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38
二十隻のウッドロー艦隊に護衛された、ナルバニアからの商船十五隻が、サルノール湾マチェットフォード沖で襲撃された。
大烏賊の黒旗を掲げたトロンデラーグ号を駆るジャクィス・キャトルと、彼が率いるたった五隻の船団に仕掛けられた急襲だった。これにより、商船二隻がキャトルの手に落ちた。
付近に停泊していたデイビス艦隊の十五隻が直ちに加勢に向かい、キャトルと対峙。デイビス艦隊は、北上する商船団の殿を務めた。幽霊船団を操るとは言え、六対二十八では、力の差はあまりに歴然だ。勝負はあっという間に決するかと思われた。
ベイルズ南東に位置するシャルトン──地元の人間はフェリジア風にシャルトーニュと呼ぶ──の隠し港から、六十三もの船が出航したのはちょうどその時だった。
先の軍縮で行き場を失った退役海兵や、海賊崩れの無法者、不満を持つ農民たちをかき集めた船団を、ベイルズの諸侯に仕える船長たちが率いていた。
殿のデイビス艦隊は、この不意打ちに四隻を失った。キャトルの船団は商船を追撃し、難なくこれに追いついた。
キャトルたちが北上する商船に追いつく頃には、戦場はサルノール湾からデンズ湾へと移っていた。王都デンズウィックの玄関先とも言えるこの海域で、後に『デンズ湾海戦』と呼ばれる叛乱が幕を開けたのだった。
ここまでは、ダイラ海軍の思惑通りだった。
商船という餌に釣られたキャトルは、こちらの主戦力を投入しての加勢に、圧倒的な戦力差で対抗しようとするだろう。だからこそ、デンズ湾の北にあるアバーデンに、イルヴァの船団を潜ませておいたのだ。
だが、そううまくはいかなかった。
「焼き討ちだと!?」
アバーデン川の河口に停泊させていた、イルヴァの愛船〈ロッサーナ〉を含む十二隻は、夜のうちに焼き討ちに遭っていた。
モルノロの岬で停泊しているマリシュナ号の船長室で、報せを聞いたフーヴァルは拳が白くなるほど強く握りしめた。そして、それ以上感情を表に出すのをどうにか留めた。
ゲラードが急ききって言った。「イルヴァは? 無事なのか?」
フーヴァルは答える手間を省き、遣い鷹が運んできた手紙をゲラードに手渡した。
イルヴァ他、ほとんどの乗組員は無傷とある。それを読んで、ゲラードはほっと息をついた。
「やってくれるじゃねえか」フーヴァルは唸り、書き物机の上の海図に身をかがめた。それから背筋を伸ばして、部屋の出口で控えていたワトソンに言った。
「アーナヴを呼んでこい」
ワトソンの目がぱっと輝く。「出航ですか?」
「ああ、そうだ。ワトソン」フーヴァルは笑った。その口元からは、〈鮫喰らい〉の牙が覗いていた。「思う存分暴れてやろうぜ」
「了解! 船長!」ワトソンは言い、疾風のように部屋を出ていった。
その背中を見送って、ゲラードは言った。
「ついに、戦いか」
「ああ」
血は沸き立ち、この身をゾクゾクと震わせている。
戦いだ。
俺は、戦い続ける。フーヴァルは心の中で呟いた。俺は、戦い続けるだけだ。
フーヴァルは、遠くを見つめるゲラードの横顔にも、研ぎ澄まされた静かな覚悟を見た。
絶対に勝てる、とは言わない。口に出した瞬間に嘘になってしまう。戦に勝者と敗者が存在するとしたら、そいつらはどちらも、戦場にはいない。戦いの場には、生と死、そのどちらかがあるだけだ。
その夜、マリシュナ号をはじめとする〈浪吼団〉の二十隻が、モルノロから出航した。戦の待ち受ける海を目指して。生と死の汀を目指して。
二日後の夜明け、北の海上に煙を見た。
キャトフォード沖から立ち上る夥しい黒煙が何を意味しているのか、近づいてみるまではわからない。フーヴァルは船首楼甲板に立ち、長い間望遠鏡を覗いていた。
「どうだ?」
横に立つアーナヴに、望遠鏡を譲る。アーナヴはそれを覗き込み……そして、ニヤリと笑った。
「やったな、船長。作戦は成功だ」
ふたりは拳を打ち合わせた。
もし、万事が作戦通りに運んだのだとしたら、一目散に北に向かっていたダイラの商船のうち半分が、突如船首を反対方向へ転じたはずだ。示し合わせていた作戦の開始位置はデンズ湾の北。いままさに、黒煙が上っているあたりだ。追い風を受けて猛然と追撃していたキャトルの船団は、この動きに対処しきれずに陣形を乱したに違いない。
