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「ジャクィス・キャトル」ゲラードが言った。「君の友人が、生きていたのか」
フーヴァルは頷いた。
「友人だった男だ。今はもう違う」フーヴァルは言った。「奴はアラニに協力してた。マルヴィナから、ヴェルギルがシルリクだって話を聞いてやがったんだ」
ふたりは、泳ぎ疲れた身体を砂浜に横たえていた。
あの嵐の夜の話をするのは、フーヴァルが自分で思っていた以上に苦痛を伴った。けれど、ゲラードに対しては、もう秘密を持ちたくない。
「あいつの言う通り、俺は逃げた」フーヴァルは言った。
ゲラードはうつ伏せになり、肘をついてフーヴァルの顔を見つめた。
「逃げたわけじゃない」彼は言った。「君は生きるために、理想を追うために、元いた場所を出ていったんだ。それを『逃げる』と言ってしまえば……道が失われてしまう」
「ものは言いようだな」
フーヴァルの皮肉にも、彼は動じなかった。
「毒が薬になることだってあると言ったのは君だ」ゲラードは笑った。
「向き合うにはあまりにも大きすぎる問題に出会ったとき、ひとは『逃げる』ことで活路を見出す。でも、それすら叶わないときもある。逃避というのは、その間に命を繋ぐことだ」ゲラードはそっと、フーヴァルの肩に触れた。「君が『逃げた』から、僕らは出会えた。これは……勝利と呼んでいいんじゃないかと思う」
そう言われてしまうと、それ以上は何も言い返せない。
「それでも……逃げる必要などない世界を実現できたら」ゲラードはしみじみと言った。「君が大事に思うように、僕もエイルを守りたい。人間とナドカが、どちらも自由に暮らすことができる国──初めて聞いたときには、ほんとうに胸が躍ったんだ」
彼は寝返りを打ち、腹の上で両手を組んで、空を見上げた。
「僕にできることなら、何でもしたいと思った。いくつか貿易の仲立ちをしたりはしたけど、それでは足りない。もっとできることがあるはずだ」
こういう会話を、かつては疎んでいた。一人の人間がくさくさと思い悩んだところで、何が変わるわけもないだろうと。だが、今は不思議と、そう言って笑い飛ばす気にはなれなかった。
「エイルだけでは、世界は変わらないんだ」彼は言った。「いくつもの国が手を取り合わなくては……まずは、ダイラが変わらなければ」
この話が向かう先が見えてきた気がする。
フーヴァルは身を起こして、ゲラードを見た。
「王になるつもりなのか?」
「僕には、務まらないだろうか」
フーヴァルは、嘘をつくつもりはなかった。
「お前みたいなやつに、王は向いてねえ」
すると、ゲラードは気弱げな笑みを浮かべた。
「僕も、そう思う」
「マウリスがどうなったか知ってるだろ。ヤツの治世はたったの六年だったんだぞ」
「僕はマウリスとは違う」ゲラードは言った。「だが……そうだね」
マウリスは、それまで国中で権力をほしいままにしていた審問官を事実上無力化し、〈クラン〉と手を結んで、古の〈協定〉を復活させた。ナドカ狩りは禁止され、彼らを保護するための掟が作られた。彼の改革の多くは今日まで生きている。だが、やり方があまりにも性急すぎた。
「ヤツは暗殺されたんだ。あの当時そこら中に配備されてた〈クラン〉でさえ、それを防げなかったんだぞ」
ゲラードは微笑んで、もう一度言った。「僕はマウリスとは違うよ」
こういう話をすると決まって腹の底に燃え上がった苛立ちの炎は、完全に消えたわけではないにせよ、制御できる程度になっていた。
フーヴァルはため息をついて、頭の後ろを掻いた。
「本当に、本気か」
「それは……まだわからない。冠をかぶることだけが、王族の役割ではないから」
王位にまつわる話をするゲラードの顔に見慣れた諦観は、もうなかった。彼の眦には、静かな決意が現れていた。
「でも、他に道がないのなら、そうする」
「ダイラの連中は、お前を血祭りにあげるぞ」フーヴァルは言った。「お前の出自も、母親のことも、俺とのことも……一つ残らず暴かれて晒される。そのうち、あることないこと噂にして、酒場の笑い話にされちまうんだ」
「恐怖の種になるよりはいい」ゲラードは笑った。
フーヴァルは、ゲラードを見つめた。
「二度と、自由にはなれねえぞ。わかってんのか」
ゲラードもまた、フーヴァルを見つめた。
「他に道がないのなら。覚悟はできてる」そして、微笑んだ。「僕にどれだけのことができるのか……やってみる価値はあると思わないか?」
彼の気楽な口ぶりの裏側にあるものが、フーヴァルには見えていた。
彼は、やると決めたら言い訳などせずにやる男だ。
彼はやるだろう。血まみれになっても、臓腑を抜かれても、心臓が動いている限りは、血の最後の一滴を失うまで立ち続ける。
かつての自分は、それがわかっていたからこそ、恐れた。
「この島を出て、もう一度ダイラに戻らなければ」ゲラードが呟く。
その言葉を聞いて、フーヴァルは静かに目を閉じた。
そして言った。
「わかったよ。俺の負けだ」
†
「思ったより早く目覚めちゃって、びっくりだよ」
ナールと呼ばれた青年は、まるで旧知の間柄のようにゲラードの手を握り、ぶんぶんと振り回した。
彼はフーヴァルの呼び声に応えて海から姿を現した。腰に巻かれた海藻を除けば、何も身につけていなかった。
「何年かかかると思ってたんだけどな。君の父上が目覚めるまでにはずいぶんかかったんだよ。とは言え……彼はそれに耐えきれなかったけど」気の毒そうなそぶりを見せることもなく、彼は言った。「まあ、モーズリーは真実を守るって役目をちゃんと全うしてくれたからね!」
海の中で見た時とは、だいぶ印象が違った。もちろん、彼が人魚の姿をしていないというのもある。けれど、あの嵐の海をもの凄い早さで泳いでいたときの彼は、いまよりもっと……フーヴァルに似ていた。
いま、降り注ぐ明るい日差しの下で見るナールの中に、彼の兄との類似を見つけるのは少し難しい。フーヴァルから不機嫌と皮肉と反骨精神を取り除き、代わりに天真爛漫をこれでもかとばかりに詰め込めば、多少は似てくるかもしれない。
これが、妖精という種族。
「自分自身を見つけるというのは……『貴銀の血』というのと関係があるんだろうか?」
「ご名答! さすが王子様!」
ナールはゲラードの手を握ったまま微笑んだ。輝く波のように眩しい笑顔だ。
「おい」不機嫌の権化、フーヴァルが、爪先で弟を小突いた。「好みじゃねえんだろ」
ナールはその攻撃をひょいと避けた。「そんなこと言った? いつ?」
何の話だ? とフーヴァルを見たけれど、気付かぬ振りをされた。
