完結【日月の歌語りⅢ】 蒼穹と八重波

あかつき雨垂

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 王港でマリシュナ号を降りれば、デンズウィックの王城までは小舟で行ける。ノリスリン川の河口には、すでに迎えの船が待っていた。用意されていた小舟には分厚い天蓋が付いていて、外からは誰が乗っているのかわからない仕様になっている。城に向かうものたちは、ヴェルギル、フーヴァル、ゲラードだけだ。三人全員が、大きな頭巾フード付きの外套をかぶることになっていた。もちろん、ヴェルギルも含めてだ。ヴェルギルは王冠をかぶってからも何度かダイラに赴いているが、そのほとんどが公式に記録の残らない訪問だった。エイルに反感を抱くものたちは多く、日に日に多くなってゆく。エイルの王となった吸血鬼の訪問は、なるべく秘密にしておいたほうが、双方にとって都合が良いのだろうとフーヴァルは思った。
 城の水門を潜ると、見張り番たちがきびきびと動きはじめた。待たされることも、妙に格式張った問答を強いられることもない。一行は案内されるままに回廊を歩き、階段を上り、空っぽの王座ばかりが鎮座している王の謁見室を通り過ぎて、その奥にある政務室へと通された。
 ヴェルギルたちが部屋に入ると、彼らはすでに待っていた。
 それ一つで大蒼洋を渡りきれそうなほど巨大な長卓の奥に、オールモンドとエレノア、そして彼女の側近らしき男がいた。その他の家臣の姿は見えない。おそらく、ヴェルギルの訪問時の対応としては、これが普通なのだろう。
 三年あまりの時を経ても、フーヴァルがダライル・オールモンドという男に抱く印象はたいして変わらなかった。廷臣というよりは役人のような身なりの男。歳は四十代。落ち着き払った雰囲気を纏いながらも、周囲に注意深く意識を張り巡らしている。
 奥にいるのがエレノア王女だ。正直言って、ゲラードから話を聞いたあとで改めて見てみても、彼女への印象はたいして変わらなかった。まるで、誰かの手によって上等な椅子に座らされた人形のようだ。
 その隣に立つ男の方がよほど存在感を放っていた。見た目は、とにかく地味な男だ。初めて会ったはずなのに、市場や酒場で偶然会って二、三言交わしたことがあると言われても信じてしまいそうなほど。
「ようこそお越しくださいました、シルリク・エイラ・ルウェリン陛下」オールモンドが厳かに言う。
「エレノア王女、オールモンド卿」
 ヴェルギルは、長い躰を優雅に折って辞儀をした。だが、やや略式の辞儀だった。この場で『王』と呼べるのは、ヴェルギルただ一人だからだ。
「王女の隣におりますのが、側近のアラステア・マクヒューです」
「お目にかかれて光栄です、陛下」
 紹介を受けた男は辞儀をした。そうして再び姿勢を正すと、面白いことに、彼の存在感が一層希薄になった。場の空気に溶け込む術を心得ているのだろう。この男は、見かけよりも頭が回る。
「急な申し出にもかかわらず、このような場を設けてくださったこと、感謝します」
「こちらこそ、陛下おんみずからお越しくださり、恐悦至極に存じます」オールモンドが言った。
「こちらは元海軍卿、フーヴァル・ゴーラム。相談役として伴いました」
 紹介にしたがって、フーヴァルも辞儀をする。
「通称ですか」マクヒューが言った。
「ナドカですので」フーヴァルは慎重に答えた。「真名をお知りになりたいならお教えしますが、返事をするかは定かじゃありません。何せ呼ばれ慣れないもんで」
 マクヒューは、狐そっくりな切れ長の目を、いちどだけ瞬きさせた。
「いえ、それには及びません」そして、微笑んだ。
 こんなことを言いながらも、この男はすでにフーヴァルの真名から渾名あだなまで知っているんじゃないかという気がした。
「よろしいかな」ヴェルギルは残りの者にさっと手を振った。「あとのものは、わたしの護衛です」
「御意に」
 オールモンドはそう言いながら、フードをかぶったままヴェルギルの背後に立つ護衛──ゲラードに注意深く目を向けた。王が護衛を連れているのは普通のことのはずだが、この宰相には何か引っかかるところがあるのだろうか。結局、彼は何も言わず、ただ恭しくヴェルギルたちに着席を勧めた。