商船の船員が次々に海に飛び込むのを見て、きっと、キャトルは即座に理解したことだろう──商船の甲板から立ち上る怪しい煙を見るまでもなかったはずだ。自分が追いかけていた商船に積まれていたのは、香辛料でも奴隷でも、ましてや金銀財宝でもなく、莫大な量のタールと、エイルの魔術師が腕によりをかけて作った炎薬であることに。
鰯のつもりで飲み込んだ魚が、猛毒を持つ笠子だったようなものだ。
火船作戦は、ものの見事に成功していた。
フーヴァルとアーナヴが海上を見ている間にも、また新たな船が火船に激突し、巨大な火柱を空にぶちあげた。
フーヴァルは大声で笑った。
「焼き討ちなんてみみっちい真似しやがった報いだぜ」オーウィンが言った。
「火の使い方ってもんがまるでわかってねえ」と、他の掌帆手たちも同意する。
燃えさかる船列が、キャトル船団を取り囲んでいた。火船の脇腹に船首斜檣を突き刺したまま炎上している船がいくつもある。火は付近の船に燃え移り、被害をさらに大きくした。行く手を阻まれた船を次々に餌食にして火災は広がり、海上に現れた炎の壁となって、キャトルの船団を半月型の壁の中に封じ込めていた。
幸か不幸か、キャトルたちは風上を取っていた。デンズ湾の強烈な風は、無傷の船を炎の壁に向かって押しやる。かといって、混み合う海上で方向転換して、風上に間切って逃げるのは至難の業だ。さらに、炎の壁の外にはダイラ海軍が誇る最新型の戦艦まで控えている。
寄せ集めの船乗りどもをどこまで鍛え上げたかは知らないが、この状況に対処するのは熟練水夫でも難しいだろう。
この作戦の指揮を執っているのはイルヴァだった。
敵に弱みを見せ、油断させたところで反撃に転じるのは彼女の得意技だ。アバーデンで自分の船──あの誇り高きロッサーナ号を犠牲にしたのは、彼女にとっては苦渋の決断だったに違いない。だが、その価値がある犠牲だった。
船上を飛び交う鴎がフーヴァルの到着を伝えたらしい。イルヴァの乗った小帆船が近づいてきた。
彼女は船側を軽々とよじ登ってマリシュナ号に乗船すると、フーヴァルと拳を合わせた。
「やったな、イルヴァ」
「ざまあみろってんだ」
彼女は言い、燃えさかる壁の向こうにいるとおぼしきキャトルに向かって、指を突き立てる仕草をした。
「それで、あんたの王子様は?」
「俺のでも、王子様でもねえ」
フーヴァルは言いながらも、主檣の檣楼を指さした。
「あんなとこに置いといていいのか? いい的になるのに」
「奴がそうしたいって言うんだよ。目がいいからな」
すると、イルヴァは感心したように、はぁんと呟いた。
「ああいう手合いにおとなしく抱かれるなんて、不思議だと思ってたんだよね。あんたみたいな奴がさ」イルヴァは無遠慮に言った。「なるほど。なかなか肝が据わってる」
「そういうわけじゃねえ」フーヴァルは言った。「おれが抱くばっかりじゃ、奴のケツが緩くなっちまうだろ? そうなりゃ打ち首になったうえに、塩茹でにされたドタマをデンズウィックの一番デカい橋に飾られちまう」
「やめろよ、夢に出そう」イルヴァは笑った。「でも、もうその心配もないわけだ」
フーヴァルは肩をすくめた。「まあな」
「せいぜい死なせんなよ、フーヴァル」イルヴァは言い、フーヴァルの肩を叩いた。
「わかってる」
その時、檣楼からゲラードの声が降ってきた。
「トロンデラーグを発見! 右舷二角の方角!」
フーヴァルは望遠鏡を取り出しつつ、船首へ向かった。すると確かに、キャトルの船がいた。統制を失って、逃げ惑う船団の後方に。
熱気に揺らめく大気と、燃えさかる炎の向こう側に充満する、ジャクィス・キャトルの怒りを感じ取ることができる気がする。
お前はこうやって虚仮にされるのが嫌いだったよな、ジャクィス。
船団は風上側に船首を転じ、炎の壁も、次第に勢いを失いはじめる。もうすぐ、次の動きがある。
「海賊旗をあげろ、野郎ども!」フーヴァルは咆哮した。「本物の海戦って奴を、惨めな陸者どもに教えてやれ!!」
39
統制を失い、散り散りになった雑魚どもを追い回すのはたいした苦労ではなかった。敵味方入り交じった狭い海域では、連中が搭載した大砲をむやみやたらとぶっ放すこともできない。
