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その島が普通の島でないのは、すぐにわかった。
目を覚ました直後、あまりにも白い砂浜に照り返す日の光で目がくらんだ。ゲラードはあたたかく濡れた砂浜から身を起こし、何度も瞬きをして明るさに慣れようとした。まばゆい光としばらく格闘してようやく、周りを見ることができた。
「わぁ……」
ゲラードは、なにもかもを忘れて、その光景に見入った。こんな景色がこの世界にあることを、今の今まで想像もしていなかった。
目の前に、視界の限りに、あらゆる種類の青が広がっている。
水平線まで続くかと見える白い浅瀬の先には、砂の色と混ざり合ってほとんど乳白色に見える遠浅の海がある。その向こうには、カッライス石のように緑がかった空色の、凪いだ海がどこまでも続いていた。砂浜の白から、輝く瑠璃色、空と海との境目を縁取る深い紺碧にいたるまで、海は何層もの波を経て色を変えていた。
ゲラードのいる場所から波打ち際まではかなりの距離がある。ゲラードの周囲には無数の潮だまりが残されていた。巨大な水鏡は穹窿の蒼をくっきりと映し、まるで天と地の両方から空に包まれているかのようだ。
吹き抜ける風が水面に漣をたてると、光は踊りながら、水中に虹の欠片をばらまいた。
ゲラードは、すぐ隣で気を失っているフーヴァルを揺さぶった。
「フーヴァル……フーヴァル!」
彼は低く呻き、濡れた砂と白い泥にまみれた顔をしかめた。
彼は目を開け、すぐに後悔して、きつく瞼を閉じた。それからまた恐る恐る瞼を開け、何度も目をしばたいた。
さっきのゲラードとまったく同じことをしている。だが、彼の反応はゲラードとは真逆だった。
「クソ」第一声がそれだった。「なんなんだよ、この場所は……」
「わからない」
ゲラードが言うと、フーヴァルはまた呻いて、持ち上げかけた頭を再び砂浜に横たえた。そしてごろりと寝返りを打ち、一糸纏わぬ身体を日の光の下に晒した。まるで身ぐるみはがされた酔っ払いだ。
だが、その身体を見て、ゲラードは考えを改めた。フーヴァルの身体は傷だらけだった。足と、それから腕に、無数の痛々しい傷が増えていた。ゲラードを抱きかかえて泳いでいるときに負ったのだろう。
「水を探さないと」ゲラードは言った。「歩けそうか? それとも抱えていこうか?」
「おい、俺を誰だと思ってやがる」
フーヴァルはフフンと笑って、砂浜の上に四つん這いになり……そのまま突っ伏した。
「ほら、無理をしないで」
ゲラードが慌てて手を貸す。フーヴァルの顔は、額から髭の先まで、砂と泥とで真っ白になっていた。こんな状況でなければ笑っただろうが、彼がこうなったのにはゲラードにも責任がある。
身体に力が入らないフーヴァルを抱え上げ──彼は尚も「俺は歩ける」と言い張った──砂浜に接する森の縁へと連れて行く。どうやらこの島は、広大な浅瀬と、岩がちな陸地とでできているらしい。そう広くもないこの島で湧き水や食料を手に入れるのは絶望的だろうと、ゲラードは冷静に考えた。だが、まずはフーヴァルを安全なところで休ませなくては。
森には椰子の木や、名前も知らない南方の木やらが生い茂っていた。膨れ上がったパン生地のような幹をした木が、崩れかけた巨石の隙間に根を張っている。葉は大きく分厚くて、頼もしい日よけになってくれそうだ。
「水を探してくる」ゲラードは言った。「君はここで休んでいてくれ」
「待て、俺も行く」フーヴァルが唸り、身体を起こそうとして──その場に頽れた。
「いいから休んで。今度は僕が、君を助ける番なんだ」
立ち去ろうとすると、フーヴァルはゲラードの足首を掴んだ。だが、容易く振りほどけるほど弱々しい。
ゲラードはため息をついた。
「すぐ戻るから──」
「駄目だ、行くな!」
