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40
それは夜半前のことだった。キャトルたちは夜闇に紛れて、ダイラの艦隊が敷いた陣の真南に移動していた。
青白い光が南の海上を埋め尽くしているのを見て──待ち構えていたこととは言え──嫌な汗が、フーヴァルの背中に滲んだ。
「とうとう来やがった……!」
〈嵐の民〉──それを動かしているキャトルの狙いは明白だった。重武装したダイラの艦隊を奪取して、〈浪吼団〉の船団を一網打尽にするつもりだ。
いかにもお前のやりそうなことだよ、キャトル。
圧倒的な実力差で、相手を叩き潰すのが彼にとっての喜びだった。
かくして、角笛は鳴り響いた。
青白い光の向こう側、闇の中に浮かび上がるのは一隻の船──大烏賊の黒旗を掲げたトロンデラーグ号だ。姿を隠すまでもないと言いたげに、船中のランタンを灯している。生き残った船団は、トロンデラーグ号の後ろの安全圏にずらりと控えていた。
ダイラの艦隊はすぐさま錨索を切り、帆を拡げて、〈浪吼団〉の陣を縦二列で回り込んだ。艦隊の尻を追いかける〈嵐の民〉とすれ違いつつ、トロンデラーグ号の左右の横腹に並ぶことができれば、勝機はある。圧倒的な火力の差にものを言わせて頭を潰せば、蛇だろうが烏賊だろうが、ひとたまりもないはずだ。デイビスは楽天家かもしれないが、もしもの策を講じないほど馬鹿ではなかった。
だが、風の力に頼って移動する帆船と、橈という推進力を持った竜頭船の機動力は比べものにならない。今の風は艦隊の進行方向に向かって吹く追風ではあったが、いかんせん弱かった。幽霊船団は早くも艦隊に追いつき、殿の数隻を瞬く間に取り囲んだ。
海は、不気味なほど静かだった。
これが、大砲で蹴散らすことができない敵との戦いだ。
初めて大砲というものが船に搭載されてからまだ数年しか経っていないのに、いまではすっかり海戦といえば大砲という世の中になった。だから、この夜の静まりかえったデンズ湾で繰り広げられている戦いは、まさに異様だった。それぞれの船であがる号令が、濃厚な闇夜の中で頼りなげに響き、瞬く間に消える。それが、この戦いをいっそう不気味に彩っていた。
「全帆展開して左舷開き!」
フーヴァルが上げた声も、たちまち濃厚な闇の中に吸い込まれる。
乗組員が段索を駆け上がると、程なくして白い帆が解かれた。掌帆手たちが転桁索にとりつき、帆脚索を引いて帆を張った。
マリシュナ号を先頭に、〈浪吼団〉の船が前方に進み、左舷から向かってくる幽霊船から可能な限り遠ざかる。思った通り、幽霊船は〈浪吼団〉を追ってこなかった。あとでいくらでも叩き潰すことができると思っているのだろう。
船尾楼甲板から後方を見ながら、フーヴァルは呟いた。
「吠え面かかしてやる」
その隣にゲラードが立ち、同じ方向を見つめた。その目は、夜の底でもはっきりとわかるほど銀色に輝いている。
「何か見えるか?」
視線の先では、幽霊船が艦隊の殿に追いついている頃だろう。だが普通の人間なら、望遠鏡も無しに、数百ナート先の海上の様子が見えるはずはない。しかも、今は夜だ。
しかし、ゲラードは頷いた。
「幽霊たちが、船を取り囲んでるのが見える。彼らは──訝しんでいるようだ。手に入るはずのものが入らないと……。餓えと苛立ちが、黒雲のように彼らの頭上に垂れ込めている」
フーヴァルは笑った。
「つまり、大成功ってことだな」
ダイラの艦隊は、すでに半数以上が転回していた。幽霊に取り囲まれ、動かなくなった船は全部で四隻。だが──
「今ごろ、ジャクィスは怒り狂ってるぜ」
幽霊が取り囲んでいる四隻は、追わせるために、わざと殿に置いた船だ。艦隊に完全に同調して動いていたから、気付かなくても無理はないが、どれも端から無人の囮だった。
〈嵐の民〉はタチの悪い連中だ。命を奪う腐臭を漂わせて、哀れな犠牲者の魂を片っ端から吸い取ってゆく。唯一の例外は、船の索具に触れたことのない者だけ。
だが、あの船を動かしていたのは船乗りではない。船底の下、水面下に潜んでいる人魚たちだ。あの四隻の乗組員たちはすでに、夜の闇に紛れて他の船へと乗り移っている。
「人魚は索なんか触らねえからな」フーヴァルは、尖った牙を覗かせて笑った。
ちょうどその時、デイビス艦隊の旗艦プリンセス・エレノア号が、トロンデラーグ号の脇腹に砲弾をぶち込んだ。
立ちこめる夜霧を裂いて、稲光のような砲火が海上に瞬く。プリンセス・エレノア号のあとに続く船も、船団に容赦ない砲撃を喰らわせた。
だが、快哉を叫ぶにはまだ早い。
謀られていたことに気付いた〈嵐の民〉は無人の船を捨て、瞬く間に船首を転じていた。彼らの次の獲物は、刻一刻と遠ざかってゆくダイラ艦隊ではなかった。
それよりずっと近くで静かに様子を窺っていた、〈浪吼団〉の船だ。
「ねえ! あっという間にバレちゃったけど?」
船尾側の海面から、声がする。下を向くと、そこにはナールと、彼が引き連れてきた人魚たちがいた。
「それでいいんだ」フーヴァルは言った。「ご苦労だったな!」
「あいつら、こっちに向かってきてない?」
「ああ、それでいい」フーヴァルはもう一度言った。
もっと近づけ。もっとだ。そうしたら、最後の切り札をお見舞いしてやる。
「あのさあ!」
「なんだよ!」
もう一度下を向くと、ナールが心底嫌そうな顔をしていた。
