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38、おじちゃま、遠くに行くのですって

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 翌日、皇都中が「政変の真っただ中です」といった物々しさと落ち着かなさを見せる中、ランヴェール公爵は「今日は外出しないように」と言い、「ランヴェール派の中でも特異な体質を持つ者ばかり」という警備兵を庭に配置して「この者たちなら安心でしょう」と微妙に不吉なフラグめいたものを立てつつ、城に向かった。

 ティファーヌは先日の『ドール・フェスティバル』の名残である人形でおままごとをしながら、「おそと、おまつり?」「パパ、かえってくるんだって」と語る。ディリートは城の方角を気にしながら午前中を過ごした。

「奥様、……他の方がお話していたのですが……」  
 昼過ぎになって、実家にいた頃からの忠実なメイドのエマが知らせをとても言いにくそうな表情をしながらも、小声で知らせを耳に届けてくれる。
「……黒太子と皇甥殿下は皇帝により城から逃されて、行方を追われている最中らしいですよ」
  
 イゼキウスは逃げようとしているのだ。
 そういえば以前も国外逃亡をしようとしていた。
  
 エマは遠慮がちに言葉をつづけて、手紙を差し出した。
 
「ええと、……そんな皇甥殿下からのお手紙が届いてしまったのですが」
「て、手紙?」
「宛名は、ティファーヌ様に……。そのう、ドール・フェスティバルの日にお手紙をお届けしたので、そのお返事かと思うのですが」
 
 そういえば、イゼキウスは頻繁にティファーヌと他愛ない手紙のやりとりをしていた。
 ディリートはそれを思い出して、ティファーヌと一緒に手紙をひらいた。

「おじちゃま、遠くに行くのですって。お手紙、もうできないって」

 ティファーヌはびっくりした様子で言って、ディリートの袖をつかんだ。
 
「お庭に、お別れにくるって書いてる」

 ディリートは手紙のメッセージに眉を寄せた。
 ティファーヌが読めるように、簡単な単語だけでシンプルに書かれたメッセージは、確かに「お別れ」を告げていた。

りないわね、イゼキウス。さっさと逃げればいいものを……)
 
 それはもう厳重に警備されている公爵家の庭に、再び訪れようなどと。

(そんな時間があったら、一刻も早く遠くに逃げればいいものを。いつ来るの? 実はもう、庭にいたりして……?)

 吐息をついて恐る恐るカーテンの揺れる窓際に近付くディリートの耳に、高く澄んだ音が聞こえる。

 甲高く、風を切り裂く悲鳴のように、高く。鋭く。

「ウッ、この音は……」

「どうした!?」

 ランヴェール派の兵士が何人も耳をおさえている。
  
「いかがなさったの?」
 
 ピルルル、と旋律を奏でるのは、魔笛まてきと呼ばれるのがよく似合う不吉な笛の音だった。
 聞いているだけで肌に鳥肌が立つような、そんな音が、音階のようなものを不安定にいびつに響かせている。
 それは嫌な感じをもたらす笛の音だけれど、苦しむようなものではない。ただの笛の音色だ。

 ……なのに、ランヴェール派の兵士の何人かはその音が苦痛だと、神経をどうしようもなく刺激するのだと、もだえているのだ。
 
「これは……友笛……」
「ナバーラの技術だ!」
 
 誰かが忌々いまいまし気に吐き捨てたあと、獣の咆哮ほうこうが突然周囲に響いた。

「アレクスが暴れ出したぞ!」
  
 身の毛もよだつような恐ろしい咆哮は、一度では終わらなかった。

「ランディが理性を失った!」
「ベルナルドもだ!」

 最初の咆哮によってせきを切られたように、咆哮は増えた。
 そして、悲鳴があがった。咆哮に連鎖するように、次々とあがった。

 周辺一帯には、何かが壊れる音や、獣のえる恐ろしい鳴き声や、悲鳴や怒号が充ちた。
 
「な、なにが起きて……!?」
 笛の音によって獣があらわれて、暴れている――ディリートには、そう感じられた。だって、庭から一頭の大きな精霊獣が窓をめがけて跳んできた。室内の獲物へと、大きな口をひらき、鋭い牙を剥いて――。
 
「――奥様!!」

 護衛として控えていたロラン卿が、ディリートを庇う。

「キャンッ」
 犬のような悲鳴をあげて、精霊獣がロラン卿の剣のさやで殴打され、窓から転がり落ちて行った。
 身をていして守られながら、ディリートは精霊獣がいずれも火属性で――貴族たちが散歩に連れまわしている愛玩動物よりも、猛々しい雰囲気があることに気付いた。

「せ、……精霊獣は、どこからあらわれたの?」

 庭のあちらこちらで、兵士が精霊獣と戦っている。しかし、兵士の数がずいぶん減っている。夫が「この者たちなら安心でしょう」と配置した兵士は、もっといたのに。
 これは、これは……ディリートの心の中で可能性がフッと湧いて、「そんなまさか」と首を振る。

(まるで、人が精霊獣になったみたい)
 だって、兵士たちは精霊獣に仲間の名前を呼びかけている。
 「理性を取り戻せ、人の姿に戻れ」と叫んだりしているのだ。 
(そんなことがあるの? そんなことが……)

 困惑するディリートの耳には、あどけない声が届いた。
「ラビット? どうしたの?」
 ティファーヌがびっくりした声をあげている。丸く見開かれた目には、戸惑いと恐怖があった。
「フシャーッ!!」

 縞模様のネコチャン精霊獣、ラビットもまた、狂暴な気配を全身にのぼらせていた。
 小さなネコチャン精霊獣は、通常は飼い主に牙を剥くことはない。愛玩動物として愛でられることが多い。
 
 なのに――ラビットは、くわりと口を開けた。
 鋭い白い牙と赤い舌の奥に危険な炎の塊が視えて、ディリートはギクリとした。
  
 ピィピィと笛が響いている。
 精霊獣は、笛に影響を受けて、暴走している――ディリートには、そう思われた。

「きゃあ!」

 吸い込んだ息を吐くようにして、ラビットが炎の玉を吐く。
 炎の玉は、狙われたティファーヌの顔くらいの大きさはあった。

「きゃああああっ!!」 
「お嬢様……!」
 
 護衛が駆け寄るより、早く。
 
「――ティファーヌ!」

 窓から転がり込むようにして、赤と黒の人影がラビットとティファーヌの間に割り込んだ。

「ああっ!!」

 ジュッ、という恐ろしい音と、家具を巻き込んで人が倒れ込む音と、何かが焦げる匂いと。聴覚が痺れてしまいそうなほどの悲鳴と。

 そんな中、ディリートは見た。
 
 ティファーヌの小さな全身を抱きかかえるようにして守り、倒れ込んでいるのは、イゼキウスだった。
 
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