フーヴァルは、ただの見栄でついて行くと言い張っているわけではないのだと、ようやく気付いた。ゲラードは彼の傍に片膝をついた。
「なぜ、怯えてるんだ?」
「怯えてなんかねえ」
言葉選びを間違えた。ゲラードは言い直した。「何を心配してる?」
するとフーヴァルは、巨石に背中を預けたままあたりを見回した。
「この島は、なにかおかしい」
「何かって……何が?」
わからん、と彼は言った。「お前を攫おうとした人魚が、何か言ってなかったか」
人魚。
そうだ。あの時舟をひっくり返されて──ゲラードは、水中で待ち構えていた人魚に攫われたのだった。
ゲラードは、気を失う前の記憶をなんとか思いだそうとした。いきなり海に放り投げられた衝撃と、いきなり抱え上げられた驚きとで、恐慌に陥りかけたのを覚えている。自分に回された腕がフーヴァルのものでないことはすぐに気付いた。暴れるゲラードの耳に聞こえたのは、不思議な、軋むような音と笛のような音。それから──。
「僕を硲の世界に連れて行く、と」ゲラードは言った。「そこで──」
「硲の世界だと?」
ああ。ああ、そうだ。ようやく思い出した。
「そこで……見つけろと言われた」
フーヴァルの顔が険しくなる。
「何を見つけろって?」
ゲラードは、フーヴァルを見た。
そうだった。ここには偶然流れ着いたのではない。導かれたのだ。
「自分自身を」
フーヴァルは思いきり顔をしかめた。「なんだそりゃ」
「僕にもわからない」ゲラードは途方に暮れて、肩を落とした。「でも、今はとにかく、飲める水を見つけないと。ふたりともここで乾ききってしまう──」
そのとき、唐突に雷鳴が鳴り響いたと思ったら、空が瞬く間に雲に覆われた。そして、まるで天が采配を誤ったのかと思うほどの勢いで、雨が降りはじめた。
ゲラードとフーヴァルは、しばらくの間それをぽかんと眺めていたが、ハッとして顔を見合わせた。
「水だ」
普通の島でないどころではなかった。
あの人魚──そういえば、どことなくフーヴァルに似ていた──は、ここを硲の世界と呼んでいた。それがどういう意味であれ、この島は、ゲラードが生きてきた世界の法則や常識とはかけ離れた場所にあるらしかった。それは、時間が経てば経つほどはっきりしていった。
真水の必要性を論じている最中に雨が降るなどというのは序の口だった。巨大な葉を丸めて作った即席の桶から溢れるほど水が溜まると、雨は嘘のように止み、また青空が広がった。森を歩けば乾いた薪が山ほど見つかり、ご丁寧に火打ち石まで転がっている。砂浜に戻れば、うたた寝していたフーヴァルの前に、まるで供物のように魚が打ち上げられている、という具合だ。
島を取り囲む浅瀬は、かなりの広範囲に亘って広がっていた。そして、海が深くなるところで、海水の色は唐突に深い碧に変わる。海水が澄んでいるおかげで、珊瑚礁や、そこに生息する色とりどりの魚たちの姿まで見ることができた。だが、そこから先へ泳いで行く勇気はなかった。少なくとも、ゲラード一人では無理だ。
時間が経っても潮が満ちる様子はなく、あたたかく穏やかな海水は、まるで産着のように島を包み込んでいた
フーヴァルは夜に期待をかけていた。星座の配置から大体の位置を知ることができるはずだと思っていたのだ。だが、当ては外れた。見知った星座は確かに見つけられたが、位置がてんでバラバラなのだ。同時に見えるはずのない冬と夏の星座が、まるで当たり前のように空に並んでいる。月までもが常識外れの方角から昇り、勝手気ままに夜空をうろついたかと思えば、いつの間にか姿を消していた。
フーヴァルの横顔は、ゲラードを不安にさせた。何しろ、出会ってからの四年の間で、これが初めてだったのだ──彼の心が挫けるのを見たのは。
彼は何も言わず、ただいつものように「クソッタレ」と吐き捨てただけだった。だが、その表情は暗く沈んだままだった。彼の力の原動力でもある、怒りの気配すら感じられない。