「とにかく、これでようやく君たちを長に会わせられる」ナールは言った。「さっそく行くよ! ずっと楽しみにしてたんだから」
ナールが、問答無用でゲラードの手を引く。ゲラードは慌てて踏みとどまった。
「行くって、どこに? この島を出られるんじゃないのか……?」
「出したげるから心配しないで」ナールはイルカそっくりの笑い声をあげた。
ゲラードは助けを求めるようにフーヴァルを見た。彼はため息をつき、ゲラードの手を、ナールから引き剥がした。
「オルノアまでどのくらい泳ぐ?」
「オルノア……」ゲラードは呆然と繰り返した。「オルノア!?」
「ここからそんなに遠くないよ」ナールは言った。「でも、王子様にはこれが必要かもね」
彼が大きく口を開けると、舌の上には金貨が載っていた。フーヴァルが首から提げているのと同じ、オルノアの金貨だ。彼はそれを、広げた手の上に落として、ごしごしと擦った。
「これを身につけていれば、ただの人間でも水中で息ができるし、海の底でも口から内臓が飛び出たりしなくなるよ」
放り投げられた金貨を、ゲラードは慌てて空中で掴む。
「兄さんだって、これがなかったら溺れちゃうもんね」
ゲラードはフーヴァルを見た。彼は事もなげに肩をすくめた。「ま、俺は半分人間だからな」
ナールは砂浜に立つふたりを交互に見た。
ゲラードは青ざめていた。「口から、内臓が……?」
「準備はいい?」返事も聞かず、ナールはにっこりと笑った。「じゃ、行くよ!」
水の中で息ができるという事実に頭が追いついていないせいで、ゲラードは、つい息をとめてしまいそうになった。だが、自分を守るように抱きかかえているフーヴァルの胸が規則正しく膨らんでいるので、ゲラードも、おっかなびっくりであったけれど、落ち着いて呼吸ができるようになった。
フーヴァルとふたりで泳いだ珊瑚礁の海域を抜けると、そこから先は一気に海が深くなる。水底には濃紺の闇があり、それがどこまで続いているのかもわからない。まるで、海の中の崖を見下ろしているようだ。
水に浮いている状態ではまったく意味がないのだろうけれど、足がすくんだ。
その時、ほの暗い海底から、不思議な光が漂ってきた。青みがかった光が二つ、揺らめきながら泳いでくる。
「迎えが来た」とナールは言った。
それは、全長十ナートに届こうかと言うほど巨大なタツノオトシゴだった。ごつごつとした身体に、赤い鬣のような鰭をなびかせている。身体の側面にある縞模様は青く輝いていた。さっき見た不思議な光の正体が、その模様だった。
「タツノオトシゴ……!」ゲラードは呟いた。「伝説上の生き物かと思っていた」
「今から、その『伝説』に行くんだから」と、ナールが笑う。
二匹の迎えはナールの身体に長い尾びれを巻き付けてじゃれつき、それから再び、元来た海底を目指して泳ぎはじめた。まるで巡礼を導く二振りの旗のようだ。
珊瑚礁の賑やかさを見たあとで、水深の深い領域を旅するのは不思議な感覚だった。魚の数はぐんと減るが、静かな生命の営みは確かに感じられる。難破船の周りをゆっくりと泳ぎながら夜の狩りに備えて眠る鮫や、岩の隙間からこちらを窺う蛸、小魚の群れを追う巨大な魚の姿を、ゲラードは見た。
起伏のある海底は切り立った山脈のようで、思わず目を背けたくなるほど深い亀裂がいくつもあった。亀裂の暗がりから向けられる視線があるような気がして、なんとも落ち着かない。
それを察したのか、フーヴァルが言った。
「あとどのくらいだ?」
「もうすぐだよ」ナールが答える。
ゲラードは、この期に及んでもまだ、自分があのオルノアに向かっているという事実を受け入れきれずにいた。
大昔の天変地異で、海に沈んだ伝説の国。
その国についての真実を語ろうとすると、寡黙にならざるを得ない。想像を膨らませて面白おかしく仕立て上げた物語はいくつもあるし、真偽も定かではない言い伝えも多い。けれどいずれの話も、元になっているのは、神話の片隅で語られたほんの短い一説のみだ。
オルノアは神の恵みにさかえし国。されど神の産聲によりて海谷に没せり。
神の恵みで栄えた国が、その産声で滅びるとはどういうわけなのだろう。邪神の信仰に傾いたのだとか、それまで信仰していた神を排して別の神を崇めたせいだとか、様々な憶測が語られているが、ゲラードはまだ、これだと納得できる説には出会っていない。
そんなことを考えているうちに、気付くと、一行の周りに魚の群れが集まっていた。光を乱反射させながら、種も大きさも異なる魚たちがゲラードたちを包み込む。赤に、黄に、青。そして目がくらむほどの銀。角を持つ魚に。瘤を持つ魚。扇を背負ったような形状のものもいる。それから、鮫に、大きな鱏も。イルカが他の魚を蹴散らしながら球体の中に入り込んできて、ナールとじゃれ合ってから、またどこかへ消えていった。
それが何かの合図だったかのように、魚たちが離れていった。煌めく魚群の緞帳が、キラキラと瞬きながら開いてゆく。
目の前に現れたものを見て、ゲラードは息を呑んだ。
一見すると、それは巨大な岩壁だ。だがその壁面には、紛れもなく魔法が刻まれていた。頂点が見えないほど高くそびえ立つ岸壁に、幾層にも連なる絵物語が浮かび上がっていたのだ。どうやら、その絵はオルノアの辿った歴史を物語っているようだ。彼らを案内した二匹のタツノオトシゴに宿っていたのと同じ、蒼い光で描かれている。
ゲラードはフーヴァルの手を離れて、岸壁へと向かった。絵物語の本に夢中になる子供の頃に戻ったように、胸が高鳴っていた。
地層のように積み重なる物語の最下層が、最も新しい物語だ。そこには、人魚と魚、そして都市のようなものが描かれている。絵と絵の間に横たわる鱗の文様は、おそらく、オルノアを守護する海竜を表しているのだろう。ゲラードは上へと泳ぎながら、歴史物語をひとつずつ遡っていった。倒れる人々を背にして、月に何かを乞うているような王の姿を描いた層、海中に没するその瞬間を描いた層、降り注ぐ雷と、襲い来る大波を描いたものもある。オルノアが海中に没するきっかけとなった天変地異を描いているのだ。そして、最も上に描かれていたのが、赤子だった。巨大な鳥──おそらくは渡烏──に抱擁された赤ん坊の壁画が、誰にも聞こえない叫び声をあげている。
「神の産聲によりて海谷に没せり……」
それは、なんとも奇妙な赤子だ。生まれたままの姿を描いた、その姿は怖ろしく巨大。身体を丸めて眠る顔の部分だけで、家ほどの大きさがある。もともと巨大な壁画ということを抜きにしても、異様なほど大きい。対面するだけで、ゲラードの心臓は、言い知れぬ恐怖に激しく鼓動しはじめた。さらに奇妙なのが、その肌だ。
そこには、様々な国の文字がびっしりと刻まれていた。
これは……いったい何という神だろうか?
