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2章

41、一度目の公子と猫のお話

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 桃瑚タオフー妃は、かけがえのない愛娘の温もりに涙しながら、自分の心を整理しようとした。
 
 友人である彰鈴シャオリン妃が最近気に入っている侍女は、名を紺紺コンコンという。
 
 夜空を溶かして流したような美しい黒藍の髪に、地味な化粧をしていても隠しきれない可憐な顔立ちの少女だ。華奢な体格で病弱だが姿勢はよく、良家で躾けを受けた様子の気品と教養がある。
 
 不憫な生い立ちだと聞くが、ひねた感じや擦れた性質は感じない。
 もしかしたら、心の奥底に弱音を秘めて気丈に振る舞っているのかも。
 
 十人が会えば八人までは「善良で愛らしく、健気だ。幸せになってほしい」と言いそうな子だ。
 
 ――けれど、桃瑚タオフー妃は十人中の二人に該当する人間だった。
 
 愛嬌があって、素直で、善良そうで、悪態をつかれても負の感情を見せることなく、前向きに健気に「もっとお仕事を頑張ります、たくさんお仕事します」という。
 そして、本当に人の何倍も仕事を頑張っていた。
 
 そこで「偉い子やな」と思うべきなのだが、桃瑚タオフー妃は別の感想を抱いてしまった。
 
 ……いい子ちゃんすぎて、自分が劣って感じる。と。
 
 「幼い子ならまだしも、十五ともなれば、人間って善良でお綺麗なままではいられないやろ? うちが十五の時は、くっそ高慢ちきで、注意されたら例え相手が目上で自分が悪くても『うちは悪くなーい』って不機嫌になったもんや。相手によっては平手打ちでわからせてやるとこやで」
 ……と思ってしまうのだ。
 
 友人の彰鈴シャオリン妃が猫可愛がりしているのも、なにやら面白くない。これは、嫉妬だ。
 夕餉の席に皇帝が呼びつけて同席させたという噂も、気になる。これも、嫉妬だ。
 
 そして何より、「若くて、容姿がよくて、性格がよい」と三拍子揃っているのが「うちの縄張りに現れたこのメスは、うちよりモテそう。危険!」と、危機感を抱かせるのだ。 
 女の勘、本能みたいなものが、「この娘が近くにいると、みんなの愛がそちらに向いてしまう。この娘はそんな危険な敵ではないか」と警鐘を鳴らすのだ。

 ……でも、この侍女が悪いことをしたかというと、何もしていない。
 それどころか、大切な愛娘、杏杏シンシンを見つけてくれたのだ……。
 悪いのは自分の心だ。相手は悪くないのである。
 
 身分の差を考えれば、黒貴妃のようにふんぞり返っていても誰も批難しない。
 
 けれど、だからこそ、謝罪し、感謝をするのが、人の道。
 貴き身分の者の『徳』というものだ。
 母として、妃として、立派な態度を取らねばならない――桃瑚タオフー妃は、大人の態度をとることにした。
 
「酷いことを言ってごめんなぁ。娘を助けてくれて、ありがとう」

 桃瑚タオフー妃は、紺紺に謝った。

「名門濫家、賢妃の矜持にかけて、このお礼はさせてもらいます」
  
 紺紺コンコンは、妃の本心は何一つ知らないまま、微笑んだ。
 母妃の腕に抱かれた杏杏シンシン公主を、ほんの少しだけ羨ましそうに見つめて。
 
「泥だらけなので、お風呂を使わせていただけたらそれで充分です」
 
 侍女――紺紺コンコンはそう言って、無欲に拱手きょうしゅした。
 
 その態度は、文句の付けようもない『徳』の高い態度であった。


 * * *

 侍女用のお風呂に向かうフリをして、紺紺は再び宮殿を抜け出した。

 向かう先は、承夏宮しょうかんきゅう
 南にある胡月フーユエ妃の宮殿だ。
 
 あの妖狐は、胡月フーユエ妃なのだろうか?
 宮殿に忍び寄り、妃の寝室を覗いてみれば、答えがわかるだろうか?
 
 水鏡老師は「妃の護衛任務をしている」と言った。
 妖狐は妃を狙っていて、水鏡老師が妃を守っているのだ。
 
 ……討伐してしまおう。
 
「妖狐は、やっぱり危険な存在なんだ。人に害を成そうとするんだもの」
 
 皇帝には「妖狐を見つけまして、妃を狙っていて狂暴だったので、討伐しました」と報告して、終わり。
 めでたし、めでたしだ。
   
 紺紺は庭の木に登り、屋根へと跳んだ。
 そして、屋根上を音もなく駆けて、宮殿の周囲を守る塀の上に飛ぼうとした時、名前を呼ばれた。

「紺紺さん」
「ふぁ! ふにゅっ」
 
 後ろから声をかけられて飛び上がって名前を呼びかけると、手で口を塞がれる。
 人間姿の先見さきみの公子だ。
 いつの間にか背後にいる。怖っ。

「ん、んンぅ~~っ!?」
「騒いで警備兵に見つかると面倒だ。静かにしなさい」
「……!」  
 
 頷いて離れようとすると、座るようにと指示される。
「座りなさい」 
 冷静で静かで、それゆえに「怖っ」と思ってしまう声色だ。
 
 立っていると無駄に目立つこともあり、紺紺はひとまず屋根の上に座った。
 それを見て、先見の公子も隣に腰を下ろした。

「無事、杏杏シンシン公主を見つけてくれたね。お疲れ様。ところで、どこに行くんだい」
「はいっ。私は妖狐討伐に行くところでした!」

 相手が水鏡老師だったら「一緒に行きます?」と頼もしくお誘いするところだったが、先見の公子は妖狐に近付きたくないらしいので、戦力外だ。紺紺は「それでは、また!」と会話を終わらせようとした。
 
