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1章、王太子は悪です

20、パーニス殿下の仰せのままに。以上

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 闇に閉ざされた世界に、ミディー先生がいる。
 私を見つめて、「こっちに来るな」と首を振る先生は、ひどく疲れているように見えた。

『2年の、ウィッチドール伯爵令嬢?』

 先生は、私の存在を認知してくれている。

「ミディー先生、私、先生を助けたいんです」

 先生は、少し驚いたようだった。
  
『先生のことなんて気にせず、帰りなさい。以上』
「先生、ずっと暴走してるんです。賢者家の人たちは、先生を助けるのを諦めてるんです。それって……ひどくないですか……」
『ひどくなんて、ないよ。だって、それが先生の望みなんだ。以上』
 
 先生は、困ったように、くしゃりと顔を歪めて微笑した。
 
「のぞ、み」
  
『君を待っている人がいるのでしょう? 君には未来がある。こんな死にたがりの先生のことなんて、忘れてしまいなさい……以上』

 先生は、死にたがってるんだ。

 それに気付いた私が手を伸ばして一歩近づくと、ミディー先生の姿は闇に溶けるように消えた。
 
 代わりに、少年と青年の声が響いた。
 
『先生って、お節介なんですね』 
『そうだね。ミディー先生は、少年少女のお世話を焼くのが大好きなんだ。余計なお節介って嫌がられることもあるから、難しいところだけど。以上』
 
 声に続いて、姿が現れる。
 
 くすんだ青い髪、垂れ目がちのミモザ色の瞳に、白衣のミディー先生がいる。
 膝を折り、視線を少年に合わせて、先生が微笑んでいる。

『イージスくん。ミディー先生は、君を甘やかしたいな。だって君、完璧って言われてるけど、まだまだ子どもだもんね。完璧でなくてもいいんだよ。以上』

 彼の目の前には、水色の耳長猫を抱っこした少年がいた。
 ラベンダー色の髪に、白銀の瞳。イージス殿下だ。

 イージス殿下は、うつむいた。

『ミディー先生は、ぼくが取り返しのつかないほど悪いことをしていると言ったら、どうするの』
『どんな悪いことをしたのかな。先生、まずそれが知りたいかなぁ。君の事情を理解した上で、一緒になって「どうしようかな」って考えたいな。以上』 

 イージス殿下が姿を変える。
 ふわり、ゆらりと全身の輪郭を揺らがせて、形づくるのは大人の男性の姿だった。
 首までを黒く染めた、魔化病患者――全身から瘴気を発していて、もうすぐ魔物になり果ててしまう兆候がはっきりと感じられる……ミディー先生の友人だ。
 
『ミディール、俺は魔化病だ。もう助からない。このままでは魔物になってしまうだろう』

 友人の男は、ミディー先生に懇願した。

『俺を殺してほしい』

 瞳には、絶望があった。
 切望があった。
 頼れるのはお前しかいないのだ、と訴えかける色だった。
 
 ミディー先生は、杖を抜いた。
 震える手で友人に杖を向け、そして。
 

『ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!』
 
 
 哀しみと絶望の咆哮に、鳥肌が立つ。

『魔物になる前に死なせてあげることができた。それは彼のためになったんだ。これでよかった。よかったんだ。苦痛から解放できた。尊厳を守れた。おれは友を助けた。助けたんだ』

 早口に、思考が回転するまま、言葉が流れる。
 夜が更けて、一睡もできないまま、朝になる。
 
 
 その耳に、知らせが届いた。

 
『特効薬が開発されたぞ! 魔化病は、治るんだ……!』 


 心が軋む音がする。

「あ……」

「あ…………あ、……」

「ああ…………………………」
 
 幸せな未来への道が開けたのだと知らせる声は、彼の心を切り裂いた。
 完膚なきまでに、ずたずたに。
 
 
   ◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
 
 私に何が言えるだろう。
 
「……」

 言葉が思いつかない。
 
 安っぽくて薄っぺらい慰めなんて、しちゃいけない。
 私は第三者で、他人だ。
 ……この哀しみの中に入っていけない。

 
『オレは暗殺者なんだ』

 ……すぐ傍から、セバスチャンの声がした。

 この暗闇は、不思議だ。
 近くにいる人の心の傷を見せてくれるみたい。

 セバスチャンは、暗殺者として育てられた孤児だ。
 同じ孤児でも、マリンベリーと違うのは両親の記憶がないことだろうか。

 産まれた時から暗殺者の組織にいて、任務を忠実にこなす道具として育てられた彼は、人を殺しても心が動いたりはしなかった。
 人が海で魚を釣り、捌くように。
 あるいは野山で獣を狩るように――人は、彼にとって『狩る対象』だった。

