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33
エイル エリマス城
たったの四年。されど四年だ。
エイルを覆っていた瘴気が晴れて四年、ヴェルギルがエイルの王として再び戴冠してから三年の月日が経った。矢のように流れ去る季節のうち、平穏に終わったものは何一つない。そのめまぐるしい年月は、彼の千年もの生の中では、ほんの一瞬のことに過ぎないはずだ。それでも、クヴァルドにはわかっていた。この四年間は、彼が今まで生きた千年にも等しいのだと。
およそ半年の不在を経て帰還したフーヴァルとゲラードからもたらされた、驚くべき情報を精査するのに七日かかった。マルヴィナに息子がいたこと、その息子もまたアラニに加担していたこと、そして、今は大蒼洋を脅かす存在となっているジャクィス・キャトルこそが、その息子なのだということ。その上、キャトルの背後にいる勢力が、この問題をさらに複雑にしていることも、エイルの枢密院を悩ませた。
ゲラードと貴銀の族の関係についても調べを進めているが、こちらはさらに時間がかかるだろう。千年以上も眠っていた伝承を掘り起こす方法は、あまり多くない。
今はとにかく、ジャクィス・キャトルをどうするかという課題に取り組まねばならない。彼の暴虐を放っておくことはできない。それに、彼が人魚を犠牲にして手に入れたエイルの冠帯はいま、ヴェルギルの額におさまっている。そのことに、ヴェルギルが責任を感じずにいられるわけがなかった。千年前にエイルを滅ぼすきっかけを作ったビョルンとの因縁が絡んでいるのだから、なおさらだ。
ヴェルギルは今、王の執務室で客人と向かい合って話をしている。クヴァルドも彼の傍らに座り、同じ相手を見つめていた。
客人──あるいは、切り札になるかもしれない男。
「話は、大体わかりました」彼は言った。「海の亡霊か……」
「君の神は、死者の魂を冥界に導く」ヴェルギルは言った。「是非、力を貸して欲しい」
すると、彼は椅子の上で肩をすくめた。
「もちろん、俺にできることなら。あなた方にはひとかたならぬ恩がある」そう言いながらも、表情は曇っている。「しかし、ビョルンという男のことまで面倒を見切れるかどうか、ちょっと自信がないな」
ヴェルギルは頷いた。
「あの男のことまで、君に委ねるつもりはないのだ」彼はいい、クヴァルドの方をちらりと見た。
ヴェルギルが考えていることが、クヴァルドにはわかる。
そのことについて、何度も話し合ったのだから。
「まあ、奴のことは忘れてくれ。君に頼みたいのは、ビョルンがかき集めた漕ぎ手の方だ」
彼の顔は、ぱっと明るくなった。
「そういうことなら。どうぞお任せを」
そうして微笑むと、彼の若さを改めて思い知らされる。だが、その若々しさはすぐに、自信に満ちた表情によって覆い隠された。老練という言葉さえ想起しそうになる彼の眼差しには、何世代にも亘って、一族に引き継がれてきた知識と経験が滲んでいた。
「俺は広漠たる処の民。砂漠も海も、俺たちの領域です」
そして、今や『切り札』となった男は、優雅な身のこなしで腰を上げた。
「それじゃ、さっそく準備に取りかかるとするか」
彼とヴェルギル、クヴァルドは互いに握手を交わした。
「頼りにしている」
クヴァルドが、部屋の外まで彼に付き添った。
「彼とはその後、会えたのか?」
すると、彼は黒い癖毛を横に振った。
「いいんだ。会えるときが来たら、きっと会えるから」
前向きな言葉ではあったけれど、そこに表れた渇仰は隠すべくもない。執務室の扉を出たところで彼は振り向き、それでも強気な笑みを浮かべた。
「もしどこかで会ったら、俺の代わりに一発殴っておいて」
「約束はできないぞ」
クヴァルドが言うと、彼は笑いながら、廊下の奥へと消えていった。
ビョルンとの因縁が蘇ったのは、ヴェルギルが王座に就くか就かないかという時だった。〈嵐の民〉が姿を現すことは、それまでにもなかったわけではない。海竜の逆鱗に触れて船を沈まされるのと同じくらい珍しい頻度だったが。
それが、ヴェルギルが王座についた途端目に見えて頻発するようになったのだ。こうなっては、エイルの再興と、かつてエイルを滅ぼした男の亡霊とを結びつけずにいる方が難しい。大蒼洋沿岸の国からは連日のように、遠回しな苦情が寄せられていた。
フーヴァルが自ら立って、その怪異に対処すると言ってくれなかったとしても、ヴェルギル、あるいはクヴァルドの方から頼んでいたはずだ。海軍卿の肩書きを返上してくれと頼むのは心苦しかっただろうが、戦闘の経験が豊富であるという点では、イルヴァよりも彼の方がこの任務に向いていた。
とは言え、彼が海竜──シドナから直接、ビョルンの始末を託されることになるとは。おまけに、ダイラの王子と懇ろになっただと? 思えば三年前、フーヴァルは突如、ゲラードを彼の船に乗せるのを拒否した。何かあるとは思っていたが……。
いや、と、クヴァルドは思い直した。