フーヴァルが着るための服がなかったので、ゲラードは自分の上着と下穿きとを彼に貸して、自分はシャツと脚衣を着ることにした。何度か手を怪我しながら焚き火をおこして、ようやく暖かい炎の恩恵にあずかった。
「どうやら、ここは文字通りの『硲の世界』らしい」ゲラードは、焚き火を見つめながら言った。「僕らの世界の常識がまるで通じない。食べ物も、水も、見返り無しに与えられる──まるで楽園だ」
「楽園なんてもんは存在しねえ」フーヴァルはむっつりと言った。
「だが、聖典には記されている。だろう? 神々と人とが交わって暮らしていた時代には、地上は楽園だった」
聖典──神話のはじめには、神々が名前を持たなかった時代が語られる。そのとき、この世界に争いはなく、飢えも、怒りも、悲しみも存在しなかった。
やがて神々の中から、特に力を持った何柱かが興る。陽神や月神、父なる嵐神──彼らは己を信奉するものたちを守り、雨や食料を与え、つつがなく暮らせるよう導いた。甘美な果物がそこら中で実をつけ、海は豊富な恵みを与えてくれた。神から与えられた食物には不思議な力があった。それをきれいに清め、もとあった場所に丁重に戻しておくことで、再び蘇り、また自分の元に戻ってくるのだ。
尽きることのない恵みの中で、人々は平和と繁栄を享受していた。
だが一柱の神の『贈り物』がすべてを変える。
黄昏の神・リコヴが人間に与えた『嘘』だ。
それをきっかけに、いままで平和だった世界には瞬く間に疑いが芽生えた。その疑いはやがて神にまで向けられ……争いが起こる。
長い、長い歳月をかけて、ようやく戦を制圧したのは陽神だった。彼は弟リコヴを追放し、彼を庇った月神をはじめとした、他の神々をも聖地から追放し、失墜させた。
陽神のもとで人間は栄え、月神は彼女に忠誠を誓う種族──人外を生み出した。二つの種族は時に共生し、時に争いながら、同じ時代を分かち合っている。そして、今の世界がある。
「ここは、太古の世界の……生き残りのようなものなのかも」
「やめろよ」フーヴァルは不機嫌に言った。「そういう寝言を聞きたい気分じゃねえ」
ゲラードはムッとして言った。
「ここが普通の島じゃないと言ったのは、君だろ」
「普通の島じゃないのは確かだ。俺が言ってんのは、楽園の生き残りだなんだってヤツの方だ」
それは失敬、とゲラードは言った。
機嫌の悪いときの彼と会話をするのは難しい。これ以上彼の神経を逆なでする前に、議論を打ちやめにした方が良さそうだ。
ゲラードは手の中にある魚の骨に意識を向けた。
もしこれが、神からの贈り物だとしたなら──それを火にくべて、焼いてしまうのは間違ったことのような気がする。
食べたものの骨はきれいに清め、もとあった場所に丁重に戻すこと。それは陽神教の信者が幼い頃に教わることだ。とは言え教わった傍から、こうした教えがすっかり形骸化してしていることを思い知ることになるのだが。家々から出るゴミを回収するものたちのことを骨洗いと呼ぶのは、この戒律のちょっとした名残だ。
ゲラードは波打ち際まで歩いて行き、魚の骨を海水で洗い清めた。半分は好奇心、もう半分は、奇妙な確信をもって。
やがて、魚の骨が浜の砂と同じくらいきれいになると、それは思い出したかのように震え、ひとりでに泳ぎ出して、ゲラードの手を離れた。
あっと声を上げる暇もなかった。白い骨が夜の海の深みへと消えて行く前に、魚は再び、銀の鱗を煌めかせていた。
26
島の神秘を語るゲラードの興奮ぶりとは対照的に、フーヴァルはどんどん不機嫌になっていった。
自分の身体を思うように動かせない苛立ちと、慣れない環境とが彼を苛んでいるのだろう。ゲラードは彼の気分を上向かせようと、探索する度に見つかる様々な果物を土産にした。だが、彼は滅多に口をつけなかった。島に流れ着いて三日目の昼、とうとうフーヴァルは、のべつ幕なしに喋りまくる──と彼は言った──ゲラードに向かって「一人にしてくれ」と怒鳴った。
