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日常

初デート-A-

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「一か月後、私に時間をくれないか?」
 そう言われたのは、ちょうど一か月前の夜だった。

 まだ一か月、と思っていたら、いつの間にか当日になっていた感覚に眉を寄せて鏡を見る。
 一応、自分なりに「いい服」を見繕ってみたのだが……。
「……庶民の服、だよなぁ」
 がっくりと肩を落とす。何をもって「いい服」とするかは人それぞれではあるが、少なくともこの服で高級店と呼ばれる店に行けば門前払いを食らうのは明白。
「ルートヴィヒさんと比べるのがそもそもの間違いなんだろうけど」
 脳裏に浮かべた相手と自分とを比較して再びため息をついた。

 ルートヴィヒ=ベーレンドルフ。重工業を主としたベーレンドルフ財閥の十四代目総帥。
 飛躍的に財閥を大きくした何代目かの再来だの、いやそれ以上だの、なんだかんだと派手な噂には事欠かぬ有名人。
 総帥本人の名を知らずとも、ベーレンドルフの名前を聞いて「誰だ?」なんて言う人間はこの都市にはいないであろう。

 ──その人が今日の約束の相手なのだ。

 もう少し詳しく説明をするならば、世間一般的に「恋人」という間柄になる。さらに言えば、そういう関係になってから、初めて二人で出かける日でもある。
「……もうちょっと。オシャレとか、そういうのに興味持っておけばよかったのかなぁ」
 何度目かわからないぼやき。一応、服屋にいって見繕ってもらったりしたのだが、脳裏に浮かぶ相手の恰好に並び立って見落とりしない衣服……なんて、手が出せる値段のはずもなく。
 その中でも比較的良い、と感じたものを選んだのだが、いざ当日になってみると気後れしてしまって、朝からずっと鏡の前にいるのだ。

 どうしたものかと悩んでいる耳に、車のエンジン音が聞こえた。このあたりで車なんて高級品を持っている人はいなから、十中八九────

「アルノシト!お客さんがきたよ!」
「はーい。今行きます」
 階下の祖父の声に返事をしながら、階段を下りた。住居兼店舗の二階が自分の部屋。階段を下りればすぐに雑貨が並ぶ店舗内。
「おはようござい────」
 ます、と続けるつもりだったが、祖父と対峙している人物に視線を奪われ言葉が途切れた。
「おはよう」
 黒の髪に深く青い眼。耳に心地よく響く低い声。間違いなく「その人」なのだが。
「あ、おはよう、ございます。……」
 一瞬の間の後、ぺこりと頭を下げた。改めて顔を上げて視線を向ける。
 いつも着ている仕立ての良さそうなスーツではなく、ラフな格好──自分と同じようなシャツにベスト。タイすらしていない軽装。
 とはいえ、素材の質の良さや縫製の丁寧さから滲み出る高級感は自分と比べるべくもないが、それにしても珍しい恰好である。
 きっちりと固めている髪も下ろされ、普段よりも柔らかい印象を与える表情に、まるで初めて会う人のようにも見えて目を瞬かせた。
「まったく。人と約束しておいて、時間まで降りてこないやつがあるか」
 祖父の小言に我に返る。全くその通りで反論の余地はない。
「そうだね……お待たせして、ごめんなさい」
 再び頭を下げた。ふ、と小さく笑う気配。
「気にしなくていい。では、行こうか」
 当然のように差し出された手に自分の手を乗せて、祖父の前だということに気づく。が、長い指が自分の指へと絡められると、振りほどこうという気は失せた。
「……いってきます」
 さすがに顔を見るのは少し恥ずかしく背中を向けたままで告げて店を出る。何か話す間もなく、店の脇に止めてあった一台の車にたどり着いた。
 その車も、自分の知っている彼の所有車とは全く違う代物だ。地味──というか、そのあたりでたまに見かける車種。一般向けといっても、車という乗り物は十分に高級な代物ではあるのだが、普段ルートヴィヒが乗っているものと比べれば、大きさも目立つものではなかった。
 二人乗りが限度のそれ。つないだ指を離し、助手席の扉を開けたルートヴィヒに視線で乗車を促され車に乗り込んだ。
 ばたんと扉が閉じられ、運転席側へと回り込む姿を目で追う。彼が車に乗り込んだ後、シートベルトを締めようともぞつく。
「エトガルが、こちらの方がいい、と勧めてきたから、そうしたのだが──」
「……エトガルさんが?」
 ルートヴィヒ専属の運転手であり幼馴染である人物。大財閥の総帥という彼の肩書に物怖じせず、諫言を含めての物言いが出来る人物であり、自分にとっても友人と呼べる人でもある。
「服も車も。普段通りで行けば君が困る、と」
「あぁ…それで」
 合点がいった。
 確かにルートヴィヒの「普段通り」では、この辺り──だけではなく、街のどこにいても必要以上に目立ってしまうだろう。
 とはいえ、長身で目を引く彼の容姿は、服を少し変えた程度では誤魔化し切れない気もするが、そもそも「総帥」として顔を知っているものも少ない。
 名前を聞けば大騒ぎになるかもしれないが、この車と格好なら少し目立つ人がいる、くらいで押さえられるのではないだろうか。
「……君の様子を見るに、奴の判断は正しかったようだな」
 じ、と己を見つめる視線に気づいて顔を向ける。こちらを見ている青い眼と視線がぶつかった。
「………?」
 視線をそらされる。と同時にエンジンがかかった。徐々にスピードを上げる車に揺られながら、ほんのわずかの違和感にアルノシトは首を傾げた。
「そうだ」
 問いかけようとした先の声に口を閉じる。
「何をするかを相談していなかったから……勝手に予定を組んでしまったのだが。気に入らなかったら、遠慮なく言って欲しい」
 そういえばそうだった。

