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3、変革のシトリン
159、雨過天青の多島海、出航、ラクーン・プリンセス
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空国の海は美しかった。
夏空の青に弾けた水飛沫がプリズムになって世界を飾り、深い青と白銀の波の煌きを孕む海が果てしない広がりを見せている。光を流したような海面は波紋が揺らめき、世界の全てが歓び歌う夏の眩さを全開にしていた。
潮風に吹かれながら、フィロシュネーは非日常の世界に目を輝かせた。
「わぁ……! これは絶景ね!」
これから乗り込む白い豪華客船『ラクーン・プリンセス』が、空と海の青を背景にして特別な存在感を放っている。これからあの船で過ごすのだ――高揚する。
今日は天気もいい。昨日までは雨が降っていたけれど、出航の日に晴れてくれてよかった。
「わたくし、知ってます。こんな空を雨過天青と呼ぶのよ」
雨が上がった後の空をそう呼ぶのだ。
フィロシュネーが得意顔で言うと、サイラスは「その言葉は初めて聞きました」と呟いた。その発言が本当かどうかはわからないが褐色の肌は明るい夏空がよく似合っていて、見上げるフィロシュネーは目を奪われた。
そこに、晴れやかな声がする。
「ようこそ、空国の海へ」
空国の王兄ハルシオンだ。フィロシュネーは優雅な所作で礼をした。
「ごきげんよう、ハルシオン様。このたびは素敵な催しへのご招待ありがとうございます」
「ふふっ、シュネーさんを招待できて私は幸せ者ですね」
爽やかに微笑むハルシオンは、以前よりもしっかりした印象の喋り方だ。顔色も良いし、表情も明るい。
「あちらに見える客船が我が国の誇る大型呪力船『ラクーン・プリンセス』、そしてこちらは私がシュネーさんのために用意したウェルカムドリンクです」
ハルシオンがパチンと指を鳴らすと、ミランダが笑顔でドリンクを渡してくれた。
瑞々しい果実の滴がグラスの縁をきらきらと飾っている。海辺の空気は暑いのに、グラスはよく冷えていた。
(呪術で冷やしてくれているのね)
フィロシュネーはドリンクをいただき、屈託のない笑顔を浮かべた。甘露が口の中で躍り、弾ける気泡とともに幾重にも風味を咲かせるドリンクは、美味しかった。
「しゅわっとしますわ」
「爽やかな風味でしょう? んっふふ、ノイエスタルさんの分はありません!」
「ハルシオン殿下はそういう方だと思っていました」
「本当は招待もしたくなかったのですよ。どうして招待して欲しいなんて仰るのです? ノイエスタルさんは面倒な方ですね」
「俺は招待されたかったから招待して欲しいと申しただけですが?」
仲の良いのだか悪いのだかわからない会話をするハルシオンとサイラスを背景に、フィロシュネーは兄アーサーのエスコートに身を任せた。死地にでも赴くようなピリピリと張り詰めた気配の預言者ダーウッドが付いてくる。留守番は許されなかったらしい。
(お兄様とダーウッドの力関係も不思議ね)
父王やその前の王にも仕えた経験があり、選ぶ立場だった預言者は、王族にとっては特別な立ち位置だ。
預言者は幼い頃のフィロシュネーにとっては、預言者は近づくのが怖くて、逆らってはいけない存在だった。兄も当然、そうだろう。特にアーサーの場合、預言者の言いつけを破って婚約者であったモンテローザ公爵令嬢を亡くした過去がある。それ以来、預言者の言うことにはよく従っていたのだ。
「今から中止になりませんかな」
「ならない」
ぽつりと小さく呟いた弱気な発言に、アーサーは即座に反応を返した。
「出航すると海に囲まれるのですぞ。水でいっぱい……足もつきません……」
「お前……さては単純に海が怖いのだろう。あの船を見よ。あんなに立派ではないか。万に一つも沈んだりしないゆえ、陸地だと思って安心して乗るといい」
フィロシュネーは二人の顔色を窺いつつ、口を挟んだ。
「お兄様、ダーウッドは心配してくださっているのですわ。……ダーウッド、わたくしと手を繋いでいきましょうか?」
「結構」
