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2章
44、霞幽の一度目の人生の話
しおりを挟む白 霞幽は日没を待ち、紺紺に記憶を語った。
始めに、人の争いがあった。
正晋国の王権争いだ。
野心の矛を正義の盾に隠して王朝打倒の旗を掲げしは、岳不群という将軍だった。
『北方に邪智暴虐なる妖魔あり。妖魔を退けることができるのは、天の加護を受けし英雄王者だけである』
そんな占いに踊らされて妖魔討伐に出かけた正晋国の王は、隠していた堕落の罪を暴かれた、と伝えられている。
現場にいた『妖魔』は、実は王者の器を試す地仙だったのだ。地仙は「諸葛老師」と名乗り、王を見て白眉を顰めた。
「この王が溺愛している后は、狡猾な妖狐である。嘆かわしいことだが、王は誘惑に屈して穢され、堕落しているぞ」
岳不群は地仙に三顧の礼をもって導きを請い、断腸の思いで主君を討つ決意をした……と、伝えられている。
電光石火の用兵で主君の首級を挙げた岳不群は、諸葛老師に「天の加護あり。この男こそが新たな王である」と保証されて新王になった。
そして後日、新王朝は、「主君の皇子と妃を処刑した」と発表した。
新王の隣には、見るからに神仙や妖魔の類と思しき巨大な八尾の狐が侍っていた。
諸葛老師はそれを「邪悪な妖狐を討つため、また、彼の王権を安定させるため、天が遣わした神狐である」と紹介した。
それに対して、旧王朝派の臣下たちは五歳の紫玉公主を旗頭に掲げ、主張した。
「岳不群が侍らせているのは、神狐ではなく先の后である。諸葛老師は、禁忌の術に魂を堕とした邪道の術師である。彼らは皇子を人質に取り、后の持つ妖狐としての力を悪用しているのだ」
誰もが「幼い紫玉公主は大人たちの傀儡で、お飾りの旗頭だろう」と思っていたが、彼女は恐ろしく聡明だった。
大陸一の美女として有名な母に似た、可憐な容姿。まだ幼いが絶世の美女に成長するのが想像できる可憐さ。そして、「可哀想に」と思わせる哀れさがある。
その上で、逆境を利用するように、憐れみを誘う立ち回りをするのだ。
「どうか、たすけてください。力を貸してください」
愛らしく不憫な公主が涙ながらに訴えると、大人たちは皆「我こそがこの公主を助けるのだ」という使命感を胸に抱いた。
周囲を虜にして、助けたいと思わせる。
自分の意のままに動かす。
それは彼女の魔性の発露で、妖術……『幻惑の術』によるものだった。
妖狐の血を引くがゆえに使うことのできる、人の心を操るおそろしき妖術であった。
「人の心があるものは、哀れな公主をお助けせよ」
「正義は旧王朝派にあり!」
こうして、新王朝派と旧王朝派の戦いは、他国にも飛び火した。
当晋国はどちらを支持するかで揉めに揉め、内部で派閥割れを起こした。
すなわち、四大名家の黒家や紅家が王朝争奪派を、白家と濫家が王朝奪還派を、それぞれ支持したのである。
親族の石氏が岳不群の派閥から不当な謗りを受けていた北方騎馬民族がいた。
機動力の高い騎馬民族は、戦に強かった。
彼らが王朝奪還派に味方したので、白家は「王朝奪還派が勝つ見込みは十分にある」と判断していた。
* * *
白家の治める西領は、旧王朝派の拠点として戦乱に巻き込まれた。
当時十一歳の霞幽は、学問は兄弟に劣る習熟速度、争いは好まず武術の才に乏しく、兄弟にいじめられても反撃することなく、嵐が過ぎ去るのを泣いて待つような有り様であった。
父親には「お前には覇気がない」「やられたらやり返せ、軟弱者」と罵りながら殴り、母親に「あなたが情けないとわたくしが責められるのですよ、しっかりしなさい」と泣きながら鞭を打つ。
けれど霞幽はそこで奮起することもなく、背を丸め、唇を引き結んで耐えるのみ。
兄弟に「泥団子を食え」と言われれば「わかりました」と食い、腹を壊し。
「お前は邪魔だから、池から出てくるな」と言われて池に落とされれば、大人が助けるまで池の中で凍えてじっとしていて、熱を出して寝込む。
好きな場所は、修練場の隅にある大きな梅の木の陰だ。
やあやあ、わあわあと修練に励む兵たちの熱気や怒声の陰に隠れて、本を読んだり、猫や蝶々を愛でている。
それらを取り上げられても、怒りよりも悲しみが勝ると見えて、しょんぼりと膝を抱えて悲嘆に暮れている……。
霞幽公子は腑抜けだ。
名門名家を引っ張る器ではない。
あれに任せると、一族が滅ぶ。将来は兄弟が家督を継ぐであろう。
このままでは追放されるか、前線に放り出されて死ぬか、人質として敵対派閥に送られるか……いずれにしても、哀れな人生の末路がすでに見えた気がする。
――誰もがそう噂した。
霞幽が十五歳になった時。
戦争は大陸中に戦禍を拡大していた。
しかも、荒ぶる神狐と人の戦いに発展していた。