「おい」
後ろから抱きしめられて、思わず小さな声を上げる。
「アーヴィン!」
「あんまり長いこと見過ぎるな。魔法に目がくらんじまうぞ」
そう言われてよくよく見ると、絵の中の模様、その一つ一つが何重にも入り組んだ複雑な魔方陣からなっているのがわかった。
「侵入者を防ぐための魔法だよ」ナールは言った。提灯鮟鱇の光みたいに、敵を魅了して動かなくさせるんだ。で、油断したところを──」
両手を組み合わせて、ガブリと噛みつく仕草をした。
ゲラードは、フーヴァルに手を引かれて海底に戻りながら、この神秘の領域の辿った歴史を改めて追った。
神の産声によって滅んだ国。
「これが……オルノア……」
「まだまだ」ナールは笑った。「これは、その入り口」
ナールは、青く発光する歴史絵に見守られながら、岸壁の中心にあった裂け目に手を当てた。裂け目は音を立てながら、ゆっくりと開いた。海底から砂が巻き起こり、周囲の魚が一斉に泳ぎ去る。
海を震わせる轟音がおさまると、ナールが言った。
「では、お先にどうぞ」
門を潜ると、そこには人魚の国があった。
千年以上前に海中に没した遺跡として頭に思い浮かべていたものは、藻とフジツボに覆われた、どこかうら寂しい廃墟のような光景だった。だが実際には、オルノアは賑やかで、美しかった。おそらく、地上にあったときと同じか、それ以上に。
「すごい……!」
「でしょ」ナールは得意げに笑った。
海面からはそれほど深くないところにあるらしい。街全体に、太陽の光が燦々と降り注ぎ、輝く波紋を落としていた。
門から続く石畳には、精巧なモザイク画が並んでいた。蛸に、イルカに、カジキ、色とりどりの貝に珊瑚など、無数の海の生き物たちが色鮮やかに描かれている。だが、芸術品のように美しい道の上に一つだけ、一部を残して損なわれているものがあった。特徴ある長い触手は──。
だが、よくみる前に、ナールに手を引かれた。
「こっちだよ!」
道は緩やかにうねりながら、なだらかな丘陵と、その上に立つ砦へと続いていた。道の脇には白壁のこぢんまりとした建物が並んでいる。その中のいくつかは、通りにあるのと似たモザイク画を施された丸屋根の建物だった。どの軒先も開け放たれていた。珊瑚やイソギンチャクで埋め尽くされた部屋を、様々な姿の人魚たちは自由に出入りしていた。鱗をもつもの、滑らかな皮膚のもの、何本もの脚をもつ者──色も形も、実に多様だ。彼らは美しい半身を優雅に踊らせ、楽しげに泳いでいる。なんとも開放的な街だ。
オルノアが海底に沈んだのは、千年以上も前だとナールは言った。
「もう正確な日付もわかんないんだ。僕らって、そういう記録を残す習慣がないから」
すっかりくつろいだ様子のナールのあとについて泳ぐ。彼は道行く人魚に声をかけられる度、和やかに返事をしていた。ゲラードについて尋ねる者もいれば、遠巻きに見つめる者もいた。どの顔にも、好奇心と警戒が半分ずつあるようだ。人間がこの国を泳ぐのは相当の珍事なのだろう。
「オルノアがどうして沈んだのかは、いまとなっちゃわからない。でも、怖ろしい大地震があって、津波が起こって、火山が噴火して……雷やら雨やら灰やらが降って、オルノアだけじゃなく、東方大陸全体が大変なことになったって話は伝わってる」ナールは言った。「ちょうどその時オルノアの女王だったシドナが、月神に慈悲を祈ったんだ」
ナールの視線の先に、白い大理石の像が建っていた。子供を抱き上げる直前のように両手を拡げて微笑む女王の姿。街の広場の中央にある石像は、古の王の装束を纏っている。よほど大事に手入れされているのだろう。何千年の時を経ても欠けはなく、フジツボも海藻もついていない。ほとんど完璧な状態だ。その表情は実に優しげで、穏やかだった。
「でも、さすがの月神にも、沈みゆく国の民を全員助けることなんてできなかった。そのかわり、彼女は月の光に力を込めて、オルノアで死んだ魂から、最初の人魚を作ったんだ」
「つまり、このオルノアが、君たち人魚の故郷なのか」
ゲラードが言うと、ナールは満足そうに頷いた。
「こいつが『水底の奥方』?」フーヴァルが声を上げる。「なかなか美人じゃねえか」
「なんて無礼な!」ナールはムッとした。
「海で死んだ魂を集めてるような奴だぞ。もっとおどろおどろしいのを想像してたんだ」
ナールはぐるりと目を回した。「陸の連中の考えそうなことだなあ!」
そのやりとりが可笑しくて、ゲラードはこっそりと笑った。
なだらかな丘の上に立つ砦にたどり着く。巻き貝のように、丘を取り巻きながら重なる区画を持つ砦だった。見渡す限りすべての壁や床、柱にまで見事な装飾が施されて、実に荘厳だ。
「砦は皆に開放されてるんだ。長はここにはいないし」
「オルノアには財宝があるって噂だぜ。あの砦にため込んでるんじゃねえのか?」
「ああ、うん」ナールはあっさりと認めた。「でも、僕らには必要ないものだから」
フーヴァルは恐れ入ったと言わんばかりに鼻を鳴らした。
ゲラードはそんな会話をよそに、砦の装飾を観察していた。できることなら、何日でも見入っていたいほど見事なものばかりだ。
「時折見かける女神の姿──あれが月神?」
「そう」ナールは頷いた。「月神は潮の満ち引きを司る神だから、とても熱心に信仰されていたんだ。昔も、今もね」
矛を携えた人魚たちに守られた扉をいくつも潜ると、街の明るさが遠ざかっていった。
やがて、一行は街の外れまでやってきた。そこに広がるのは、いままで見てきたオルノアの明るい姿からはかけ離れた荒れ地の風景だった。目の前では、底知れぬ海溝の裂け目が、視界の果てまで伸びていた。
「ここに、何の用があるんだよ」
フーヴァルが言い終わらないうちに、ナールが尾びれをはためかせ、海溝に飛び込んだ。
フーヴァルとゲラードは、目を見交わした。
「追いかけるべきだろうか」
「あそこに入りたいと思うか?」
海溝はどこまでも続いているようだった。いかなる光をも拒む深い闇が、溢れ出すのを待っているみたいに裂け目を満たしている。まるでこの世界そのものに入った亀裂のようだ。
「いや」ゲラードは素直に認め、フーヴァルにしがみついた。「いや、思わない」
おとなしくというよりは、為す術なく待っているうちに、空気が──というより、海水が変わった。
最初に見えたのは、目だった。
暗闇に浮かび上がる、二つの白い光。ゲラードは震えた。どんなに屈強な戦士でも、震えずにいるのは無理だっただろう。
「う、うわ……!」
船を飲み込めるほど巨大な海竜が、海溝からゆっくりと顔を出し、こちらに向かってくるのだから。
†
ナールは、海竜の顔に手を置いたままこちらに泳いできた。その優しげな眼差しを見れば、彼が介添えしているのが足腰の弱った老人なのではないかと思いそうになる──すぐ横にある、海竜の馬鹿でかい顔を無視できればの話だが。その扁平な顔面はエリマス城の城門ほども大きい。分厚い唇の間から覗く牙はちょうど人間の身長と同じくらい、丸い目玉は月と同じくらいある。
海竜は、アクシングを沈めたあの時よりも、いっそう怖ろしげに見えた。
海竜が巨大な身体をゆっくりとくねらせながらこちらに近づく。それだけで、あたりには小さな渦巻きがいくつも生じて、周囲を泳いでいた魚を翻弄した。長い首の付け根にある手は海溝の縁を掴んでいて、それがまた、とにかく怖ろしいでかさだ。そもそも首の長さが、まるでサウゼイからマチェットフォードくらいの距離があって──いや、もういい。