『可愛いワンコね』

 暗殺対象に指定された女性が、狼姿の彼に目を細める。
 彼女のことは、私も知っている。
 設定資料に出ていたセバスチャンの最初の想い人――

『お腹がすいているの? ミルクをどうぞ、ワンコさん』
 
『雨が降っているから、中へいらっしゃい。寒かったでしょう、ワンコさん』
 
『寂しかったの。だから、話し相手になってくれて、私の心を知ってくれてありがとう、ワンコさん』
 
『お仕事だもの。気にしないで、私を殺して。ワンコさん』

 彼女は最初から、セバスチャンが自分の命を狙って近づいてきた暗殺者だと知っていた。

 その上で、セバスチャンをただの犬みたいに可愛がって、愛情を注いで、お礼を言って、「さあ、私を殺しなさい」と微笑んだ。

「……いやだ」

 セバスチャンの悲痛な声が聞こえる。
 彼は、その時はじめて「人を殺すのがいやだ」という心を芽生えさせた。

 そして、彼女が見せてくれた魔化病の肌色に絶望したのだった。
 

「……」

 もしも、私の心の傷がこの暗闇に晒されていたとしても、この2人と比べるとぜんぜん、まったく、大したことがない。
 
 なにより、私はゲームをする感覚で2人を見ていた。
 知識としての設定で、わかったような気になっていた。

 目で、耳で、気配で、その記憶に触れてみて――私は生々しい現実の匂いに眩暈を起こした。
 
 この哀しみ。この痛み。
 この絶望に――――飲みこまれてしまいそう。

 ふらりと倒れかかった時。
 
「ずいぶんと暗いな。俺はもっと明るい方が好みなんだ。おい、魔法を止めろ」

 私の体が、誰かに抱き寄せられた。
 暗闇の中で響く声は場違いなほど明るくて、私にはすぐに声の正体がわかった。

「……パーニス殿下」

 セバスチャンがつぶやいて、「すみません、軽く暴走しかけました」と釈明するのが聞こえる。

「ですが、ショック療法といいますか……暴走は止まったようです」

 闇の魔法が薄らいで、部屋が明るさを取り戻すまで、それほど時間はかからなかった。

 明るくなった部屋には、暴走を止め、仰向けに倒れて、ぼんやりと天井に視線を向けるミディー先生がいた。

「先生なのに、……いけないよね、こんなんじゃ。ごめんね…………でも、死なせてほしい……」

 ぽつりとつぶやくミディー先生に近付いて、パーニス殿下は舌打ちをした。ガラが悪いですよ殿下。

「死ぬのは許さない。理由は、俺の婚約者が心を痛めてしまうからだ」

 憤然と言って、パーニス殿下は懐からポーション瓶を取り出し、ミディー先生の口に乱暴に瓶を突っ込んだ。蛍光ピンクのポーションは、たぶん栄養ドリンクみたいな回復薬だろう。

「んうっ? ごほっ、ごほっ!?」

「俺が生かすと決めたので、お前は生きる。泣いて嫌がっても許さない。以上?」

 パーニス殿下が不機嫌に言って振り向いた先には、パンダのぬいぐるみがあった。カリスト様だ。
 カリスト様のぬいぐるみボディはちょっとボロボロになっていて、ところどころ綿がはみ出ている。
 ……短時間で何があったの? 

「……賢者家は、パーニス殿下の仰せのままに。以上……」

 くたびれた声でカリスト様が言うのを聞いた瞬間、私は全身の力を抜いた。

 ……どうやら、ミディー先生は助けられたようだった。なんか強引な感じもするけど。

「殿下、助かりました。私、ちょっとクラクラしてます。以上……」

 賢者家の口癖が移った私に、パーニス殿下はふっと笑った。
 そして、ヒマワリが咲いたような笑顔で「賢者家の協力も取り付けたし、帰るか」と言ったのだった。

 ……私が見ていないところで何があったんだろう。

 ボロボロになってしおらしい態度に変わったパンダのぬいぐるみを見ながら、私はちょっとだけ目の前の殿下に底知れなさを感じて、ドキドキした。
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