助け舟を出してあげたのに、返事はツンとしていた。
「……わたくしが怖いから、手をつないでくださる?」
フィロシュネーの方から手をつないでみれば、ダーウッドの手はひんやりとしていて、ちょっと震えていた。
(あなたね、そういうところだと思うのよ。人間らしくて、なんか子供っぽくも感じて、神秘的な感じが薄れていくのよ……)
潮風が心地よく吹き抜けていく。
船の出発を見守るために、多くの人々が桟橋に集まっていた。港の近くには宿や店が建ち並び、旅立つ者や見送る者に送るお祝いの品々が並んでいる。
「無事の旅を願っています!」
「風の加護がありますように!」
豪華客船へと続く桟橋を進むうち、細部まで精巧に彫られた装飾で飾られ、金色の飾りが輝く船体が迫力を増す。
重厚な階段が船の上部に伸びており、王侯貴族たちが一歩一歩上へと登っていくと、歓迎の花吹雪が降ってきた。
「我らの空王陛下ばんざい!」
「青王陛下との麗しき友情が永久に続かんことを!」
出航の時を迎えた客船が白波を立てて動き出すと、桟橋に残る人々は手を振り、心温まる祝福の言葉を口々に唱えた。
ワァワァと寄せる賑やかな声の中には彼らが空王を慕っているのがよくわかる声がたくさんあって、フィロシュネーは自分でも意外なほど「よかった」という、安堵するような気持ちになった。
客船は静かな波立つ海面を進み――航海が始まる。
* * *
豪華客船の船首には、立派な旗が優雅に揺れていた。空国の旗と友好国の旗だ。海風に翻る旗を誇らしく見上げて、船上の人々は出航祝いのパーティを始めた。
兄アーサーと並んで招待客の席に座るフィロシュネーは、空王アルブレヒトが王妃と預言者を伴い、客船のデッキで真摯な表情で礼儀正しく挨拶をするのを見守った。
「尊い皆様、心よりのお祝いと感謝の気持ちを述べたく、立ち至りました。この船の出航は、私にとって特別な瞬間であります」
客船のデッキに集まる招待客たちは柔和な表情で静かに耳を傾けている。
「友好の象徴として、青国の青王陛下と王妹殿下が共にお越しいただいたことや、紅国貴族の皆様のご臨席にも心から感謝しております」
空王はしばしの沈黙を置き、招待客の顔を順に見てから続けた。
「この航海は単なる船旅ではなく、我々三国、そして南方諸国の友情を紡ぐ航海であります。我々は異なる国々でありますが、共通の価値と信念が在り、絆で結ばれた友であります。私は空王として、これからも皆様と共に大陸の平和と友好のために努めてまいります。各国の誇りを尊重し、お互いに学び合い、支え合いながら共に成長して参ろうではありませんか」
客船のデッキには暖かな拍手が湧き起こった。空王の言葉は誠実で、心に響くものだったのだ。
「この船上の出航祝いのパーティで、皆様と楽しいひとときを共有できることを嬉しく思います。お祝いの歌と踊り、食事と歓談を心ゆくまでお楽しみください……それでは、乾杯!」
空王の挨拶が終わり、皆が手に持ったグラスを掲げて「乾杯」と声を合わせる。兄アーサーはフィロシュネーに笑顔を向けた。
アーサーが手にしたグラスに揺れるのは透き通った白ワインで、清かな輝きを見せていた。フィロシュネーはまだ酒が飲めないが、飲めるようになったら兄と一緒に飲んでみたいと思いながら酒精のないドリンク入りグラスを掲げて微笑んだ。
「シュネー、アルブレヒト陛下から珍しい宝石を幾つもいただいたぞ。沈没船から発見されたらしい。あとでシュネーにもひとつやろう」
アーサーはそう言って、ワインがなみなみと揺れるグラスをくいっと傾けた。
「ダーウッドにもやろうと言ったのだが、あいつ……いらぬのだと」
声は少し拗ねている様子だった。
「そ、それは残念でしたわね、お兄様」
「この船には、俺の婚約者候補も揃っている。シュネー、兄さんはこの旅で婚約者を選ぶぞ」
「まあ」
「シュネーも各令嬢の人柄をそれとなく観察して、意見してくれないか。政略目的でも、やはり人柄は大事だと思うのだ」
兄は、あまり気が進まないのだ。
少し不安なのだ。フィロシュネーに味方になってほしいのだ。
そんな感情が読み取れたから、フィロシュネーは兄を安心させるように頷いた。