所詮、寄せ集めの船団だ。船を拿捕した海域がバラバラなら、船の種類もバラバラだ。風が強く、波が高いダイラ周辺の海に適した造りでないものはすぐにわかる。この海域でしっかり波の上に浮かんでいたかったら、船足の速さを犠牲にしてでも喫水を深くしなければならないのだが、キャトル船団の半分は、波の穏やかな南海向けに建造された船だった。
〈浪吼団〉は、この海を知り尽くした船に乗っている。どれも小柄でたいして新しくもないが、こういう戦いでは、それが功を奏する。
勢いを失いかけた火の壁の間を縫って、〈浪吼団〉は敵陣に切り込んだ。マリシュナ号をはじめとする〈浪吼団〉の船は、小型であるが故に足が速く、小回りもきく。細い躰で珊瑚に潜り込んで隠れた魚を追い回すネムリブカさながらに、船と船の隙間に入り込み、あっという間に白兵戦に持ち込めるのだ。もたもたしている船はあっという間に四爪錨で絡め取られ、乗り込んだ〈浪吼団〉と刃を交える戦いになだれ込む。そうなれば、人間には勝ち目がなかった。中には、接舷を恐れるあまり、近づいてきた船に向かってめちゃくちゃに大砲をぶっ放す者もあった。〈浪吼団〉の船を破壊するのみならず、味方にまで流れ弾を命中させる始末で、早々に袋だたきに遭っている。
「船長! 早くしねえとロウランズ・ラシー号に先を越されちまう!」
血気に逸る乗組員たちが、牙を鳴らす獣のように吼え立てる。
フーヴァルは言った。
「仲間と獲物を取り合ってる場合じゃねえだろ──」
敵のレパン・ドール号が左舷の大砲を一斉に発射したものの、弾は当たらなかった。見当違いの方角ににボトボトと落ちた砲弾は、虚しく伸び上がる水柱の底に消えた。
「いまだ面舵! 乗り込むぞ!」
号令一下、歓声があがる。マクレガンが舵柄を操ると、マリシュナ号は即座に右舷に傾いた。右舷前方にいたレパン・ドール号の船側を削りながら、荒っぽく接舷する。
左舷の大砲を撃ち尽くしてしまったところを見計らったから、この期に乗じればマリシュナ号の横腹に穴があくことはない──少なくとも、次に装填が完了するまでの間は。とは言え、レパン・ドール号の大砲が、再び火花を散らすことはないだろう。勝負は、その前に決する。
「いよいよだ」
放たれた四爪錨がレパン・ドール号の索に絡みつくと、フーヴァルは喉の奥で笑った。手摺りに立ち、さあ乗り込むぞというところで、ゲラードと目が合う。その目はこう言っていた。
「気をつけて、フーヴァル」
フーヴァルは片眼を閉じてニヤリと笑い、ゲラードの方を向いたまま、縄に身を委ねて手摺りを蹴った。
「続け! 野郎ども! 続け!」怒号のただ中で、声を張り上げる。「皆殺しにしろ!」
〈浪吼団〉たちも、それに応えながら、我先にと相手の船に乗り込んだ。
〈浪吼団〉の得物は様々だった。カットラスに、半月刀、サーベル、レイピア……魔法を使うものは己の力を、獣の性をもつ者は──それを存分に解き放つ。
狼に変化したバウワーは、索さえ使わずに船と船の隙間を飛び越えていった。巨大な狼は中部甲板に着地すると、その勢いでふたりを踏み潰した。船は大きく揺れ、悲鳴のような軋みをあげた。
掌帆長のルーがレパン・ドール号の船尾楼に飛び乗ると、女と見て油断した敵に群がられた。ルー・センルーはそういうときに微笑を浮かべて状況を楽しむ手合いではない。ただ、背骨をバラバラにするほどの咆哮をあげて虎に変化し、片っ端から噛み殺していくだけだ。
舷から飛び降りて死中に活を見出す者を追うような真似はしない。だが、たとえ破れかぶれであろうと、フーヴァルは、自分に向かってくる者には容赦しなかった。
全ての甲板を制圧し、生きている者は捕虜にした。十人ほどを殺したところで、ほとんどの船乗りが膝をついて降参したから、かえって拍子抜けしたほどだ。進退窮まった船乗りは、がむしゃらな戦いを仕掛けてくるものなのだが。
あっさりと勝負が決した理由は、すぐにわかった。
戦いの最中にいるべき船長が、自分の船室に立てこもっていたのだ。よく心得たマリシュナ号の乗組員たちは、無理に押し入ることもせず、扉の前に立ってフーヴァルを待っていた。
怪力を持つデーモンのオーウィンが扉をぶち破ると、船長は諦めきった顔でフーヴァルを見た。
武装は解かれていた。そのことを、これほど残念に思ったことはない。自暴自棄でも、恐怖による錯乱からでも、とにかくこちらに向かってきたなら容赦なく殺すことができたのに。