 一か月後に時間が欲しい。

 それしか聞いていなかったし、その後、どうしようか、なんて相談もしていなかった。
「っふ、……ふふ、確かに。決めるの忘れてましたね」
 自分はまだしも、何事もそつなくこなす印象のあるルートヴィヒまで忘れていたことが可笑しくて笑いだしてしまった。
 運転しているために前を見たままのルートヴィヒの目元も緩む。
「この日のために何としても仕事を片付けようと、そればかり考えていて……気づいたのは3日前になってからだった」
 申し訳なさそうな声の響き。自信に満ちて何事も迷いなく対処する姿ばかり記憶しているものだから、こんな些細なことですら新鮮に感じる。
「俺は今言われるまで思いついてなかったですから」
 大丈夫です、と笑み交じりの言葉を返すと、ほっとしたような気配。
「なら良かった。先程も言ったが、気に入らないことがあれば遠慮なく言ってくれ」
「はい」
 頷いて返す。どこへ行くにしても、彼が一緒であるならば心強いし、気に入らないなんてことは────

 ────ない、はずだったのだが。

 いや。正確には気に入らない訳ではない。なんというか、あまりにも「違い過ぎる」のだ。

 彼が普通と呼ぶ店は、自分からしてみれば「超高級」店。店の前を歩くだけでも緊張するというのに、店に入れば大尽扱い。当然のように個室に通された後の丁寧すぎる対応にもうろたえてしまう。
 店側としては、大得意先に万が一にも粗相があってはいけない、と気を遣うのは当然のことだと分かってはいるのだが、今までそんな立場にいたことがないアルノシトにとっては気を使われ過ぎて落ち着かない。

 自分がおかしなことをしては、ルートヴィヒにも恥をかかせると思えば思うほど、動きも硬くなってしまう。

「普通に」「いつも通りに」のレベルがここまで違うとは思ってもみなかった。

 とはいえ、萎縮ばかりしていたというわけでもない。

 こんな経験、めったにないのだから、どうせなら目一杯楽しんでやろう。

 開き直りかもしれないが、そう覚悟を決めた後は、肩の力も抜けて周囲を見る余裕が出来た。
 ルートヴィヒや店員に助けられて、アルノシトなりに楽しめたし、何よりも自分を大事にしてくれているのだと分かる心配りに内心にやけたり(これは実際に顔に出ていたかも知れないが)はしているので、落ち込んでいる訳でもない。
 驚いたり、困惑したりすることはどうしようもなかったのだが、それはそれ、と楽しんではいる。
 ふとした時に見える意外な一面も、予想以上の完璧な立ち居振る舞いも含めて、改めて一緒にいるのだと実感出来るのだから、「違い過ぎる」立場もそれはそれでいいかもしれない、なんて考えてしまう自分は楽観的過ぎるのかもしれない。
「次はどこに行くんですか?」
 いくつかの店や場所を回った後。すっかり助手席に座ることにも慣れ、運転する横顔に話しかける。
「あぁ……服を見ようと思っている」
「服?」
 ちらっとこっちを見た。運転中なので、すぐに視線は前に戻る。
「……君に。合う服を選ぼうと思って」
「俺に?」
 思わず自分の服を見た。その動きを横目でとらえていたのか、違う、と首を左右に振る。
「君の服が気に入らない訳じゃない。────私が服を贈りたい、と。そう思っただけだ」
 微妙な言い回し。
 今日は時々、こういうことがある。自分の勘違いかも知れないのだが、本当に言おうとした言葉を押し込んで、別の言葉をとってつけたような──そんな違和感。
「着いたぞ」
 尋ねようとすると、タイミングをはかったように目的に辿り着く。また聞きそびれて車を降りるが、店構えを見て一瞬足が止まる。

