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 無茶を言っているのはわかっていたけれど、ゲラードにはあまり時間がなかった。だから、半ば強引にその店の扉を開けてしまったのだ。案の定、何事かと駆けつけてきた従業員たちに取り囲まれた。
「無作法をして申し訳ない。しかし急ぎの用があって──」
 彼女たちになんとか事情を説明しようとしているところで、店の奥から落ち着いた声が聞こえた。
「おはようございます、気の早い旦那様。あいにく当店はまだ開店準備中で──あら」
 女主人は、ゲラードの姿を見て足を止めた。
 ゲラードは、その声を聞いて微笑んだ。
 やっぱり、間違っていなかった。
「これはこれは。このような店に足をお運びくださり、恐悦至極に存じます」
 〈黒梟〉亭の女主人アドゥオールは、優雅な辞儀をした。ゲラードを取り囲んでいた従業員たちも、一糸乱れぬ動きでそれに倣う。
 アドゥオールはゆっくりと身を起こすと、迷惑な客に嫌な顔一つせず、店の奥にある最も座り心地のいい席を勧めた。席についた瞬間、お茶の入った杯がテーブルに置かれた。
「本日は、妹君が戴冠なさるご予定ではなかったのですか」
「僕のような身分の者は、聖堂の中には入れませんから」
 ゲラードは紅茶に口をつけた。微かに葡萄の香りがする、とてもおいしいお茶だった。ゲラードはしばらくその香りを楽しんでから、言った。
「いままで、忠告をありがとう」そっと微笑む。「そのお礼を言いたくて。しばらくダイラを離れることになるので」
「それはそれは」アドゥオールは、正しい答えを導き出した教え子に向けるような笑みを浮かべた。「あなたはまこと、類い希なる王子であらせられる」
「もう王子ではありません」ゲラードは小さく笑った。
「いいえ。あなたは王の末裔」アドゥオールはゲラードの目を見つめた。「我々にとって唯一の王、マウリス王の子孫です」
 まだ、その名前と自分とをつなぎ合わせるのになれていないゲラードには、ただ頷いてその言葉を受け入れることしかできなかった。
「あなたは、何もかもご存じだった」ゲラードは言った。
「幸いにも、わたしの友好関係は広いのです、殿下。人魚は素晴らしい種族ですが、陸地を見るための目がなければ、話す魚と大差はありません。お互いの利益のために、手を取り合ったのです」アドゥオールは優雅にお茶を飲んだ。「水底の女王の頼みは断れませんわ」
 ゲラードは、彼女の言いように小さく笑った。「確かに」
「今日いらして頂けて幸運でした」彼女は言った。「例の刺客について、お伝えしたいことがあったのですよ」
 途端に、胸に押し当てられた短剣を思い出して、身がすくむ。
「何かわかったのですか?」
 アドゥオールが頷いた。
「カルタニアです」
 ゲラードは眉をひそめた。「カルタニア……」
「一年もの間追いかけ回して、ようやく、お命を狙った刺客の出所を突き止めました。カルタニアの教会に属する、金面軍という暗殺集団です」
「金面……暗殺者……!?」
 わけがわからず、混乱と緊張の汗が滲む。
 決して素行の良い信者ではなかったにせよ、いくらなんでも、教会に命を狙われるようなことをした覚えはない──と、ここまで考えたところで、ようやく思い出す。
貴銀しろがねの血──」
 神を生み出す力を持つその血を、陽神デイナが封じた。それはなぜだった? 陽神デイナが、貴銀の血の力を恐れたからではなかったか?
「教会は、僕の血を恐れている──?」
 アドゥオールは頷いた。
「おそらく」
「しかし、なぜ?」ゲラードは途方に暮れた。「僕には……たいした力はないのに」
 アドゥオールも、同じくらい途方に暮れているようだった。彼女も力なく首を振った。
「まだわかりません」彼女は言った。「とにかく、教会の動向を探らなくては」
 アドゥオールは、ゲラードを見つめた。
「ご注意を、殿下。何かが動き出しています。我々の立つ地面の裏、風の隙間、雲の陰で」
 背筋がざわめき、嫌な汗が背中を伝った。
 彼女は言った。
「教会の狙いを、探らなくてはなりません。引き続き、私の密偵に探らせます」
「ありがとう。僕も……目を光らせておきます」
 ふたりは頷き合い、ゲラードが席を立った。
「戴冠式にお出にならなくて、本当によろしかったのですか?」
 ゲラードは肩をすくめた。
「彼女には直接お祝いを伝えたから。それに、これからいくらでも──」
 そこから先の言葉は、永遠に口にされなかった。
 空を裂くような爆発の音が聞こえたのは、ちょうどその時だった。
 王都を駆け抜けてゆく振動が、建物を震わせた。食器がガチャガチャと音を立て、魔女たちの間から、控えめな悲鳴がおこる。
「みんな、狼狽えては駄目よ」
 アドゥオールは言ったが、彼女の顔も強ばっていた。
 そして、振動がおさまった。
「今のは、一体なに?」
 真夜中の魔女は囁いた。答えを知るのが怖ろしいと、彼女の目が語っていた。
 不気味な余韻の中で、ゲラードは感じていた。世界が決定的に変わってしまったことを。
 彼の中に流れる貴銀の血が、そっと囁いていた。
 昨日と同じ世界はやってこない。もう二度と。




