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「野良猫は臆病です。特にお母さん猫は、子猫を守らないといけないですからねえ。あるじさま、まず姿勢を低くして。優しくゆっくり距離を縮めてまいりましょう」

 従者が参謀役として猫との打ち解け方を教えてくれるので、男は長身を屈めた。
 笑顔を浮かべる効果があるのかはわからないが、唇を三日月のように笑みの形にもしてみた。

「主さまは、もしかして北の方さまにそのような笑顔を向けておいでですか? こわばっていて怖いですね」

 従者は遠慮がなかった。
 しかし忌憚ない意見は助かる。
 指摘されなければ、ずっと改善できないのだから――男は表情筋を揉みほぐし、「笑顔の練習をしようと思う」と宣言した。

「子猫の方を見ちゃいけませんよ主さま。おれがやってるみたいに石にでもなった気分で、お母さん猫と向き合いましょう。無害だと思ってもらうんです」
「くしゃみが出そうだ」
「我慢してください。さあ、狗の尾の草を左右に揺らして」
 
 しかし、考えてみればこんなに雨が降っていてお互いに寒さに震えているのに、狗の尾の草を振って遊ぶ余裕があるものだろうか。
 猫も「こいつらはいつまでいるんだ、早くどこかに行ってほしいなぁ。安心して眠りたい」と思っていたりしないだろうか。

「おっ、子猫が見ているな」
「子猫の方を見ちゃいけませんって、主さま」
 
 そう言われても、子猫が可愛いのだから仕方ない。
 
 狗の尾の草を揺らしていると、物陰にいる子猫たちが二匹そろって草を見ている。
 男が草を右にすいーっと動かすと、子猫たちの目がすいーっと草を追いかけて。
 左にすいーっと動かすと、今度は左へとすいーっと首ごと動いて、興味津々。

「ははっ、見ているぞ。可愛いではないか」

 母猫の目は気になるものの、子猫が可愛く思えてきて仕方ない。
 男は夢中になって狗の尾の草を振り続けた。
 右、左、右、左、軽く止めて、上に持ち上げ、下に下ろして、また止める。

「みゃーっ」
「にゃあ!」

 二匹の子猫が目を爛々とさせて物陰から出てくるので、母猫は大慌て。

「フーッ!」

 この「フーッ!」は子猫たちに向けられていた。
 恐らく「言いつけを破って出てくるんじゃありません!」と言うお説教であろうか。
 子猫たちを叱り、母猫は一匹目を前足でむぎゅっと押さえつけ、二匹目の首根っこをはむっと噛んで物陰に戻した。

「母猫が頑張っておる。なんか、悪いことをしている気分だ」
「そうですねえ。ちょっかい出すのをやめて帰りますか?」
「しかし、雨の夜は凍えるではないか。野良猫はカラスにも狙われるし、餌をもらうのにもひと苦労で、母一匹子二匹では苦労は大きいだろう」

 男はすっかり母猫に同情を深めていた。
 この母子を必ず連れ帰って幸せにしてやろうと心に決めた。
 
 そして、従者が止めるのも聞かず、地面にはいつくばって「私は石だ。怖くないぞ」などと言いながら猫たちとの距離を少しずつ縮めていった。

「不審人物にしか見えませんよ、主さま!」
「ええい、止めてくれるな。猫たちが泥に汚れているのだ、私とて同じ泥にまみれようぞ」

 ひとしきり問答したところで、第三者が声をかけてきた。

「……そこの者たちは、何をしているのか」
 
 検非違使だ。微妙にあきれ顔である。
 牛車をずっと止めてああだこうだと騒いでいるので、通りかかった誰かが「不審なことをしています」と通報したのかもしれぬ。
 駆け付けてみれば猫の母子に這いつくばって接近を試みている主人と主人にしがみついて起こそうとしている従者がいて、さぞ気の抜けたことだろう。