「苛立っても仕方ないだろう」ゲラードは冷静に諭そうとした。「君の体力が回復したら、ここから出ていく方法を考えよう。それまでは体力をつけて待つしかない」
そんなことは、フーヴァルだって百も承知のはずだ。だが、彼は意固地になっていた。
あの嵐の海のただ中で見ていたという幻影についても、彼はほとんど何も語らなかった。見たくないものを見たらしいことだけはゲラードにもわかった。けれど、それだけでは何の助けにもならない。
そう、問題は、彼が助けを求めないことなのだ。
結局ゲラードは、フーヴァルの望み通りにするしかなかった。彼を一人にして、島の探索に出ることにした。
どうやらここは厳密には一つの島ではなく、いくつかの小さな島が、白い砂浜によって三日月のような形につなぎ合わされたもののようだった。ゲラードとフーヴァルが流れ着いた岸は弧の先端にあった。いまふたりがいるのも、そこだ。これまでの探索では、ふたりがいる場所から三つ目の島までしか足を伸ばしていない。今日は島の隅々まで見てやろうと、ゲラードは意気込んでいた。
人魚は、ここで自分自身を探せと言った。だが、自分を探すよりもまず、ゲラードは、『硲の世界』がどういうものなのかを理解しようとしていた。
足下の白い砂は柔らかく、あたたかい。貝を背負った色とりどりのヤドカリや、小さな蟹を踏まないように注意しながら、ゲラードは歩いた。森からは何十種類もの鳥のさえずりが、海の方からは笑いさざめくようなイルカたちの声が聞こえている。木立の間に分け入れば、瞬きをする度に違う虫の姿を目にした。宝石のような甲虫や輝く羽を持つ蝶たちが、目の覚めるような色の花に憩っている。酔うほどに濃く甘い香りにひかれてやってくるのは虫ばかりではない。親指ほどの大きさの鳥が、目にも留まらぬ早さで羽根を動かしながら空中に静止し、長い嘴の先から蜜を飲んでいた。
楽園──あるいは硲の世界。どういう名前で呼ぶにしろ、ここが生命の宝庫であることは間違いなかった。
「ここには、あらゆる生命が存在しているようだ」ゲラードは呟いた。
ふと、頭の中に閃きが過る。
あらゆる生が存在している。見返りを求められることもなく、惜しみなく与えられる。
だが、どこを探しても見つからないものが一つだけあった。
『死』だ。
この発見をどう考えたらいいのだろうかと考えながら、ゲラードはあてどもなく歩いた。そうこうしているうちに恵みの雨が降りはじめ、日に焼けて火照った肌を癒やしてくれた。ゲラードは、一ナート先も見えないほどの雨の中を、半分手探りで進んだ。どこかで雨をしのげる場所を見つけなければ。すぐ止むとは言え、雨宿りもせずに待つには勢いが強すぎる。
その時、視界の端を何かが過った。
鳥ではない。獣にしても、大きすぎる。この島に熊が生息しているというならば話は別だが。
「僕らの他に、誰かいるのか……?」
勢いを増してゆく雨に視界を遮ぎられながら、ゲラードは、人影が消えた辺りに向かった。すると、降りしきる雨の幕の向こう側に、再びその人の背中を見た。遠くて、顔はおろか体型さえわからない。ゲラードは、それが敵である可能性をほんの一瞬考えた後で、自分の直感を信じることにした。
「おーい!」
声をかけると、その人影は立ち止まり、辺りを見回した。するとようやく、ゲラードにも彼の顔が見えた。
彼は──どういうわけか、懐かしさを抱かせる風貌をしていた。
壮年の男だ。この島での生活が長いのか、服はすり切れ、一つ一つの動作にも疲れが見える。だが、彼が顔を巡らして、はっきりとこちらを見返したとき、ゲラードはハッとした。その目の色が、自分ととてもよく似ていたから。だが、驚きに打たれるゲラードをよそに、彼はふいと顔を逸らした。幻影を見ているとでも思ったのだろうか──彼は再び歩き出した。何かを断ち切るように足早に。
「待って!」
