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「猫がついてくる? そうか、牛車を止めて餌をおやりよ。ちょうどいい。私も家に帰るのを遅らせたいと思っていたのだ」
梅雨時の火灯し頃(夕方)、雨音がこもる牛車の内側で、男は手に持っていた筆を止めた。
束帯姿の男は新婚で、これから我が家に帰るところであった。
書いていたのは、年上の新妻宛ての恋文である。
この妻は「由緒正しい家柄だが、金がない」という姫で、男にとっては初恋の片想い相手であった。
「意外ですね、主さま? 愛しい北の方さまがお待ちのお屋敷に、一刻も早く帰りたいものと思っていましたけど?」
従者が首をかしげるので、男は烏帽子に手を当てて苦笑した。
「いやあ、恋文を贈ろうと考えたのだが、どのような和歌であれば女心を打つことができるのかと悩んでいたところでな。私はもともと和歌が下手だし……昨夜も試したが、どうも心を開いてくれぬのだ」
慣れ染めは、男が方違えで彼女の家に立ち寄ったこと。
琴の音を聴き、壁の穴から後ろ姿を覗き見して初恋をした、というありがちなきっかけである。
家柄はそこそこだが実家に金がある男にとっては、「金がない」という相手の家の隙が絶妙であった。
あるいは相手の家の側もそれを期待して男を「我が家へどうぞどうぞ」と招きいれ、姫に琴を弾かせたのかもしれぬ。
さて、そんなわけで初恋の姫と結ばれた男であるが、「結ばれて幸せ、めでたしめでたし」とはならなかった。
高嶺の花に手を伸ばして触れたところで、美しい花のトゲはチクリチクリと彼を刺した――北の方は、彼につれない態度を取り続けているのである。
ちなみに昨夜贈った恋文は。
『高嶺の花をひとめ拝もうと焦がれてのぼる寒山に雨ぞ降りける』
高い山の嶺に咲く美しい花(愛しいあなた)に恋焦がれて、苦しい思いをしながら山を登り続けています(求愛しつづけています)。
こんなに一生懸命な私にもっと優しくしてほしい(両想いになりたい)が、雨が降るんだなぁ(あなたが冷たいんだなぁ)……という意味であった。
従者は乳兄弟でもある男で、「ほうほう」と真剣に聞いてくれるいい奴だ。兄弟のようでもあり、友人のようでもある存在だ。
初恋に思い悩む男に「あちらの姫は猫が好きらしいですよ」だの「あちらの姫は流行りの恋物語がお好きなようで」だのと情報提供してくれることも多い。
それを踏まえて、几帳の奥に隠れがちな妻へと、源氏物語を差し入れしたり、猫の絵巻を贈ったりと尽くす日々なのである。
「お返事はいただけたのですか、主さま?」
「いただけた」
「よかったではありませんか」
「しかし聞いてくれ。返事はこのようであった。『高い山だから登るのが億劫だ』と言って登らなくなる者のなんと多いことでしょう、若いうちはよくても年を取れば足腰も弱り、山に登ることもなくなるでしょう、私たちは今だけの刹那的な関係ね……と」
「ま、まあ、最初はそんなもんじゃないですか。早いうちから気のある返事をしたら駆け引きが楽しめないっていうじゃないですか。家柄の良いお姫様だから、そういう技術を魅せてくれてるんですよ」
奥手で初恋に一途な男と違って、従者は女性経験が豊富であった。
何度か「本命を口説くためにも経験を積みましょうよ」と他の女への夜這いを助言されたこともある。だが、男はどうにも従者のようには遊べないのであった。
心を本命に囚われすぎて、遊ぶ余裕がないのである。
「そのやり取りのあとで何を書けばいいものかと考えていたのだ。『我が身を不老にして山に登り続ける』と書いたものか、それとも『山から君を搔っ攫ってしまおう』と書くか」
「どちらが北の方さまのお心に響きますかねえ、女心は微妙ですねえ。『老いた身で無理して登って力尽きる』とかどうです?」