以前なら、むざむざ部下を死なせて、自分だけ安全な場所に隠れているようなこの男を、軽蔑と共に殺しただろう。武器を握っていようが、いまいが。
命と命が戦いという天秤にかけられるとき、そこに感情がつけいる隙はないのだと、オチエンは言っていた。彼は船乗りで、魔法使いで、紛れもなく戦士だった。
頭では理解していても心が納得していなかったことが、今ならわかる。
怒りに任せて剣を振るうものに、戦士を名乗ることはできないのだと。
今まで、決して褒められないこともやって来た。師への弁解を紙に書き留めれば、永遠に終わらないほど続くだろうとも思う。だが、この戦いだけは、彼に捧げる戦いにしたかった。
負けるわけにはいかない。そして、やると決めたなら誇れる戦いをする。言い訳などする必要のない戦いをするのだ。
フーヴァルは、剣を鞘に収めた。
「腰抜けが」
そして、捕虜を満載したレパン・ドール号をマクレガンと数名の乗組員に任せて、次の獲物を探すため、マリシュナ号に戻った。
こうした混乱の中、キャトル船団のうちの一隻が、なんとか炎を避けて包囲網から抜け出した。すると我先にと、他の船もそれに続く。だが彼らを待っていたのは、その時を今か今かと待っていた、デイビスとウッドローの艦隊だった。馬鹿でかい二隻の戦艦を旗艦とするそれぞれの艦隊は、射程こそ短いものの、破壊力抜群の大砲で武装していた。
それは、ネムリブカが珊瑚から追い出した魚を、メジロザメがよってたかって食らい尽くす光景そのものだった。
日が西に傾く頃には、この火船作戦で、キャトル船団の三分の一は戦闘不能に陥っていた。だが、船団はなんとか船首を転じて南に逃げた。
この時点でキャトルは降伏するだろうと、デイビスは予想していた。日暮れは刻一刻と近づいている。太陽が地平線に沈むにつれ、誰もが祈った。キャトルが仲間を巻き込むことを恐れて、〈嵐の民〉を呼び寄せることはないだろうという、デイビスの見立てが正しいことを。
だが、貴族出身のデイビスは、良くも悪くも海賊を知らなかった。
海賊の所業や、その罪についてはよく知っているかもしれない。けれど、連中の執念深さ、自尊心、矜持、絶望的なまでの怒りの感情については、ほとんど無知と言っても良かった。
その日の夕暮れは、不吉なほど赤一色に包まれていた。だが、海が赤いのは夕日のせいだけではなかった。海面は血と炎によって、これ以上ないほど赤く染まっていた。
日が沈むにつれて、海上の戦闘は徐々に静まる。敵と味方のどちらにとっても、狙いを定めるのが難しくなるからだ。夜の闇が空を覆い尽くすよりも前に、ダイラの艦隊のほとんどが戦域を離脱し、夜の闇の底に潜んだキャトルの船団との間に、夜目が利く〈浪吼団〉の船を挟んだ。
結局、その日はキャトルの降参の白旗を見ることがないまま、夜になった。
戦場は不気味に静まりかえっている。
海上に散らばる船の残骸は、染みこんだタールのせいでまだ燃えていた。それらはまるで鬼火のように波間に漂い、本物の鬼火を連れてくる者の露払いをしているかのようだった。
全ての灯りを落とした船の上、三刻おきに寝ずの番を交代させながら、皆に少しでも休息を取らせる。こうした状況下でしっかり眠れるものでなければ、過酷な戦闘を生き抜くことはできない。誰もが皆、自分の持ち場からそう離れていない場所に蹲り、仮眠を取った。
風は相変わらず強く、投錨していなければ容赦なく押し流される。せわしない波に、船は細かく縦揺れし、すでに落ち着かない胃をいっそう揺さぶった。
仮眠を取るべきなのはフーヴァルも同じだった。けれど、こんな状況で眠れるわけがない。
いや、眠りたくない。
この戦いは、自分の人生において、最も重要な戦い──少なくとも、その一つ──になる。目を閉じたところで、眠れるはずもなかった。
船尾の手摺りに寄りかかって、海上の様子に目を光らせていたフーヴァルの隣に、ゲラードが立った。
「角笛は、鳴るだろうか」ゲラードが、小さな声で言った。
フーヴァルは頷いた。「鳴るだろうな」
二十隻のウッドロー艦隊に護衛された、ナルバニアからの商船十五隻が、サルノール湾マチェットフォード沖で襲撃された。
大烏賊の黒旗を掲げたトロンデラーグ号を駆るジャクィス・キャトルと、彼が率いるたった五隻の船団に仕掛けられた急襲だった。これにより、商船二隻がキャトルの手に落ちた。