懇ろという言葉では片付かないのかもしれない。
半年を経て還ってきた彼とゲラードの間には、クヴァルドの背中の毛を逆立てるような何かがあった。それはまるで、自分が所属するのとはまったく違う群れに対峙したときのような緊張感だ。この直感が正しいとするなら、ふたりはすでに、彼らの──いわば、群れを作り上げたということだろう。
それが良いことなのか、悪いことなのかを、今は考えない方がいい。いや、考えたくない。これ以上の懸案には対処できない。
今はとにかく、キャトルの件だ。
フーヴァルの話では、〈嵐の民〉を目覚めさせ、操っているのはジャクィス・キャトルだという。キャトルにたどり着くにはまず、〈嵐の民〉を片付けなければならない。
ビョルンを幽霊と言い表すのは、吸血鬼や塚人や甦りし者を、『歩く死体』とひとくくりにするようなものだ。クヴァルドが〈クラン〉に所属していた頃、新人に割り当てられるのは低級の『死に損ない』の始末だったから、よくわかる。ビョルンが従えているのはただの幽霊でも、ビョルン自身はまったく別のものだ。
彼は自らが盗み出したエイルの冠帯に執着し、それを千年もの間、海の底で守り続けた。現世に怨念をもったまま留まり続ける者は、〈クラン〉では腐死者と呼ばれていた。それらの多くが、欲深さのあまり神の怒りに触れたものたちだ。
本当ならば、キャトルによって冠帯を奪われたことで、ビョルンの呪いは終わっていてもおかしくはなかった。それが消滅せずに彷徨っているのは、キャトルが幻術を使って、ビョルンを暴走させているからだ。飢えたように仲間を集めているのも、そのせいだろう。
ならばどうするか。
ヴェルギルは、すでに心を決めている。
使命に生き急いでいるかのような、彼の姿を見るのは苦しい。ヴェルギルをエイルの王座に導いた運命は決しては一つではなかったけれど──クヴァルドは間違いなくその中に含まれる。
ここのところ、そのことを後悔することが多くなった気がする。
ヴェルギルが再びエイルの王座につけばこうなると、心のどこかではわかっていたはずなのに。
クヴァルドはため息をついた。
ヴェルギルは、心を決めている。
問題は、クヴァルドの心が揺れてしまっていることだった。
執務室に戻ると、ヴェルギルは机から顔を上げた。クヴァルドの顔にどんな表情が浮かんでいたにせよ、彼は本心を見抜いた。
「わたしが君の信頼を乞うのは、出会ったときから変わらないな」と彼は笑う。
「いいや、変わった」とクヴァルドは答える。
当時のクヴァルドが気にかけていたのは、任務と、復讐だけだった。今は何よりも、ヴェルギルのことを心配している。
信頼はしている。だが、いくつもの『もしも』に邪魔されて、確信できないでいるだけなのだ。
そんなことはわかりきっていたので、それ以上言いつのって時間を無駄にはしなかった。
やるべき事はわかった。ならば、無事にやり遂げられるよう、準備を進めなくては。
34
キャトルを支援しているのが、あのアドリエンヌ元王妃であるという話に、ゲラードは心底驚いた。たった半年のうちに、彼女は侮れぬ勢力になっている。
元アラニのキャトルが、ナドカを嫌うフェリジアの手先になるという事実は、アドリエンヌがどれほど力を必要としているかということを如実に顕している。
ヴェルギルからその話を聞いたのが、三日前のことだった。
いまゲラードは、ダイラへと向かうマリシュナ号の上甲板で、他の船員たちと一緒に索を握っていた。風上に間切る船の上で、船乗りたちがせわしなく動き、索を牽き、結び、また解いては、それを牽く。
船室でゆっくりしていたらどうかと提案されはしたものの、ゲラードは断った。
オルノアでも、エイルでも、あまりに多くのことを耳にした。
それを整理するために、無心になって身体を動かす時間が必要だった。
正直なところ、オルノアでシドナやナールに教えられた出自の方が、ダイラの情勢についての話よりもよほど飲み込みやすい気さえする。
国のことや、そこに暮らす人々の動きについて考えるのは難しい。ゲラードには理想とする世界の姿があり、おそらく無意識に、そうであって欲しいという願望ありきで物事を考えてしまうところがある。
フーヴァルはかつてこう言った。
「皆が皆、お前の期待通りに高潔で、ご立派な生き方をしてりゃ、今ごろこうはなってなかったと思わねえか?」
ゲラードには何も言い返すことができなかった。
「人間もナドカも、お前が思っている以上に卑怯で、強かで、手前勝手になれるんだよ」彼は言った。「それは別に、何に対する裏切りでもねえ。それが戦うってこと──生きるってことだ」
アドリエンヌは、故郷から離れたこの地で──彼女の信仰が脅かされつつあるこの地で、彼女自身の戦いをしている。
彼女は、先王グレイアムとの間に生まれたリカルド王子の王位継承を主張している。王子の三歳の誕生日は目前で、彼に継承権が発生するのも間もなくのことだ。アドリエンヌの背後には当然ながら祖国であるフェリジアがいる。敬虔な陽神教徒であるアドリエンヌは、教王と深い繋がりを持つフェリジアがダイラに伸ばした指先にも等しい。