「その手紙で喜んでもらえるのならそう書くのだが」
和歌の相談をしつつ、男は牛車の外に降りた。
猫がいるというので、「気晴らしに見てやろう」と思ったのである。
猫はネズミを獲る益獣として飼う者が多いが、男はそれほど猫好きではなかった。
爪が尖っていて衣装や調度品が傷つくし、粗相として汚すし。
それに、小さくて柔らかく、うっかり死なせてしまいそうで怖いのだ。
ただ、遠目に眺める分には、可愛いと思う。
「みゃあ、みゃあ」
「家族ではないか」
従者に傘をさしてもらい外に出てみると、大きな猫が一匹。少し離れた物陰に小さな猫が二匹いた。
茶色い縞模様がお揃いで、血のつながりを感じさせる。
小さな猫は大きな猫から餌を分けてもらい、齧りついたり、大きな猫の下でもぞもぞしてどうも乳を吸っている気配。
ということは、あれらは母猫と子猫であろう。
母猫は雨の中、牛車と物陰とを何度も往復し、もらった餌を子猫に届けていた。
「ふむ。母の優しき愛情であるな。健気なことよ。それにしても、こんなに寒いのに雨に濡れて……」
和歌の話をしていたせいもあるだろう。
男の胸には、同情が湧いた。
そして、「この猫たちを保護してはどうか」と思いついた。
「妻は猫好きだ。嫌な顔はすまい。我が心を妻はあたためてくれないが、猫はあたためてくれるであろう。私の代わりに妻に優しくしてもらいなさい」
男はそう言って猫に手を差し伸べたが、人の心、猫知らず。
「シャーッ!」
母猫は警戒心をあらわにして、男を拒絶した。
その姿はまるで彼につれない態度を取る妻のようで、男は思わず「猫にまで我が心は受け入れてもらえないのか」と愚痴ってしまった。
そんな男にくすくすと笑い、従者は近くに生えていた狗の尾の草を一本抜いた。
狗の尾の草は、長い穂の形が特徴的な「猫が好んでじゃれる草」である。
「では、主さま。この猫を北の方さまだと思ってお心を受け入れてもらう練習台としてはいかがでしょうか?」
従者が言うので、男は人生初めての「猫と心を通わせる」体験に挑戦することにした。
梅雨時の火灯し頃(夕方)、雨音がこもる牛車の内側で、男は手に持っていた筆を止めた。
束帯姿の男は新婚で、これから我が家に帰るところであった。
書いていたのは、年上の新妻宛ての恋文である。
この妻は「由緒正しい家柄だが、金がない」という姫で、男にとっては初恋の片想い相手であった。
「意外ですね、主さま? 愛しい北の方さまがお待ちのお屋敷に、一刻も早く帰りたいものと思っていましたけど?」
従者が首をかしげるので、男は烏帽子に手を当てて苦笑した。
「いやあ、恋文を贈ろうと考えたのだが、どのような和歌であれば女心を打つことができるのかと悩んでいたところでな。私はもともと和歌が下手だし……昨夜も試したが、どうも心を開いてくれぬのだ」
慣れ染めは、男が方違えで彼女の家に立ち寄ったこと。
琴の音を聴き、壁の穴から後ろ姿を覗き見して初恋をした、というありがちなきっかけである。
家柄はそこそこだが実家に金がある男にとっては、「金がない」という相手の家の隙が絶妙であった。
あるいは相手の家の側もそれを期待して男を「我が家へどうぞどうぞ」と招きいれ、姫に琴を弾かせたのかもしれぬ。
さて、そんなわけで初恋の姫と結ばれた男であるが、「結ばれて幸せ、めでたしめでたし」とはならなかった。
高嶺の花に手を伸ばして触れたところで、美しい花のトゲはチクリチクリと彼を刺した――北の方は、彼につれない態度を取り続けているのである。
ちなみに昨夜贈った恋文は。
『高嶺の花をひとめ拝もうと焦がれてのぼる寒山に雨ぞ降りける』
高い山の嶺に咲く美しい花(愛しいあなた)に恋焦がれて、苦しい思いをしながら山を登り続けています(求愛しつづけています)。
こんなに一生懸命な私にもっと優しくしてほしい(両想いになりたい)が、雨が降るんだなぁ(あなたが冷たいんだなぁ)……という意味であった。