付近に停泊していたデイビス艦隊の十五隻が直ちに加勢に向かい、キャトルと対峙。デイビス艦隊は、北上する商船団の殿を務めた。幽霊船団を操るとは言え、六対二十八では、力の差はあまりに歴然だ。勝負はあっという間に決するかと思われた。
ベイルズ南東に位置するシャルトン──地元の人間はフェリジア風にシャルトーニュと呼ぶ──の隠し港から、六十三もの船が出航したのはちょうどその時だった。
先の軍縮で行き場を失った退役海兵や、海賊崩れの無法者、不満を持つ農民たちをかき集めた船団を、ベイルズの諸侯に仕える船長たちが率いていた。
殿のデイビス艦隊は、この不意打ちに四隻を失った。キャトルの船団は商船を追撃し、難なくこれに追いついた。
キャトルたちが北上する商船に追いつく頃には、戦場はサルノール湾からデンズ湾へと移っていた。王都デンズウィックの玄関先とも言えるこの海域で、後に『デンズ湾海戦』と呼ばれる叛乱が幕を開けたのだった。
ここまでは、ダイラ海軍の思惑通りだった。
商船という餌に釣られたキャトルは、こちらの主戦力を投入しての加勢に、圧倒的な戦力差で対抗しようとするだろう。だからこそ、デンズ湾の北にあるアバーデンに、イルヴァの船団を潜ませておいたのだ。
だが、そううまくはいかなかった。
「焼き討ちだと!?」
アバーデン川の河口に停泊させていた、イルヴァの愛船〈ロッサーナ〉を含む十二隻は、夜のうちに焼き討ちに遭っていた。
モルノロの岬で停泊しているマリシュナ号の船長室で、報せを聞いたフーヴァルは拳が白くなるほど強く握りしめた。そして、それ以上感情を表に出すのをどうにか留めた。
ゲラードが急ききって言った。「イルヴァは? 無事なのか?」
フーヴァルは答える手間を省き、遣い鷹が運んできた手紙をゲラードに手渡した。
イルヴァ他、ほとんどの乗組員は無傷とある。それを読んで、ゲラードはほっと息をついた。
「やってくれるじゃねえか」フーヴァルは唸り、書き物机の上の海図に身をかがめた。それから背筋を伸ばして、部屋の出口で控えていたワトソンに言った。
「アーナヴを呼んでこい」
ワトソンの目がぱっと輝く。「出航ですか?」
「ああ、そうだ。ワトソン」フーヴァルは笑った。その口元からは、〈鮫喰らい〉の牙が覗いていた。「思う存分暴れてやろうぜ」
「了解! 船長!」ワトソンは言い、疾風のように部屋を出ていった。
その背中を見送って、ゲラードは言った。
「ついに、戦いか」
「ああ」
血は沸き立ち、この身をゾクゾクと震わせている。
戦いだ。
俺は、戦い続ける。フーヴァルは心の中で呟いた。俺は、戦い続けるだけだ。
フーヴァルは、遠くを見つめるゲラードの横顔にも、研ぎ澄まされた静かな覚悟を見た。
絶対に勝てる、とは言わない。口に出した瞬間に嘘になってしまう。戦に勝者と敗者が存在するとしたら、そいつらはどちらも、戦場にはいない。戦いの場には、生と死、そのどちらかがあるだけだ。
その夜、マリシュナ号をはじめとする〈浪吼団〉の二十隻が、モルノロから出航した。戦の待ち受ける海を目指して。生と死の汀を目指して。
二日後の夜明け、北の海上に煙を見た。
キャトフォード沖から立ち上る夥しい黒煙が何を意味しているのか、近づいてみるまではわからない。フーヴァルは船首楼甲板に立ち、長い間望遠鏡を覗いていた。
「どうだ?」
横に立つアーナヴに、望遠鏡を譲る。アーナヴはそれを覗き込み……そして、ニヤリと笑った。
「やったな、船長。作戦は成功だ」
ふたりは拳を打ち合わせた。
もし、万事が作戦通りに運んだのだとしたら、一目散に北に向かっていたダイラの商船のうち半分が、突如船首を反対方向へ転じたはずだ。示し合わせていた作戦の開始位置はデンズ湾の北。いままさに、黒煙が上っているあたりだ。追い風を受けて猛然と追撃していたキャトルの船団は、この動きに対処しきれずに陣形を乱したに違いない。
商船の船員が次々に海に飛び込むのを見て、きっと、キャトルは即座に理解したことだろう──商船の甲板から立ち上る怪しい煙を見るまでもなかったはずだ。自分が追いかけていた商船に積まれていたのは、香辛料でも奴隷でも、ましてや金銀財宝でもなく、莫大な量のタールと、エイルの魔術師が腕によりをかけて作った炎薬であることに。
鰯のつもりで飲み込んだ魚が、猛毒を持つ笠子だったようなものだ。