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 一三七二年、樫の月。
 緑海の国々ではこの上ない吉日とされる十二日に、エレノア女王の戴冠式が執り行われた。
 女王は国民の前に立ち、安定した社会と平和の実現、そして知識の追求によって皆が栄える世を作ることを約束した。
 万雷の拍手の中、ひとりの男が王女の前に躍り出た。
 彼が身に纏った外套を拡げると、そこには大量の炎薬えんやくの入った瓶が無数にくくりつけられていた。
 男を取り押さえようと衛兵が前に出たが、男はその手を逃れた。
 男が導火線に火をつけ、女王に向かって走った。
 その時、祭司のマシュー・コンプトンが走り出て、祭壇から十数ナート離れたところで男を押し倒した。爆発はその瞬間に起こった。
 この爆発で、コンプトン祭司は死亡。貴族七名が怪我を負ったが、命に別状は無い。プロフィテイア聖堂の翼廊が破壊され、聖堂は立ち入り禁止となった。
 
 同日、旧アルバ領の北方山脈にある〈クラン〉の本拠地ヨトゥンヘルムでは、新たな頭領の就任の儀式が行われていた。視力を失ったヒルダ・フィンガルに代わり、年若いランヴァルド・フィンガルが頭領に就任することとなっていた。
 式の最中、ここでも一人の人狼が声を上げた。彼もまた、炎薬えんやくの入った瓶を身に帯びていた。〈クラン〉の人狼たちはすぐさま彼を取り押さえようとした。だが、爆発の方が早かった。業火はヨトゥンヘルムを焼き尽くし、〈協定ノード〉の守護者たちの砦は壊滅した。現在〈クラン〉は解散し、人狼たちの行方も知れない。
 
 エイルではその日、大学の棟上げの祭りが行われていた。カルナバンの森に建設される予定で、シルリク王自身の立案によって創立されることとなっていた。
 祭りには、シルリク王とその側近のフィラン・オロフリン、枢密院の顧問官や議会議員の他、大勢の市民がつめかけていた。
 晴れ渡った空の下、大学の建設予定地に設えられた祭壇の前で、土地の神に祈りを捧げているちょうどそのときだった。炎薬の瓶を手にした男が現れたのは。
 彼はアラニの大義と、救世主マルヴィナをしいしたシルリク王への復讐を叫ぶと、導火線に火をつけた。シルリク王がすぐさま飛び出した。黒い靄に変化へんげし、男の身柄を包んだ。人びとが悲鳴を上げる中、彼は男を抱えて、空高く飛翔した。
 爆発は、空中でおこった。太陽の落とし子が生まれたかのように、激しい爆発だった。
 シルリク王の亡骸はなかったが、新王に即位したフィラン王によって、シルリク王の崩御が正式に布告された。




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 船出の準備は滞りなく終わり、あとは錨を上げるだけだ。
 悲しみが、波の音にも、風の温度にも宿っている。耳にこびりついて離れない弔鐘の響きのように、彼の不在は心に影を落とす。
 クヴァルドは嘆きを表に出すことなく政務に励んでいる。それがいっそう痛々しい。ヴェルギルがいなくなったこのエイルは、最も眩いともしびを失ったかのようだった。
 それでも、すべての灯が消えたわけではない。
 彼と交わした約束を果たす。そのために、フーヴァルは今日、再びエイルの港を出発する。
「準備はできたか、野郎ども!」
 船尾楼甲板プープデッキから、船を見渡す。ジャクィス・キャトルの討伐と引き換えにオルノアからせしめた財宝で、イルヴァのロッサーナ号をはじめとする〈浪吼団カルホウニ〉の船の多くが新たに作り直された。このマリシュナ号も、古い船から多くの船材と、名前を引き継いだ新造船だ。
 それでも、ここには喪失が満ちていた。
 乗組員たちの『応』という返事にも、から元気げんきの痛々しさがあった。だが、立ち止まっては居られないのだ。
「錨を上げろ」フーヴァルは声を張り上げた。「出発だ!」
 幸運の女神マリシュナは、何度でも海にこぎ出す。
 戦い続け、そして手を差し伸べ続けるために。
「いよいよだね」
 ゲラードが傍らに立ち、フーヴァルの手を取った。
「ああ」
 それ以上の言葉は必要なかった。ただふたりで、目の前に広がる青を見つめた。
 空と、海の青。
 その二つは、決して交わることなく存在し続ける。何千年前からそうであったように。何千年後も、そうであるように。
 けれど、八重波やえなみは蒼穹を映し、蒼穹には八重波の如き白雲が連なっている。
 空と海との間にいくつの嵐が生まれようと、海が干上がったり、空が飛び去ったりするようなことは……ないだろう。少なくとも、当分のうちは。
 なら、それで十分なのかもしれないと、フーヴァルは思った。
 空と海とが互いに向かい合っている限りは、きっと。
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みんなの感想(1件)

まぬまぬ
2024.03.03 まぬまぬ

オールハッピーエンドだと期待してます!

あかつき雨垂
2024.03.03 あかつき雨垂

お読みくださりありがとうございます〜!!

次作、シリーズ完結編の『天地の譚詩』では間違いなくハッピーエンドになります! ので、どうかまたしばらくお付き合い頂けますと嬉しいです!

解除

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