「どうか、なにとぞお静かに。猫がいるのです。健気で苦労の多き母と、無垢な子たちです。雨に濡れているのです」
   
 従者は袖の下という切り札を使いつつ、「うちの主君はあの猫たちを連れ帰りたい様子でして」と事情を話し、なんとか見逃してもらうことに成功した。

 泥だらけの男の手に母猫が「にゃあーお」と頬を寄せ、猫一家が籠に入ってくれたのは、すっかり夜の帳が降りてから。
 薄月が雨雲に輪郭を滲ませるようにして地上を見下ろす中、泥だらけになった男は上機嫌で牛車に乗った。
 傍らには、にゃあみゃあと一家そろって鳴く猫入りの籠があった。お迎え成功だ。
 籠をぽんぽんと撫でて、「すぐに家に着くからな」と微笑み、思い出す。

「ああ、恋文を書くのであった。さて……」
 
 牛車の中で筆を執り、彼は想いを歌にした。

『やま風も猫は枯らさじ優しきいもの嬉しからまし』

 昨夜の和歌のやり取りから内容を引き継いで、『私には冷たくても猫には優しくすることでしょう。でもそれでいいんですよ、私はこの猫たちが幸せになってくれれば自分も満たされた気持ちになるのです』……という意味である。
 しかも、こっそり「枯らす」と「カラス」をかけてみた。

「下手であろうか。通じるであろうか……っくしゅん」

「にゃあ」
「みゃあー」
「にゃーん」

 和歌の出来を理解したわけではないだろうが、猫たちは愛らしい声で彼の心を和ませてくれた。 

「きゃあ! 殿がびしょ濡れで泥だらけですわ」
「あらあら、猫がいるじゃないですか!」
 
 屋敷に着くと、泥だらけの姿に女房たち使用人が驚くこと、驚くこと。
 身なりを整えてから北の方に会おうか、それにしても遅くなったが……と考えているところに、なんと騒ぎを聞きつけた妻がやってきた。
 普段は几帳の奥に引っ込んでじっとしていることが多い妻なので、男は夢でも見ている気分になった。

 年上の妻は黒髪が豊かで、化粧した目じりと唇が色っぽく、声は月光に照らされる清水のようであった。
 それに比べて自分は、と男は狼狽えた。
 泥まみれでずぶ濡れ。高貴な妻にお目にかかるには、情けなすぎるし無礼というものだ。
 
「いかがなさったのです、そのお姿は? 今夜はどこぞの姫とねんごろに過ごされるのかと思いましたよ」 
「ややっ、これは失敬。出迎えてくださったのは都中に自慢したいほどうれしいのですが、事情があって汚れておりまして。すぐに身を清めてまいります……いや待たれよ。私が浮気するとお思いですか? 心外ですね」

 あんなに毎晩規則正しく帰宅して「あなたしかいません」と囁いてきたのに、女心とは。
   
「殿方のお心は秋の空模様くらいに不確かだと、物語にも書いてあります」
「源氏の君と私は違いますよ」
  
 籠入りの猫一家がにゃあにゃあと鳴いたのは、その時だった。

「まあ、猫さんではありませんか」

 妻は目を丸くして、そっと籠を覗き込んだ。
 その表情が見たこともない無邪気な喜びにあふれていたので、男はしばらく声を失って見惚れてしまった。

「……猫さんも濡れていて、震えていますわね。暖かくしてあげなくては。それに、食べ物も必要かしら。まあまあ、あなたはお母様なの? 愛らしい子猫さんたちをいじめたりはしませんから、怖がらないでくださいまし……」

 妻の声は、子守唄のようだった。

「こほん、こほん。猫は拾ったのです……。雨に濡れていたので」
「まあ、……それは良いことをなさいましたね。あなたさまも、濡れてしまって。お風邪をひいてしまいますわ」

 優しく労わってくれる妻に心を溶かされそうになりながら、男は湯あみを済ませた。
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