火船作戦は、ものの見事に成功していた。
フーヴァルとアーナヴが海上を見ている間にも、また新たな船が火船に激突し、巨大な火柱を空にぶちあげた。
フーヴァルは大声で笑った。
「焼き討ちなんてみみっちい真似しやがった報いだぜ」オーウィンが言った。
「火の使い方ってもんがまるでわかってねえ」と、他の掌帆手たちも同意する。
燃えさかる船列が、キャトル船団を取り囲んでいた。火船の脇腹に船首斜檣を突き刺したまま炎上している船がいくつもある。火は付近の船に燃え移り、被害をさらに大きくした。行く手を阻まれた船を次々に餌食にして火災は広がり、海上に現れた炎の壁となって、キャトルの船団を半月型の壁の中に封じ込めていた。
幸か不幸か、キャトルたちは風上を取っていた。デンズ湾の強烈な風は、無傷の船を炎の壁に向かって押しやる。かといって、混み合う海上で方向転換して、風上に間切って逃げるのは至難の業だ。さらに、炎の壁の外にはダイラ海軍が誇る最新型の戦艦まで控えている。
寄せ集めの船乗りどもをどこまで鍛え上げたかは知らないが、この状況に対処するのは熟練水夫でも難しいだろう。
この作戦の指揮を執っているのはイルヴァだった。
敵に弱みを見せ、油断させたところで反撃に転じるのは彼女の得意技だ。アバーデンで自分の船──あの誇り高きロッサーナ号を犠牲にしたのは、彼女にとっては苦渋の決断だったに違いない。だが、その価値がある犠牲だった。
船上を飛び交う鴎がフーヴァルの到着を伝えたらしい。イルヴァの乗った小帆船が近づいてきた。
彼女は船側を軽々とよじ登ってマリシュナ号に乗船すると、フーヴァルと拳を合わせた。
「やったな、イルヴァ」
「ざまあみろってんだ」
彼女は言い、燃えさかる壁の向こうにいるとおぼしきキャトルに向かって、指を突き立てる仕草をした。
「それで、あんたの王子様は?」
「俺のでも、王子様でもねえ」
フーヴァルは言いながらも、主檣の檣楼を指さした。
「あんなとこに置いといていいのか? いい的になるのに」
「奴がそうしたいって言うんだよ。目がいいからな」
すると、イルヴァは感心したように、はぁんと呟いた。
「ああいう手合いにおとなしく抱かれるなんて、不思議だと思ってたんだよね。あんたみたいな奴がさ」イルヴァは無遠慮に言った。「なるほど。なかなか肝が据わってる」
「そういうわけじゃねえ」フーヴァルは言った。「おれが抱くばっかりじゃ、奴のケツが緩くなっちまうだろ? そうなりゃ打ち首になったうえに、塩茹でにされたドタマをデンズウィックの一番デカい橋に飾られちまう」
「やめろよ、夢に出そう」イルヴァは笑った。「でも、もうその心配もないわけだ」
フーヴァルは肩をすくめた。「まあな」
「せいぜい死なせんなよ、フーヴァル」イルヴァは言い、フーヴァルの肩を叩いた。
「わかってる」
その時、檣楼からゲラードの声が降ってきた。
「トロンデラーグを発見! 右舷二角の方角!」
フーヴァルは望遠鏡を取り出しつつ、船首へ向かった。すると確かに、キャトルの船がいた。統制を失って、逃げ惑う船団の後方に。
熱気に揺らめく大気と、燃えさかる炎の向こう側に充満する、ジャクィス・キャトルの怒りを感じ取ることができる気がする。
お前はこうやって虚仮にされるのが嫌いだったよな、ジャクィス。
船団は風上側に船首を転じ、炎の壁も、次第に勢いを失いはじめる。もうすぐ、次の動きがある。
「海賊旗をあげろ、野郎ども!」フーヴァルは咆哮した。「本物の海戦って奴を、惨めな陸者どもに教えてやれ!!」
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統制を失い、散り散りになった雑魚どもを追い回すのはたいした苦労ではなかった。敵味方入り交じった狭い海域では、連中が搭載した大砲をむやみやたらとぶっ放すこともできない。
所詮、寄せ集めの船団だ。船を拿捕した海域がバラバラなら、船の種類もバラバラだ。風が強く、波が高いダイラ周辺の海に適した造りでないものはすぐにわかる。この海域でしっかり波の上に浮かんでいたかったら、船足の速さを犠牲にしてでも喫水を深くしなければならないのだが、キャトル船団の半分は、波の穏やかな南海向けに建造された船だった。