 会談のこんな序盤から、すでに駆け引きが始まっているのかと思うと、首に発疹が出そうになる。
 そして、一同が席についた。
 長卓には、ダイラ全土の巨大な地図が彫刻されていた。
 北部に無数に立つ赤い旗は叛乱勢力。その隙間を縫うように点在している青い旗がアラニだろう。まばらに立っているのは、旗印を明らかにしていない集会コヴン学会サークル、小規模な氏族クランか。最も心胆寒からしめるのは、南部の旧ベイルズ領を埋め尽くさんばかりの、黄色い旗。黄色は、アドリエンヌの実家──フェリジア王家の色だ。
「海賊に関してのお話、でしたな。ここ数ヶ月、近海を荒らし回っている、あのキャトルという者についてのことと伺っております」
 会議の主導権を握ったのはオールモンドだった。ヴェルギルは頷いた。
「アドリエンヌ王妃が、彼に……目を掛けているとか」
 遠回しに、こちらが得ている情報をほのめかす。ヴェルギルがダイラの情勢に通じていても、オールモンドは驚かなかった。
「それだけではありません。アドリエンヌは親フェリジア貴族の大半の支持を得ています。再婚の申し込みが殺到している。さらにはリカルド王子の婚約の話まで出ている」
 地方貴族が将来の王の血筋に加わるまたとない好機なのだから、姻戚関係を結ぶことは、協力への見返りとしては十分すぎる話だ。
「リカルド王子も、間もなく三歳になる。そうなれば、正式に王位継承権を主張するだろう」
 オールモンドはヴェルギルに頷いた。
「ベイルズの各港に停泊する船舶も、ここ数年で急増しております」彼は白髪交じりの眉をひそめた。
「キャトルが拿捕した船です。〈嵐の民ドイン・ステョルム〉に船を襲わせれば、船舶は無傷で手に入る。改装を施して戦力として蓄えているんでしょう」フーヴァルが言った。「港を持っているベイルズの諸侯が船の出所を知れば、大層驚くはずだ」
 オールモンドは深く頷いた。
「フェリジアの援助を受けて新造された分を含めれば、アドリエンヌの側には、いまや二百は下らぬ数の船が集まっています」
 二百という数に、フーヴァルの背筋が強ばる。エイルだって、戦いに送り出せる船がようやく百隻集まるかどうかというところなのに、いち勢力が二百もの船を持つのは──大変な戦力だ。
「加えて、あの幽霊船か」
 フーヴァルの言葉に、オールモンドがため息をつきながら、こめかみをもんだ。
「去年の暮れ、アドリエンヌは王位争いに消極的だった。争いを避けるために、自らベイルズの宮殿に移られたくらいなのです。それが、半年前に突如心変わりし、枯れ野の火のごとき勢いで軍勢をかき集めている」
「唆したものが、背後にいるのだろう」ヴェルギルが言った。「アラニと北部の叛乱軍を結びつけた者がいると、風の噂で耳にした」
 風の噂だなどと空々しい言葉には騙されないオールモンドが、油断のならない目でヴェルギルを見た。さすがに、そこまで知られているとは思っていなかったのかもしれない。
「ダイラに内乱を招こうと画策する者がいるのだ。そして、そのものの正体が何であれ、できるだけ大きなかがり火を焚こうとしている」
「おっしゃる通りです」オールモンドは言った。「キャトルとアドリエンヌを結びつけたのも、そうした輩でしょう」
「見当はついておいでか?」
 ヴェルギルの言葉に、オールモンドは首を振った。
「方々を探らせてはいますが……」
 ヴェルギルは深いため息をつき、机に刻まれたダイラの地図を見つめた。
「恥ずかしげもなく申し上げるが、エイルはダイラ無しには立ちゆかぬ──今のところは」わざとらしく付け足す。「リカルドが王位についても、結果は同じこと。我々は緑海の真ん中で孤立する。それゆえ、率直に申し上げよう。キャトルを野放しにせぬために、エイルは協力を惜しまぬと」
 オールモンドは、小さく頷いた。
「それはありがたい。実に心強い」
 フーヴァルは、内心で鼻を鳴らした。
 そういう言葉のあとに続くのは、大抵──
「しかし」
 ほらきた。
「エイルにどれほどのご協力を望んでよいものでしょうか」オールモンドは言った。「人間の船団相手ならまだしも、キャトルとて人ならざる者。これは推測ですが、エイルがお持ちの船は百に届かぬほどかと存じますが……?」