ゲラードは駆けだしたが、濡れた砂浜に足を取られて思うように進めなかった。結局、追いつくことはできず、男は跡形もなく姿を消した。
消えた人影を──その気配を追って歩くうちに、ゲラードは大きな岩山にたどり着いた。そびえ立つ岸壁にはちょうど良く亀裂が入っていて、木の根がそれを押し広げている。隙間に身体を押し込んでみると、奥にはもっと開けた場所があることがわかった。好奇心に駆られてさらに奥へと進むと、広い洞窟に出た。
そして、空気が変わった。
雨のせいではない。日が当たらぬせいでもない。ただ、この洞窟の中には、外とは違う──研ぎ澄まされた空気が満ちている。
岩壁のほとんどを、洞窟の上からおりてきているらしい木の根が覆っていた。光源もないのに、洞窟内は奇妙に明るい。訝しみつつ足を踏み出すと、踝のあたりまで溜まった水に足が浸かった。木々はこの冷たく澄んだ水に向かって、根を伸ばしているのに違いない。ということは、これは真水なのだ。
岸壁を覆う木の根にしがみつきつつ、先へと進む。よく見ると、編み目のように張り巡らされた根の下に、なにかがあることに気付いた。細い根をそっと岩から剥がして、目をこらす。
ゲラードは目を瞠った。
「これは……」
壁画だった。
何を描いたものなのかは、よくわからない。どれも不可思議な形をしている。
星、あるいは太陽と月のような模様だったり、本能的な衝動を思わせる曲線だったり。気を失う直前に瞼の裏に浮かぶような色彩の爆発の中に、何か意志を持つ存在が描き込まれていた。
様々な色合いの渦や点線に彩られた、獣じみたなにか。いくつもの輪を身に帯びた球体。虹色の蛇。赤や緑の羽根を持つ鳥。宙を泳ぐ魚。そして、小さな蝶。
夢の中にしか存在しない存在。
ゲラードはこの存在を知っていた。思わず壁画に手を触れて、呟く。
「君は……こんなところにいたのか」
ゲラードは、壁画に描かれた友に導かれるように、さらに奥へと進んだ。
†
この島についてから、ずっと感じていた居心地の悪さから、どうしても抜け出せない。
怪我は治っていたし、飢えているわけでもない。それなのに、自分の中から何かが吸い出されてゆくような不快感──ほとんど恐怖に近い焦燥のようなものを、フーヴァルは感じていた。
この島は普通じゃない。
あの人魚が言ったという『硲の世界』という言葉が何を意味するにせよ、この世の理から外れた場所であることは間違いない。
そういう場所は大抵が妖精の縄張りで、吸い込まれたら最後、二度と出られるかもわからない。運良く出られたとしても、二百年後──あるいは二百年前──の世界に放り出されて、右も左もわからないまま死ぬことになりかねない。そういう妖精の悪戯を面白おかしく語った物語は腐るほどある。
おとぎ話に興味はないが、その教訓には耳を傾ける価値がある。
怪しげな木の虚だとか、穴とか、隙間とか、硲には絶対に近づくな、ということだ。
それなのにあの王子様ときたら、脳天気に島を探険して回っている。
フーヴァルはため息をついて、巨石にもたれた。
力をつけて、ここを抜け出して、早く仲間の元へ帰らなければ。
いまやマリシュナ号は船長抜きで、オルノアの宝に目がくらんだ有象無象や、ジャクィスから逃げなければならなくなった。
ジャクィス。
彼との再会の、いったいどこからどこまでが幻だったのかはわからない。けれど、彼が死んでいなかったことは間違いないのだろう。フーヴァルの動揺を引き出そうとして他人がなりすましたにしては、彼はあまりに……ジャクィスだった。
早く、戻らなければ。
しかし、そう思う心の裏側で、戻ってどうなるという疑問が湧いてしまう。
ジャクィスの言葉は、毒のように身体を巡っていた。
──まさか、お前がエイルのために粉骨砕身してるなんて、誰が思う? 陸でも、ホライゾンでも、アラニですら居場所を見つけられずに、逃げちまったお前が?