「あいつら、もの凄く臭いって知ってた? 先に言ってくれたら、絶対協力なんかしなかったのに」
「だから黙ってたんだ」フーヴァルは笑った。「砲撃がある場所には近づかなくていい。他の船が逃げるのに手を貸してやってくれ」
ナールは水面から高く浮き上がり、厳粛さと悪ふざけを混ぜ合わせたような表情で言った。
「了解、船長!」
そして仲間を引き連れて、再び海の底に消えた。
「あ」
すぐ隣で、ゲラードが声を上げた。彼は相変わらず、銀の双眸を幽霊船団に向けていた。フーヴァルも望遠鏡を目に当てて、こちらに近づいてくる〈嵐の民〉の船群を見た。
「あと四分の一刻で追いつかれる」ゲラードが言った。
フーヴァルは振り返り、中部甲板に向かって声を張り上げた。
「小舟を降ろせ!」そしてもう一度、迫り来る幽霊たちの姿を見た。「あの死に損ないどもを、今度こそ冥土に送ってやる」
41
「ご機嫌麗しゅう存じます、陛下!」
そう言って眼前に迫ってきた彼の、喜びに満ちた顔がどういう造作をしていたか、今となっては思い出すことができない。
ヴェルギルは分厚い外套をかぶって小舟の舳先に座り、マシリュナ号を追いかける亡者の群れを見つめた。自分の足下で危なっかしく揺れる小舟よりも、よほど馴染みがある竜頭船。仲間たちとぴったり息の合った橈漕。頼りない横帆一つで、エイルの海を縦横無尽に航海したときの昂揚は、今となっては朧気な思い出の……残骸でしかない。
人間だった頃の記憶の多くを捨てた。そうしなければ、とても正気を保つことなどできないから。
それにしても、エイルを滅ぼした男の顔まで忘れるとは。
「非情だなどとは言ってくれるなよ、ビョルン」ヴェルギルは呟いた。「千年も生きれば、大抵の面影は忘却の彼方に消えてしまうものだ」
覚えているのは、彼が全身から発散していた、狂おしいほどの殺気。戦いに飢えた男が、ついに解放した獣の性。その熱。
自分では彼に勝てないと、一瞬で理解した。あの絶望の味。
「羊を飼って腐っていくなんてのはまっぴら御免でね。だから、俺は海神につくことにした」彼は言った。「恨まないでくれよ、シルリク」と。
ヴェルギルの腹に剣を突き立て、彼は血に飢えた目で自分を見下ろしていた。身動きのできない身体を無造作にまさぐり、国の安寧を守る冠帯と、幼い頃から肌身離さず身につけてきた腕輪を、ついでのように奪っていった。死体漁りの烏さながらに。
恨まずにいられるはずがない。
怠惰に身を沈めて空費した長い、長い年月の間、一日たりとも、彼を恨まぬ日はなかった。
目をかけていた。領地を与え、婚礼を祝い、子供の名付け親になりさえした。その男に国を奪われ、息子の未来を奪われた。あの身勝手な謀反のせいで、息子は吸血鬼に変異した。あの襲撃のせいでナドカという存在が生まれ、多くの苦しみが生まれたのだ。
あの夜が存在しなければ、今ごろはただのシルリク王──特筆すべきこともない平凡な王として、エイルの土となっていたはずだ。
それは……どれほど得がたい幸福だったことだろう。
だが、世界はそれを選ばなかった。世界はビョルンを狂気の淵に突き落とし、ナドカという存在を迎え入れ……。
そしてわたしが、今ここにいる。
ビョルンの顔を思い出すことはできなくても、彼のことはすぐに見分けがついた。
熊を咥えた竜頭船。その先頭に乗って、両刃の剣を振りかざすかつての臣下──その残骸。左腕には、あの日ヴェルギルから奪った腕輪が、まだ嵌まっていた。
その横顔を見つめて、ヴェルギルは呟いた。
「ずいぶん遠くまで来たものだ。お前も、わたしも」
今ヴェルギルの胸にあるのは、途方もないほど大きな哀れみだ。
千年の孤独の果てに、シルリクはフィランに出会った。それまでの孤独を埋めて余りある恵みだ。だがあの男は、満たされることのない餓えと妄執に囚われたまま、海上を漂い続けるしかないのだ。
「船をもう少し近づけてくれ」ヴェルギルは漕ぎ手に声をかけた。
「もっと?」漕ぎ手はうんざりと呟いた。「これ以上近づいたら、鼻が腐ってもげそうなんだけど……」
ぶつくさ言いながらも、船は前へと進みはじめた。
「さて、ビョルン」ヴェルギルは立ち上がり、かぶっていた外套を船底に落とした。「千年振りの再会といこう」
42
腐死者と幽霊たちの船団は、マリシュナ号のすぐ後方に迫っていた。ゲラードのすぐ隣で、フーヴァルは船尾楼甲板の手摺りを絞れるほど強く握りしめながら、ヴェルギルの悠長さについて、とても二度とは口に出せないほどの暴言を並べ立てていた。
熊を咥えた竜頭を持つ船が先頭にいた。船首に立っていたのは、一人の腐死者。骨と皮ばかりに痩せた身体に古の鎧を纏い、フジツボだらけの兜の下からは海藻が垂れ、戦化粧を施した膚は朽ちかけて骨が覗いている。瞼を失った剥き出しの眼窩には、燃えるような飢餓を湛えた両目。頬まで裂けた口には、獰猛な笑みが浮かんでいた。溟濛たる鬼火のように青ざめたその姿の中で、唯一金の腕輪だけが、ギラギラとした輝きを放っていた。
売国奴ビョルン。
彼が錆びた剣を振り上げる。青白い船団が、今にもマリシュナ号を取り囲もうとしている。
それが、不意に呼び止められたように止まった。ビョルンが首を巡らし、竜頭船の右舷後方を見た。まるで、見えない糸に手繰られているかのようだった。
ゲラードは、闇に目をこらして見た。
数十ナート離れた海上に、ヴェルギルが立っているのが見えた。昔風の装束を纏い、長い髪は頭の後ろで結ばれている。毛皮と毛織物と素朴な装身具に身を包んだ彼の姿を見ると、胸がざわついた。