 推測が聞いて呆れる。きっと、まだ造船所で建造中の船の数まで把握しているに違いない。
「その通り」ヴェルギルはあっさりと認めた。
「魔物や幽霊を引き連れた、神出鬼没の海賊です。正体すら定かではないのですぞ」
 厳しい表情のオールモンドに、ヴェルギルは小さく微笑んだ。
「あれは、魔法使いだ」
 オールモンドが目を見開いた。「ご存じなのですか?」
 ヴェルギルは、次に繰り出す言葉の威力を高めるために、沈黙を引き延ばした。そして、言った。
「彼は、マルヴィナ・ムーンヴェイルの息子なのだ」
 オールモンドの顔が、歪んだ。
 彼が人間らしい感情を露わにするところを見るのは、それが初めてだった。
「それは……まことですか」彼はようやく言った。
 ヴェルギルが頷いた。「嘘は言わぬ」
 オールモンドは、自らの手で仮面を形作るように、顔の下半分を覆った。指の隙間から垣間見えた口元は、微かに笑っていた。まるで、笑えなさすぎてかえって可笑しい冗談を聞いたときのように。
 彼は言った。
「あの女の呪縛を断ち切るのが、これほどまでに困難だとは……」
「エレノア?」
 ヴェルギルたちの背後から、唐突に声が上がる。ゲラードの声だ。
 王女に何かあったのかと、エレノアの方を見る。だが彼女は相変わらず人形のように座っているだけだ。そこに座っていたことも忘れていたほどだった。
 ゲラードは外套の頭巾を取り去りながら、王女の座る場所に……は行かなかった。彼は迷わずオールモンドの正面に立ち、机に手を置いて、白髪交じりの髪をした、四十がらみの宰相の顔を覗き込んだ。
 嘘だろう。白髪の生えたじじいが自分の妹に見えるってのか、この男は?
 幻惑を疑いはじめたフーヴァルをよそに、ゲラードはもう一度言った。
「エレノアなのか?」
 王女の席の背後に控えていたマクヒューがわずかに息を吸い込み、動揺を見せる。
 そしてオールモンドは、従者だと思っていた男の突然の奇行に憤るわけでもなく、驚くわけでもなく、ただじっと、ゲラードの顔を見つめた。
 彼は俯き、首を振った。
 そして、右手に嵌めていた指輪を引き抜いた。
 すると、オールモンドの形をした人影は、突如眩い光に包まれた。光はまるで溶岩のように柔らかくうねり、人影の形を変える。そして、幻惑の光は無数の蝶の姿となって飛び立っていった。あとに残ったのは……。
 間違いなく血の通った、エレノア王女が、そこにいた。
 彼女は従者の扮装に身を包んだ兄をしげしげと眺め、それから、小さく笑った。
「よくおわかりになりましたね、兄上」
「前より、目が良くなったからね」ゲラードは言った。「あそこにいるのは?」
 上座に座ったままの、もう一人のエレノアを示す。
「あれもまた、この指輪と同じ魔道具フアラヒです」そう言って、マクヒューに目配せする。
 彼は偽エレノアの耳飾りをそっと引いた。すると偽装が解け、そこに座っていたのは、夥しい量の魔方陣を刻まれた木偶人形だったことがわかった。発動していない陣を見るだけでも目眩がしそうなほど強力な魔法が施されている。
 ゲラードは驚いていなかった。ヴェルギルも、眉一つ動かさない。
「いつから……?」ゲラードが言う。
 エレノアは、オールモンドの服を着たまま小さく肩をすくめた。
「父上が亡くなる数年前から」
 これには、ゲラードも少し驚いたようだ。彼は眉を上げた。「では、最初からオールモンドなどという男はいなかった?」
「ええ。最初からずっと、わたしがオールモンドでした」彼女は、秘密を打ち明けるときの輝きを目に宿して、ゲラードに言った。「大変動きやすくて、重宝しているのです」
「ユージーンの振りをしてキャトフォードに来たのも、お前だったんだね?」
「ええ」エレノアは微笑んだ。「あの時も、あわやというところで見破られそうになりましたね」
「いいや。わからなかった」ゲラードは言った。「まさか、お前だとは」
 妹を賞賛せずにはいられない兄と、最も付き合いの長い『共犯者』を取り戻した妹が見つめ合う。
 エレノアは微笑み、そして言った。
「ああ、兄上。ようやく帰ってきてくださった!」
 
     †
 
「兄上は海で死んだと皆が噂しましたが、わたしはつゆほども信じていませんでした」彼女は言った。「もちろん、暗殺の主犯であるなどという戯言もです」