逃げたんじゃない。俺が連中を見限ったんだ。
──フェリジアに追われている最中、オチエンはずっとお前のことを話してたよ。アールがここにいれば、アールがいてくれたら──ってな。それでお前はどこにいた? どこにいたんだよ、アール!
俺は皆のところに戻ろうとしてたんだ。
けれど、オチエンにはそんなこと、知るよしもない。
彼はフーヴァルの裏切りに失望しただろうか。いざというときに姿をくらますフーヴァルより、最後まで傍で戦ったジャクィスを頼もしく思っただろう。
その通りだ。俺は逃げたんだ。俺はいつも……そうやって逃げる。
そもそも、俺はそんなにご立派な存在じゃないんだと、心の中ではわかっている。なのに、彼らが見たがる幻を装うのをやめることができない。
〈浪吼団〉の団長。マリシュナ号の船長。〈鮫喰らい〉のフーヴァル。
その幻を、本物にすることができたら。
けれど、そうやってあがく度に間違える。そして裏切る。失望させる。そして逃げる。
いつだってそうだ。
フーヴァルは、顔の周りを飛び交う蠅をはらう気力もないまま、そうしてぼんやりと海を眺めていた。
ほとんど茫然自失していたせいで、視界の中で、不意に浅瀬が盛り上がり、その中から人影が立ち上がるのを見ても、すぐには反応できなかった。瞬きをしてようやく気付いた時には、来訪者は、大きな目でフーヴァルの顔を覗き込んでいた。
彼は言った。
「ねえ……生きてるよね?」
その島が普通の島でないのは、すぐにわかった。
目を覚ました直後、あまりにも白い砂浜に照り返す日の光で目がくらんだ。ゲラードはあたたかく濡れた砂浜から身を起こし、何度も瞬きをして明るさに慣れようとした。まばゆい光としばらく格闘してようやく、周りを見ることができた。
「わぁ……」
ゲラードは、なにもかもを忘れて、その光景に見入った。こんな景色がこの世界にあることを、今の今まで想像もしていなかった。
目の前に、視界の限りに、あらゆる種類の青が広がっている。
水平線まで続くかと見える白い浅瀬の先には、砂の色と混ざり合ってほとんど乳白色に見える遠浅の海がある。その向こうには、カッライス石のように緑がかった空色の、凪いだ海がどこまでも続いていた。砂浜の白から、輝く瑠璃色、空と海との境目を縁取る深い紺碧にいたるまで、海は何層もの波を経て色を変えていた。
ゲラードのいる場所から波打ち際まではかなりの距離がある。ゲラードの周囲には無数の潮だまりが残されていた。巨大な水鏡は穹窿の蒼をくっきりと映し、まるで天と地の両方から空に包まれているかのようだ。
吹き抜ける風が水面に漣をたてると、光は踊りながら、水中に虹の欠片をばらまいた。
ゲラードは、すぐ隣で気を失っているフーヴァルを揺さぶった。
「フーヴァル……フーヴァル!」
彼は低く呻き、濡れた砂と白い泥にまみれた顔をしかめた。
彼は目を開け、すぐに後悔して、きつく瞼を閉じた。それからまた恐る恐る瞼を開け、何度も目をしばたいた。
さっきのゲラードとまったく同じことをしている。だが、彼の反応はゲラードとは真逆だった。
「クソ」第一声がそれだった。「なんなんだよ、この場所は……」
「わからない」
ゲラードが言うと、フーヴァルはまた呻いて、持ち上げかけた頭を再び砂浜に横たえた。そしてごろりと寝返りを打ち、一糸纏わぬ身体を日の光の下に晒した。まるで身ぐるみはがされた酔っ払いだ。
だが、その身体を見て、ゲラードは考えを改めた。フーヴァルの身体は傷だらけだった。足と、それから腕に、無数の痛々しい傷が増えていた。ゲラードを抱きかかえて泳いでいるときに負ったのだろう。
「水を探さないと」ゲラードは言った。「歩けそうか? それとも抱えていこうか?」