 ──高そう。

 下世話だが、どうしてもそう思ってしまう。それでも、最初の店の時よりは狼狽えずに差し出された手を握れた──と思う。
「お待ちしておりました」
 いらっしゃいませ、ではない出迎えの言葉。恭しく一礼して迎えてくれたのは、自分の祖父と同じくらいの年齢の男性。どちらが客かわからない物腰丁寧な立ち居振る舞いに思わず姿勢を正してしまう。
「今日は頼む」
 ルートヴィヒの方は気負う様子はない。顔見知り、というか馴染みの店なのだろう。二、三言言葉を交わした後、軽く肩を押される。
「私は私で服を選ぶから。君は君で選んでくるといい」
「え、あ、でも……」
 正直、値段が気になってしまう。彼にとっては子供におもちゃを買い与えるような感覚なのだろうが──
 さすがに店員の前で金銭の話を口にするのは憚られて視線をさまよわせていると小さな笑い声が聞こえた。
「君の言いたいことはわかるが──ここは私のわがままを通させて貰えないか?」
 そこまで言われて、頑なに遠慮するのもかえって失礼になるだろう。
「……わかりました。見違えるくらい立派になって戻ってきますね!」
 精一杯の冗談のつもり。ルートヴィヒが嬉しそうに笑ってくれたので、自分も笑みで返す。
「お待たせしました!よろしくお願いします」
 ずっと傍らで待っていてくれた老店員へと頭を下げると、彼は恭しく一礼をしてから、店の奥へと促してくる。
 店員に先導されるまま、一人で店の奥へと進んだ。案内された部屋には、トルソーや仕立てる前の生地、製図と思しき紙の束が置かれており、採寸のための部屋なのだと、疎い自分でも分かる。
 案内役の老人が退出した後、物珍しさに室内を見まわしたところで、声がかけられた。
「まぁまぁすみませんねぇ。お待たせしてしまって……ようこそお越しくださいました」
 図面の束の陰から現れた老女。小柄な彼女は自分の方へと小走りに駆け寄ってくると、優雅に一礼。慌ててこちらも頭を下げる。
「あ、いえ。こちらこそお世話になります」
 穏やかな彼女を見ていると、自分の祖母を思い出して少し肩の力が抜けた。言われるがままに腕を上げたり下げたり、前を見たり後ろを見たりと採寸指示に従っていく。
「さてさて。今日は何をお仕立てしましょうか。お好きな色は?デザインは?」
 鼻歌でも歌う様な明るさで質問を投げられて、え、と固まってしまう。

 考えていなかった。

 服を贈りたい、といったのはルートヴィヒだったから、既に話はついているものだとばかり思っていたのだ。自分は採寸だけすればいいと思っていた────

 なんてことが顔に出ていたのだろう。あらまぁ、と老女は目を瞬かせた後、楽し気に笑う。
「あらあら。それじゃ、おばあちゃんが選んでしまっても良いかしら?」
 いたずらっ子のように笑う。
 これまでの店員達とは違う親しみやすさにアルノシトも笑う。おそらく、この老女はルートヴィヒに対してもこんな調子なのだろう。
 砕けた口調だが決して不快ではない。自分にとっては心地良い距離感。
「はい。お願い──あ」
 全て任せてしまってもいいかと思ったところで言い直す。
「一つだけお願いが……」
「なぁに?なんでも言ってちょうだい」
 返事を待つ彼女を前に深呼吸一つ。
「……ルートヴィヒさんが。喜ぶようなものだと嬉しい……です……」
 顔が熱い。最後の「です」は、ほとんど聞こえなかったかも知れない。
 面と向かってこんなことを言うのはどうかとも思ったが、どうせ着るなら、あの人の好みに合った服がいい。
 そう思って告げた言葉に、老女は穏やかに微笑んだ。
「ええ、ええ。もちろん。坊ちゃんもだけど、貴方にも喜んで貰えるよう頑張りますからね」
「ありがとう、ございます」
 この人なら多分自分があれこれ注文をつけるよりも、いいものを作ってくれるだろう。
 安堵とともに肩の力も抜けた。採寸作業を再開しながら、老女が嬉しそうに笑う。
「そうねぇ……あなたの御髪おぐしと眼の色だと……うーん、でもこっちも捨てがたいわねぇ」
 彼女の頭の中でどのような衣服が作られているのかはわからないが、真剣に考えてくれていることはその表情や口調から十二分に判断出来る。
 あぁでもない、こうでもない、とつぶやきながらの採寸。一体何が出来上がるのか、気にはなるが、完成しいたものを見るのは一緒がいい。
 そう思って何も聞かぬままに一礼してから部屋を出る。
「完成したら、坊ちゃんにお届けしますから。楽しみに待っていてちょうだいね」
 満面の笑みに見送られて廊下へと。窓から見える景色は、ほんのりと赤に染まっている。もうこんな時間───
 時間の経過に気づくと、足をとめた。