「お任せください、お兄様。わたくしがお兄様の婚約者を選びます!」
「いや、お前に選べと言っているわけではないのだが」
こうしてフィロシュネーは、兄の婚約者候補たちを選ぶという使命を背負い、船上の日々を過ごすことになったのである。
夏空の青に弾けた水飛沫がプリズムになって世界を飾り、深い青と白銀の波の煌きを孕む海が果てしない広がりを見せている。光を流したような海面は波紋が揺らめき、世界の全てが歓び歌う夏の眩さを全開にしていた。
潮風に吹かれながら、フィロシュネーは非日常の世界に目を輝かせた。
「わぁ……! これは絶景ね!」
これから乗り込む白い豪華客船『ラクーン・プリンセス』が、空と海の青を背景にして特別な存在感を放っている。これからあの船で過ごすのだ――高揚する。
今日は天気もいい。昨日までは雨が降っていたけれど、出航の日に晴れてくれてよかった。
「わたくし、知ってます。こんな空を雨過天青と呼ぶのよ」
雨が上がった後の空をそう呼ぶのだ。
フィロシュネーが得意顔で言うと、サイラスは「その言葉は初めて聞きました」と呟いた。その発言が本当かどうかはわからないが褐色の肌は明るい夏空がよく似合っていて、見上げるフィロシュネーは目を奪われた。
そこに、晴れやかな声がする。
「ようこそ、空国の海へ」
空国の王兄ハルシオンだ。フィロシュネーは優雅な所作で礼をした。
「ごきげんよう、ハルシオン様。このたびは素敵な催しへのご招待ありがとうございます」
「ふふっ、シュネーさんを招待できて私は幸せ者ですね」
爽やかに微笑むハルシオンは、以前よりもしっかりした印象の喋り方だ。顔色も良いし、表情も明るい。
「あちらに見える客船が我が国の誇る大型呪力船『ラクーン・プリンセス』、そしてこちらは私がシュネーさんのために用意したウェルカムドリンクです」
ハルシオンがパチンと指を鳴らすと、ミランダが笑顔でドリンクを渡してくれた。
瑞々しい果実の滴がグラスの縁をきらきらと飾っている。海辺の空気は暑いのに、グラスはよく冷えていた。
(呪術で冷やしてくれているのね)
フィロシュネーはドリンクをいただき、屈託のない笑顔を浮かべた。甘露が口の中で躍り、弾ける気泡とともに幾重にも風味を咲かせるドリンクは、美味しかった。
「しゅわっとしますわ」
「爽やかな風味でしょう? んっふふ、ノイエスタルさんの分はありません!」
「ハルシオン殿下はそういう方だと思っていました」
「本当は招待もしたくなかったのですよ。どうして招待して欲しいなんて仰るのです? ノイエスタルさんは面倒な方ですね」
「俺は招待されたかったから招待して欲しいと申しただけですが?」
仲の良いのだか悪いのだかわからない会話をするハルシオンとサイラスを背景に、フィロシュネーは兄アーサーのエスコートに身を任せた。死地にでも赴くようなピリピリと張り詰めた気配の預言者ダーウッドが付いてくる。留守番は許されなかったらしい。
(お兄様とダーウッドの力関係も不思議ね)
父王やその前の王にも仕えた経験があり、選ぶ立場だった預言者は、王族にとっては特別な立ち位置だ。
預言者は幼い頃のフィロシュネーにとっては、預言者は近づくのが怖くて、逆らってはいけない存在だった。兄も当然、そうだろう。特にアーサーの場合、預言者の言いつけを破って婚約者であったモンテローザ公爵令嬢を亡くした過去がある。それ以来、預言者の言うことにはよく従っていたのだ。
「今から中止になりませんかな」
「ならない」
ぽつりと小さく呟いた弱気な発言に、アーサーは即座に反応を返した。
「出航すると海に囲まれるのですぞ。水でいっぱい……足もつきません……」
「お前……さては単純に海が怖いのだろう。あの船を見よ。あんなに立派ではないか。万に一つも沈んだりしないゆえ、陸地だと思って安心して乗るといい」
フィロシュネーは二人の顔色を窺いつつ、口を挟んだ。
「お兄様、ダーウッドは心配してくださっているのですわ。……ダーウッド、わたくしと手を繋いでいきましょうか?」
「結構」
助け舟を出してあげたのに、返事はツンとしていた。
「……わたくしが怖いから、手をつないでくださる?」
