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9、だから、私もこの男を騙してあげるのよ

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 なぜ忘れていたのか。
 このままでは第一皇子が暗殺されてしまうのではないだろうか。
 ディリートは狼狽えた。

「公爵様。エミュール皇子殿下が危険です!」
「は……?」
「公爵様は私と夜を過ごすのではなく、エミュール皇子殿下と夜を過ごさないといけません!」
「そなたは何を」

 それは自分との勤めが嫌で苦しまぎれに思い付いた理由なのか、と疑う気配を見せつつも、ランヴェール公爵はやがて第一皇子のもとに向かってくれた。

「だ、大丈夫かしら? 間に合うのかしら?」
 
 イゼキウスだ。皇甥派だ。

『あの澄まし顔の公爵が色事にうつつを抜かして主君を失うというのは、傑作だと思ったのだ。お前がもっと公爵とうまくやってたらなあ』

 一度目の人生で知り合った後、イゼキウスはそう言ったのだ。

 ランヴェール公爵が出て行ったあとは、部屋の扉の外側が物々しい警備に固められている。窓辺に寄ると、今のところ平穏な夜景が広がっていた。

「うっかりイゼキウスの思い通りにしてしまうなんて」

 ディリートは唇を噛み、窓を開けて手のひらを外に向けた。水がゆらりと放たれて、凍りついて地上への階段となる。「水を氷にできたらもっと役に立つぞ」とイゼキウスに以前助言され、練習したのだ。
 
 ディリートは窓枠に手をかけて、夜着のままの自分を自覚して数秒ためらった。「緊急事態だから」と言い訳するようにショールを羽織り、室内履のままでもう一度外を見る。
 
 一度目の人生でのこの頃の自分なら、考えるはずもない非常識な行為。それを、イゼキウスに命じられたわけでもないのに、実行しようとしている。

『頼りにしている、ディリート』
 
 一度目の人生では、イゼキウスのために隠れて魔法を使い、偽装工作を手伝った。荒事の現場に居合わせたこともあった。人が死ぬのも、何度も見た。

 
『夫婦は仲良くすると健康によい。主命である。仲良くするように』
 ――エミュール皇子の明るい声が脳裏によみがえる。あの皇子が、死ぬかもしれない。

 邸宅の使用人たちの顔が思い出される。庭師はクリードという名だったか。前回の人生では、丹精こめて育てた植物が燃えて嘆いていなかっただろうか。
 
 焼けた建物から逃げ遅れた者はいなかっただろうか。事件の前後で使用人の顔ぶれに変化がなかっただろうか。
 
『ランヴェール派の者を捕らえて、命令通りに動くようになる薬を飲ませたんだ』

 イゼキウスの声がよみがえる。
 
『身内に裏切り者がいたのだと思い、他の奴も突然裏切るかもしれないと疑心暗鬼になるもよし。斬り捨てた相手が実は我を失っていただけだと後から知って後悔するもよし、そいつの身内に恨まれるもよし』
 
 第一皇子の暗殺は失敗したが、遺恨を残すことはできたと笑ったのだ。イゼキウスは。

 ――今回は?
 自分は夫に「賊の中にざっているあなたの身内は、操られているだけです」と伝えただろうか?

 答えはいなだ――伝えていない!
 ディリートは青褪めた。
 
(イゼキウスを喜ばせて、たまるものですか)

 夜闇に乗じて、外へと降りる。
 道に迷うことはなかった。ディリートは公爵家で何年も生活したのだ。過去に火災被害の起きた場所までは、それほどの距離でもない。
 
 しかし、進む途中でその足が止まる。

 魔法の火花がパチリと小さくはじけたのが見えた気がしたのだ。ディリートの視線がするりと暗がりに向かう。

「あ……」
 そこには、ディリートにとって特別な人物がいた。

 全身をすっぽりと包む、ゆったりとした黒いローブ姿。

 背が高い。
 フードをすっぽりとかぶっていて、夜風にあおられて、今――――ふわりとそれが脱げた。
 
 あらわになったのは、鮮やかな赤い髪。
 
 その人物は、青年だ。
 つり目がちの瞳は、真夏の森に似た色合い。
 風に舞う木の葉が二人の間にひらりと降りる。それが地に着くより前に、視線がパチリと邂逅する。
 
 
 ディリートの足元から脳天へと燃え滾る激情が駆け抜けて、思考を染めた。
 
 ――イゼキウス!!
 