キャトルがアドリエンヌについたということは、当然ながら公にはされていない。アドリエンヌの背中を支えているベイルズ諸侯は、フェリジアが初めて小大陸を征服したときの騎士たちの血を継いでいて、彼ら自身もそれを誇りにしている。つまり、彼らのほとんどはフェリジアとの繋がりを数百年に亘って保ってきた、不退転の陽神教徒なのだ。もし、ナドカであり、元アラニの一員であるキャトルと手を組んだことが知れれば、アドリエンヌは彼らの心証を損なうことになる。
逆に、もしキャトルがその旗印を明らかにしたとしても、状況は良くならない。リカルド王子が王位に就く可能性がある以上、エイルは表立ってキャトルの討伐に乗り出すことはできないからだ。内政に干渉することになるのはもちろん、ダイラとの貿易を失えば、たちまち路頭に迷うことになる。うかつには手が出せないのだ。
空位のままの王に代わって、議会ではオールモンドの発言力がますます増している。彼は陽神教会に容赦なく改革を強いた。国中の聖堂で、脱税に淫行、反逆罪が明るみに出た。長きに亘ってカルタニア教王庁という壁に守られてきた陽神教会が腐敗していたことは確かだ。私欲にまみれた一部の高位聖職者にとって、各地の聖堂は無限の蜜を湛えた蜂の巣だった。
だが同時に、それは確かに、人々にとっての拠り所でもあったのだ。
相次ぐ神官の罷免や聖堂の取り潰しに、民が反発するのも無理はない。慣れ親しんだ生活を奪われれば、誰もが不安を抱き、奪われたものを取り返そうとするだろう。実際、この改革で得をしているのは、広大な聖堂の所領を買い取った中産階級出身の新興貴族と、その金を国庫にしまい込む国だけだと言われている。
改革という煙で燻され、巣を追われた蜂は群れを成し、その針を突き立てる相手を求めている。
小さな叛乱は、すでにいくつか起こっていた。すぐに鎮圧されたそうだが、それもまた、議会を取り仕切るオールモンドへの敵意を育てている。
じきに、大きな叛乱が起こる。
そうなったときに、かがり火に焼べられるのは誰の名前だろうか。
「あなたは王の器ではない」
ヴェルギルはそう言った。
ダイラに出発する前、ふたりきりで、彼の執務室で話をした時のことだ。
「あなたは、異なる世界の橋渡しをする役だ──王よりも、さらに大きな使命を背負っている」
「だから、王にはなれないと?」
ヴェルギル──シルリク王は、ゲラードの顔を見て考え込んだ。
「望もうと望むまいとにかかわらず、王は民を守るための壁を築くものだ。それを心苦しく思うようでは務まらない。あなたが王位に就けば、その手に縋ろうとするものが押し寄せてくるだろう。あなたは、それを振り払えるだろうか?」
ゲラードには答えることができなかった。
「殿下は、ダイラの王位を望むおつもりかな」
ゲラードは口を開き、フーヴァルに言ったのと同じ言葉を言おうとして……躊躇った。
このシルリクという王の前で、「それしか道がないのなら」という言葉は、なんと頼りなく、子供じみて思えることか。
だが、それ以外の答えを、ゲラードは持っていなかった。
「それで……この混乱がおさまるなら」ようやく、そう言った。「いずれ落ちてしまう橋だとしても、その前に少しでも救うことができるのだとしたら……価値はあると考えます」
ふむ、とヴェルギルは呟いた。
「その高潔さ、まさにダイラの至宝と言うべきお方だ」
初めてエイルに来たときに、彼の姿を見た。その時の胸の高鳴りを、言葉で言い表すことは──あれからの四年の月日を費やした今でも──できない。千年もの長い生を経て、再び祖国を蘇らせた王。全てのナドカの祖であるエダルトの父。両手に抱えきれぬほどの逸話を持つ月の體。思えば、あの時の自分は、本当の彼を見ていなかった。
だが今は、前よりもよく見える。
重ねてきた年月が、彼の後ろに長く伸びている。まるで、日暮れにおちる影のように。表情の端々に、彼の中にある情熱と、それを包み込む思慮があるのがわかる。奔放さを装っているときには伺い知ることはできないけれど……いま、一人の王としてゲラードの前に立つ彼は、一人の先達としてゲラードを導こうとしている。
それが自分の役目だと、彼は悟っているのだ。
「わたしは何度かダイラに赴き、オールモンド卿とも、エレノア王女ともお会いした。あちらの内情にも、少しばかりは触れている」
「少しばかり、は謙遜でしょう」
ダイラの国内情勢を知り尽くしていなければ、キャトルとアドリエンヌが手を組んでいることまで暴けなかったはずだ。
「その通り」ヴェルギルは微笑んだ。「情報は多く仕入れておくに越したことはない」
ダイラに間諜を潜ませているということだろうか。それをゲラードの前で堂々と口にするとは。
「まずは、妹君と話をしてみるべきではないかな」ヴェルギルは言った。