フィロシュネーの方から手をつないでみれば、ダーウッドの手はひんやりとしていて、ちょっと震えていた。
(あなたね、そういうところだと思うのよ。人間らしくて、なんか子供っぽくも感じて、神秘的な感じが薄れていくのよ……)
潮風が心地よく吹き抜けていく。
船の出発を見守るために、多くの人々が桟橋に集まっていた。港の近くには宿や店が建ち並び、旅立つ者や見送る者に送るお祝いの品々が並んでいる。
「無事の旅を願っています!」
「風の加護がありますように!」
豪華客船へと続く桟橋を進むうち、細部まで精巧に彫られた装飾で飾られ、金色の飾りが輝く船体が迫力を増す。
重厚な階段が船の上部に伸びており、王侯貴族たちが一歩一歩上へと登っていくと、歓迎の花吹雪が降ってきた。
「我らの空王陛下ばんざい!」
「青王陛下との麗しき友情が永久に続かんことを!」
出航の時を迎えた客船が白波を立てて動き出すと、桟橋に残る人々は手を振り、心温まる祝福の言葉を口々に唱えた。
ワァワァと寄せる賑やかな声の中には彼らが空王を慕っているのがよくわかる声がたくさんあって、フィロシュネーは自分でも意外なほど「よかった」という、安堵するような気持ちになった。
客船は静かな波立つ海面を進み――航海が始まる。
* * *
豪華客船の船首には、立派な旗が優雅に揺れていた。空国の旗と友好国の旗だ。海風に翻る旗を誇らしく見上げて、船上の人々は出航祝いのパーティを始めた。
兄アーサーと並んで招待客の席に座るフィロシュネーは、空王アルブレヒトが王妃と預言者を伴い、客船のデッキで真摯な表情で礼儀正しく挨拶をするのを見守った。
「尊い皆様、心よりのお祝いと感謝の気持ちを述べたく、立ち至りました。この船の出航は、私にとって特別な瞬間であります」
客船のデッキに集まる招待客たちは柔和な表情で静かに耳を傾けている。
「友好の象徴として、青国の青王陛下と王妹殿下が共にお越しいただいたことや、紅国貴族の皆様のご臨席にも心から感謝しております」
空王はしばしの沈黙を置き、招待客の顔を順に見てから続けた。
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客船のデッキには暖かな拍手が湧き起こった。空王の言葉は誠実で、心に響くものだったのだ。
「この船上の出航祝いのパーティで、皆様と楽しいひとときを共有できることを嬉しく思います。お祝いの歌と踊り、食事と歓談を心ゆくまでお楽しみください……それでは、乾杯!」
空王の挨拶が終わり、皆が手に持ったグラスを掲げて「乾杯」と声を合わせる。兄アーサーはフィロシュネーに笑顔を向けた。
アーサーが手にしたグラスに揺れるのは透き通った白ワインで、清かな輝きを見せていた。フィロシュネーはまだ酒が飲めないが、飲めるようになったら兄と一緒に飲んでみたいと思いながら酒精のないドリンク入りグラスを掲げて微笑んだ。
「シュネー、アルブレヒト陛下から珍しい宝石を幾つもいただいたぞ。沈没船から発見されたらしい。あとでシュネーにもひとつやろう」
アーサーはそう言って、ワインがなみなみと揺れるグラスをくいっと傾けた。
「ダーウッドにもやろうと言ったのだが、あいつ……いらぬのだと」
声は少し拗ねている様子だった。
「そ、それは残念でしたわね、お兄様」
「この船には、俺の婚約者候補も揃っている。シュネー、兄さんはこの旅で婚約者を選ぶぞ」
「まあ」
「シュネーも各令嬢の人柄をそれとなく観察して、意見してくれないか。政略目的でも、やはり人柄は大事だと思うのだ」
兄は、あまり気が進まないのだ。
少し不安なのだ。フィロシュネーに味方になってほしいのだ。
そんな感情が読み取れたから、フィロシュネーは兄を安心させるように頷いた。
「お任せください、お兄様。わたくしがお兄様の婚約者を選びます!」
「いや、お前に選べと言っているわけではないのだが」
こうしてフィロシュネーは、兄の婚約者候補たちを選ぶという使命を背負い、船上の日々を過ごすことになったのである。
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