〈浪吼団〉は、この海を知り尽くした船に乗っている。どれも小柄でたいして新しくもないが、こういう戦いでは、それが功を奏する。
勢いを失いかけた火の壁の間を縫って、〈浪吼団〉は敵陣に切り込んだ。マリシュナ号をはじめとする〈浪吼団〉の船は、小型であるが故に足が速く、小回りもきく。細い躰で珊瑚に潜り込んで隠れた魚を追い回すネムリブカさながらに、船と船の隙間に入り込み、あっという間に白兵戦に持ち込めるのだ。もたもたしている船はあっという間に四爪錨で絡め取られ、乗り込んだ〈浪吼団〉と刃を交える戦いになだれ込む。そうなれば、人間には勝ち目がなかった。中には、接舷を恐れるあまり、近づいてきた船に向かってめちゃくちゃに大砲をぶっ放す者もあった。〈浪吼団〉の船を破壊するのみならず、味方にまで流れ弾を命中させる始末で、早々に袋だたきに遭っている。
「船長! 早くしねえとロウランズ・ラシー号に先を越されちまう!」
血気に逸る乗組員たちが、牙を鳴らす獣のように吼え立てる。
フーヴァルは言った。
「仲間と獲物を取り合ってる場合じゃねえだろ──」
敵のレパン・ドール号が左舷の大砲を一斉に発射したものの、弾は当たらなかった。見当違いの方角ににボトボトと落ちた砲弾は、虚しく伸び上がる水柱の底に消えた。
「いまだ面舵! 乗り込むぞ!」
号令一下、歓声があがる。マクレガンが舵柄を操ると、マリシュナ号は即座に右舷に傾いた。右舷前方にいたレパン・ドール号の船側を削りながら、荒っぽく接舷する。
左舷の大砲を撃ち尽くしてしまったところを見計らったから、この期に乗じればマリシュナ号の横腹に穴があくことはない──少なくとも、次に装填が完了するまでの間は。とは言え、レパン・ドール号の大砲が、再び火花を散らすことはないだろう。勝負は、その前に決する。
「いよいよだ」
放たれた四爪錨がレパン・ドール号の索に絡みつくと、フーヴァルは喉の奥で笑った。手摺りに立ち、さあ乗り込むぞというところで、ゲラードと目が合う。その目はこう言っていた。
「気をつけて、フーヴァル」
フーヴァルは片眼を閉じてニヤリと笑い、ゲラードの方を向いたまま、縄に身を委ねて手摺りを蹴った。
「続け! 野郎ども! 続け!」怒号のただ中で、声を張り上げる。「皆殺しにしろ!」
〈浪吼団〉たちも、それに応えながら、我先にと相手の船に乗り込んだ。
〈浪吼団〉の得物は様々だった。カットラスに、半月刀、サーベル、レイピア……魔法を使うものは己の力を、獣の性をもつ者は──それを存分に解き放つ。
狼に変化したバウワーは、索さえ使わずに船と船の隙間を飛び越えていった。巨大な狼は中部甲板に着地すると、その勢いでふたりを踏み潰した。船は大きく揺れ、悲鳴のような軋みをあげた。
掌帆長のルーがレパン・ドール号の船尾楼に飛び乗ると、女と見て油断した敵に群がられた。ルー・センルーはそういうときに微笑を浮かべて状況を楽しむ手合いではない。ただ、背骨をバラバラにするほどの咆哮をあげて虎に変化し、片っ端から噛み殺していくだけだ。
舷から飛び降りて死中に活を見出す者を追うような真似はしない。だが、たとえ破れかぶれであろうと、フーヴァルは、自分に向かってくる者には容赦しなかった。
全ての甲板を制圧し、生きている者は捕虜にした。十人ほどを殺したところで、ほとんどの船乗りが膝をついて降参したから、かえって拍子抜けしたほどだ。進退窮まった船乗りは、がむしゃらな戦いを仕掛けてくるものなのだが。
あっさりと勝負が決した理由は、すぐにわかった。
戦いの最中にいるべき船長が、自分の船室に立てこもっていたのだ。よく心得たマリシュナ号の乗組員たちは、無理に押し入ることもせず、扉の前に立ってフーヴァルを待っていた。
怪力を持つデーモンのオーウィンが扉をぶち破ると、船長は諦めきった顔でフーヴァルを見た。
武装は解かれていた。そのことを、これほど残念に思ったことはない。自暴自棄でも、恐怖による錯乱からでも、とにかくこちらに向かってきたなら容赦なく殺すことができたのに。
以前なら、むざむざ部下を死なせて、自分だけ安全な場所に隠れているようなこの男を、軽蔑と共に殺しただろう。武器を握っていようが、いまいが。
命と命が戦いという天秤にかけられるとき、そこに感情がつけいる隙はないのだと、オチエンは言っていた。彼は船乗りで、魔法使いで、紛れもなく戦士だった。
