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1、贖罪のスピネル
33、だから、兄は死なないのだ
しおりを挟む同じ年に生まれた腹違いの兄ハルシオンは、いつもアルブレヒトに優しかった。
「アルは頭がよいね。私にはわからなかったよ」
「アルは運動神経がよいね。駆けっこも、剣術も、私はかなわないよ」
兄ハルシオンはいつも弟を立てて、弟が自分より優れていることにした。自分は引き立て役になるように立ち回った。
「兄上、兄上、ぼくは一番?」
「うん。アルは天才だ。いちばん、すごいっ」
ぼくは、兄より優れている。いちばん、すごい。
「ぼくは、特別? ぼくは、天才?」
「うん、うん。特別で、天才だよ」
ぼくは一番すごい。だから、いちばん高い地位がふさわしい。
「いいよ。次の王様は、アルがなるんだね」
兄はそれでいいと笑ってくれた。
だけど、アルブレヒトは、兄が世界で一番特別な存在だと知ってしまった。
なんでもない日。平凡なある日。
耳にしただけで気がおかしくなりそうな、凄まじい悲鳴を兄があげた。
突然。前触れなく。
あの穏やかな兄からこんな悲鳴があがるのだ、とビックリするような声をあげて、兄は狂おしく悶え苦しみながら床を転がった。
頭を抑えていた。
頭が痛くてつらいのだ。アルブレヒトはそう思いながら、おろおろした。
駆け付けた医者が悲鳴をあげて、壁に叩きつけられる。
呪術だ。
闇色の呪術の力が、兄から迸った。
宮廷呪術師が集団でもかなわないほどの異常な呪術の力。
それを暴発させて、叫んで、頭を掻きむしって、吠えて。
兄は、苦しんでいた。
「殿下、殿下! いかがなさったのです!?」
学友であり2人の婚約者候補でもある伯爵令嬢のミランダが、アルブレヒトを抱きしめて身を挺して守りながら、泣いていた。
アルブレヒトはその時、兄を心配すると同時に、「どうして兄にこんな力があるのだろう」と思った。
それは、自分より大きくて、アルブレヒトが知っている誰より強い力だった。
そう感じると、なんだかそれまで信じていた足元の地面が崩れてしまったような感覚をおぼえたのだ。
【いちばんで、特別で、天才なのは、僕のはずなのに】
兄はその日、前世の記憶を思い出したのだという。
歴史書や神話などで実在したかどうかもあやしい存在として語られる、古代の呪術王。
名は、カントループ。あるいは、オルーサ。
人類をつくった神のような善なる王。あるいは、大地を穢 し呪った邪悪な王。
本当か嘘かもわからない、不確かな言い伝えの中の存在――それが、兄の前世なのだという。
「では、……それでは、兄上はとっても……特別なのでは」
誰よりも。誰よりも、特別といえるのではないか。
アルブレヒトは、そのとき奇妙な感覚を抱いた。その感覚は、とても嫌な感じだった。
【どうして僕じゃないの? 僕が一番特別ではないの? 僕より、兄の方が特別なの?】
兄は能力を隠していただけで、自分よりずっとずっと優秀だった。
いつからかはわからないが、兄は弟より劣る自分を演じていた。周囲の大人たちも、それを見抜いている人がいた。
【僕は、ただ馬鹿みたいに自分が兄よりすごいと思っていたのだ】
「アル、兄様は、夢をみるんだ。忘れても、忘れても、思い出すんだ」
兄は語った。
呪術王カントループは、ずっとひとりなのだと。
自分以外の人間は全て滅びて、世界には自分しかいないのだと。
「自分がわからなくなる。私は誰だろう。私は世界に一人だけだ。他に、もう誰もいない。いいや? 今、お前がいるね? ……ほんとうに? ずっと夢を見ている? 今私は誰かと話している? ひとりでいる? わからない」
兄は笑って、泣いた。
人間をつくりたい、誰かと話したい、目の前に他人がいるのに、それもわからない様子で壊れた声を連ねた。
「アル、アル。こうして触れているお前は、本物? 私は誰だ? 今のこれは現実? 夢? どちら?」
兄が首を絞める。苦しい。殺されてしまう。
「あに、うえ」
――あにうえ。
手が振り解けない。かなわない。
……あ、僕は、兄にかなわないんだ。
抵抗しても、兄が殺そうと思ったら僕は殺されてしまうんだ。
「ああ! 私は今、何を……ごめんねアルブレヒト。ごめんね、苦しかったろう、兄様が悪かった、兄様が……――兄様って、誰だ?」
移り気な空の瞳が、寒々とした色で、孤独で、怖い。
誰も触れられない――そんな場所に、兄はいってしまった。
壊れた。
壊れた。
兄は壊れた。
「はぁっ――は、は、ハァッ……へへ、えへへ、んふふ。昨日、人間がつくれたんだぁ……」
ここに、人間、いますよ。
城の中にも、外にも、いっぱいいっぱい。
世界中に、数えられないくらい、人間がいますよ。
「でもねえ、喋らない。笑わないぃ。心が、ない、い……あれえ。お前は――人間っぽい。すごぉい。お前、とても人間っぽい、ぃ……!」
――兄は、壊れた……。
「ハルシオン様……ハルシオン様……」
ミランダが泣いている。少し、哀れだ。
ミランダは、兄が好きだったのかもしれない。かわいそうに。
僕はミランダが好きだったけど、かわいそうだから、ミランダを婚約者にするのはやめよう。
兄がかわいそうだからではない。ミランダがかわいそうだからだ。
「兄上」
ぼんやりとした目が、名前を呼ぶと少し正気を取り戻す。
「ん……わたしのなまえ、ハルシオン……そうだ――私は、ハルシオン」
自我の危うい兄の手を握り、アルブレヒトは笑った。
「はは、……ははは! あはははは、ひ……」
兄は、弟に微笑んだ。
楽しそう。何かいいことがあったの?