「しかし、わたしは追われる身です。王城に近づけば、直ちに捕らえられ、白茨塔に送られてしまう」
ヴェルギルの菫色の目に、悪戯めいた輝きが瞬いた。
「心配ご無用!」彼は言った。「何しろこの半年の間に、あなたは死んだことになっている。もうしばらく死んだままでいても不都合はあるまい」
彼は微笑んだ。まるで、共犯者に誘いを持ちかけるように。
「王女に会談を申し込むとしよう──できるだけすぐに。海賊についての話だと言えば、向こうも飛びつく。さしずめ、あなたはわたしの従者としてその場に潜り込めば良い」
「そこまでお力添えをいただいて、どうご恩をお返しすれば良いのか──」
「なに、いい退屈しのぎになる。ここのところ、赤子のように丁重に守られているせいで、刺激的な遊びとはとんと縁がない」ヴェルギルは、ゲラードをみて笑った。「まったく、王というのは! 因果なものだ。そうは思いませんか?」
「ええ」ゲラードは心から笑った。「ええ、その通りですね」
ヴェルギルはゲラードをみて、何かを確信したように一度、頷いた。そして言った。
「では、準備を進めさせよう。きっと、妹君の素顔を観察する、よい機会となるはずだ」
間もなくダイラの陸地が見えるという頃、ゲラードは身支度を調えて、甲板に立った。するとフーヴァルが隣にきて、従者の仕着せを着たゲラードをまじまじと見つめた。
「どうだろう? この上から頭巾付きの外套をかぶって顔を隠すんだ」
彼は一瞬迷ってから、言った。
「まともに見える」
ゲラードは声を上げて笑った。「君も、凄く立派だ」
「船乗りみたいな恰好が板についてたからな。ボタンが十以上あるってだけで、ずいぶんちゃんとして見えるだろ」
それは、ずいぶん控えめな表現だ。簡素なシャツと脚衣だけの姿で甲板に立つ彼は、とても力強く、美しい。そして正装しているときの彼は、目映いほどに精悍だ。
ゲラードは、ようやく頷いた。「ああ、そうだね。ちゃんとして見える」
フーヴァルはぴくりと唇の端を震わせた。
「緊張してるな」
「ああ」ゲラードは素直に認めた。「ああ。緊張してる」
彼は舷の向こう側に広がる海を見つめてから、言った。
「エレノアってのはどういう奴だ」
緊張を解そうとしているのだとわかって、ゲラードはそっと微笑んだ。
「幼い頃は、なぜ国には王が必要なの? という質問を家庭教師に投げつけては困らせる子供だった」
フーヴァルは笑った。
「僕らの教師たちは、皆やたらと悲観的でね。彼らは、ダイラの窮状を子供たちに叩き込むことが自分たちの使命だと思っていたんだ。王の器として恥じぬ教育を施して、いずれは兄たちの力になれるように、と……そういう気概に満ちていた。だがエレノアは、彼らが求めていたような考え方をする子供ではなかったんだ」ゲラードはあの頃のことを思い出して、頬を緩めた。「立派な君主たれという教えに辟易しているのは僕も同じだった。気の滅入ることばかり聞かされたし、僕らはどちらも、自分のところにまで王位継承権が降ってくることはないとわかっていたからね」
もし、彼女の発言があの部屋の外にまで漏れ出していたら、きっと大事になっていただろう。
「王が人格者でなくてはならないというのなら、父上は王の器ではありませんね、と言ったことがあった」
フーヴァルは口笛を吹いた。
「ちょっと好きになりかけてきちまった」
「だが、彼女はそれを、父上を批判するために言ったわけじゃなかったんだ。エレノアはこうも言った──国を動かし、民を守るために、本当に優れた人格や、信仰や、王の血統が必要なのですか? と」
ヴェルギルに言われた言葉がきっかけで、ゲラードは、それを思い出したのだ。
「いつの頃からか、エレノアはそうした言動を慎むようになった……彼女のためには、いいことだったと思う」
ゲラードを感嘆させた彼女の閃きは、王や家臣たちの目には危険な思想と映るものだった。エレノアがどう考えを変えたにせよ、彼女の命を守るためには、それが最も無難な安全策だったことは間違いない。
「意外だな。俺も何度か姿を見たが、引っ込み思案の小柄なお嬢ちゃんって印象しかなかった」
「まさに、その印象が彼女を守っているんだと思う」ゲラードは言った。「エレノアが誰かの脅威になることなど、想像もできない」
フーヴァルが、ゲラードを見た。
「でも、お前はそうは思ってないんだな?」
「以前は、皆と同じように考えていた」ゲラードは言った。「今は……わからない」
思えばいつの頃からか、エレノアの本心を知ることが、ゲラードにとっても難しくなっていた。だがそれは、兄妹にとってはごく普通のことなのだと思っていた。どれほど一心同体のように感じられた兄妹でも、自立するほどにそれぞれの世界を作り上げてゆくものだ。
少し前まで、ゲラードはエレノアの興味が別のことに移ったのだと思っていた。芝居や読書のような、若い王女にとって好ましいとされる対象へと。
だが、もしそうでないのだとしたら……?