頭では理解していても心が納得していなかったことが、今ならわかる。
怒りに任せて剣を振るうものに、戦士を名乗ることはできないのだと。
今まで、決して褒められないこともやって来た。師への弁解を紙に書き留めれば、永遠に終わらないほど続くだろうとも思う。だが、この戦いだけは、彼に捧げる戦いにしたかった。
負けるわけにはいかない。そして、やると決めたなら誇れる戦いをする。言い訳などする必要のない戦いをするのだ。
フーヴァルは、剣を鞘に収めた。
「腰抜けが」
そして、捕虜を満載したレパン・ドール号をマクレガンと数名の乗組員に任せて、次の獲物を探すため、マリシュナ号に戻った。
こうした混乱の中、キャトル船団のうちの一隻が、なんとか炎を避けて包囲網から抜け出した。すると我先にと、他の船もそれに続く。だが彼らを待っていたのは、その時を今か今かと待っていた、デイビスとウッドローの艦隊だった。馬鹿でかい二隻の戦艦を旗艦とするそれぞれの艦隊は、射程こそ短いものの、破壊力抜群の大砲で武装していた。
それは、ネムリブカが珊瑚から追い出した魚を、メジロザメがよってたかって食らい尽くす光景そのものだった。
日が西に傾く頃には、この火船作戦で、キャトル船団の三分の一は戦闘不能に陥っていた。だが、船団はなんとか船首を転じて南に逃げた。
この時点でキャトルは降伏するだろうと、デイビスは予想していた。日暮れは刻一刻と近づいている。太陽が地平線に沈むにつれ、誰もが祈った。キャトルが仲間を巻き込むことを恐れて、〈嵐の民〉を呼び寄せることはないだろうという、デイビスの見立てが正しいことを。
だが、貴族出身のデイビスは、良くも悪くも海賊を知らなかった。
海賊の所業や、その罪についてはよく知っているかもしれない。けれど、連中の執念深さ、自尊心、矜持、絶望的なまでの怒りの感情については、ほとんど無知と言っても良かった。
その日の夕暮れは、不吉なほど赤一色に包まれていた。だが、海が赤いのは夕日のせいだけではなかった。海面は血と炎によって、これ以上ないほど赤く染まっていた。
日が沈むにつれて、海上の戦闘は徐々に静まる。敵と味方のどちらにとっても、狙いを定めるのが難しくなるからだ。夜の闇が空を覆い尽くすよりも前に、ダイラの艦隊のほとんどが戦域を離脱し、夜の闇の底に潜んだキャトルの船団との間に、夜目が利く〈浪吼団〉の船を挟んだ。
結局、その日はキャトルの降参の白旗を見ることがないまま、夜になった。
戦場は不気味に静まりかえっている。
海上に散らばる船の残骸は、染みこんだタールのせいでまだ燃えていた。それらはまるで鬼火のように波間に漂い、本物の鬼火を連れてくる者の露払いをしているかのようだった。
全ての灯りを落とした船の上、三刻おきに寝ずの番を交代させながら、皆に少しでも休息を取らせる。こうした状況下でしっかり眠れるものでなければ、過酷な戦闘を生き抜くことはできない。誰もが皆、自分の持ち場からそう離れていない場所に蹲り、仮眠を取った。
風は相変わらず強く、投錨していなければ容赦なく押し流される。せわしない波に、船は細かく縦揺れし、すでに落ち着かない胃をいっそう揺さぶった。
仮眠を取るべきなのはフーヴァルも同じだった。けれど、こんな状況で眠れるわけがない。
いや、眠りたくない。
この戦いは、自分の人生において、最も重要な戦い──少なくとも、その一つ──になる。目を閉じたところで、眠れるはずもなかった。
船尾の手摺りに寄りかかって、海上の様子に目を光らせていたフーヴァルの隣に、ゲラードが立った。
「角笛は、鳴るだろうか」ゲラードが、小さな声で言った。
フーヴァルは頷いた。「鳴るだろうな」
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・中編(イロハ編)〈包容力 × 元気〉
・リクエスト編
・番外編
・中編(ハル編)〈ヤンデレ × ツンデレ〉
・番外編
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*表紙絵:たまみたま様(@l0x0lm69) *
※ 笑いあり友情あり甘々ありの、切なめです。
※心理描写を大切に書いてます。
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