状況が悪化した経緯としては、最初に、神狐が新王朝派の王と重臣を噛み殺し、都を焼いたことに始まる。
諸葛老師は、民を見捨てて何処かへと行方を晦ました。
その捨て台詞は「人の心が荒みすぎていた。人の負の感情に悪影響を受けた神狐は、その心を闇に染めた。天は、人を見放したと言えるだろう」であった。
老師の去り際の顔は、「性根の醜い人間たちを心から軽蔑する」というような冷たい嘲笑だった、と伝えられている。
荒ぶる神狐は、交渉の余地なく、目についた人間をすべて屠った。
咆哮は心臓を鷲掴みにするようで、本能的な畏怖の念を掻き立てて、「この相手には逆らってはいけない」「敵うはずがない」という思いにさせた。
鋭い牙と爪は甲冑や盾を簡単に破壊して、引き裂いて、その下で守られていた脆弱な人間の肉を貫いた。
放つ狐火は田畑や家々を焼き、森を焼き、大河を干上がらせた。
「我が君、霞幽公子。平和な時代であれば、優しい気質でも周囲がお支え申し上げればよかったのでしょうが、戦乱の世ですから……仕方がありません」
霞幽の武術教官を任命された桓温は、厳しくも優しかった。
木陰で現実逃避する霞幽を日なたに引っ張りだして走らせ、木刀を持たせ、ひと通り終わると「よくがんばりましたね」と褒めてくれた。
お忍びで町に連れ出してくれて、「内緒ですよ」と言ってサンザシ飴をくれた。
サンザシ飴はおいしかった。頬を緩めていると、通りすがりの子供が襤褸をまとい、羨ましそうに自分を見たことに気付く。
霞幽は、民の生活の余裕の無さを感じた。
自分は、恵まれているのだ……霞幽はそう思った。
「自分は、明日から前線に参ります。戻った際に公子様の剣の型を確認いたしますから、稽古を毎日怠らずにお続けくださいますよう」
桓温はそう言って前線に行き、帰ってこなかった。
その頃から、隣国の国土で妖魔が湧いて出るようになった。
人の死体が妖魔に変じたり、ちょっとした物陰から、それまでは空想上の存在とされてきた恐ろしい化け物が出てきたり。
それらは人の心を反射する鏡のようで、人々の心が荒むほど狂暴となり、人々を襲い、食らった。
人の住めない魔境と化した自国から他国へと、人々は必死で逃げた。
* * *
霞幽が十七歳の時。
隣国、元正晋国の国土はすっかり焼け野原となり、妖魔の領域となった。
難民は各国になだれ込み、同時に元正晋国の国土で発生した妖魔たちは国境を越え、他国も脅かすようになっていった。
この頃になると、「紫玉公主は人の心を操る悪女である」という噂が広まっていた。
戦争が一国におさまらず、大陸全土を巻き込み、その果てに妖魔が出るようになった原因が「助けてください」と各国の要人に同情を請い、誘惑し、たぶらかした紫玉公主にあるというのだ。
「悪いのは新王朝派であり、さらにいうなら神狐や妖魔なのでは」
と思う者はあっても、口に出すと神狐や妖魔に狙われるのではと恐れてしまって、言えない。各国の指導者を悪く言うのも、望ましくない。
「十一歳の公主を悪役にしたほうが、自分が安全だ」
大衆心理を把握した白家は「悪いのは妖魔である」と唱えた。
紫玉公主の名は出さぬようにして、「今は、人類が心をひとつにして妖魔の侵略に抗う時」と団結を呼びかけた。
――人類は、ひとりひとりの力では妖魔に劣る。しかし、だからこそ協力し、知恵を寄せ合い、立ち向かうのだ。
霞幽はその時流の中で前線に送られて初陣を務め、生還し、父から褒められた。
桓温の墓の前で初陣の報告をして、「私もやればできるのだ。そして、それはお前が稽古をつけてくれたりしたおかげなのだ」と語る。
死者は生き返らない。生きている頃にこんな風に言ってあげたかった――そう思った。
「覆水盆に返らず。どうしようもない現実を悲しむのはやめよう。時世を嘆くこともしないぞ」
霞幽は、剣の修練を続けながら、そう呟いた。
ふわりと風が吹いて、蓮の香りがしたのはその時だった。
「公子は、時世だからと諦めるのではなく、時世をご自分好みに変えるとおっしゃるのですね」
「はい?」
別にそこまで考えていなかったが。
と、視線を向けると、美しい少女がいた。
幼いと言われる年齢なのに、おそろしく利発で大人びている印象だ。
その血統ゆえか、尋常ではない特殊な立場や苦難の経験からか、一目で「他者と違う」とわかるような、特別な感じがする。
天女のような、とは、このような少女に使う言葉ではないか――霞幽はそう思った。
夜の湖の一番深いところみたいな、手の届かない遥かな星空の月みたいな。
綺麗で、高貴で、不思議で。
……そんな神聖で不可侵な感じのする年下の少女が、紫玉公主だった。
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