彼が生きた千年という年月を意識せずにいるのは容易い。ヴェルギルはそうしたものを気取らせることなく人と接するのに長けているから。けれど、いま目の前にいるヴェルギルは、千年前にエイルを治めたシルリク王その人なのだ。その事実を、まざまざと見せつけられたような気がした。
ビョルンが、血も凍るような叫び声を上げた。聞くものの耳を氷柱で貫くような──痛みを与えるほどの叫喚だ。
その声に応えて、〈嵐の民〉が向きを変え、船首をヴェルギルに向ける。橈の動きにかき混ぜられた海が逆巻き、青白い発光が波に宿る。生温かく湿った風が吹きはじめ、腐死者の死臭が一気に濃くなった。
ビョルンの横顔に、もはや笑みはなかった。
ゲラードは、ビョルンの中で嵐のように渦巻く苦悩を感じた。
彼は、エイルの王に冠帯を授けた守護神雷神の怒りを買い、深い水底に沈められた。そうして千年もの間、自らが犯した強欲の罪によって海に縛られてきた。すべては、彼がエイルの冠帯を奪ったあの日に始まったのだ。彼が求めているのは──本当に求めているのは、哀れな船乗りたちの魂ではない。
三百艘にものぼる竜頭船の船団が、大挙してヴェルギルの元を目指す。それは青白い触手のように、海上を移動していった。
ビョルンの乗った船がヴェルギルの小舟に近づき、今にも、舳先がぶつかりそうになる。幽霊の発する光に照らされて、ヴェルギルの姿も青白く浮かび上がっていた。
と、その時、ヴェルギルの背後に、小さな影が立ち上がった。
黒髪に浅黒い膚をした青年が、目に琥珀の光を宿して、幽霊たちを見据えている。青い光に照らされた彼の顔に、文身の茨が伸び──九重の花を咲かす。
彼は、良く通る声で詠唱をはじめた。
「吾はサーリヤの血の者 地に注ぐ水
巫の祖は マナールの末裔よ」
焔語は不思議な響きの言葉だ。十四歳になる頃にはヴァスタリア、フェリジア、カルタニアの言葉を不自由なく使えたゲラードにとっても、複雑なこの言語を習得するのは本当に難しかった。
マタル=サーリヤの焔語は、燃え上がる焔をそのまま言語にしたかのような独特の響きを持っていた。素人耳でも、彼の呪文に籠もる力を感じられる。
彼は暁の女神にして、冥界の門への導き手であるアシュタハ神をこの世に目覚めさせた魔女だ。彼の呪文は死者の魂をほんの一時この世に呼び戻すこともできるし、逆に、冥界へと送り返すこともできる。
彼こそが、この戦いにおける切り札だった。
「橈を手放せ 捕囚の者ども
汝らは 苦役を終えり
霜枯れの骸脱ぎ
導きの光に 魂を委ねよ!」
彼が呪文の詠唱を終えると、眩い光が海上に迸った。それは一瞬の夜明けのようにあたりを照らし尽くし、夜の闇に慣れた者たちの目を焼いた。
際限なく滲む涙に目をしばたいていると、すぐ隣から、フーヴァルの口笛が聞こえた。
「やりやがるぜ、あのガキ……」
涙を払って、再び夜の世界に戻った海を見る。竜頭船という枷から解放された魂が光となって、宙に浮かんでいた。あるものは雪のように海面に降り注いで消え、あるものは風に乗って西へ流れていった。そしてあるものは、意志を持つようにそれぞれの目指す場所へと飛んでいった。
「なんて力だ……」ゲラードは呟いた。
今まで海面を覆い尽くさんばかりだった船は、消えていた──ほとんどが。
だがまだ、残っている船はある。
フーヴァルは大きく舌打ちした。「そう簡単にはいかねえってわけかよ」
マタルがその船を消し去れなかった理由は、すぐにわかった。残っていたのは、いずれも古の戦士の格好をした腐死者ばかりだったのだ。残った船は、たったの三艘。だが、三艘の竜頭船に満載された兵士たちの数は、百を下らない。
「彼らは、幽霊じゃない」
「ああ。きっと千年前にヴェルギルを裏切った連中だ」フーヴァルが言った。「呪いを解かなけりゃ、あいつらは消えねえ……」
「だが、どうやって──」
彼らは冠帯に固執している。
そしてエイルの冠帯は、一度身につけたら、役目を終えるその時まで決して取り外してはならない代物だ。父神とエイルの創始者たちとの契約によって、そう定められている。この誓いを破れば父神の怒りに触れ、ビョルンの次に呪われるのはヴェルギルということになる。事の重大さを考えれば、〈浪吼団〉の全員が呪われても不思議ではない。
「船首を転回させろ!」フーヴァルが叫んだ。「王の加勢に向かうぞ!」
その時、船員たちの動きを止めたのは、新たに発せられた別の号令──ではなかった。角笛の音でもなければ、雷鳴でもない。何の声も、何の音もしなかった。
ただ、空気が変わっただけだ。
船員たちに指示を飛ばそうと中部甲板に降りようとしていたフーヴァルも、その場で足を止めた。
海上を見ていたゲラードは、だた、動けなくなった。さっきまでヴェルギルがいた場所から、目が離せなくなっていた。
いま、そこには闇よりもいっそう黒く、昏い何かがいる。それは圧倒的な存在感で以て、周りにある一切の光を呑み込んでしまっているようだった。
そこには影が立っていた。
影の前で、腐死者たちは文字通り、色を失っていた。青白い光も絶え、ただ、今にも崩れそうな骸が蹲っているだけのように見える。ビョルンだけが、剣を振り上げたまま影を睨めつけていた。
「ひかえよ」と、影は言った。
その瞬間、声が聞こえたものはその場に跪いていた。生者であれ死者であれ、一瞬の躊躇もなく。
あれは……いったいなんなんだ?