「今日」が終われば──どうなるんだろう?

 一日が終わるということは、彼は彼の場所へ、自分は自分の場所へ戻るということで。明日にはもう傍にいないのだと気づいて、静かに左手を握りしめた。
 ひと月の間。離れていた時は何も思わなかったのに。一度、時間を共有すると、こんなにも感情が溢れるものなのかと心境の変化に戸惑いを覚える。

 とはいえ、ずっとこの廊下にいる訳にもいかない。自分がこうして考え込んでいる時間も含め、長い時間相手を待たせてしまったかもしれない。
 深呼吸を繰り返した後、足を踏み出す。出て行った時と変わらぬ表情は作れていると思いたい。

「────おかえり」
 気配に気づき、棚を見ていた彼が顔を上げた。どれくらい待たせてしまったのかと不安がよぎると、ふ、と笑う気配。
「そんな顔をしなくていい。「私は私で買い物を済ませる」と言っただろう?」
 先程戻ったばかりだ。
 言いながら、また指を絡めとられた。そうすることが当たり前のように手を繋がれて、朝は何となく恥ずかしさを覚えていたのに、今は当然のように思ってしまうことに眼を伏せる。
「またのお越しをお待ちしております」
 深々と頭を下げた老人を背に店を後にした。近くに停めていた車へ向かい、助手席へと乗り込んだ後、運転席の方を見る。
「…………」
 次の予定は、と聞けなかった。既に夕方から夜へと切り替わろうとしている時間。我知らずうつむいてしまう。何度か口を開いて閉じてを繰り返していると不意に指が頬へと触れた。
 驚いて顔を上げると、こちらを見詰める青い眼と視線が重なる。
「────アルノシト」
 唐突に名を呼ばれて軽く目を見開いた。頬に触れた指が髪に触れ、横髪を耳にかけるような動きに小さく肩が跳ねる。
「え……?」
「──次の予定は……聞かないのか?」
 髪から耳へと指が滑る。耳の外周をなぞった後、輪郭を辿りながら顎へと。次の行為を予想して反射的に閉じた瞼へと柔らかい感触。
 触れるだけのそれはすぐに離れていく。続けてこつん、と額に当たる硬い感触。
「ぁ……」
 額を重ねられたのだと顔に触れる吐息でわかる。こわごわと眼を開けば、自分を見ているルートヴィヒが小さく笑う。
「君が帰りたいと望むなら、このまま家まで送り届ける」
 でも──
「私は……もう一日。君の時間が欲しい」
 触れ合わせていた額を離すと、そっと鼻先に唇を触れさせてから、元通りに運転席へと姿勢を戻していく。
 自分の返答を待ってくれている表情は変わりなく。ただ優しい。
「……」
 遠慮がちに指を伸ばす。ハンドルにかけられている右手首へとそっと指を重ねた。
「俺も……もっと手をつないでいたいです」
 子供じみた言葉だと思う。が、本心。運転の邪魔にならないようにすぐに指を引こうとするが、そのままでいい、と告げられ引くのをやめた。
 エンジンがかかる。ゆっくりと車が動き出す。
「──どこへ…行くんですか?」
 ゆっくりと絞り出した声。前を見たままのルートヴィヒの口元が少し笑ったように見える。
「君とゆっくり手をつなげる場所だ」
「……?」
 すぐにわかる。
 それだけ言うと車がスピードを上げた。
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