彼女と、もう一度話がしたい。
議会の中で存在感を増してゆくオールモンドと、戴冠を拒み続けているエレノア。そして、祖国からの追い風を受けて動き出したアドリエンヌ。その渦中で、自分がどういう役割を担うのか、ゲラードはまだ考えていた。
エイル エリマス城
たったの四年。されど四年だ。
エイルを覆っていた瘴気が晴れて四年、ヴェルギルがエイルの王として再び戴冠してから三年の月日が経った。矢のように流れ去る季節のうち、平穏に終わったものは何一つない。そのめまぐるしい年月は、彼の千年もの生の中では、ほんの一瞬のことに過ぎないはずだ。それでも、クヴァルドにはわかっていた。この四年間は、彼が今まで生きた千年にも等しいのだと。
およそ半年の不在を経て帰還したフーヴァルとゲラードからもたらされた、驚くべき情報を精査するのに七日かかった。マルヴィナに息子がいたこと、その息子もまたアラニに加担していたこと、そして、今は大蒼洋を脅かす存在となっているジャクィス・キャトルこそが、その息子なのだということ。その上、キャトルの背後にいる勢力が、この問題をさらに複雑にしていることも、エイルの枢密院を悩ませた。
ゲラードと貴銀の族の関係についても調べを進めているが、こちらはさらに時間がかかるだろう。千年以上も眠っていた伝承を掘り起こす方法は、あまり多くない。
今はとにかく、ジャクィス・キャトルをどうするかという課題に取り組まねばならない。彼の暴虐を放っておくことはできない。それに、彼が人魚を犠牲にして手に入れたエイルの冠帯はいま、ヴェルギルの額におさまっている。そのことに、ヴェルギルが責任を感じずにいられるわけがなかった。千年前にエイルを滅ぼすきっかけを作ったビョルンとの因縁が絡んでいるのだから、なおさらだ。
ヴェルギルは今、王の執務室で客人と向かい合って話をしている。クヴァルドも彼の傍らに座り、同じ相手を見つめていた。
客人──あるいは、切り札になるかもしれない男。
「話は、大体わかりました」彼は言った。「海の亡霊か……」
「君の神は、死者の魂を冥界に導く」ヴェルギルは言った。「是非、力を貸して欲しい」
すると、彼は椅子の上で肩をすくめた。
「もちろん、俺にできることなら。あなた方にはひとかたならぬ恩がある」そう言いながらも、表情は曇っている。「しかし、ビョルンという男のことまで面倒を見切れるかどうか、ちょっと自信がないな」
ヴェルギルは頷いた。
「あの男のことまで、君に委ねるつもりはないのだ」彼はいい、クヴァルドの方をちらりと見た。
ヴェルギルが考えていることが、クヴァルドにはわかる。
そのことについて、何度も話し合ったのだから。
「まあ、奴のことは忘れてくれ。君に頼みたいのは、ビョルンがかき集めた漕ぎ手の方だ」
彼の顔は、ぱっと明るくなった。
「そういうことなら。どうぞお任せを」
そうして微笑むと、彼の若さを改めて思い知らされる。だが、その若々しさはすぐに、自信に満ちた表情によって覆い隠された。老練という言葉さえ想起しそうになる彼の眼差しには、何世代にも亘って、一族に引き継がれてきた知識と経験が滲んでいた。
「俺は広漠たる処の民。砂漠も海も、俺たちの領域です」
そして、今や『切り札』となった男は、優雅な身のこなしで腰を上げた。
「それじゃ、さっそく準備に取りかかるとするか」
彼とヴェルギル、クヴァルドは互いに握手を交わした。
「頼りにしている」
クヴァルドが、部屋の外まで彼に付き添った。
「彼とはその後、会えたのか?」
すると、彼は黒い癖毛を横に振った。
「いいんだ。会えるときが来たら、きっと会えるから」
前向きな言葉ではあったけれど、そこに表れた渇仰は隠すべくもない。執務室の扉を出たところで彼は振り向き、それでも強気な笑みを浮かべた。
「もしどこかで会ったら、俺の代わりに一発殴っておいて」
「約束はできないぞ」
クヴァルドが言うと、彼は笑いながら、廊下の奥へと消えていった。
ビョルンとの因縁が蘇ったのは、ヴェルギルが王座に就くか就かないかという時だった。〈嵐の民〉が姿を現すことは、それまでにもなかったわけではない。海竜の逆鱗に触れて船を沈まされるのと同じくらい珍しい頻度だったが。
それが、ヴェルギルが王座についた途端目に見えて頻発するようになったのだ。こうなっては、エイルの再興と、かつてエイルを滅ぼした男の亡霊とを結びつけずにいる方が難しい。大蒼洋沿岸の国からは連日のように、遠回しな苦情が寄せられていた。
フーヴァルが自ら立って、その怪異に対処すると言ってくれなかったとしても、ヴェルギル、あるいはクヴァルドの方から頼んでいたはずだ。海軍卿の肩書きを返上してくれと頼むのは心苦しかっただろうが、戦闘の経験が豊富であるという点では、イルヴァよりも彼の方がこの任務に向いていた。
とは言え、彼が海竜──シドナから直接、ビョルンの始末を託されることになるとは。おまけに、ダイラの王子と懇ろになっただと? 思えば三年前、フーヴァルは突如、ゲラードを彼の船に乗せるのを拒否した。何かあるとは思っていたが……。
いや、と、クヴァルドは思い直した。
