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2章

60、君の幸せは難題だな

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 全身を柔らかな光に覆われ、霞幽がつぶやく。

「どうやら私は天仙で合っていたらしい」

「えっ、……霞幽様も消えちゃうんですか?」
「使命が果たされたので、私が地上にいる意味がなくなったのだと思う。奸臣がいなくなるのは国にとって良いことだね」
「そんなこと……」
 
 やだ。
 反射の速度で手が伸びた。

 けれど、指先が届くより先に、霞幽は消えた。
 
「……君は人なので、人の社会で幸せにおなり」

 そんな言葉を残して、返事も待たずに消えてしまった。

 露のように消えて誰もいなくなった空間を見つめて呆然とする紺紺の足もとには、白虎の珠が転がっていた。


 あっさりと。
 あまりにも呆気なく、彼はこの世からいなくなってしまった。


「……やだ」

 やだ。いやだ。
 紺紺は、そう思った。

「なんと! 霞幽が朕を置いて天に還ってしまったというのか? 妙に優しいと思ったら別れ際の優しさであったか、あやつめ」

 皇帝が演舞台にあがってくる。
 天を見上げたり地面を見つめたりしている。

「うおおお、我が子房よ! まだ朕を見放さないでくれーー!」

 ぎゃんぎゃんと天に叫ぶ皇帝へと、紺紺は視線を向けた。

「あの」
「なっ、なんだ、傾城」
「これ」
「おお。朱雀の珠と白虎の珠であるな」
 
 拾った朱雀の珠と白虎の珠を差し出すと、皇帝が二つを受け取ってくれる。
 渡した瞬間に、何か大切なものが離れていくような感覚がした。

 なんだろう。今、気づくべき何かがある気がした。
 この珠ってなんだっけ?
 
 紺紺はぼんやりと皇帝に渡した珠を見て、それがどういう宝であったかを思い出した。
 そして、ハッと閃いた。

「あっ。返してください」
「はっ? 傾城?」
「これ、貸してください。私……それ、使います」
「傾城?」
 
 朱雀、青龍、玄武、白虎。四神の力を秘めし、四大名家の家宝である霊珠は、全てを集めて使うと、願いを叶える機会をくれる。
 紫玉と霞幽は、一度目の人生でこれを使ったのだ。
 
「これ、四つ集めてお願いをします。なので、陛下は……主上は、玄武の珠を貸してください」
「ほうっ。構わんぞ!」
「助かります。残りのもう一個は……」

 きょろきょろと視線を彷徨わせると、桃瑚タオフー妃が杏杏シンシン公主を抱っこしてやってきた。

「紺紺。これか? これを探してるんか? 濫家らんけの青龍の珠、役に立つんか? うち、貸すで!」

 察しがいい。話が早い。
 紺紺は飛びついた。

 四つの珠が手元に揃っている。
 これに「一度目」の紫玉と霞幽は、全てを捧げたのだ。

「天は、お願いを聞いてください。霞幽様は、私の言うことを聞いてください!」

 霊力を捧げる時に意識したのは、半・妖狐であるための特質だ。
 人間からの供物や崇拝。
 それが、霊力を一時的に増加させてくれている。
 
「たくさん供物をもらった。たくさん、崇拝されてる。私……」

 紺紺に。傾城に。
 大勢の人が、贈り物をくれた。
 畏敬の念や、敬慕の情をくれている。

 それを意識して、紺紺は感謝した。

「私、妖狐の血を持っていてよかった。私が私で、よかった」 
 
 ただの人間なら届かなかったものに、手を伸ばすことができるから。
 紺紺はその瞬間に自分を承認して、「これでいいんだ」と思うことができた。
 
「天にいる神様は、聞いてください。『神異経』という書物の形で、仙人や妖怪の話は後世に伝えられています」

 『神異経』は、後宮に来る前のお祭りで獲得した景品の書物だ。妖怪や神仙、それらと関わる人々の話が記されている。
 作者である東方朔とうほうさくと言う人物は、知略知己に富み、地上に住む仙人だと言われた。

「地上の民は、神秘や怪異を日常のお供にして、教訓にしたり、楽しみにしたりできる心を持っています。悪人もいるけど、『悪人はだめだね、裁かれるべきだね、人助けする人は尊いね』って伝える人がいます。『その通りだね、後世に伝えよう』っていうひとがいます」

 人しかいない社会で、人々は人外の存在を心に住まわせている。

「目に見えない価値観、弾圧される思想、想い、文化……そういったものを、物語の力を借りて、神仙や妖怪の役を通して、子孫に伝えて、社会に根付かせています」

 あやかしと人間が子どもを作る話や、神仙が人助けする話がある。
 妖怪を追い出したり退治する話もあるけれど、妖怪に助けられたりする話もある。
 悪い君主を神仙が「めっ」と懲らしめてくれて、苦労している民を助けてくれる。
 空想、幻想、伝説にして、語り継いでいる。