胃や、肺や、心臓が縮み上がり、身体中に汗が滲んだ。それでもゲラードは、船尾楼甲板の柵の隙間越しに見る光景から、目を離すことができなかった。
皆が顔を伏せる中、ビョルンただ一人だけは抗うようにヴェルギルを見据えていた。
「余の命を欲するか、バルテルス島のビョルンよ」
影が言葉を発すると、波が丘のように盛り上がった。マリシュナ号は身もだえして大きく軋んだ。
「それはできぬ」
その声が紡ぐ命令が、否定が、理をねじ曲げるほどの力で、頭の中に染みこんでくる。話しかけられた当人でもないのに、これほどの負担を感じるのだ。ビョルンに、抗う術はない。
「そなたには解放を与えよう」
影は言い、漆黒の手をビョルンに伸ばした。その手は形を失い、黒い靄となってビョルンを包んだ。腐死者は抵抗したが……それは、鼠が巨人に抗うようなものだった。
王に加勢だって──? そんな必要が、いったいどこにあるというのか。
彼が生きた千年という年月を意識せずにいるのは容易い。ヴェルギルはそうしたものを気取らせることなく人と接するのに長けているから。
ついさっき、そんな風に考えたのを思い出す。
彼を理解した気でいたのか? なんて愚かな。
ゲラードはちっとも理解していなかった。千年を生きるということを。月神の愛し子として、正気を失うこともなく、千年もの時を生きるということを。
「そなたは長きに亘って、海の底にてエイルの秘宝を守った」
影の声が、次第に声以外の何かを孕んでゆく。それはうねり、膨れ上がり、力そのものとなって、影の周りに渦を捲いた。
船が危険なほど撓み、今にもねじ切れそうな音をあげはじめる。悲鳴のような竜骨の軋み。その向こうから、今にも途絶えそうなマタルの声が、微かに聞こえた。
「汝は苦役を終えり」彼は必死に叫んでいた。「汝らは苦役を終えり!」
鼓膜に激痛が突き刺さり、まともにものを考えられない。ゲラードは耳を押さえながら、自分の両目から勝手に流れているらしい涙の熱を感じた。
「バルテルス島のビョルン」影は言った。「そなたを、赦す」
一つの声が何重にも重なって、頭を、身体を包み込む。
「この腕輪も、返してもらうぞ」
何かが折れる音がした。骨と皮ばかりになったビョルンの腕が折れ、そこに嵌まっていた金の腕輪は、ヴェルギルの闇に絡め取られていた。
白熱するかのようなヴェルギルの怒りと、慈悲。それを、同時に感じる。
耳鳴りの向こう側から、詠唱──いや、絶叫される呪文が聞こえた。
「汝らは 贖罪を終えり
気涸れの躯捨て──」
その場の空気が、ほんの一瞬、全て失われる。息が詰まり、目の前が真っ暗になる。
「いまぞ去ね 奥津城へ!」
そして、自分を取り巻く空気が弾けた。
その通りのことが起こったのかはわからない。けれど、確かにそんな感覚だった。膨らみきった革袋が破裂したような衝撃と──解放感。
腐臭は消えていた。重苦しい閉塞感も、船や骨を軋ませていた、あの怖ろしい歪みも。
ゲラードは甲板に額をつけ、激しい目眩と戦った。それから、船尾楼甲板の手摺りまでどうにかして這い寄り、しがみついた。この動作だけで半日ほど費やしたのではないかと思うほど、自分の身体がままならなかった。奥歯を食いしばって手摺りの上まで頭を持ち上げ、海を見下ろす。
すると、思ったよりも近いところに、ヴェルギルがいた。
彼は自ら小舟を漕ぎ、マリシュナ号のところまでやって来ていた。船底には、気を失っているらしいマタルが横たわっている。彼はゲラードを見つけると、片手をあげた。
「いや、すまなかった。事前に警告するのをすっかり忘れていた」彼は、まったく悪びれる様子もなく言った。「これで、問題事が一つ片付いたな」
ゲラードは振り向いた。すぐ後ろにいるはずのフーヴァルが、文句を言いながらも、仲間たちに号令を出すはずだった。小舟をあげろ、と。
だが、そこに彼はいなかった。
「フーヴァル……?」
その時、遠くの海上で轟音が響き渡った。
望遠鏡を探すまでもない。顔を向ければ、その光景ははっきりと見ることができた。
爆発を繰り返しながら沈んでゆく何隻もの船。夜空の雲を照らすほど眩く燃えさかる艦隊のただ中に、いくつもの白い触手が、塔のように立ち上がっていた。
それは夜半前のことだった。キャトルたちは夜闇に紛れて、ダイラの艦隊が敷いた陣の真南に移動していた。
青白い光が南の海上を埋め尽くしているのを見て──待ち構えていたこととは言え──嫌な汗が、フーヴァルの背中に滲んだ。
「とうとう来やがった……!」
〈嵐の民〉──それを動かしているキャトルの狙いは明白だった。重武装したダイラの艦隊を奪取して、〈浪吼団〉の船団を一網打尽にするつもりだ。
いかにもお前のやりそうなことだよ、キャトル。
圧倒的な実力差で、相手を叩き潰すのが彼にとっての喜びだった。
かくして、角笛は鳴り響いた。
青白い光の向こう側、闇の中に浮かび上がるのは一隻の船──大烏賊の黒旗を掲げたトロンデラーグ号だ。姿を隠すまでもないと言いたげに、船中のランタンを灯している。生き残った船団は、トロンデラーグ号の後ろの安全圏にずらりと控えていた。