従者は乳兄弟でもある男で、「ほうほう」と真剣に聞いてくれるいい奴だ。兄弟のようでもあり、友人のようでもある存在だ。
初恋に思い悩む男に「あちらの姫は猫が好きらしいですよ」だの「あちらの姫は流行りの恋物語がお好きなようで」だのと情報提供してくれることも多い。
それを踏まえて、几帳の奥に隠れがちな妻へと、源氏物語を差し入れしたり、猫の絵巻を贈ったりと尽くす日々なのである。
「お返事はいただけたのですか、主さま?」
「いただけた」
「よかったではありませんか」
「しかし聞いてくれ。返事はこのようであった。『高い山だから登るのが億劫だ』と言って登らなくなる者のなんと多いことでしょう、若いうちはよくても年を取れば足腰も弱り、山に登ることもなくなるでしょう、私たちは今だけの刹那的な関係ね……と」
「ま、まあ、最初はそんなもんじゃないですか。早いうちから気のある返事をしたら駆け引きが楽しめないっていうじゃないですか。家柄の良いお姫様だから、そういう技術を魅せてくれてるんですよ」
奥手で初恋に一途な男と違って、従者は女性経験が豊富であった。
何度か「本命を口説くためにも経験を積みましょうよ」と他の女への夜這いを助言されたこともある。だが、男はどうにも従者のようには遊べないのであった。
心を本命に囚われすぎて、遊ぶ余裕がないのである。
「そのやり取りのあとで何を書けばいいものかと考えていたのだ。『我が身を不老にして山に登り続ける』と書いたものか、それとも『山から君を搔っ攫ってしまおう』と書くか」
「どちらが北の方さまのお心に響きますかねえ、女心は微妙ですねえ。『老いた身で無理して登って力尽きる』とかどうです?」
「その手紙で喜んでもらえるのならそう書くのだが」
和歌の相談をしつつ、男は牛車の外に降りた。
猫がいるというので、「気晴らしに見てやろう」と思ったのである。
猫はネズミを獲る益獣として飼う者が多いが、男はそれほど猫好きではなかった。
爪が尖っていて衣装や調度品が傷つくし、粗相として汚すし。
それに、小さくて柔らかく、うっかり死なせてしまいそうで怖いのだ。
ただ、遠目に眺める分には、可愛いと思う。
「みゃあ、みゃあ」
「家族ではないか」
従者に傘をさしてもらい外に出てみると、大きな猫が一匹。少し離れた物陰に小さな猫が二匹いた。
茶色い縞模様がお揃いで、血のつながりを感じさせる。
小さな猫は大きな猫から餌を分けてもらい、齧りついたり、大きな猫の下でもぞもぞしてどうも乳を吸っている気配。
ということは、あれらは母猫と子猫であろう。
母猫は雨の中、牛車と物陰とを何度も往復し、もらった餌を子猫に届けていた。
「ふむ。母の優しき愛情であるな。健気なことよ。それにしても、こんなに寒いのに雨に濡れて……」
和歌の話をしていたせいもあるだろう。
男の胸には、同情が湧いた。
そして、「この猫たちを保護してはどうか」と思いついた。
「妻は猫好きだ。嫌な顔はすまい。我が心を妻はあたためてくれないが、猫はあたためてくれるであろう。私の代わりに妻に優しくしてもらいなさい」
男はそう言って猫に手を差し伸べたが、人の心、猫知らず。
「シャーッ!」
母猫は警戒心をあらわにして、男を拒絶した。
その姿はまるで彼につれない態度を取る妻のようで、男は思わず「猫にまで我が心は受け入れてもらえないのか」と愚痴ってしまった。
そんな男にくすくすと笑い、従者は近くに生えていた狗の尾の草を一本抜いた。
狗の尾の草は、長い穂の形が特徴的な「猫が好んでじゃれる草」である。
「では、主さま。この猫を北の方さまだと思ってお心を受け入れてもらう練習台としてはいかがでしょうか?」
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