フーヴァルはそれ以上、海竜の寸法について考えるのをやめた。
「こちらはシドナ」ナールが言った。「オルノアと西方三海を総べる、水底の女王です」
「シドナ……!?」
ゲラードが隣で呟き、水に半ば浮いた状態で可能な限りきちんとした辞儀をした。フーヴァルもそれに倣ったものの、俯いたまま小声で言った。
「やっぱりおどろおどろしいじゃねえか」
顔を上げると、ナールはじろりとフーヴァルを睨んだ。
「シドナ様は言語を操る舌をお持ちでないので、僕が声を務めます」ナールは厳かに言った。
ゲラードは圧倒されて震えていた。
フーヴァルにも、彼の気持ちはよくわかった。オルノアにまつわる与太話は腐るほどあるが、かつてのオルノアの王が、海竜として生き続けているとは想像もしていなかった。
人間が竜になる理由は一つしかない。神との契約に伴う〈呪い〉だ。
神々は今までに多くの者を〈呪い〉に引きずり込んできた。その筆頭がナドカの祖であるエダルトだ。月神の祝福が彼を吸血鬼に変え、その〈呪い〉が、彼を竜へと変容させようとした。そうなる前に、ヴェルギルとクヴァルドが彼を滅ぼしたのだが。
もう一つの例が、マタル=サーリヤというアシュモール人だ。彼は暁の女神アシュタハとの契約によって竜となり、大禍殃を引き起こしたきっかけとなった男だ。彼はアシュタハの復活に力を貸し──それと引き換えに、陽神デイナを消滅させた。あれから二年経つが、あのあと彼がどうなったのかはわからない。
「抱きしめ合って、仲間同士の再会を喜ぶって雰囲気じゃねえな」フーヴァルは言った。「わざわざこんな海の底まで来てやったんだ。それなりの話を聞かせてもらうぜ」
海が──あるいは海溝が轟き、海底の砂が巻き上がる。独特な意思表示だが、無作法に腹を立てているのはなんとなくわかる。
「兄の無礼をお許しください」
ナールはシドナに向かって恭しく言った。彼はシドナのこめかみのあたりに額をつけ、しばらくそのままじっとしていた。やがて顔を上げると、フーヴァルに鋭い目を向けた。
「ここに呼んだ理由の一つは、頼み事をするため」彼は言った。「クブシメの子の討伐だ」
「クブシメ?」
ナールは頷いた。
「ちょうどダイラが、あの小大陸と呼ばれる島を一つに統一した頃──ある人魚がいた。燃える野心を持った人魚だ。陸への並々ならぬ憧れを持ち、禁断の魔術を使って人の身体を手に入れ……陸に上がった」
「ダイラがオルヴァニアを統一したと言えば……二六〇年も前だ」ゲラードが言った。
「もう、それほどまでに時が経ったのか」ナールは、シドナに深く同調しているのだろう。しみじみと言った。「彼女は幻影を操ることに長けた、クブシメ族の人魚だった」
「それだけじゃ、何の手がかりにもならねえぞ」
海竜は巨大な眼をフーヴァルに向けた。
「彼女はこう呼ばれていた。美しき海──マール・ヴィナと」
隣で、ゲラードが声を上げた。それに劣らず、フーヴァルも驚きを隠さなかった。
「あのマルヴィナ・ムーンヴェイルが、元は人魚だったってのか?」
「そうだ」ナールは言った。「そして、今はその息子が、我々の海を脅かしている」
幻影を操る一族。アラニを率いたマルヴィナの子。
まさか──。
いや、まだそうと決まったわけじゃない。それなのに、頭の奥で鳴り響く警鐘が止まない。
ナールが、重々しく言った。
「ジャクィス・キャトルが、その者の名だ」
フーヴァルは為す術なく揺さぶられた。こちらに向かってくるとわかっていながら、どうすることもできない大きな波のような衝撃だった。
「かの女は、人間の領主との間に息子をもうけ、その子を捨てた」
ナールはフーヴァルの心中など意に介さず話を続けた。
「その後、緑海の底に沈んだエイルの冠帯を探し求めていたとき、息子の存在を思い出したのだ」ナールの声は、シドナと、彼自身の怒りによって震えていた。
フーヴァルはハッとして顔を上げた。
「アラニがホライゾンを尋ねてきたのは、あいつを探していたからだったってのか……」
ナールは頷いた。「そうだ。あの女はそうして、息子を仲間に引き入れた」
だが、アラニに加わったのはフーヴァルが先だった。あのとき、あのコナルという男から真実を聞いていたのだとしたら、なんでキャトルはすぐにアラニに入らなかった?
「それが、我ら海の一族にとっての災厄のはじまりだ」
ゲラードがフーヴァルに寄り添い、背中に手を当てる。彼はフーヴァルを見て、勇気づけるように頷いた。
冷たい海の底で感じる彼の手のあたたかさに救われながら、フーヴァルは続く話に耳を傾けた。
「マルヴィナは我々の同族を幻惑し、緑海の、毒の海域に送り込んだ。その手助けをしたのがあの男だ」ナールは言った。「そして今、あの男はさらなる冒涜を働いている」
「〈嵐の民〉」ゲラードが呟いた。
「その通りだ。貴銀の子よ」ナールの言葉と共に、シドナが瞼のない目をゲラードに向ける。「あの男は、緑海に沈むエイルの秘宝を探すため、人魚たちを利用した。そして、その秘宝を守っていた太古の呪いまでも、意のままに操っている」
「太古の呪い──ビョルン、ですね」
「そうだ」ナールは言った。「キャトルに踊らされた哀れな亡霊どもは、あまりにも多くの者の魂を奪い、邪悪なやり方でこの世に縛り付けている。これでは、じきに世界の均衡が崩れてしまう」
「世界の、均衡……」
そう呟いたゲラードを見ると、彼の目にはいつの間にか、あの銀の欠片が踊っていた。
「海で死した者の魂は、極の海の果てにある硲の島で休息をしたのち、また新たな生命としてこの世界に戻る。そのうちのいくつかは人魚として、別の者は魚や海の鳥獣として。わたしは、そうした生命の循環を、ずっと見守ってきたのだ」ため息をつくように、海竜の鰓が震え、海水が渦を捲く。「これを、見過ごすわけにはゆかぬ」
ゲラードは食い入るようにその言葉を吸収していた。
「なるほどな」フーヴァルが言った。「それで、俺に始末をつけて欲しいってのか」
シドナが低く唸った。同意と取っていいだろう。
「でもよ、そんなにでっかい図体して、手下の人魚も大勢いるなら、なんで自分でやらねえんだよ」
ナールは文句を言おうと口を開いたが、何かに呼び止められたように、シドナを振り向いた。そして、彼にしか聞こえない女王の声を聞くと、再びフーヴァルに向き直った。
「シドナ様は、この極の海から離れることができない」ナールは言った。「それがわかっているから、キャトルもここには立ち入らない。そして人魚だけでは、彼の幻惑には立ち向かうことができない」
ふうん、とフーヴァルは言った。
「それに、兄さん。あなたは彼との間に因縁がある。アラニが彼を引き入れて海への影響力を強めたように、僕らがあなたを引き入れれば、陸への影響力を強めることができる」
「意趣返しってわけか」
フーヴァルとナール、そしてシドナが、互いを見つめ合ったまま沈黙が流れた。
「キャトルを倒したとして……それだけで魂は解放されるのでしょうか?」ゲラードがおもむろに言った。「〈嵐の民〉の漕ぎ手たちは、ビョルンという男の呪いに縛られている。しかし、キャトルはビョルンをおびき寄せているに過ぎません。魂を解放するには、別の手立てが必要なのでは?」
ナールがゲラードを見て、誇らしげに目を細めた。