ダイラの艦隊はすぐさま錨索を切り、帆を拡げて、〈浪吼団〉の陣を縦二列で回り込んだ。艦隊の尻を追いかける〈嵐の民〉とすれ違いつつ、トロンデラーグ号の左右の横腹に並ぶことができれば、勝機はある。圧倒的な火力の差にものを言わせて頭を潰せば、蛇だろうが烏賊だろうが、ひとたまりもないはずだ。デイビスは楽天家かもしれないが、もしもの策を講じないほど馬鹿ではなかった。
だが、風の力に頼って移動する帆船と、橈という推進力を持った竜頭船の機動力は比べものにならない。今の風は艦隊の進行方向に向かって吹く追風ではあったが、いかんせん弱かった。幽霊船団は早くも艦隊に追いつき、殿の数隻を瞬く間に取り囲んだ。
海は、不気味なほど静かだった。
これが、大砲で蹴散らすことができない敵との戦いだ。
初めて大砲というものが船に搭載されてからまだ数年しか経っていないのに、いまではすっかり海戦といえば大砲という世の中になった。だから、この夜の静まりかえったデンズ湾で繰り広げられている戦いは、まさに異様だった。それぞれの船であがる号令が、濃厚な闇夜の中で頼りなげに響き、瞬く間に消える。それが、この戦いをいっそう不気味に彩っていた。
「全帆展開して左舷開き!」
フーヴァルが上げた声も、たちまち濃厚な闇の中に吸い込まれる。
乗組員が段索を駆け上がると、程なくして白い帆が解かれた。掌帆手たちが転桁索にとりつき、帆脚索を引いて帆を張った。
マリシュナ号を先頭に、〈浪吼団〉の船が前方に進み、左舷から向かってくる幽霊船から可能な限り遠ざかる。思った通り、幽霊船は〈浪吼団〉を追ってこなかった。あとでいくらでも叩き潰すことができると思っているのだろう。
船尾楼甲板から後方を見ながら、フーヴァルは呟いた。
「吠え面かかしてやる」
その隣にゲラードが立ち、同じ方向を見つめた。その目は、夜の底でもはっきりとわかるほど銀色に輝いている。
「何か見えるか?」
視線の先では、幽霊船が艦隊の殿に追いついている頃だろう。だが普通の人間なら、望遠鏡も無しに、数百ナート先の海上の様子が見えるはずはない。しかも、今は夜だ。
しかし、ゲラードは頷いた。
「幽霊たちが、船を取り囲んでるのが見える。彼らは──訝しんでいるようだ。手に入るはずのものが入らないと……。餓えと苛立ちが、黒雲のように彼らの頭上に垂れ込めている」
フーヴァルは笑った。
「つまり、大成功ってことだな」
ダイラの艦隊は、すでに半数以上が転回していた。幽霊に取り囲まれ、動かなくなった船は全部で四隻。だが──
「今ごろ、ジャクィスは怒り狂ってるぜ」
幽霊が取り囲んでいる四隻は、追わせるために、わざと殿に置いた船だ。艦隊に完全に同調して動いていたから、気付かなくても無理はないが、どれも端から無人の囮だった。
〈嵐の民〉はタチの悪い連中だ。命を奪う腐臭を漂わせて、哀れな犠牲者の魂を片っ端から吸い取ってゆく。唯一の例外は、船の索具に触れたことのない者だけ。
だが、あの船を動かしていたのは船乗りではない。船底の下、水面下に潜んでいる人魚たちだ。あの四隻の乗組員たちはすでに、夜の闇に紛れて他の船へと乗り移っている。
「人魚は索なんか触らねえからな」フーヴァルは、尖った牙を覗かせて笑った。
ちょうどその時、デイビス艦隊の旗艦プリンセス・エレノア号が、トロンデラーグ号の脇腹に砲弾をぶち込んだ。
立ちこめる夜霧を裂いて、稲光のような砲火が海上に瞬く。プリンセス・エレノア号のあとに続く船も、船団に容赦ない砲撃を喰らわせた。
だが、快哉を叫ぶにはまだ早い。
謀られていたことに気付いた〈嵐の民〉は無人の船を捨て、瞬く間に船首を転じていた。彼らの次の獲物は、刻一刻と遠ざかってゆくダイラ艦隊ではなかった。
それよりずっと近くで静かに様子を窺っていた、〈浪吼団〉の船だ。
「ねえ! あっという間にバレちゃったけど?」
船尾側の海面から、声がする。下を向くと、そこにはナールと、彼が引き連れてきた人魚たちがいた。
「それでいいんだ」フーヴァルは言った。「ご苦労だったな!」
「あいつら、こっちに向かってきてない?」
「ああ、それでいい」フーヴァルはもう一度言った。
もっと近づけ。もっとだ。そうしたら、最後の切り札をお見舞いしてやる。
「あのさあ!」
「なんだよ!」
もう一度下を向くと、ナールが心底嫌そうな顔をしていた。
「あいつら、もの凄く臭いって知ってた? 先に言ってくれたら、絶対協力なんかしなかったのに」
「だから黙ってたんだ」フーヴァルは笑った。「砲撃がある場所には近づかなくていい。他の船が逃げるのに手を貸してやってくれ」
ナールは水面から高く浮き上がり、厳粛さと悪ふざけを混ぜ合わせたような表情で言った。
「了解、船長!」
そして仲間を引き連れて、再び海の底に消えた。
「あ」
すぐ隣で、ゲラードが声を上げた。彼は相変わらず、銀の双眸を幽霊船団に向けていた。フーヴァルも望遠鏡を目に当てて、こちらに近づいてくる〈嵐の民〉の船群を見た。
「あと四分の一刻で追いつかれる」ゲラードが言った。
フーヴァルは振り返り、中部甲板に向かって声を張り上げた。