 目の前にいるのがエレノアだと納得するのに、たいした時間はかからなかった。ゲラードにとっては、窓辺で俯いて読書や刺繍をしている姿よりも、こうして突拍子もない思い付きに邁進している彼女の方がよほど『妹』らしかった。
 自らの才覚で父に取り入り、宰相として辣腕を振るってきた、彼女こそがエレノアだ。
「急に芝居を好むようになったわけを、ずっと考えていた」ゲラードは言った。
「芝居は、演技の参考になります」エレノアはあっさりと認めた。「素質があるのでしょう。兄上の他に、わたしの正体を見破った者はいませんでしたから」
「ああ。確かに見事だった」
 オールモンドには何度も会っていたし、会話をすることもたびたびあったというのに、今の今まで気付なかった。正体を知った今となっては、その方が不思議な気がする。オールモンドの端々には、エレノアの癖や、思想がはっきりと現れていたというのに。
 他ならぬエレノアが、宮廷全員の鼻を明かしたのだと思うと、素直に誇らしい。だが、彼女にこれだけの能力と胆力があることがわかってしまった以上、ゲラードにはどうしても尋ねなければならないことがあった。
「兄たちを暗殺したのは、お前なのか?」
 エレノアはその質問を予期していたようだった。彼女は椅子に座り、ゲラードにも椅子を勧めた。
「買いかぶってくださったこと、嬉しく思います」エレノアは言った。「グレイアムの病には、疑わしい点が多くあります。ですが、どんな理由で死んだにせよ……わたしの仕業ではありません」
「ユージーンは?」
 エレノアは机に肘をつき、握った拳に頬を休めた。そして、机の上に横たわるダイラの地図の──南を見た。
「グレイアムを暗殺したのが誰であれ、それとは別のものの仕業のようです。毒が盛られていることは比較的簡単に調べがつきました。魔術師に成分を調べさせ、原料の産地まではなんとか割り出しました」
 エレノアは、机に刻まれた地図の一点を指した。「旧ベイルズ、エリトロスの森に生えていたトリカブトです」
「あの森は妖精の森だ。あそこから植物を持ち出すような危険を冒す者はそうはいまい」ヴェルギルが言った。
 エレノアは頷いた。「調べ上げるのにずいぶんかかりましたが、ようやく、あの近辺を根城にしている傭兵団に行き着きました。暗殺に長け、手段を選ばぬ者どもです。彼らを尋問したところ──」細く優美な指を、ある半島に置く。
「ラメルトン……」ゲラードは呟いた。
「十中八九、ラメルトン伯コールリッジの手の者に間違いありません」エレノアは言った。「非常に巧妙に入り組んだ指示系統を持っているようです。真相に行き着くまでに、三十人は尋問しました」
 尋問以上のことが行われたのだとしても、ゲラードは驚かなかった。エレノアには、ゲラードのような躊躇はない。彼女には確かに、父の血が流れているのだ。
「ユージーンが居なくなれば、次に控えているのは。リカルドの勝算はぐっと増します」
「ラメルトンか」ゲラードは頷いた。「コールリッジの船に襲われた。ナルバニア沖で」
 エレノアは身を乗り出した。「本当ですか?」
 ゲラードは小さく笑って、言った。
「お前が議会に要請したと言っていた──僕を連れ戻すか、さもなければ殺せと」
 エレノアは驚きを露わにした。それが演技だとしたら……たいしたものだ。
「わたしは、そんなことは命じていません。ただあなたを連れ戻すようにと要請しただけ。キャトフォードの者が目撃した船の情報を海軍卿に伝えはしましたが……コールリッジが関与する必要はまったくなかった」
「ならば、伯の独断で行われたことだったんだろう。船長は雇われで、どうも偏った情報を吹き込まれていたようだ」
 エレノアは顔を上げた。「その船長とやらは?」
 ゲラードは首を振った。「死んだ」
 そうですか……と彼女は俯いた。
「パラディールを覚えておいでですか、兄上? 彼は相変わらず、夏の蜂のように忙しく立ち回っています。両国の関係は悪化して、もはや取り持たねばならない婚儀もないというのに」
 パラディールはフェリジア大使だ。グレイアムとアドリエンヌの結婚の際には、王女の権威を守るため、根回しに大いに活躍していた。
「彼が間諜だと?」