「それなのだ。貴銀の子よ」彼は言った。「呪いの元凶は絶たなければならない。そのために必要なものを、そなたたちは動かすことができる」
「おいおい……まさか」フーヴァルは言った。「ヴェルギルを引っ張り出せってことか?」
ナールは頷いた。「それ以外に、方法はない」
フーヴァルはため息をついた。勢いよく吐いた息は白い気泡の塊となって、海面へと昇ってゆく。
「協力してやってもいいが、見返りはもらう」
ナールもシドナも、驚いた顔をした。
「おいおい、当たり前だろ。こちとら海賊だぜ。見返りもねえのに、仲間を危険に晒せるか」フーヴァルはあきれ果てた声で言った。
「他のひとには私掠船と言うくせに」
ナールの言葉に、フーヴァルは臆面もなく頷いた。
「それはそれだ」そして、胸の前で腕を組んで傲然と顎をあげた。「言い換えりゃ、見返りさえあれば何だってやってやるってことだ」
ナールとシドナは寄り添い合ったまま、無言の会話を繰り広げているようだった。ゲラードは不安げに、彼らとフーヴァルとを見比べている。
「見返りなんて、本当に必要なのか?」彼は言った。
「当たり前だろ。見返り無しに親切をしてやるのは、世界中でお前一人ぐらいのもんだ」
話し合いを終えたらしいナールが、フーヴァルに向かって頷いた。「そちらの望みは?」
「そうこなくちゃ」フーヴァルは、この日一番の笑顔を見せた。
「海賊と交換条件を結ぶときには、よぉく考えてからにしろよ」フーヴァルは歌うように言った。「ま、そっちに断る余地はねえよな」
「ジャクィス・キャトル」ゲラードが言った。「君の友人が、生きていたのか」
フーヴァルは頷いた。
「友人だった男だ。今はもう違う」フーヴァルは言った。「奴はアラニに協力してた。マルヴィナから、ヴェルギルがシルリクだって話を聞いてやがったんだ」
ふたりは、泳ぎ疲れた身体を砂浜に横たえていた。
あの嵐の夜の話をするのは、フーヴァルが自分で思っていた以上に苦痛を伴った。けれど、ゲラードに対しては、もう秘密を持ちたくない。
「あいつの言う通り、俺は逃げた」フーヴァルは言った。
ゲラードはうつ伏せになり、肘をついてフーヴァルの顔を見つめた。
「逃げたわけじゃない」彼は言った。「君は生きるために、理想を追うために、元いた場所を出ていったんだ。それを『逃げる』と言ってしまえば……道が失われてしまう」
「ものは言いようだな」
フーヴァルの皮肉にも、彼は動じなかった。
「毒が薬になることだってあると言ったのは君だ」ゲラードは笑った。
「向き合うにはあまりにも大きすぎる問題に出会ったとき、ひとは『逃げる』ことで活路を見出す。でも、それすら叶わないときもある。逃避というのは、その間に命を繋ぐことだ」ゲラードはそっと、フーヴァルの肩に触れた。「君が『逃げた』から、僕らは出会えた。これは……勝利と呼んでいいんじゃないかと思う」
そう言われてしまうと、それ以上は何も言い返せない。
「それでも……逃げる必要などない世界を実現できたら」ゲラードはしみじみと言った。「君が大事に思うように、僕もエイルを守りたい。人間とナドカが、どちらも自由に暮らすことができる国──初めて聞いたときには、ほんとうに胸が躍ったんだ」
彼は寝返りを打ち、腹の上で両手を組んで、空を見上げた。
「僕にできることなら、何でもしたいと思った。いくつか貿易の仲立ちをしたりはしたけど、それでは足りない。もっとできることがあるはずだ」
こういう会話を、かつては疎んでいた。一人の人間がくさくさと思い悩んだところで、何が変わるわけもないだろうと。だが、今は不思議と、そう言って笑い飛ばす気にはなれなかった。
「エイルだけでは、世界は変わらないんだ」彼は言った。「いくつもの国が手を取り合わなくては……まずは、ダイラが変わらなければ」
この話が向かう先が見えてきた気がする。
フーヴァルは身を起こして、ゲラードを見た。
「王になるつもりなのか?」
「僕には、務まらないだろうか」
フーヴァルは、嘘をつくつもりはなかった。
「お前みたいなやつに、王は向いてねえ」
すると、ゲラードは気弱げな笑みを浮かべた。
「僕も、そう思う」
「マウリスがどうなったか知ってるだろ。ヤツの治世はたったの六年だったんだぞ」
「僕はマウリスとは違う」ゲラードは言った。「だが……そうだね」
マウリスは、それまで国中で権力をほしいままにしていた審問官を事実上無力化し、〈クラン〉と手を結んで、古の〈協定〉を復活させた。ナドカ狩りは禁止され、彼らを保護するための掟が作られた。彼の改革の多くは今日まで生きている。だが、やり方があまりにも性急すぎた。
「ヤツは暗殺されたんだ。あの当時そこら中に配備されてた〈クラン〉でさえ、それを防げなかったんだぞ」
ゲラードは微笑んで、もう一度言った。「僕はマウリスとは違うよ」
こういう話をすると決まって腹の底に燃え上がった苛立ちの炎は、完全に消えたわけではないにせよ、制御できる程度になっていた。
フーヴァルはため息をついて、頭の後ろを掻いた。
「本当に、本気か」
「それは……まだわからない。冠をかぶることだけが、王族の役割ではないから」
王位にまつわる話をするゲラードの顔に見慣れた諦観は、もうなかった。彼の眦には、静かな決意が現れていた。
「でも、他に道がないのなら、そうする」
「ダイラの連中は、お前を血祭りにあげるぞ」フーヴァルは言った。「お前の出自も、母親のことも、俺とのことも……一つ残らず暴かれて晒される。そのうち、あることないこと噂にして、酒場の笑い話にされちまうんだ」
「恐怖の種になるよりはいい」ゲラードは笑った。
フーヴァルは、ゲラードを見つめた。
「二度と、自由にはなれねえぞ。わかってんのか」
ゲラードもまた、フーヴァルを見つめた。
「他に道がないのなら。覚悟はできてる」そして、微笑んだ。「僕にどれだけのことができるのか……やってみる価値はあると思わないか?」
彼の気楽な口ぶりの裏側にあるものが、フーヴァルには見えていた。
彼は、やると決めたら言い訳などせずにやる男だ。
彼はやるだろう。血まみれになっても、臓腑を抜かれても、心臓が動いている限りは、血の最後の一滴を失うまで立ち続ける。
かつての自分は、それがわかっていたからこそ、恐れた。
「この島を出て、もう一度ダイラに戻らなければ」ゲラードが呟く。
その言葉を聞いて、フーヴァルは静かに目を閉じた。
そして言った。
「わかったよ。俺の負けだ」
†
「思ったより早く目覚めちゃって、びっくりだよ」
ナールと呼ばれた青年は、まるで旧知の間柄のようにゲラードの手を握り、ぶんぶんと振り回した。
彼はフーヴァルの呼び声に応えて海から姿を現した。腰に巻かれた海藻を除けば、何も身につけていなかった。
「何年かかかると思ってたんだけどな。君の父上が目覚めるまでにはずいぶんかかったんだよ。とは言え……彼はそれに耐えきれなかったけど」気の毒そうなそぶりを見せることもなく、彼は言った。「まあ、モーズリーは真実を守るって役目をちゃんと全うしてくれたからね!」
海の中で見た時とは、だいぶ印象が違った。もちろん、彼が人魚の姿をしていないというのもある。けれど、あの嵐の海をもの凄い早さで泳いでいたときの彼は、いまよりもっと……フーヴァルに似ていた。
いま、降り注ぐ明るい日差しの下で見るナールの中に、彼の兄との類似を見つけるのは少し難しい。フーヴァルから不機嫌と皮肉と反骨精神を取り除き、代わりに天真爛漫をこれでもかとばかりに詰め込めば、多少は似てくるかもしれない。