懇ろという言葉では片付かないのかもしれない。
半年を経て還ってきた彼とゲラードの間には、クヴァルドの背中の毛を逆立てるような何かがあった。それはまるで、自分が所属するのとはまったく違う群れに対峙したときのような緊張感だ。この直感が正しいとするなら、ふたりはすでに、彼らの──いわば、群れを作り上げたということだろう。
それが良いことなのか、悪いことなのかを、今は考えない方がいい。いや、考えたくない。これ以上の懸案には対処できない。
今はとにかく、キャトルの件だ。
フーヴァルの話では、〈嵐の民〉を目覚めさせ、操っているのはジャクィス・キャトルだという。キャトルにたどり着くにはまず、〈嵐の民〉を片付けなければならない。
ビョルンを幽霊と言い表すのは、吸血鬼や塚人や甦りし者を、『歩く死体』とひとくくりにするようなものだ。クヴァルドが〈クラン〉に所属していた頃、新人に割り当てられるのは低級の『死に損ない』の始末だったから、よくわかる。ビョルンが従えているのはただの幽霊でも、ビョルン自身はまったく別のものだ。
彼は自らが盗み出したエイルの冠帯に執着し、それを千年もの間、海の底で守り続けた。現世に怨念をもったまま留まり続ける者は、〈クラン〉では腐死者と呼ばれていた。それらの多くが、欲深さのあまり神の怒りに触れたものたちだ。
本当ならば、キャトルによって冠帯を奪われたことで、ビョルンの呪いは終わっていてもおかしくはなかった。それが消滅せずに彷徨っているのは、キャトルが幻術を使って、ビョルンを暴走させているからだ。飢えたように仲間を集めているのも、そのせいだろう。
ならばどうするか。
ヴェルギルは、すでに心を決めている。
使命に生き急いでいるかのような、彼の姿を見るのは苦しい。ヴェルギルをエイルの王座に導いた運命は決しては一つではなかったけれど──クヴァルドは間違いなくその中に含まれる。
ここのところ、そのことを後悔することが多くなった気がする。
ヴェルギルが再びエイルの王座につけばこうなると、心のどこかではわかっていたはずなのに。
クヴァルドはため息をついた。
ヴェルギルは、心を決めている。
問題は、クヴァルドの心が揺れてしまっていることだった。
執務室に戻ると、ヴェルギルは机から顔を上げた。クヴァルドの顔にどんな表情が浮かんでいたにせよ、彼は本心を見抜いた。
「わたしが君の信頼を乞うのは、出会ったときから変わらないな」と彼は笑う。
「いいや、変わった」とクヴァルドは答える。
当時のクヴァルドが気にかけていたのは、任務と、復讐だけだった。今は何よりも、ヴェルギルのことを心配している。
信頼はしている。だが、いくつもの『もしも』に邪魔されて、確信できないでいるだけなのだ。
そんなことはわかりきっていたので、それ以上言いつのって時間を無駄にはしなかった。
やるべき事はわかった。ならば、無事にやり遂げられるよう、準備を進めなくては。
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キャトルを支援しているのが、あのアドリエンヌ元王妃であるという話に、ゲラードは心底驚いた。たった半年のうちに、彼女は侮れぬ勢力になっている。
元アラニのキャトルが、ナドカを嫌うフェリジアの手先になるという事実は、アドリエンヌがどれほど力を必要としているかということを如実に顕している。
ヴェルギルからその話を聞いたのが、三日前のことだった。
いまゲラードは、ダイラへと向かうマリシュナ号の上甲板で、他の船員たちと一緒に索を握っていた。風上に間切る船の上で、船乗りたちがせわしなく動き、索を牽き、結び、また解いては、それを牽く。
船室でゆっくりしていたらどうかと提案されはしたものの、ゲラードは断った。
オルノアでも、エイルでも、あまりに多くのことを耳にした。
それを整理するために、無心になって身体を動かす時間が必要だった。
正直なところ、オルノアでシドナやナールに教えられた出自の方が、ダイラの情勢についての話よりもよほど飲み込みやすい気さえする。
国のことや、そこに暮らす人々の動きについて考えるのは難しい。ゲラードには理想とする世界の姿があり、おそらく無意識に、そうであって欲しいという願望ありきで物事を考えてしまうところがある。
フーヴァルはかつてこう言った。
「皆が皆、お前の期待通りに高潔で、ご立派な生き方をしてりゃ、今ごろこうはなってなかったと思わねえか?」
ゲラードには何も言い返すことができなかった。
「人間もナドカも、お前が思っている以上に卑怯で、強かで、手前勝手になれるんだよ」彼は言った。「それは別に、何に対する裏切りでもねえ。それが戦うってこと──生きるってことだ」
アドリエンヌは、故郷から離れたこの地で──彼女の信仰が脅かされつつあるこの地で、彼女自身の戦いをしている。
彼女は、先王グレイアムとの間に生まれたリカルド王子の王位継承を主張している。王子の三歳の誕生日は目前で、彼に継承権が発生するのも間もなくのことだ。アドリエンヌの背後には当然ながら祖国であるフェリジアがいる。敬虔な陽神教徒であるアドリエンヌは、教王と深い繋がりを持つフェリジアがダイラに伸ばした指先にも等しい。