「小舟を降ろせ!」そしてもう一度、迫り来る幽霊たちの姿を見た。「あの死に損ないどもを、今度こそ冥土に送ってやる」
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「ご機嫌麗しゅう存じます、陛下!」
そう言って眼前に迫ってきた彼の、喜びに満ちた顔がどういう造作をしていたか、今となっては思い出すことができない。
ヴェルギルは分厚い外套をかぶって小舟の舳先に座り、マシリュナ号を追いかける亡者の群れを見つめた。自分の足下で危なっかしく揺れる小舟よりも、よほど馴染みがある竜頭船。仲間たちとぴったり息の合った橈漕。頼りない横帆一つで、エイルの海を縦横無尽に航海したときの昂揚は、今となっては朧気な思い出の……残骸でしかない。
人間だった頃の記憶の多くを捨てた。そうしなければ、とても正気を保つことなどできないから。
それにしても、エイルを滅ぼした男の顔まで忘れるとは。
「非情だなどとは言ってくれるなよ、ビョルン」ヴェルギルは呟いた。「千年も生きれば、大抵の面影は忘却の彼方に消えてしまうものだ」
覚えているのは、彼が全身から発散していた、狂おしいほどの殺気。戦いに飢えた男が、ついに解放した獣の性。その熱。
自分では彼に勝てないと、一瞬で理解した。あの絶望の味。
「羊を飼って腐っていくなんてのはまっぴら御免でね。だから、俺は海神につくことにした」彼は言った。「恨まないでくれよ、シルリク」と。
ヴェルギルの腹に剣を突き立て、彼は血に飢えた目で自分を見下ろしていた。身動きのできない身体を無造作にまさぐり、国の安寧を守る冠帯と、幼い頃から肌身離さず身につけてきた腕輪を、ついでのように奪っていった。死体漁りの烏さながらに。
恨まずにいられるはずがない。
怠惰に身を沈めて空費した長い、長い年月の間、一日たりとも、彼を恨まぬ日はなかった。
目をかけていた。領地を与え、婚礼を祝い、子供の名付け親になりさえした。その男に国を奪われ、息子の未来を奪われた。あの身勝手な謀反のせいで、息子は吸血鬼に変異した。あの襲撃のせいでナドカという存在が生まれ、多くの苦しみが生まれたのだ。
あの夜が存在しなければ、今ごろはただのシルリク王──特筆すべきこともない平凡な王として、エイルの土となっていたはずだ。
それは……どれほど得がたい幸福だったことだろう。
だが、世界はそれを選ばなかった。世界はビョルンを狂気の淵に突き落とし、ナドカという存在を迎え入れ……。
そしてわたしが、今ここにいる。
ビョルンの顔を思い出すことはできなくても、彼のことはすぐに見分けがついた。
熊を咥えた竜頭船。その先頭に乗って、両刃の剣を振りかざすかつての臣下──その残骸。左腕には、あの日ヴェルギルから奪った腕輪が、まだ嵌まっていた。
その横顔を見つめて、ヴェルギルは呟いた。
「ずいぶん遠くまで来たものだ。お前も、わたしも」
今ヴェルギルの胸にあるのは、途方もないほど大きな哀れみだ。
千年の孤独の果てに、シルリクはフィランに出会った。それまでの孤独を埋めて余りある恵みだ。だがあの男は、満たされることのない餓えと妄執に囚われたまま、海上を漂い続けるしかないのだ。
「船をもう少し近づけてくれ」ヴェルギルは漕ぎ手に声をかけた。
「もっと?」漕ぎ手はうんざりと呟いた。「これ以上近づいたら、鼻が腐ってもげそうなんだけど……」
ぶつくさ言いながらも、船は前へと進みはじめた。
「さて、ビョルン」ヴェルギルは立ち上がり、かぶっていた外套を船底に落とした。「千年振りの再会といこう」
42
腐死者と幽霊たちの船団は、マリシュナ号のすぐ後方に迫っていた。ゲラードのすぐ隣で、フーヴァルは船尾楼甲板の手摺りを絞れるほど強く握りしめながら、ヴェルギルの悠長さについて、とても二度とは口に出せないほどの暴言を並べ立てていた。
熊を咥えた竜頭を持つ船が先頭にいた。船首に立っていたのは、一人の腐死者。骨と皮ばかりに痩せた身体に古の鎧を纏い、フジツボだらけの兜の下からは海藻が垂れ、戦化粧を施した膚は朽ちかけて骨が覗いている。瞼を失った剥き出しの眼窩には、燃えるような飢餓を湛えた両目。頬まで裂けた口には、獰猛な笑みが浮かんでいた。溟濛たる鬼火のように青ざめたその姿の中で、唯一金の腕輪だけが、ギラギラとした輝きを放っていた。
売国奴ビョルン。
彼が錆びた剣を振り上げる。青白い船団が、今にもマリシュナ号を取り囲もうとしている。
それが、不意に呼び止められたように止まった。ビョルンが首を巡らし、竜頭船の右舷後方を見た。まるで、見えない糸に手繰られているかのようだった。
ゲラードは、闇に目をこらして見た。
数十ナート離れた海上に、ヴェルギルが立っているのが見えた。昔風の装束を纏い、長い髪は頭の後ろで結ばれている。毛皮と毛織物と素朴な装身具に身を包んだ彼の姿を見ると、胸がざわついた。
彼が生きた千年という年月を意識せずにいるのは容易い。ヴェルギルはそうしたものを気取らせることなく人と接するのに長けているから。けれど、いま目の前にいるヴェルギルは、千年前にエイルを治めたシルリク王その人なのだ。その事実を、まざまざと見せつけられたような気がした。