これが、妖精という種族。
「自分自身を見つけるというのは……『貴銀の血』というのと関係があるんだろうか?」
「ご名答! さすが王子様!」
ナールはゲラードの手を握ったまま微笑んだ。輝く波のように眩しい笑顔だ。
「おい」不機嫌の権化、フーヴァルが、爪先で弟を小突いた。「好みじゃねえんだろ」
ナールはその攻撃をひょいと避けた。「そんなこと言った? いつ?」
何の話だ? とフーヴァルを見たけれど、気付かぬ振りをされた。
「とにかく、これでようやく君たちを長に会わせられる」ナールは言った。「さっそく行くよ! ずっと楽しみにしてたんだから」
ナールが、問答無用でゲラードの手を引く。ゲラードは慌てて踏みとどまった。
「行くって、どこに? この島を出られるんじゃないのか……?」
「出したげるから心配しないで」ナールはイルカそっくりの笑い声をあげた。
ゲラードは助けを求めるようにフーヴァルを見た。彼はため息をつき、ゲラードの手を、ナールから引き剥がした。
「オルノアまでどのくらい泳ぐ?」
「オルノア……」ゲラードは呆然と繰り返した。「オルノア!?」
「ここからそんなに遠くないよ」ナールは言った。「でも、王子様にはこれが必要かもね」
彼が大きく口を開けると、舌の上には金貨が載っていた。フーヴァルが首から提げているのと同じ、オルノアの金貨だ。彼はそれを、広げた手の上に落として、ごしごしと擦った。
「これを身につけていれば、ただの人間でも水中で息ができるし、海の底でも口から内臓が飛び出たりしなくなるよ」
放り投げられた金貨を、ゲラードは慌てて空中で掴む。
「兄さんだって、これがなかったら溺れちゃうもんね」
ゲラードはフーヴァルを見た。彼は事もなげに肩をすくめた。「ま、俺は半分人間だからな」
ナールは砂浜に立つふたりを交互に見た。
ゲラードは青ざめていた。「口から、内臓が……?」
「準備はいい?」返事も聞かず、ナールはにっこりと笑った。「じゃ、行くよ!」
水の中で息ができるという事実に頭が追いついていないせいで、ゲラードは、つい息をとめてしまいそうになった。だが、自分を守るように抱きかかえているフーヴァルの胸が規則正しく膨らんでいるので、ゲラードも、おっかなびっくりであったけれど、落ち着いて呼吸ができるようになった。
フーヴァルとふたりで泳いだ珊瑚礁の海域を抜けると、そこから先は一気に海が深くなる。水底には濃紺の闇があり、それがどこまで続いているのかもわからない。まるで、海の中の崖を見下ろしているようだ。
水に浮いている状態ではまったく意味がないのだろうけれど、足がすくんだ。
その時、ほの暗い海底から、不思議な光が漂ってきた。青みがかった光が二つ、揺らめきながら泳いでくる。
「迎えが来た」とナールは言った。
それは、全長十ナートに届こうかと言うほど巨大なタツノオトシゴだった。ごつごつとした身体に、赤い鬣のような鰭をなびかせている。身体の側面にある縞模様は青く輝いていた。さっき見た不思議な光の正体が、その模様だった。
「タツノオトシゴ……!」ゲラードは呟いた。「伝説上の生き物かと思っていた」
「今から、その『伝説』に行くんだから」と、ナールが笑う。
二匹の迎えはナールの身体に長い尾びれを巻き付けてじゃれつき、それから再び、元来た海底を目指して泳ぎはじめた。まるで巡礼を導く二振りの旗のようだ。
珊瑚礁の賑やかさを見たあとで、水深の深い領域を旅するのは不思議な感覚だった。魚の数はぐんと減るが、静かな生命の営みは確かに感じられる。難破船の周りをゆっくりと泳ぎながら夜の狩りに備えて眠る鮫や、岩の隙間からこちらを窺う蛸、小魚の群れを追う巨大な魚の姿を、ゲラードは見た。
起伏のある海底は切り立った山脈のようで、思わず目を背けたくなるほど深い亀裂がいくつもあった。亀裂の暗がりから向けられる視線があるような気がして、なんとも落ち着かない。
それを察したのか、フーヴァルが言った。
「あとどのくらいだ?」
「もうすぐだよ」ナールが答える。
ゲラードは、この期に及んでもまだ、自分があのオルノアに向かっているという事実を受け入れきれずにいた。
大昔の天変地異で、海に沈んだ伝説の国。
その国についての真実を語ろうとすると、寡黙にならざるを得ない。想像を膨らませて面白おかしく仕立て上げた物語はいくつもあるし、真偽も定かではない言い伝えも多い。けれどいずれの話も、元になっているのは、神話の片隅で語られたほんの短い一説のみだ。
オルノアは神の恵みにさかえし国。されど神の産聲によりて海谷に没せり。
神の恵みで栄えた国が、その産声で滅びるとはどういうわけなのだろう。邪神の信仰に傾いたのだとか、それまで信仰していた神を排して別の神を崇めたせいだとか、様々な憶測が語られているが、ゲラードはまだ、これだと納得できる説には出会っていない。
そんなことを考えているうちに、気付くと、一行の周りに魚の群れが集まっていた。光を乱反射させながら、種も大きさも異なる魚たちがゲラードたちを包み込む。赤に、黄に、青。そして目がくらむほどの銀。角を持つ魚に。瘤を持つ魚。扇を背負ったような形状のものもいる。それから、鮫に、大きな鱏も。イルカが他の魚を蹴散らしながら球体の中に入り込んできて、ナールとじゃれ合ってから、またどこかへ消えていった。
それが何かの合図だったかのように、魚たちが離れていった。煌めく魚群の緞帳が、キラキラと瞬きながら開いてゆく。
目の前に現れたものを見て、ゲラードは息を呑んだ。
一見すると、それは巨大な岩壁だ。だがその壁面には、紛れもなく魔法が刻まれていた。頂点が見えないほど高くそびえ立つ岸壁に、幾層にも連なる絵物語が浮かび上がっていたのだ。どうやら、その絵はオルノアの辿った歴史を物語っているようだ。彼らを案内した二匹のタツノオトシゴに宿っていたのと同じ、蒼い光で描かれている。
ゲラードはフーヴァルの手を離れて、岸壁へと向かった。絵物語の本に夢中になる子供の頃に戻ったように、胸が高鳴っていた。
地層のように積み重なる物語の最下層が、最も新しい物語だ。そこには、人魚と魚、そして都市のようなものが描かれている。絵と絵の間に横たわる鱗の文様は、おそらく、オルノアを守護する海竜を表しているのだろう。ゲラードは上へと泳ぎながら、歴史物語をひとつずつ遡っていった。倒れる人々を背にして、月に何かを乞うているような王の姿を描いた層、海中に没するその瞬間を描いた層、降り注ぐ雷と、襲い来る大波を描いたものもある。オルノアが海中に没するきっかけとなった天変地異を描いているのだ。そして、最も上に描かれていたのが、赤子だった。巨大な鳥──おそらくは渡烏──に抱擁された赤ん坊の壁画が、誰にも聞こえない叫び声をあげている。
「神の産聲によりて海谷に没せり……」
それは、なんとも奇妙な赤子だ。生まれたままの姿を描いた、その姿は怖ろしく巨大。身体を丸めて眠る顔の部分だけで、家ほどの大きさがある。もともと巨大な壁画ということを抜きにしても、異様なほど大きい。対面するだけで、ゲラードの心臓は、言い知れぬ恐怖に激しく鼓動しはじめた。さらに奇妙なのが、その肌だ。
そこには、様々な国の文字がびっしりと刻まれていた。
これは……いったい何という神だろうか?