キャトルがアドリエンヌについたということは、当然ながら公にはされていない。アドリエンヌの背中を支えているベイルズ諸侯は、フェリジアが初めて小大陸を征服したときの騎士たちの血を継いでいて、彼ら自身もそれを誇りにしている。つまり、彼らのほとんどはフェリジアとの繋がりを数百年に亘って保ってきた、不退転の陽神教徒なのだ。もし、ナドカであり、元アラニの一員であるキャトルと手を組んだことが知れれば、アドリエンヌは彼らの心証を損なうことになる。
逆に、もしキャトルがその旗印を明らかにしたとしても、状況は良くならない。リカルド王子が王位に就く可能性がある以上、エイルは表立ってキャトルの討伐に乗り出すことはできないからだ。内政に干渉することになるのはもちろん、ダイラとの貿易を失えば、たちまち路頭に迷うことになる。うかつには手が出せないのだ。
空位のままの王に代わって、議会ではオールモンドの発言力がますます増している。彼は陽神教会に容赦なく改革を強いた。国中の聖堂で、脱税に淫行、反逆罪が明るみに出た。長きに亘ってカルタニア教王庁という壁に守られてきた陽神教会が腐敗していたことは確かだ。私欲にまみれた一部の高位聖職者にとって、各地の聖堂は無限の蜜を湛えた蜂の巣だった。
だが同時に、それは確かに、人々にとっての拠り所でもあったのだ。
相次ぐ神官の罷免や聖堂の取り潰しに、民が反発するのも無理はない。慣れ親しんだ生活を奪われれば、誰もが不安を抱き、奪われたものを取り返そうとするだろう。実際、この改革で得をしているのは、広大な聖堂の所領を買い取った中産階級出身の新興貴族と、その金を国庫にしまい込む国だけだと言われている。
改革という煙で燻され、巣を追われた蜂は群れを成し、その針を突き立てる相手を求めている。
小さな叛乱は、すでにいくつか起こっていた。すぐに鎮圧されたそうだが、それもまた、議会を取り仕切るオールモンドへの敵意を育てている。
じきに、大きな叛乱が起こる。
そうなったときに、かがり火に焼べられるのは誰の名前だろうか。
「あなたは王の器ではない」
ヴェルギルはそう言った。
ダイラに出発する前、ふたりきりで、彼の執務室で話をした時のことだ。
「あなたは、異なる世界の橋渡しをする役だ──王よりも、さらに大きな使命を背負っている」
「だから、王にはなれないと?」
ヴェルギル──シルリク王は、ゲラードの顔を見て考え込んだ。
「望もうと望むまいとにかかわらず、王は民を守るための壁を築くものだ。それを心苦しく思うようでは務まらない。あなたが王位に就けば、その手に縋ろうとするものが押し寄せてくるだろう。あなたは、それを振り払えるだろうか?」
ゲラードには答えることができなかった。
「殿下は、ダイラの王位を望むおつもりかな」
ゲラードは口を開き、フーヴァルに言ったのと同じ言葉を言おうとして……躊躇った。
このシルリクという王の前で、「それしか道がないのなら」という言葉は、なんと頼りなく、子供じみて思えることか。
だが、それ以外の答えを、ゲラードは持っていなかった。
「それで……この混乱がおさまるなら」ようやく、そう言った。「いずれ落ちてしまう橋だとしても、その前に少しでも救うことができるのだとしたら……価値はあると考えます」
ふむ、とヴェルギルは呟いた。
「その高潔さ、まさにダイラの至宝と言うべきお方だ」
初めてエイルに来たときに、彼の姿を見た。その時の胸の高鳴りを、言葉で言い表すことは──あれからの四年の月日を費やした今でも──できない。千年もの長い生を経て、再び祖国を蘇らせた王。全てのナドカの祖であるエダルトの父。両手に抱えきれぬほどの逸話を持つ月の體。思えば、あの時の自分は、本当の彼を見ていなかった。
だが今は、前よりもよく見える。
重ねてきた年月が、彼の後ろに長く伸びている。まるで、日暮れにおちる影のように。表情の端々に、彼の中にある情熱と、それを包み込む思慮があるのがわかる。奔放さを装っているときには伺い知ることはできないけれど……いま、一人の王としてゲラードの前に立つ彼は、一人の先達としてゲラードを導こうとしている。
それが自分の役目だと、彼は悟っているのだ。
「わたしは何度かダイラに赴き、オールモンド卿とも、エレノア王女ともお会いした。あちらの内情にも、少しばかりは触れている」
「少しばかり、は謙遜でしょう」
ダイラの国内情勢を知り尽くしていなければ、キャトルとアドリエンヌが手を組んでいることまで暴けなかったはずだ。
「その通り」ヴェルギルは微笑んだ。「情報は多く仕入れておくに越したことはない」
ダイラに間諜を潜ませているということだろうか。それをゲラードの前で堂々と口にするとは。
「まずは、妹君と話をしてみるべきではないかな」ヴェルギルは言った。
「しかし、わたしは追われる身です。王城に近づけば、直ちに捕らえられ、白茨塔に送られてしまう」
ヴェルギルの菫色の目に、悪戯めいた輝きが瞬いた。