 エレノアは頷いた。「その一人です。今は泳がせていますが、じきに尻尾を出すでしょう」
「それを待つつもりなのか」
「兄上を手にかけようとしたのなら、じきにわたしにも暗殺の手が伸びるはず。その時が、彼を罠にかける好機です」
「オールモンドの──お前の改革は性急だ。フェリジアに敵と見なされるのも無理はない」ゲラードは言った。「民も困惑している。このままでは、内乱を招いてしまうぞ」
「兄上ならばそうおっしゃると思いました」エレノアは微笑んだ。「だからこそ、兄上に戴冠して頂かなくてはならないのです。オールモンドが煽った民の怒りを静め、今まで以上に、王への忠誠を集めて頂くために」
 ゲラードは息を吸い込んだ。
 不意に──ようやく、エレノアの狙いがわかってしまった。
「僕が王座についたら」ゲラードは言った。「『オールモンド』を処刑するつもりなんだな?」
 エレノアは頷いた。
「性急な改革に不安を覚える民は、それを和らげる君主を歓迎するでしょう」
「お前はどうする」
「これまで通り、無害な王女の振りをします。そう──また別の男の姿を借りて議会に関わることになるでしょう。今度は兄上が取り立ててくださるでしょうから、オールモンドの時よりも容易く影響力を手に入れることができるはずです」
 ゲラードは、思わず笑った。
「それで、僕にはお前の傀儡かいらいになれと?」
 エレノアは首をかしげた。「兄上に野心はないのでしょう?」
 ある、とは言えない。幼い頃から、ほとんど全てを共有してきた妹の前では。
「わたしは、国を動かしたいのです。ずっとそう思い続けて、ようやく機会が巡ってきた。兄上を差し置いてわたしが王になれば、母が犯した不義を認め、王家の威信を揺るがすことになる。それならば、兄上が戴冠して、今まで通りわたしが裏で好きに動く方がいい」エレノアは言った。「兄上に敵はいません。敵を作るほど苛烈に動くこともできない。だからこそ、民は安心するでしょう。凶暴な犬を飼い慣らすところを示せば、弱腰と罵られることもありません」
「その凶暴な犬というのが、オールモンドか」
 エレノアは頷いた。
政治まつりごとに必要なのは、正しい判断力と、決断力です。もし道を外れそうになったなら、それを諫める声と、聞き入れる耳も必要です。けれど、人徳は必要ない。必要なのは……仕組みです」彼女は揺るがぬ声で言い切った。
「まるで、魔道具フアラヒの構造について話しているようだ」
 エレノアの瞳に、機智の光が煌めいた。
「そう、まさしく」彼女は微笑んだ。「国とは道具です。使い方を過てば惨事を招きますが、上手く使いさえすれば、我々みなに恵みをもたらす」
 エレノアは、地図の上に散らばる旗や、兵力を示す砦や兵士の模型を眺めた。彼女の瞳には、個々の人間の苦しみは映らない。彼女はもっと遠くからこの国を見つめているのだ。
「とは言え……国を動かす者が、人徳に厚く、寛大な者であって欲しいと民が願うのも道理。それを思えば、あなたはまさに人徳の王になるでしょう」
「そしてお前は、正しい判断力と決断力とで政治まつりごとをする?」
 エレノアは微笑んだ。
「よい筋書きだとは思いませんか?」
 ゲラードはため息をついた。深く、長いため息だった。
「昔、お前は言っていたね。国王を無くしてしまったらどうかと」
「ええ、覚えています」エレノアは小さく微笑んだ。「いずれは、そういう時代が訪れるのかも知れません。でもいまはまだ、王冠を頭に乗せて、煌びやかに、厳かに、時に愚かに……皆の前に立つ者が必要なのです」
 彼女は、じっと黙ったまま成り行きを見守っているヴェルギルを見た。
「数百年──いえ、数十年後には、我々王族が掲げてきた炎も燃え尽きるでしょう。そして、その灰の中から新たな時代の王が生まれます。いずれ冠を渡す時が来るのなら……わたしは、新たな時代の王を育む国を作りたいのです。たとえ万人に呪われようと、それがわたしの──我々の定めだと思っています」
 沈黙が、広い執務室を隙間なく埋めた。この部屋の、この机の上で、動かず立ち尽くしているまがい物の兵隊や旗が、現実には動き、どよめき、剣を研いでくすぶっている。エレノアはこの騒乱を見て、さらに先にあるものをも見ているのだ。目にすることもできぬほど遠くにある、未来の王の姿を。