「おい」
後ろから抱きしめられて、思わず小さな声を上げる。
「アーヴィン!」
「あんまり長いこと見過ぎるな。魔法に目がくらんじまうぞ」
そう言われてよくよく見ると、絵の中の模様、その一つ一つが何重にも入り組んだ複雑な魔方陣からなっているのがわかった。
「侵入者を防ぐための魔法だよ」ナールは言った。提灯鮟鱇の光みたいに、敵を魅了して動かなくさせるんだ。で、油断したところを──」
両手を組み合わせて、ガブリと噛みつく仕草をした。
ゲラードは、フーヴァルに手を引かれて海底に戻りながら、この神秘の領域の辿った歴史を改めて追った。
神の産声によって滅んだ国。
「これが……オルノア……」
「まだまだ」ナールは笑った。「これは、その入り口」
ナールは、青く発光する歴史絵に見守られながら、岸壁の中心にあった裂け目に手を当てた。裂け目は音を立てながら、ゆっくりと開いた。海底から砂が巻き起こり、周囲の魚が一斉に泳ぎ去る。
海を震わせる轟音がおさまると、ナールが言った。
「では、お先にどうぞ」
門を潜ると、そこには人魚の国があった。
千年以上前に海中に没した遺跡として頭に思い浮かべていたものは、藻とフジツボに覆われた、どこかうら寂しい廃墟のような光景だった。だが実際には、オルノアは賑やかで、美しかった。おそらく、地上にあったときと同じか、それ以上に。
「すごい……!」
「でしょ」ナールは得意げに笑った。
海面からはそれほど深くないところにあるらしい。街全体に、太陽の光が燦々と降り注ぎ、輝く波紋を落としていた。
門から続く石畳には、精巧なモザイク画が並んでいた。蛸に、イルカに、カジキ、色とりどりの貝に珊瑚など、無数の海の生き物たちが色鮮やかに描かれている。だが、芸術品のように美しい道の上に一つだけ、一部を残して損なわれているものがあった。特徴ある長い触手は──。
だが、よくみる前に、ナールに手を引かれた。
「こっちだよ!」
道は緩やかにうねりながら、なだらかな丘陵と、その上に立つ砦へと続いていた。道の脇には白壁のこぢんまりとした建物が並んでいる。その中のいくつかは、通りにあるのと似たモザイク画を施された丸屋根の建物だった。どの軒先も開け放たれていた。珊瑚やイソギンチャクで埋め尽くされた部屋を、様々な姿の人魚たちは自由に出入りしていた。鱗をもつもの、滑らかな皮膚のもの、何本もの脚をもつ者──色も形も、実に多様だ。彼らは美しい半身を優雅に踊らせ、楽しげに泳いでいる。なんとも開放的な街だ。
オルノアが海底に沈んだのは、千年以上も前だとナールは言った。
「もう正確な日付もわかんないんだ。僕らって、そういう記録を残す習慣がないから」
すっかりくつろいだ様子のナールのあとについて泳ぐ。彼は道行く人魚に声をかけられる度、和やかに返事をしていた。ゲラードについて尋ねる者もいれば、遠巻きに見つめる者もいた。どの顔にも、好奇心と警戒が半分ずつあるようだ。人間がこの国を泳ぐのは相当の珍事なのだろう。
「オルノアがどうして沈んだのかは、いまとなっちゃわからない。でも、怖ろしい大地震があって、津波が起こって、火山が噴火して……雷やら雨やら灰やらが降って、オルノアだけじゃなく、東方大陸全体が大変なことになったって話は伝わってる」ナールは言った。「ちょうどその時オルノアの女王だったシドナが、月神に慈悲を祈ったんだ」
ナールの視線の先に、白い大理石の像が建っていた。子供を抱き上げる直前のように両手を拡げて微笑む女王の姿。街の広場の中央にある石像は、古の王の装束を纏っている。よほど大事に手入れされているのだろう。何千年の時を経ても欠けはなく、フジツボも海藻もついていない。ほとんど完璧な状態だ。その表情は実に優しげで、穏やかだった。
「でも、さすがの月神にも、沈みゆく国の民を全員助けることなんてできなかった。そのかわり、彼女は月の光に力を込めて、オルノアで死んだ魂から、最初の人魚を作ったんだ」
「つまり、このオルノアが、君たち人魚の故郷なのか」
ゲラードが言うと、ナールは満足そうに頷いた。
「こいつが『水底の奥方』?」フーヴァルが声を上げる。「なかなか美人じゃねえか」
「なんて無礼な!」ナールはムッとした。
「海で死んだ魂を集めてるような奴だぞ。もっとおどろおどろしいのを想像してたんだ」
ナールはぐるりと目を回した。「陸の連中の考えそうなことだなあ!」
そのやりとりが可笑しくて、ゲラードはこっそりと笑った。
なだらかな丘の上に立つ砦にたどり着く。巻き貝のように、丘を取り巻きながら重なる区画を持つ砦だった。見渡す限りすべての壁や床、柱にまで見事な装飾が施されて、実に荘厳だ。
「砦は皆に開放されてるんだ。長はここにはいないし」
「オルノアには財宝があるって噂だぜ。あの砦にため込んでるんじゃねえのか?」
「ああ、うん」ナールはあっさりと認めた。「でも、僕らには必要ないものだから」
フーヴァルは恐れ入ったと言わんばかりに鼻を鳴らした。
ゲラードはそんな会話をよそに、砦の装飾を観察していた。できることなら、何日でも見入っていたいほど見事なものばかりだ。
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「そう」ナールは頷いた。「月神は潮の満ち引きを司る神だから、とても熱心に信仰されていたんだ。昔も、今もね」
矛を携えた人魚たちに守られた扉をいくつも潜ると、街の明るさが遠ざかっていった。
やがて、一行は街の外れまでやってきた。そこに広がるのは、いままで見てきたオルノアの明るい姿からはかけ離れた荒れ地の風景だった。目の前では、底知れぬ海溝の裂け目が、視界の果てまで伸びていた。
「ここに、何の用があるんだよ」
フーヴァルが言い終わらないうちに、ナールが尾びれをはためかせ、海溝に飛び込んだ。
フーヴァルとゲラードは、目を見交わした。
「追いかけるべきだろうか」
「あそこに入りたいと思うか?」
海溝はどこまでも続いているようだった。いかなる光をも拒む深い闇が、溢れ出すのを待っているみたいに裂け目を満たしている。まるでこの世界そのものに入った亀裂のようだ。
「いや」ゲラードは素直に認め、フーヴァルにしがみついた。「いや、思わない」
おとなしくというよりは、為す術なく待っているうちに、空気が──というより、海水が変わった。
最初に見えたのは、目だった。
暗闇に浮かび上がる、二つの白い光。ゲラードは震えた。どんなに屈強な戦士でも、震えずにいるのは無理だっただろう。
「う、うわ……!」
船を飲み込めるほど巨大な海竜が、海溝からゆっくりと顔を出し、こちらに向かってくるのだから。
†
ナールは、海竜の顔に手を置いたままこちらに泳いできた。その優しげな眼差しを見れば、彼が介添えしているのが足腰の弱った老人なのではないかと思いそうになる──すぐ横にある、海竜の馬鹿でかい顔を無視できればの話だが。その扁平な顔面はエリマス城の城門ほども大きい。分厚い唇の間から覗く牙はちょうど人間の身長と同じくらい、丸い目玉は月と同じくらいある。
海竜は、アクシングを沈めたあの時よりも、いっそう怖ろしげに見えた。
海竜が巨大な身体をゆっくりとくねらせながらこちらに近づく。それだけで、あたりには小さな渦巻きがいくつも生じて、周囲を泳いでいた魚を翻弄した。長い首の付け根にある手は海溝の縁を掴んでいて、それがまた、とにかく怖ろしいでかさだ。そもそも首の長さが、まるでサウゼイからマチェットフォードくらいの距離があって──いや、もういい。