 人の社会の中に、彼らの居場所は――ある。

「私たちの地上に、天という概念はしっかりとあります。暗闇には、怖い妖怪がいる。助けてくれる奇跡みたいな天仙は影響力が大きいかもしれないけど、霞幽様にそんなに影響力がありますか? 先見が通用する時期はもう終わってて、術師としては私の方が力が強いんじゃないですか? 私、この声が天に届いていて、想いが通じるって――信じます」

 紺紺は、そう唱えた。
 願うように両手を合わせると、真似するように、皇帝が、親しい友人たちが、妃たちが、同じように祈ってくれる。よくわかってないだろうに――いい人たちだ。

「そうだそうだ。霞幽は序列が三位で、傾城より格下であるぞ」
「お兄様が天仙と言われても、似合わないですわ。あの人、人間としても未熟だと思いますの。感情、ないですし」
「霞幽様は天って感じじゃないですねえ。あの人、俺を裏切ったんですよ? 『いいんじゃないかな、好きにおし』って言っといて抜け道を掘ったのに」
「人望がない天仙だなぁ……」

 なんかちょっと可哀想なことを言われてる気もする。
 紺紺は気が抜けそうになるのをこらえて言葉を続けた。

「霞幽様の誓いは、果たされていないです。約束したじゃないですか、私を幸せにしてくれるって言ったはずです」

 だから、納得いかないのだ。
 だから、不満なのだ。
 ううん、納得とか不満とか、そんな理屈じゃなくて。
 なによりも一番思うのは――いやなんだ。
 
「いなくなっちゃ、やだ……、だから、霞幽様は還っちゃだめなんです。私を幸せにしてくれないとだめなんです」

 いなくなったら、だめなんだ。
 いやなんだ。
 
かんざしだって、小蘭シャオランに贈ったなら私にも贈ってほしい……接吻もしたんだから、責任取ってほしいです。下手くそと噂のキンだって、まだ聴いていません」

 駄々っ子みたいに首を振ってありったけの想いと霊力をこめると、空気がふわりと動いた気がした。

 前髪が揺れて、風を感じる。

 透明な空気が、色彩を帯びて何かの形を成していく。
 それが、上からふわりと降りてくる。

 香るのは、はすの香りだ。
 紺紺が好きな、ずっと日常にあった香りだ。

 降りてきた気配は、人の形を少しずつ、少しずつ、はっきりさせていく。
 ――霞幽の姿を見せてくれる。

「……ふ、ふえ……」

 紺紺は泣きそうになった。

 全身の力が抜けて、疲労感が押し寄せてくる。
 膝がくたりと折れて、後ろ向きにふらふらと倒れ込んだ。
 
 体重を感じさせない浮遊感で虚空にその姿を顕現し、ゆったりと地上に降りた霞幽は、地にしっかりと足をつけて、紺紺を抱き支えた。
 
「紺紺さん」

 紺紺の名を呼びながら眉を寄せる端正な顔は、なんだかとても心外そうだった。

「……花釵かんざしは、贈ったことがあるのだが。小蘭シャオランに贈るより先に贈ったのだが。覚えていないのだろうか? そういえば、あの花釵をつけているところを見たことがないが、そもそも君に届いていたかな? 君、私が贈った花釵を持っているかい――」

 情緒も何もなく言い連ねる霞幽の唇に自分の唇を押し当てて、紺紺はその話を遮った。また消えてしまう前に、言わないと。

「霞幽様。天に戻らないでください。絶対です。命令なんです」
「私に命令を?」

 両腕を彼の首にまわして抱きつけば、体温と鼓動と呼吸が感じられる。
 それに、ちょっと驚いたような、困惑したような気配が――人間っぽい。

「いなくなっちゃ、やだ。やだぁ……っ」
「なんだ、それは。……可愛いな。君、それは私以外の男にしてはいけないよ。とてもよくない」

 ぐずるように言えば、霞幽がなだめるように頭を撫でてくれる。
 手つきは、優しい。

「私が悪かった。泣くのはおよし……」

 こんな時なのに、霞幽の声は冷静だ。落ち着きすぎている。

「君の幸せは難題だな」
「殺して解決とかじゃ、許しません。私、生きたまま幸せにしてほしいです。あっ、今、面倒だなって思いましたね?」
「思ってないよ」

 ところで、花釵をもらったことなんて、あったっけ?

 頭の隅でそんなことを考えながら、紺紺は眠気を感じた。
 とても疲れていて、瞼を閉じたら意識を落としてしまいそう。

「紺紺さん、眠るといいよ。私は天に還ったりせず、ちゃんと君を幸せにするから。改めて誓うから」
「……誓いを破ったら、三度目の人生の刑です!」
「ねえ、紺紺さん。人生をやり直すって、結構面倒なんだ。こう見えて、私は今日までとても苦労したんだよ……人間って不思議だね、紺紺さん。君、こんなに……まっすぐで。可愛らしく育って――いい子だから眠りなさい」
  
 霞幽が優しく言うので、紺紺はこくりと頷いて目を閉じた。
 
 自分はこの青年を天から取り戻して、「還らない」という約束を取り付けたのだ。
 
 強引でも、無理やりでも、恥ずかしくても、なんでも――嬉しかった。
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