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5、鬼謀のアイオナイト

339、「あなたに味方する神は、もういません」

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 『生命力吸収事件』の顛末てんまつの噂は、瞬く間に紅都を駆け巡った。

「空国の呪術伯がエルフに襲われていたところに、姫君が現れて助けたらしいぞ」
「聖女フィロシュネー様が泣いている呪術伯を庇ったらしい」
「あの男が泣くか? ちょっと想像できないな……」

 紅都ミスティカの民が白い息を吐きながら、興奮気味に情報交換している。

「生命力や魔力を吸収する仕掛けは他国であった事件と同じ仕掛けらしい」
「アルメイダ侯爵夫人ですよ。あの悪女が犯人って噂です。あたしも間違いないって思ってますよ」
 
「うちの情けない旦那がふらふらっと倒れちゃったときに、フィロシュネー様はお優しく手を差し伸べてくださったのよ」
「治癒魔法を使ってくださったんだ。ご自身も被害に遭われていて、疲れていらしたのに」
「無理して倒れてしまわれて……なんてお優しいのだろう」

 年嵩の婦人がほろりと目元を拭い、「おいたわしいこと」と呟く。
 婦人の伴侶らしき老紳士は彼女の肩を抱き、「ノイエスタル神師伯も大慌てでお人が変わったように狼狽えておられるというではないか」と心配そうに視線を遠くに向けた。

 視線の先には、紅城クリムゾンフォートに劣らぬ豪邸がある。
 
 一般都民には近づくこともままならない貴人の屋敷。
 ひとめで特別とわかるノイエスタル邸には、発熱して寝込む聖女の姫君と、彼女を案じて乱心したと言われるノイエスタル神師伯がいるという。
 
「あの理知的で温厚なノイエスタル神師伯がまったく落ち着きをなくして半狂乱で『姫が死んだら世界を滅ぼす』などと口走ったらしいが、本当だろうか」
「いや、いくらなんでも世界というのは大袈裟だろう。たぶん、診察した医師を殺すと言ったんじゃないか。それも過激だが」
「俺は国中の赤ちゃんグッズがノイエスタル神師伯に買い占められたと聞いたぞ」
「なんだその話は。意味がわからん。薬ではないのか?」
「よくわからない……」
「まったくわからない」
  
 実際のところはわからないが、出回っている話はどれも耳を疑うものばかり。

 白い雪がしずかに降る中、紅都の民はそれぞれの信じる神に祈った。

「姫君が一日も早く回復なさいますように」
「ノイエスタル神師伯のお心が落ち着きますように」

 平穏を願う声にまざり、いびつで不安定な響きをした声もする。

「くすくす……」

 女の声だ。笑っている。

 こんなときなのに、皆が心配して心を痛めているのに、綺麗な声で、楽し気に――深刻そうにしている人々がおかしくてたまらない、というように笑っている。
 
「ふふっ……他にも祈らないといけないことがありますね? みなさん?」

 近くにいた人々が「あっ」と声をあげる。
 
 雪まじりの風に艶やかな黒髪をなびかせる女は、夫と共に謹慎中のはずのカサンドラ・アルメイダ侯爵夫人だった。
 
 エメラルドの瞳は、獲物の群れを見てどれを食らうか品定めする捕食者のようで。
 赤い唇は、毒々しい笑みに歪んでいた。
 
「悪い呪術師の悪女が、はやく捕まって処刑されますように……みなさんは、この願いも唱えなければ、ねえ? うふふ」

 悲鳴があがったのは、カサンドラの手に長い杖が握られていたから。
 杖が掲げられ、邪悪な光の模様が彼女を中心に広がっていったから。

「じゅ、呪術師……!」
「はあい」
 
 悲鳴をあげて逃げ出す人々が、カサンドラに近い順に膝を折って倒れていく。生命力を吸われていく。
 彼女が呪術師だという疑惑を決定的に裏付ける悪行に、人々はおののいた。
 
「キャアアアア‼」

 ひとり、またひとり。人々が倒れていく。

「殺しはしません」

 冷ややかな声で呟いて、カサンドラは優雅に一礼した。

 そして、青黒い光をぴかりと迸らせたかと思うと、霧のように全身の輪郭を曖昧にして、空気に溶けるように姿を消した。

「集めた魔力と生命力は、あげましょう。それで終わりです」

 高く、低く、不安定な声は誰に向けて発せられたのか。
 それを理解できる者がいないまま、カサンドラは空間を転移した。

 次に姿を現したとき、カサンドラはアルメイダ侯爵邸を見下ろす位置にいて、底冷えのする眼差しをひとりの人物に向けていた。
 
 その視線に気付く様子のない人物――アルメイダ侯爵邸の三階にある部屋のバルコニーに立つは、長い黒髪を風になびかせて空を見ていた。
  
 見下ろすカサンドラ。
 見られていることに気付かないカサンドラ。
 二人のカサンドラの間に、しずかに雪が降る。

 白い両腕を空へと差し伸べ、バルコニーにいる方のカサンドラは夢見る少女のように自分が集めた魔力と生命力を月へと贈り捧げていた。

「カサンドラ」
 
 カサンドラの姿をした呪術師は冷たく名を呼び、彼女が反応するより早く降下して距離を詰めた。
 そして、その手に創り出した漆黒の魔力の刃で、カサンドラを切り裂いた。

「――――えっ……」

 血しぶきがあがる。
 カサンドラの緑の瞳が現実を受け止めかねるように見開いて、不思議そうに瞬いた。

「ア……っ、――……?」
 
「傷は浅く、即死することはありません。ですが」

 漆黒の魔力の刃を手にしたもうひとりのカサンドラは、くるりと背を向けた。

「あなたはもう呪術を使うことができず、罪が許されることもありません」

 その姿が長身の男に変じる背後で、カサンドラが倒れ込む音がする。

「後日、正式に騎士団が捕縛に来ます。それまで愛する男と最期の時間を過ごすといいでしょう」

 それは、死刑宣告だった。
 カサンドラは白い吐息を儚く紡ぎながら、懸命に縋るように顔をあげ、男の顔を見ようとした。

「か……、かみ、さま? ……」
「あなたに味方する神は、もういません」
 
 男は左手から青黒い光を迸らせた。
 光が視界を覆いつくす中、カサンドラは意識を失い――


「これは……どうしたんだ!? カ、カサンドラ……ッ‼」


 今にも死にそうな顔色で血まみれで倒れている姿を、悪戯で奔放な悪女の妻が困ったことをしでかしていないか、企んでいないかと様子を見に来た夫、シモン・アルメイダ侯爵に発見されるのだった。
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