ビョルンが、血も凍るような叫び声を上げた。聞くものの耳を氷柱で貫くような──痛みを与えるほどの叫喚だ。
その声に応えて、〈嵐の民〉が向きを変え、船首をヴェルギルに向ける。橈の動きにかき混ぜられた海が逆巻き、青白い発光が波に宿る。生温かく湿った風が吹きはじめ、腐死者の死臭が一気に濃くなった。
ビョルンの横顔に、もはや笑みはなかった。
ゲラードは、ビョルンの中で嵐のように渦巻く苦悩を感じた。
彼は、エイルの王に冠帯を授けた守護神雷神の怒りを買い、深い水底に沈められた。そうして千年もの間、自らが犯した強欲の罪によって海に縛られてきた。すべては、彼がエイルの冠帯を奪ったあの日に始まったのだ。彼が求めているのは──本当に求めているのは、哀れな船乗りたちの魂ではない。
三百艘にものぼる竜頭船の船団が、大挙してヴェルギルの元を目指す。それは青白い触手のように、海上を移動していった。
ビョルンの乗った船がヴェルギルの小舟に近づき、今にも、舳先がぶつかりそうになる。幽霊の発する光に照らされて、ヴェルギルの姿も青白く浮かび上がっていた。
と、その時、ヴェルギルの背後に、小さな影が立ち上がった。
黒髪に浅黒い膚をした青年が、目に琥珀の光を宿して、幽霊たちを見据えている。青い光に照らされた彼の顔に、文身の茨が伸び──九重の花を咲かす。
彼は、良く通る声で詠唱をはじめた。
「吾はサーリヤの血の者 地に注ぐ水
巫の祖は マナールの末裔よ」
焔語は不思議な響きの言葉だ。十四歳になる頃にはヴァスタリア、フェリジア、カルタニアの言葉を不自由なく使えたゲラードにとっても、複雑なこの言語を習得するのは本当に難しかった。
マタル=サーリヤの焔語は、燃え上がる焔をそのまま言語にしたかのような独特の響きを持っていた。素人耳でも、彼の呪文に籠もる力を感じられる。
彼は暁の女神にして、冥界の門への導き手であるアシュタハ神をこの世に目覚めさせた魔女だ。彼の呪文は死者の魂をほんの一時この世に呼び戻すこともできるし、逆に、冥界へと送り返すこともできる。
彼こそが、この戦いにおける切り札だった。
「橈を手放せ 捕囚の者ども
汝らは 苦役を終えり
霜枯れの骸脱ぎ
導きの光に 魂を委ねよ!」
彼が呪文の詠唱を終えると、眩い光が海上に迸った。それは一瞬の夜明けのようにあたりを照らし尽くし、夜の闇に慣れた者たちの目を焼いた。
際限なく滲む涙に目をしばたいていると、すぐ隣から、フーヴァルの口笛が聞こえた。
「やりやがるぜ、あのガキ……」
涙を払って、再び夜の世界に戻った海を見る。竜頭船という枷から解放された魂が光となって、宙に浮かんでいた。あるものは雪のように海面に降り注いで消え、あるものは風に乗って西へ流れていった。そしてあるものは、意志を持つようにそれぞれの目指す場所へと飛んでいった。
「なんて力だ……」ゲラードは呟いた。
今まで海面を覆い尽くさんばかりだった船は、消えていた──ほとんどが。
だがまだ、残っている船はある。
フーヴァルは大きく舌打ちした。「そう簡単にはいかねえってわけかよ」
マタルがその船を消し去れなかった理由は、すぐにわかった。残っていたのは、いずれも古の戦士の格好をした腐死者ばかりだったのだ。残った船は、たったの三艘。だが、三艘の竜頭船に満載された兵士たちの数は、百を下らない。
「彼らは、幽霊じゃない」
「ああ。きっと千年前にヴェルギルを裏切った連中だ」フーヴァルが言った。「呪いを解かなけりゃ、あいつらは消えねえ……」
「だが、どうやって──」
彼らは冠帯に固執している。
そしてエイルの冠帯は、一度身につけたら、役目を終えるその時まで決して取り外してはならない代物だ。父神とエイルの創始者たちとの契約によって、そう定められている。この誓いを破れば父神の怒りに触れ、ビョルンの次に呪われるのはヴェルギルということになる。事の重大さを考えれば、〈浪吼団〉の全員が呪われても不思議ではない。
「船首を転回させろ!」フーヴァルが叫んだ。「王の加勢に向かうぞ!」
その時、船員たちの動きを止めたのは、新たに発せられた別の号令──ではなかった。角笛の音でもなければ、雷鳴でもない。何の声も、何の音もしなかった。
ただ、空気が変わっただけだ。
船員たちに指示を飛ばそうと中部甲板に降りようとしていたフーヴァルも、その場で足を止めた。
海上を見ていたゲラードは、だた、動けなくなった。さっきまでヴェルギルがいた場所から、目が離せなくなっていた。
いま、そこには闇よりもいっそう黒く、昏い何かがいる。それは圧倒的な存在感で以て、周りにある一切の光を呑み込んでしまっているようだった。
そこには影が立っていた。
影の前で、腐死者たちは文字通り、色を失っていた。青白い光も絶え、ただ、今にも崩れそうな骸が蹲っているだけのように見える。ビョルンだけが、剣を振り上げたまま影を睨めつけていた。
「ひかえよ」と、影は言った。
その瞬間、声が聞こえたものはその場に跪いていた。生者であれ死者であれ、一瞬の躊躇もなく。
あれは……いったいなんなんだ?