 そこにいたのは、イゼキウスだった。

 ディリートの胸のうちで、負の感情がぐずぐずと暴れ出す。
 粘性のある激情がどろりと渦巻き、混ざって、ぐつぐつと沸騰する。

(……憎い)

 ディリートは胸の前でぎゅっと拳を握り、殺意をおさえた。

 イゼキウスは、予期せぬ出会いに驚いているようだった。
 
「公爵夫人? なぜ、ひとりでこんなところに……ありえない……たいそう刺激的な姿だな」
 
 声には驚愕と困惑の感情があった。全身を眺めてから、見てはいけないものを見てしまったというように目が逸らされる。片手が口元を覆い、視線を逸らして赤くなるイゼキウスの姿は、さながら蠱惑的な人妻の色香にあおられた初心うぶな好青年のよう。

(一目で私が誰だかわかるのね?)
 
 式の間はヴェールで顔を覆っていた。
 顔を合わせての挨拶をした覚えはなかったが、父から姿絵を見せられていたりするのだろうか。
 
 ディリートは相手の反応を見て、自分がどんな姿をしていて、今夜がどんな夜で、本来は何をしているはずだったのか、そして今は何をしているのかを改めて自覚した。
 
 初夜の花嫁が夜着姿で敷地内をひとりでうろついているなど、とんでもなく非常識だ。
 
 ――けれど、あちらとて非常識さでは同じレベルではなくて? 捕まれば、言い訳に苦しむのは間違いないわ。
 
(落ち着くのよ、ディリート。ここはランヴェール公爵家の敷地内。私は彼を知っている。初対面で会話するにあたって、有利なのはこちら)
 
 ディリートは動揺を悟られぬように静かに息を整え、優雅にカーテシーを披露した。
 イゼキウスが教えてくれて、「ん。完璧だぞ」と褒めてくれた美しい所作だ。
 洗練された礼に、イゼキウスが目をみはっている。

(あなたが教えてくれたのよ) 
 
 ディリートは高揚感を胸に、恥じらうような表情で微笑んだ。殺意を奥深くにうずめた表情には、ぞくりとするほどの色気があった。
 
 風がふわりと長い髪を揺らす。煽情的な姿の美貌の夫人に見つめられたイゼキウスは、こくりと喉を鳴らして唾を嚥下えんかした。
 
「はしたない姿でごめんあそばせ? 夫と喧嘩して、衝動的に出てきてしまったの」

 ――騙すのよ。
 この男が自分を騙した。だから、私もこの男を騙してあげるのよ。

「だって」 
 ディリートは「気丈に振る舞っていたけど、もう限界」といった弱々しい表情をつくった。
「お父様が……」
 細く、か細く。痛々しい風情で、悲し気に。淋しそうに呟く声に、表情に、イゼキウスが見惚れている。

「お父様がくださった薬が、毒だったの。公爵様が毒だと仰ったの。大騒ぎになって、初夜は台無しだわ。耐えがたくなって出てきてしまったの。ああ――ひどいわ、ひどいわ」
 
 ディリートは目元に手を寄せた。
 水の魔法をさりげなく使い、涙に似た透明な雫をほろほろとまなじりから頬に伝わせると、イゼキウスは動揺した様子でハンカチを差し出した。

「おっ、おい。大声は……いや、これを使え」
「ああっ……あなたは、優しいのですね」
 
 感極まったように思い切ってその腕に飛び込み、体重を預けると、受け止めた青年の頬が赤く染まった。

「……!!」
 
 ディリートはぎゅっと力をこめて、イゼキウスにすがりついた。
 そして、小さく哀れっぽく呟いたのだった。
 
「お父様が、だなんて、信じられないわ」
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