 おもむろに、ヴェルギルが口を開いた。
「あの傀儡と、変身のための指輪は、誰から?」
 すると、エレノアはわずかに歪な笑みを浮かべた。「マルヴィナ・ムーンヴェイルから」
 目を丸くするゲラードをよそに、ヴェルギルは、さらに尋ねた。
「それを得るため、あなたは何を差し出したのです」
 エレノアの目が、わずかに揺れた。だが、それは一瞬のことだった。
「わたしが、己の子供を抱くことはありません──とだけ」
 思わず立ち上がりかけたゲラードを制すように、エレノアは続けた。
「その価値はありました」
「しかし──」
 エレノアは、迷いのない目でゲラードを見た。
「わたしは、自分の子供を、自分で選んだのです」
 その『子供』が何を指すかは明白だった。
 ダイラ。我らの祖国。
「兄上、どうか戴冠を」エレノアは言った。「我々には、王が必要です」
 ゲラードは目を閉じた。
 幼い頃のエレノアの姿が、瞼の裏に浮かび上がる。母を不幸にするふたりの子供として、互いの手を取り合い、王宮の片隅でひっそりと生きてきた。あの頃、妹の手はなんとか弱く、柔らかく、頼りなかったことか。
 だが、それは過去のことなのだ。
「僕は、戴冠するつもりでいた」ゲラードはいいながら、目を見開いた。「ダイラに来るまでは──お前に会うまでは」
 エレノアの表情が、微かに曇る。
「エレノア・オブ・クラレント。王になるべきなのは、お前だ」
 彼女は目を見開いた。「けれど、兄上──」
「エレノア、僕はもう死んでいる」ゲラードは言った。「第四王子は、死んだんだ」
 エレノアの瞳の中で、混ざり合った感情が渦巻いている。
 喜びと期待、不安と疑いが。
「僕は王の器ではない。それを偽ることも……したくない」ゲラードは言った。「だが、お前には素質があると思う。やり遂げるだけの決意も。それなら、冠と賞賛は、お前が直接受け取るべきだ」
「兄上は……どうするのです」
「僕は、この世界を見て回りたい」ゲラードは言った。「お前の目となり、時には手や翼になって、この国と他の国とを結びつける助けになりたいと思う」
 すると、エレノアは控えめに笑みを浮かべた。
「それは……言い換えれば、間諜ということになります」
「いかようにも」ゲラードは微笑んだ。「ただ、僕は何よりも、エイルとダイラとを繋ぐ橋になりたい。どちらか一方の不利益になることは、包み隠さず両方に話す。どちらか一方の利益になることも──同じように、両方に話す。そうして、エイルとダイラの双方が共に栄える未来を作りたいんだ」
 エレノアは、じっとゲラードを見ていた。
「同盟、ということですね」彼女は言った。
 ゲラードは頷いた。
「この小大陸が大陸に対抗するのに、一国だけでは力不足だと思う」
「共に栄える」ヴェルギルは、その言葉を味わうように口にした。「悪くない響きだ」
 エレノアはヴェルギルを見て、それからゲラードを見た。彼女はしばらくそうして、ただ静かに座っていたが、やがて言った。
「母上は、あなたを愛していました。兄上」
「お前のことだって──」
「いいえ。母はあなただけを愛していた。他の子供たちに向けたのは、義務です」エレノアはきっぱりと言った。「だからこそ、わたしはあなたという兄を手に入れ、あなたはわたしという妹を手に入れた。それは……きっと、幸運なこと」
「エレノア……」
 彼女はわずかに躊躇い、そして言った。
「母の心が離れたのを知った父がどうしたか、兄上はご存じないはず」
「知っているよ」ゲラードは言った。「僕の父を島流しにしたんだ」
 エレノアは頷いた。「そう。しかし、それだけではなかった」
「それだけではない……? いったいなにをしたんだ」
 再び、重い沈黙が降りる。
「父は……マルヴィナと契約をしたのです」エレノアの唇が、ほんのわずかに震えた。「母の愛を、再び自分に向けさせるように。その証しとして、新たな子を授けるようにと。そして、わたしが生まれた。けれど、母の心は壊れてしまった」
 まさか。
「そんな……」
 ゲラードは打ちのめされた。打ちのめされながら、この事実を知ったときのエレノアの心を思って、さらに打ちのめされた。
 こんな残酷な事実を、エレノアはいままで、たった一人で抱えてきたのか?
