのおかげだと告げられないもどかしさのこと。
 順序だててわかりやすく、とは程遠い説明だったろうが、オストグは最後まで黙って話を聞いてくれた。
「────君は優しい子だな」
 自分の手柄だと誇ることもできるだろうに。それをせずに悩む純真さが眩しくて眼を細めた。
「君の気遣いは嬉しいが……私がどう教えようと、身につくかつかないかは君にかかっている。私の言ったことを理解して、生かせているなら、それは君の力だよ」

 だから気にせず誇っていい。

 そう伝えたのだが、アルノシトは納得しない。
「だって。俺は勉強嫌いだったんだよ。学校なんて早く卒業して、おじいちゃんの雑貨店の手伝いをしたいってずっと思ってた」
 軽く頬を膨らませる。
「それが、今は勉強も面白いって思うし、もっといろんなことを知りたいって思ってる。オストグさんのおかげだよ?」
 うんうん、と難しい顔で頷いた後、じっとオストグを見上げた。
「だから、オストグさんはもっと自信もって。俺のおかげでアルノシトは勉強が好きになったんだって言えば、きっと家庭教師とか、学校の先生とかにもなれるし……後、なんだろう。とにかく、もっと周りの人から褒められると思う」
 思わず吹き出してしまう。急に笑われたことに、きょとんとしているアルノシトの肩を軽くたたいた。
「いや…すまない。アルノシトには、私がそんなに自信なさげに見えるのか?」
 問い返されて数度眼を瞬かせる。うーんと少し考えた後、難しそうな顔をする。
「……自信がない、とは違うのかな。でも……」
 迷っているように見える。
 やや間をおいてから紡がれた言葉。今度はオストグが眼を丸くした。
「…………、そ、うか。そうだな」
 大きく息を吐き出した後、表情を改める。今までにない真剣な表情にアルノシトも居住まいをただした。
「これから話すことはとても大事な話だ。……答えられなければそれでもいい。だから聞いて欲しい」
「……うん……じゃなくて、わかりました」
 真剣な雰囲気に気圧されたのか、言い直される言葉遣い。もう一度息を吐いた後、口を開く。
「君は……先日起きた、路面電車の事故を知っているだろうか?」
 路面電車の事故。
 アルノシトの目が見開かれる。小さく震えた後、ゆっくりと頷いた。
「あの事故を────どう、思っている?」
 酷な質問かも知れない。
 直接に聞いた訳ではないが、アルノシトの会話には父と母のことは出てこない。常に祖父母の話ばかりだ。
 もしかしたら、と脳裏によぎらなかった訳ではない。もちろん、全く関係のない理由で、何か特殊な事情で祖父母の家に預けられているのかも知れない。
 だが────もしかしたら。彼の両親は────
「…………よくわからない」
 長い沈黙の後、静かに答えが返ってくる。
「俺の……父さんと母さんはあの電車に乗っていて……それで、じいちゃんとばあちゃんが凄く泣いてて」
 だから多分、いい思い出ではない。
「────でもね。……父さんや母さんのことより……あの時、ニュースも新聞もずっと一人の人をいじめてて。それがとても嫌だなって思ってた」
 自分にもどこかの新聞だかテレビ番組だかのインタビューが来たことがある。珍しく祖父母が強い口調と言葉を投げていた。
 そんな二人を意に介することもなく、自分にマイクを向けた記者が放った一言。

 ────あの事故でご両親を亡くされたそうですが、今のお気持ちを正直に答えてください。

 確かそんな質問だったと思う。祖父が怒りのあまり言葉をなくして拳を震わせていたのは覚えている。
 殴りかかろうとしたのを祖母が必死にとめていて、自分も思わず「おじいちゃん、やめて」と言った……ような気がするが、そこは少し曖昧だ。
「────だから。正直に言ったんだよ。父さんや母さんのことはよくわからないけど。皆でよってたかって一人の人をいじめているのは可哀想だなって思うって」
 でも。
「俺の言ったことはどこにも取り上げられなくて。相変わらず、テレビや新聞では一人の人をいじめていて」
 あはは、と困ったように笑う。
「ごめんなさい。なんか……うまく言えないけど。────あの人が、今はいじめられていないといいな、って──」
 言葉が途切れたのは、強く抱きしめられたから。息が詰まる程の強さで抱きしめられて動きが止まる。
「オストグ、さん?」
 答えはない。ただただ強く抱きしめられて、どうすればいいのか分からなくなる。
 顔も見えない。声も聞こえない。でも、抱きしめる腕が震えている。声をかけるのも憚られて、おずおずと背中に腕を回すと、ゆっくりと撫でた。
「────すまない。もう少しだけ」
 絞り出した声が震えている。泣いているのかと思ったが、確認はせず、ただそっと背中を撫で続けた。
 どれくらいそうしていたか。ようやく腕が緩んだが、顔を隠すように肩に額を押し付けられる。まだ辛いのかな、と今度はそっと抱き締める。
「………ありがとう。もう、大丈夫だ」
 静かに身体を離した。顔を見上げると目が赤いし、少し潤んでもいる。
 やっぱり泣いていたのだろう。でもどうして。
 浮かんだ疑問に答えることなく、オストグは立ち上がった。
「────アルノシト」
「?」
 真剣な響き。だが、質問を投げられた時とは違い、どこか晴れ晴れとしたものも感じる。
「────君のおかげで、私は針の山でも笑顔で登れそうだ」

 自分と母親。そして直接働いていた者達。父親のことを非難しないのは、そうやって直接かかわったことがある人間の中でもごく一部の者だけなのかと思っていた。
 だが──ここに居たのだ。ただ「可哀想だ」と。打ちのめされる父の姿に心を痛めてくれた人が。

 そうか。自分が欲しかったのは、ただ────

「……?」
 困惑している気配を悟ったのだろう。オストグは振り返ると、今まで見たことがないような穏やかな笑みを浮かべた。
「────本当に有難う。君の人生がこの先…穏やかであるように。そう祈っているよ」
 静かに額へと口づけた後、オストグは部屋を出て行った。残されたアルノシトはただぼんやりと扉を見つめる。
 どれくらいそうしていたか。差し込む日の色が赤になってから、ようやく立ち上がる。
「……帰ろう」
 どれだけ考えてもわからない。でも──なんとなく。オストグはもうここへ来ないのではないかと思った。
 それはきっと、自分のことを嫌いになったとか、何か嫌なことがあったとか。そういう理由ではなくて。
 オストグにとっては、とても良いことが起きたからだと。不思議なことにそう思えて寂しさはあまりなかった。
「……今日はローストポークだって言ってたっけ」
 現金なもので、祖母の得意料理を思い出すと腹の虫が鳴る。荷物をまとめた後、部屋を出る直前にもう一度中を見つめてから扉を閉めた。

 あの後。予想通り、オストグが訪れることはなくなった。
 置かれていたメモには今後忙しくなること。直接会うことは難しくなるが、あの部屋は自由に使っても構わないこと。
 他にも何か書かれていたが、オストグがいない部屋に行く気になれず、知らぬ間に足が遠のいてしまっていた。
 そうして、気づけば、お化け屋敷は解体され、新しいビルが建ち。あの場所で何があったのか。なんて思い出すこともなくなって、アルノシトも大きくなった。

 ────祖母も他界し、犬のジークも代替わりした。祖父の頭にも白いものが増えたが、小さな雑貨店の店構えは変わっていない。

 そんな祖父を手伝う日々の中。本人も忘れていた縁が繋がるのはもう少し後のことである。
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