「心配ご無用!」彼は言った。「何しろこの半年の間に、あなたは死んだことになっている。もうしばらく死んだままでいても不都合はあるまい」
彼は微笑んだ。まるで、共犯者に誘いを持ちかけるように。
「王女に会談を申し込むとしよう──できるだけすぐに。海賊についての話だと言えば、向こうも飛びつく。さしずめ、あなたはわたしの従者としてその場に潜り込めば良い」
「そこまでお力添えをいただいて、どうご恩をお返しすれば良いのか──」
「なに、いい退屈しのぎになる。ここのところ、赤子のように丁重に守られているせいで、刺激的な遊びとはとんと縁がない」ヴェルギルは、ゲラードをみて笑った。「まったく、王というのは! 因果なものだ。そうは思いませんか?」
「ええ」ゲラードは心から笑った。「ええ、その通りですね」
ヴェルギルはゲラードをみて、何かを確信したように一度、頷いた。そして言った。
「では、準備を進めさせよう。きっと、妹君の素顔を観察する、よい機会となるはずだ」
間もなくダイラの陸地が見えるという頃、ゲラードは身支度を調えて、甲板に立った。するとフーヴァルが隣にきて、従者の仕着せを着たゲラードをまじまじと見つめた。
「どうだろう? この上から頭巾付きの外套をかぶって顔を隠すんだ」
彼は一瞬迷ってから、言った。
「まともに見える」
ゲラードは声を上げて笑った。「君も、凄く立派だ」
「船乗りみたいな恰好が板についてたからな。ボタンが十以上あるってだけで、ずいぶんちゃんとして見えるだろ」
それは、ずいぶん控えめな表現だ。簡素なシャツと脚衣だけの姿で甲板に立つ彼は、とても力強く、美しい。そして正装しているときの彼は、目映いほどに精悍だ。
ゲラードは、ようやく頷いた。「ああ、そうだね。ちゃんとして見える」
フーヴァルはぴくりと唇の端を震わせた。
「緊張してるな」
「ああ」ゲラードは素直に認めた。「ああ。緊張してる」
彼は舷の向こう側に広がる海を見つめてから、言った。
「エレノアってのはどういう奴だ」
緊張を解そうとしているのだとわかって、ゲラードはそっと微笑んだ。
「幼い頃は、なぜ国には王が必要なの? という質問を家庭教師に投げつけては困らせる子供だった」
フーヴァルは笑った。
「僕らの教師たちは、皆やたらと悲観的でね。彼らは、ダイラの窮状を子供たちに叩き込むことが自分たちの使命だと思っていたんだ。王の器として恥じぬ教育を施して、いずれは兄たちの力になれるように、と……そういう気概に満ちていた。だがエレノアは、彼らが求めていたような考え方をする子供ではなかったんだ」ゲラードはあの頃のことを思い出して、頬を緩めた。「立派な君主たれという教えに辟易しているのは僕も同じだった。気の滅入ることばかり聞かされたし、僕らはどちらも、自分のところにまで王位継承権が降ってくることはないとわかっていたからね」
もし、彼女の発言があの部屋の外にまで漏れ出していたら、きっと大事になっていただろう。
「王が人格者でなくてはならないというのなら、父上は王の器ではありませんね、と言ったことがあった」
フーヴァルは口笛を吹いた。
「ちょっと好きになりかけてきちまった」
「だが、彼女はそれを、父上を批判するために言ったわけじゃなかったんだ。エレノアはこうも言った──国を動かし、民を守るために、本当に優れた人格や、信仰や、王の血統が必要なのですか? と」
ヴェルギルに言われた言葉がきっかけで、ゲラードは、それを思い出したのだ。
「いつの頃からか、エレノアはそうした言動を慎むようになった……彼女のためには、いいことだったと思う」
ゲラードを感嘆させた彼女の閃きは、王や家臣たちの目には危険な思想と映るものだった。エレノアがどう考えを変えたにせよ、彼女の命を守るためには、それが最も無難な安全策だったことは間違いない。
「意外だな。俺も何度か姿を見たが、引っ込み思案の小柄なお嬢ちゃんって印象しかなかった」
「まさに、その印象が彼女を守っているんだと思う」ゲラードは言った。「エレノアが誰かの脅威になることなど、想像もできない」
フーヴァルが、ゲラードを見た。
「でも、お前はそうは思ってないんだな?」
「以前は、皆と同じように考えていた」ゲラードは言った。「今は……わからない」
思えばいつの頃からか、エレノアの本心を知ることが、ゲラードにとっても難しくなっていた。だがそれは、兄妹にとってはごく普通のことなのだと思っていた。どれほど一心同体のように感じられた兄妹でも、自立するほどにそれぞれの世界を作り上げてゆくものだ。
少し前まで、ゲラードはエレノアの興味が別のことに移ったのだと思っていた。芝居や読書のような、若い王女にとって好ましいとされる対象へと。
だが、もしそうでないのだとしたら……?
彼女と、もう一度話がしたい。
議会の中で存在感を増してゆくオールモンドと、戴冠を拒み続けているエレノア。そして、祖国からの追い風を受けて動き出したアドリエンヌ。その渦中で、自分がどういう役割を担うのか、ゲラードはまだ考えていた。
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