 何が兄だ。何が一心同体だ。
「エレノア、すまない」ゲラードは言った。
 エレノアは、何かを振り払うように首を振った。
「子を産む力を捨てた理由がおわかりでしょう。わたしにとって……愛とは呪いであり、枷です。今のわたしは限りなく自由──後悔などしていません」
 そして、彼女はヴェルギルとフーヴァルとを見た。
「父が、母のの見返りとしてマルヴィナに与えたのが、エイルだったのです」エレノアは、落ち着いた笑みを浮かべていた。「どれほど必死であったのか……とは言え、まさか緑海の瘴気が晴れるとは思ってもみなかったのでしょう。結局、すべてはマルヴィナの思い通り……そして、あなたが君臨する国が生まれた」
「では、我々は誰よりも、あなたに恩義がある」ヴェルギルは言った。「吸血鬼の誓いなどとお思いになるとしても、わたしにはどうすることもできないが──エレノア王女。エイルはあなたが王座に君臨する限り、誠心を以て、その繁栄に力を尽くしましょう」
 エレノアの目がきらりと光った。
「そこは、『わたしと、わたしの意志を継ぐ者が王座に君臨する限り』として頂きましょう。ひとは短命ですから」
 ヴェルギルは微笑み、頷いた。「そして、あなたは何代も先の人々を導くための王になろうとしている」
 その言葉に、エレノアの頬がわずかに上気した。
「わたしが、王」そして、彼女はゲラードを見た。「本当に……いいのでしょうか」
 ゲラードは立ち上がり、エレノアの座る椅子の前まで行くと、厳かに膝をついた。
「アルバ、及びベイルズとダイラ全土の女王、エレノア・オブ・クラレント」ゲラードは言い、頭を垂れた。「その御代みよに栄えあれかし」
 俯いた頭に、そっと手が触れる。躊躇いがちに。やがてしっかりと。
「ゲラード・天翔る者スカイワード
 囁くようでありながら同時に力強い声で、女王がゲラードの新しい名前を告げた。
「そなたを我が臣下と認め、庇護と栄光を与えることを約束します」
 それは王族としての自分との決別であり、新しい自分のはじまりでもあった。
 ゲラードは、彼の女王を見上げた。
「我らが国土と、御身が掲げる理想のため、命を賭して忠誠を尽くすことをお誓い申し上げます」
 そして、エレノアが差し出した手に、そっと口づけをした。
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【完結】愛執 ~愛されたい子供を拾って溺愛したのは邪神でした~

綾雅(ヤンデレ攻略対象、電子書籍化)
BL
「なんだ、お前。鎖で繋がれてるのかよ! ひでぇな」  洞窟の神殿に鎖で繋がれた子供は、愛情も温もりも知らずに育った。 子供が欲しかったのは、自分を抱き締めてくれる腕――誰も与えてくれない温もりをくれたのは、人間ではなくて邪神。人間に害をなすとされた破壊神は、純粋な子供に絆され、子供に名をつけて溺愛し始める。  人のフリを長く続けたが愛情を理解できなかった破壊神と、初めての愛情を貪欲に欲しがる物知らぬ子供。愛を知らぬ者同士が徐々に惹かれ合う、ひたすら甘くて切ない恋物語。 「僕ね、セティのこと大好きだよ」   【注意事項】BL、R15、性的描写あり(※印) 【重複投稿】アルファポリス、カクヨム、小説家になろう、エブリスタ 【完結】2021/9/13 ※2020/11/01  エブリスタ BLカテゴリー6位 ※2021/09/09  エブリスタ、BLカテゴリー2位

君に望むは僕の弔辞

爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。 全9話 匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意 表紙はあいえだ様!! 小説家になろうにも投稿

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
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幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

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