フーヴァルはそれ以上、海竜の寸法について考えるのをやめた。
「こちらはシドナ」ナールが言った。「オルノアと西方三海を総べる、水底の女王です」
「シドナ……!?」
ゲラードが隣で呟き、水に半ば浮いた状態で可能な限りきちんとした辞儀をした。フーヴァルもそれに倣ったものの、俯いたまま小声で言った。
「やっぱりおどろおどろしいじゃねえか」
顔を上げると、ナールはじろりとフーヴァルを睨んだ。
「シドナ様は言語を操る舌をお持ちでないので、僕が声を務めます」ナールは厳かに言った。
ゲラードは圧倒されて震えていた。
フーヴァルにも、彼の気持ちはよくわかった。オルノアにまつわる与太話は腐るほどあるが、かつてのオルノアの王が、海竜として生き続けているとは想像もしていなかった。
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「もう、それほどまでに時が経ったのか」ナールは、シドナに深く同調しているのだろう。しみじみと言った。「彼女は幻影を操ることに長けた、クブシメ族の人魚だった」
「それだけじゃ、何の手がかりにもならねえぞ」
海竜は巨大な眼をフーヴァルに向けた。
「彼女はこう呼ばれていた。美しき海──マール・ヴィナと」
隣で、ゲラードが声を上げた。それに劣らず、フーヴァルも驚きを隠さなかった。
「あのマルヴィナ・ムーンヴェイルが、元は人魚だったってのか?」
「そうだ」ナールは言った。「そして、今はその息子が、我々の海を脅かしている」
幻影を操る一族。アラニを率いたマルヴィナの子。
まさか──。
いや、まだそうと決まったわけじゃない。それなのに、頭の奥で鳴り響く警鐘が止まない。
ナールが、重々しく言った。
「ジャクィス・キャトルが、その者の名だ」
フーヴァルは為す術なく揺さぶられた。こちらに向かってくるとわかっていながら、どうすることもできない大きな波のような衝撃だった。
「かの女は、人間の領主との間に息子をもうけ、その子を捨てた」
ナールはフーヴァルの心中など意に介さず話を続けた。
「その後、緑海の底に沈んだエイルの冠帯を探し求めていたとき、息子の存在を思い出したのだ」ナールの声は、シドナと、彼自身の怒りによって震えていた。
フーヴァルはハッとして顔を上げた。
「アラニがホライゾンを尋ねてきたのは、あいつを探していたからだったってのか……」
ナールは頷いた。「そうだ。あの女はそうして、息子を仲間に引き入れた」
だが、アラニに加わったのはフーヴァルが先だった。あのとき、あのコナルという男から真実を聞いていたのだとしたら、なんでキャトルはすぐにアラニに入らなかった?
「それが、我ら海の一族にとっての災厄のはじまりだ」
ゲラードがフーヴァルに寄り添い、背中に手を当てる。彼はフーヴァルを見て、勇気づけるように頷いた。
冷たい海の底で感じる彼の手のあたたかさに救われながら、フーヴァルは続く話に耳を傾けた。
「マルヴィナは我々の同族を幻惑し、緑海の、毒の海域に送り込んだ。その手助けをしたのがあの男だ」ナールは言った。「そして今、あの男はさらなる冒涜を働いている」
「〈嵐の民〉」ゲラードが呟いた。
「その通りだ。貴銀の子よ」ナールの言葉と共に、シドナが瞼のない目をゲラードに向ける。「あの男は、緑海に沈むエイルの秘宝を探すため、人魚たちを利用した。そして、その秘宝を守っていた太古の呪いまでも、意のままに操っている」
「太古の呪い──ビョルン、ですね」
「そうだ」ナールは言った。「キャトルに踊らされた哀れな亡霊どもは、あまりにも多くの者の魂を奪い、邪悪なやり方でこの世に縛り付けている。これでは、じきに世界の均衡が崩れてしまう」
「世界の、均衡……」
そう呟いたゲラードを見ると、彼の目にはいつの間にか、あの銀の欠片が踊っていた。
「海で死した者の魂は、極の海の果てにある硲の島で休息をしたのち、また新たな生命としてこの世界に戻る。そのうちのいくつかは人魚として、別の者は魚や海の鳥獣として。わたしは、そうした生命の循環を、ずっと見守ってきたのだ」ため息をつくように、海竜の鰓が震え、海水が渦を捲く。「これを、見過ごすわけにはゆかぬ」
ゲラードは食い入るようにその言葉を吸収していた。
「なるほどな」フーヴァルが言った。「それで、俺に始末をつけて欲しいってのか」
シドナが低く唸った。同意と取っていいだろう。
「でもよ、そんなにでっかい図体して、手下の人魚も大勢いるなら、なんで自分でやらねえんだよ」
ナールは文句を言おうと口を開いたが、何かに呼び止められたように、シドナを振り向いた。そして、彼にしか聞こえない女王の声を聞くと、再びフーヴァルに向き直った。
「シドナ様は、この極の海から離れることができない」ナールは言った。「それがわかっているから、キャトルもここには立ち入らない。そして人魚だけでは、彼の幻惑には立ち向かうことができない」
ふうん、とフーヴァルは言った。
「それに、兄さん。あなたは彼との間に因縁がある。アラニが彼を引き入れて海への影響力を強めたように、僕らがあなたを引き入れれば、陸への影響力を強めることができる」
「意趣返しってわけか」
フーヴァルとナール、そしてシドナが、互いを見つめ合ったまま沈黙が流れた。
「キャトルを倒したとして……それだけで魂は解放されるのでしょうか?」ゲラードがおもむろに言った。「〈嵐の民〉の漕ぎ手たちは、ビョルンという男の呪いに縛られている。しかし、キャトルはビョルンをおびき寄せているに過ぎません。魂を解放するには、別の手立てが必要なのでは?」
ナールがゲラードを見て、誇らしげに目を細めた。
「それなのだ。貴銀の子よ」彼は言った。「呪いの元凶は絶たなければならない。そのために必要なものを、そなたたちは動かすことができる」
「おいおい……まさか」フーヴァルは言った。「ヴェルギルを引っ張り出せってことか?」
ナールは頷いた。「それ以外に、方法はない」
フーヴァルはため息をついた。勢いよく吐いた息は白い気泡の塊となって、海面へと昇ってゆく。
「協力してやってもいいが、見返りはもらう」
ナールもシドナも、驚いた顔をした。
「おいおい、当たり前だろ。こちとら海賊だぜ。見返りもねえのに、仲間を危険に晒せるか」フーヴァルはあきれ果てた声で言った。
「他のひとには私掠船と言うくせに」
ナールの言葉に、フーヴァルは臆面もなく頷いた。
「それはそれだ」そして、胸の前で腕を組んで傲然と顎をあげた。「言い換えりゃ、見返りさえあれば何だってやってやるってことだ」
ナールとシドナは寄り添い合ったまま、無言の会話を繰り広げているようだった。ゲラードは不安げに、彼らとフーヴァルとを見比べている。
「見返りなんて、本当に必要なのか?」彼は言った。
「当たり前だろ。見返り無しに親切をしてやるのは、世界中でお前一人ぐらいのもんだ」
話し合いを終えたらしいナールが、フーヴァルに向かって頷いた。「そちらの望みは?」
「そうこなくちゃ」フーヴァルは、この日一番の笑顔を見せた。
「海賊と交換条件を結ぶときには、よぉく考えてからにしろよ」フーヴァルは歌うように言った。「ま、そっちに断る余地はねえよな」
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