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3章、メイドは死にました
63、民は、語り手の身分しだいで聞く耳を持ち
しおりを挟む自室で鏡を見た私、マリンベリーは両手で顔を覆って身もだえした。
首筋に赤い痕がある。キスマークだ。
痕を刻まれた時のチリッとした感覚と吐息の熱さを思い出して、情緒が乱れる。
帰宅して少し経ってから、手紙が届いた。
事情を釈明するパーニス殿下からの手紙は文字が乱れていて、慌てて書いたのがよくわかる。
殿下もお気の毒に――とは少しだけ思うものの、恥ずかしさが圧倒的に勝る。
私は迷った末に、「しばらく会いたくありません」というお返事を送った。
「この痕って治癒魔法で消えるのかな……」
試してみたら、痕は消えてくれた。
よかったはずなのに、なぜかちょっともったいない気がしてしまって私は自分がわからなくなった。
「マリンベリー、明日は聖女としての振る舞いを求めたいと賢者家から依頼が届いているよ。断るかい」
私の部屋を訪れたキルケ様は王都の状況と賢者家の要求を教えてくれた。簡単にいうと、『聖女としての振る舞い』はボランティアみたいな活動だ。
「喜んで協力します、とお返事をしてください。キルケ様」
意思を伝えると、キルケ様は蕩けそうな甘い眼差しで微笑んだ。
「ボクのマリンベリーは慈善家の聖女様だね。我が家は『自分本位でわがままな魔女の気質が強い家系』とよく言われるが、キミという聖女を輩出した名誉を末代まで語り継がせよう」
正確に言うと私は魔女家の養子であり、血脈の外にいる。でも、キルケ様はそんな事実は気にしないようだった。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
――数日後。
王都を巡るパーニスが見上げる夕時の空は、暮れかけの橙色と暗い紺色がせめぎ合っている。
これから少しずつ暗い色が支配領域を増やしていく空にたなびく雲が緋色に染まる模様は、神秘的だった。
人々が地上で滅びかけても空は変わらず、パーニスが恋焦がれる令嬢とその養い親に嫌われても時間は淡々と過ぎていく。
『婚約破棄だ。出禁だ出禁!』
『しばらく会いたくありません』
「……はぁ……」
魔女家からの手紙に、パーニスは頭を抱えた。
彼の頭を悩ませるのは、恋愛事だけではない。
むしろ、恋愛どころではない。
地震は王都のあちらこちらで湖化現象を引き起こし、火災の二次被害を招き、大切な家族や家屋を失った民が悲嘆に暮れている。
魔法学校は無事で広いホールや寮があるので、住居を失った人などが避難しているという。
そこでは困窮した人々が助け合い、励まし合うコミュニティが形成されている。
学校以外にも貴族の敷地や修道院や公園など、いろいろな場所に避難所が設けられていた。王室も備蓄を使い、施しを行ったのだが。
「殿下。配給の奪い合いが発生しました。住民が避難した倒壊家屋で窃盗が起きました。それに……避難先での婦女暴行と殺人も……」
「よくあることだ」
護衛騎士として付いてきたクロヴィスがショックを受けた顔をしている。
彼は良家の子息なので、育ちがいい。
「余裕がないときに他人を思いやれる人は少ないんだ、クロヴィス」
水没期のマギライトのであれば醜悪だと嫌悪感を感じたかもしれない。だが、現在のパーニスには「そんなものだ」という感慨があった。
幼少期から彼は理不尽な世論の中で肩身の狭い思いをしてきたし、前世の記憶が戻って思い返してみれば、前世でもマギライトはろくな目に遭っていない。
現実は冷たい。神はいない。
隣人は賢人でも聖人でもない。
そんなものだから、水没期のマギライトは世の中や人の社会を嫌った。
王族に幼少期から刷り込まれた愛国の価値観はしっかりと彼に根付いていて、現代のパーニスは自国と民を愛している。
避難所は王都に数カ所できている。
「わんわんだ~!」
「わふっ」
黒狼姿のセバスチャンは避難所の子どもに懐かれ、尻尾をはちきれんばかりに振っている。
子どもの名前はマリーといったはずだ。
パーニスは王都にいる民の顔と名前は頭に入っている。
マリーは生地が破れて綿が露出したぬいぐるみを地面に落とし、ぬいぐるみのことなど忘れた様子で『わんわん』に命令を繰り返した。
「わんわん、お手!」
「わふっ」
「取ってこい」
「あんっ」
マリーがぬいぐるみを指差し、セバスチャンがそれを咥える。
ぬいぐるみを受け取ったマリーは、ペチンとセバスチャンの鼻を叩いた。
「遅い! おしおき」
「きゃんっ」
「きゃはは!」
マリーの親と兄が湖化の犠牲になったという情報がパーニスの耳には届いていた。尻尾を引っ張るマリーの姿は楽しそうで、けれど目は笑っていない。
セバスチャンはそんな気配を察しているだろう。
「そこの子ども……、乱暴は……」
「子どものストレス解消だ。セバスチャンは嫌になったらちゃんと逃げるから、本人がやらせてる間は好きにさせておいてやれ」
遠慮がちに声をかけようとしたクロヴィスの肩を掴むと、不満そうな顔を返された。
よくマリンベリーはパーニスを善人のように言っていたが、彼女好みの善人とはクロヴィスのような青臭さを失っていない奴を言うのではないか――パーニスはたまにそんなことを考える。
王子の姿を見て、避難民が寄ってくる。
パーニスは彼の支持者を接待した。
手を握り、話を聞き、笑顔を向けて。
彼らの期待する英雄王子を演じる。
……ついでに。
「王室はいつも皆と共にいる。俺も最大限の支援をする。皆も助け合いの精神で自分よりも助けが必要な者を助けてやってくれ」
王子という身分は、こんな一言を投げかけることができるところが、悪くない。
民は、語り手の身分で聞く耳を持つ性質があるからだ。
他人に優しくしてほしい、他人を助けてほしい、そんな暖かな民であってほしい。
盗賊団の奴隷出自の魔法使いが言っても誰も聞かないが、英雄王子は理想を聞いてもらえるのだ。
もちろん、言っても響かない者はいるが、響いて王子に感化され、心の有り様を変える者も間違いなくいる。
……まるでアルワースのようで癪だが、そもそも、人の集まりを治めるには、アルワースのやり方が正解だ。
あの男は人情も倫理観もなかったが、王族教育はパーニスに物事を自分の頭で考えて判断する能力と、仁道と君主論をバランスよく教えてくれたのである。
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