 しかし、先見の公子は「待ちなさい」と引き留める。

「紺紺さんはお仕事熱心だね。しかし、君の任務に妖狐討伐は含まれていないが?」
「それがですね、先見の公子様。実は、御花園ぎょかえんに妖狐がいたんですよ」

 先見の公子は、妖狐がいたのを知らなかったんだ。
 紺紺はそう確信した。
 
 彼の先見の能力にも、色々と疑問点が出てくる。でも、いったんそれは心の中に仕舞っておこう。
 危険な妖狐の討伐が最優先だ。

「妖狐は妃を狙っているんです。危険です、討伐した方がいいです! あ、あと、東宮を呪う土器もありました。そちらは割ったのでご安心ください!」

 こんなに大きくて、牙が鋭くて!
 尻尾が八尾あって! 狐火を使って!
 と、妖狐の脅威を説明すると、先見の公子は考え込むような顔をした。

「先見の公子様? どうか、なさいました?」 
 
 この青年は、紺紺が見る限りいつも余裕があって落ち着き払っていて、物事に動じることがない。
 でも、たまに今みたいに「どうしようかな?」と分かれ道で迷っているような気配を見せる時がある。

「紺紺さん」
「はい」
 
 何をどう迷っていたのかは不明だが、先見の公子は迷いを振り切ったように笑顔を浮かべた。
 
 周りに侍女仲間がいたら黄色い声をあげそうな極上の笑顔だ。
 でも、目は笑ってない。
 
「君、疲れているね。妖狐はまた今度にして、今夜はもうお休みなさい」
「いやです」
「紺紺さん、妖狐はまた今度にして、今夜はもうお休みなさい」
「二度言われても、いやです」
「今夜はもう寝なさい」
「三度でもいやです」

 先見の公子は不思議そうに首をかしげた。
 しかし、紺紺からすると「なんで止めようとするの?」としか思えない。
 
 紺紺は気づいてしまった。
 この目の前の青年と自分、常識とか価値観とかが多分、いろいろ違いすぎるんだ……!
 ズレてる。すっごいズレてて、わかり合える気がしない!
 
「君は反抗期かい。紅豆の飯お赤飯を焚こうか?」
「結構です」
「お風呂に入ってから寝た方がいいと思うが、睡眠薬をあげようか?」
「結構です」
「君、私のことを信頼できない男だと思っているね?」
「そりゃ、いきなり接吻したり、お名前を偽ったり、人質を取ったり、皇帝陛下を退位させるとか、東宮を傀儡にするとか仰ったり、妖狐討伐を止めたりするからです」
 
 振り返ってみると、結構酷い。
 味方だと思った時もあったけど、妖狐討伐を止める今となっては、それも怪しい!
 
「そうか。それはすまない。ただ、信じてもらえないかもしれないが、私は君の味方だよ。君の幸せを願っている」
 
 先見の公子は、全く気持ちのこもっていない声で話を変えた。

「紺紺さん。君は、猫が好きだね?」
「っ? ええ、好きです」

「ところで紺紺さん、君は母親が好きだね?」

 ん? これは、罠かな?
 紺紺はサッと視線を逸らした。
 
「過去は捨てました」
「今だけ拾っておいで」
「ええ……」

 拾えといわれても。
 
「……好きです。好きでした」

 何でこんなこと言わせるんだろう。
 泣いちゃいそうだ。でも、泣くものか。
 
「そうか。では、少し話を聞いてほしい。まだ私が一度目……、無知で無力な六歳児だった時の話だよ」
「……え、……はい」
 
 先見の公子は、たまに変な物言いをする。一度とか、二度とか。
 奇妙だなと思いつつも、子供時代の彼が想像つかなくて、紺紺は好奇心を刺激された。
 
「六歳児の私は、猫を拾って飼ったことがある。普通の動物の猫だよ。茶色の縞模様の猫で、小さかった。子猫だね」
「それは、想像するとお可愛らしいですね」
「しかし、親は『猫は家族と暮らした方が幸せだ。拾った場所に家族がいただろうから、帰しなさい』と言って、私から猫を取り上げたのだ」

 親の言うこともわかる気がする。
 自分も、家族が恋しいと思う時があるから。
 
 紺紺はそっと「その言い分は、わかります」と呟いた。
 
 話は続く。

「私も、『猫が幸せになるならその方がいいのだ』と納得をした」

 先見の公子の言葉は、耳に心地よい。
 けれど。
 
「しかし、翌日、私の部屋の前には猫の死骸がわざとらしく転がしてあった」
 
 内容は、ちょっと衝撃的で、重かった。
 そして、こんな身の上話をして何がしたいのかも、わからない。

 ……いや。待って?
 これはもしかして「妖狐を殺さないでほしい」という主張につながるお話なのだろうか……?
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