オルーサが楽しそうなんて、なんだか嬉しいな。
だってお前、いつも心がないのだもの。
人間みたい。
そう言って笑った。
「兄上……あなたは、あなたの弟を愛しているのですよね」
ミランダに愛されていて、ミランダを泣かせて、僕より優れていて、僕より特別で、僕を騙していて、壊れてしまった。
そんな兄が、――腹立たしい。
こんな風に壊れて、ふにゃふにゃヘラヘラしているのが、言いようのない嫌な気持ちにさせる。
嫌いだ。
嫌いだ。
この天才が、壊れてしまった優しい化け物が、僕は、嫌いだ。
「いいよぉ、アル」
ああ、笑っている。ゆがんで壊れたその顔が、僕の心をぐしゃぐしゃにするんだ。
くるしい。いたい。かなしい。この気持ちは、どうしたら癒えるの。
兄のせいだ。兄が悪い。兄がぜんぶ、悪いんだ。
「嫌ってくれて、いいよ……兄様はそれでもお前を、あいしてる」
一度猫になって、それが解けて聖女に出会ってから、兄は少し変わったように思うのだ。
以前より大分精神が安定していて、常人離れして奇跡に近いレベルの呪術も使い慣れた様子で。
兄を思うアルブレヒトへと、ネネイは語る。
呪術王という古代の偉大な王が、かつて大地を呪ったと言われていること。
預言にあった『贖罪』、『浄化』とは、「呪術王を英雄が討伐することで浄化がなされる」と読み取れること。
「呪術王の生まれ変わりが討伐されることで、大地の呪いは解かれる。青国勢はそう解釈しているのではないかと、思われます。おそらく、青王と青国の預言者ダーウッドが、そう解釈している……という情報が、あります……青王は、アルブレヒト陛下が呪術王の生まれ変わりだと主張することでしょう」
その語りには、怯えがあった。ネネイは、とても怯えている。
「手を打たなければ、アルブレヒト陛下は、英雄に殺されてしまいます。わ、私、青王に申し上げます。青王が支援するべき『正しき王』は、アルブレヒト陛下だと。殺すべきは、別の人物だと。その……ハ、ハルシオン殿下が、呪術王だと……。ダーウッドも、お願いすれば、私の預言に合わせてくれる、かも……」
預言者の言葉は、特別だ。
なのに、自信がなさそうに怯えながら、能力起因ではなく自分の頭で一生懸命に考えてみましたという顔で、こんなことを言う。
「ですから、ですから。ハルシオン殿下に守っていただいて。犠牲になっていただいて。ハルシオン殿下には、世界の為、陛下のために犠牲になっていただきたいと……どうせ犠牲になるなら、アルブレヒト陛下の罪をすべて背負っていただいて……。ハルシオン殿下に依存はなさらず、失われたあとのために備えを……せっかくアーサー王太子が紅国を頼ったのですから」
預言者の声が、空王アルブレヒトの激昂を招く。
「不快な預言で耳を汚すな、この莫迦娘!」
激情に上擦るような声が、響き渡る。
「二度と! 二度と! 兄が死ぬなどという妄言を吐くでない!! 舌を引っこ抜いて鳥の餌にしてくれようぞ!!」
ネネイが怯えた目で主君を見ている。
「兄は、私を守ってくれるのだ! だから、私は兄を殺さないのだ! 私が殺さないでいる限り兄は死なないのだ! 兄を殺していいのは、私だけなのだ! だから、兄は死なないのだ!」
「あ、アルブレヒト、さま」
「兄が死なないのだから、私は無敵なのだ……!! 大地が呪われているから、なんだというのだ!! 聖女がいるではないか、そのための聖女なのではないか」
大地など、民など、世界など、どうでもいい。
――ただ、兄が。
* * *
声を荒げて叫ぶ空王の映像が、変わる。
紅色の旗と青色の旗が共に揺れる、北方の陣地に。
「……お父様、お兄様」
フィロシュネーは、小さく呟いた。映像の中の陣地には、フィロシュネーの父と兄がいた。
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