胃や、肺や、心臓が縮み上がり、身体中に汗が滲んだ。それでもゲラードは、船尾楼甲板の柵の隙間越しに見る光景から、目を離すことができなかった。
皆が顔を伏せる中、ビョルンただ一人だけは抗うようにヴェルギルを見据えていた。
「余の命を欲するか、バルテルス島のビョルンよ」
影が言葉を発すると、波が丘のように盛り上がった。マリシュナ号は身もだえして大きく軋んだ。
「それはできぬ」
その声が紡ぐ命令が、否定が、理をねじ曲げるほどの力で、頭の中に染みこんでくる。話しかけられた当人でもないのに、これほどの負担を感じるのだ。ビョルンに、抗う術はない。
「そなたには解放を与えよう」
影は言い、漆黒の手をビョルンに伸ばした。その手は形を失い、黒い靄となってビョルンを包んだ。腐死者は抵抗したが……それは、鼠が巨人に抗うようなものだった。
王に加勢だって──? そんな必要が、いったいどこにあるというのか。
彼が生きた千年という年月を意識せずにいるのは容易い。ヴェルギルはそうしたものを気取らせることなく人と接するのに長けているから。
ついさっき、そんな風に考えたのを思い出す。
彼を理解した気でいたのか? なんて愚かな。
ゲラードはちっとも理解していなかった。千年を生きるということを。月神の愛し子として、正気を失うこともなく、千年もの時を生きるということを。
「そなたは長きに亘って、海の底にてエイルの秘宝を守った」
影の声が、次第に声以外の何かを孕んでゆく。それはうねり、膨れ上がり、力そのものとなって、影の周りに渦を捲いた。
船が危険なほど撓み、今にもねじ切れそうな音をあげはじめる。悲鳴のような竜骨の軋み。その向こうから、今にも途絶えそうなマタルの声が、微かに聞こえた。
「汝は苦役を終えり」彼は必死に叫んでいた。「汝らは苦役を終えり!」
鼓膜に激痛が突き刺さり、まともにものを考えられない。ゲラードは耳を押さえながら、自分の両目から勝手に流れているらしい涙の熱を感じた。
「バルテルス島のビョルン」影は言った。「そなたを、赦す」
一つの声が何重にも重なって、頭を、身体を包み込む。
「この腕輪も、返してもらうぞ」
何かが折れる音がした。骨と皮ばかりになったビョルンの腕が折れ、そこに嵌まっていた金の腕輪は、ヴェルギルの闇に絡め取られていた。
白熱するかのようなヴェルギルの怒りと、慈悲。それを、同時に感じる。
耳鳴りの向こう側から、詠唱──いや、絶叫される呪文が聞こえた。
「汝らは 贖罪を終えり
気涸れの躯捨て──」
その場の空気が、ほんの一瞬、全て失われる。息が詰まり、目の前が真っ暗になる。
「いまぞ去ね 奥津城へ!」
そして、自分を取り巻く空気が弾けた。
その通りのことが起こったのかはわからない。けれど、確かにそんな感覚だった。膨らみきった革袋が破裂したような衝撃と──解放感。
腐臭は消えていた。重苦しい閉塞感も、船や骨を軋ませていた、あの怖ろしい歪みも。
ゲラードは甲板に額をつけ、激しい目眩と戦った。それから、船尾楼甲板の手摺りまでどうにかして這い寄り、しがみついた。この動作だけで半日ほど費やしたのではないかと思うほど、自分の身体がままならなかった。奥歯を食いしばって手摺りの上まで頭を持ち上げ、海を見下ろす。
すると、思ったよりも近いところに、ヴェルギルがいた。
彼は自ら小舟を漕ぎ、マリシュナ号のところまでやって来ていた。船底には、気を失っているらしいマタルが横たわっている。彼はゲラードを見つけると、片手をあげた。
「いや、すまなかった。事前に警告するのをすっかり忘れていた」彼は、まったく悪びれる様子もなく言った。「これで、問題事が一つ片付いたな」
ゲラードは振り向いた。すぐ後ろにいるはずのフーヴァルが、文句を言いながらも、仲間たちに号令を出すはずだった。小舟をあげろ、と。
だが、そこに彼はいなかった。
「フーヴァル……?」
その時、遠くの海上で轟音が響き渡った。
望遠鏡を探すまでもない。顔を向ければ、その光景ははっきりと見ることができた。
爆発を繰り返しながら沈んでゆく何隻もの船。夜空の雲を照らすほど眩く燃えさかる艦隊のただ中に、いくつもの白い触手が、塔のように立ち上がっていた。
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