「おい、俺を誰だと思ってやがる」
フーヴァルはフフンと笑って、砂浜の上に四つん這いになり……そのまま突っ伏した。
「ほら、無理をしないで」
ゲラードが慌てて手を貸す。フーヴァルの顔は、額から髭の先まで、砂と泥とで真っ白になっていた。こんな状況でなければ笑っただろうが、彼がこうなったのにはゲラードにも責任がある。
身体に力が入らないフーヴァルを抱え上げ──彼は尚も「俺は歩ける」と言い張った──砂浜に接する森の縁へと連れて行く。どうやらこの島は、広大な浅瀬と、岩がちな陸地とでできているらしい。そう広くもないこの島で湧き水や食料を手に入れるのは絶望的だろうと、ゲラードは冷静に考えた。だが、まずはフーヴァルを安全なところで休ませなくては。
森には椰子の木や、名前も知らない南方の木やらが生い茂っていた。膨れ上がったパン生地のような幹をした木が、崩れかけた巨石の隙間に根を張っている。葉は大きく分厚くて、頼もしい日よけになってくれそうだ。
「水を探してくる」ゲラードは言った。「君はここで休んでいてくれ」
「待て、俺も行く」フーヴァルが唸り、身体を起こそうとして──その場に頽れた。
「いいから休んで。今度は僕が、君を助ける番なんだ」
立ち去ろうとすると、フーヴァルはゲラードの足首を掴んだ。だが、容易く振りほどけるほど弱々しい。
ゲラードはため息をついた。
「すぐ戻るから──」
「駄目だ、行くな!」
フーヴァルは、ただの見栄でついて行くと言い張っているわけではないのだと、ようやく気付いた。ゲラードは彼の傍に片膝をついた。
「なぜ、怯えてるんだ?」
「怯えてなんかねえ」
言葉選びを間違えた。ゲラードは言い直した。「何を心配してる?」
するとフーヴァルは、巨石に背中を預けたままあたりを見回した。
「この島は、なにかおかしい」
「何かって……何が?」
わからん、と彼は言った。「お前を攫おうとした人魚が、何か言ってなかったか」
人魚。
そうだ。あの時舟をひっくり返されて──ゲラードは、水中で待ち構えていた人魚に攫われたのだった。
ゲラードは、気を失う前の記憶をなんとか思いだそうとした。いきなり海に放り投げられた衝撃と、いきなり抱え上げられた驚きとで、恐慌に陥りかけたのを覚えている。自分に回された腕がフーヴァルのものでないことはすぐに気付いた。暴れるゲラードの耳に聞こえたのは、不思議な、軋むような音と笛のような音。それから──。
「僕を硲の世界に連れて行く、と」ゲラードは言った。「そこで──」
「硲の世界だと?」
ああ。ああ、そうだ。ようやく思い出した。
「そこで……見つけろと言われた」
フーヴァルの顔が険しくなる。
「何を見つけろって?」
ゲラードは、フーヴァルを見た。
そうだった。ここには偶然流れ着いたのではない。導かれたのだ。
「自分自身を」
フーヴァルは思いきり顔をしかめた。「なんだそりゃ」
「僕にもわからない」ゲラードは途方に暮れて、肩を落とした。「でも、今はとにかく、飲める水を見つけないと。ふたりともここで乾ききってしまう──」
そのとき、唐突に雷鳴が鳴り響いたと思ったら、空が瞬く間に雲に覆われた。そして、まるで天が采配を誤ったのかと思うほどの勢いで、雨が降りはじめた。
ゲラードとフーヴァルは、しばらくの間それをぽかんと眺めていたが、ハッとして顔を見合わせた。
「水だ」
普通の島でないどころではなかった。
あの人魚──そういえば、どことなくフーヴァルに似ていた──は、ここを硲の世界と呼んでいた。それがどういう意味であれ、この島は、ゲラードが生きてきた世界の法則や常識とはかけ離れた場所にあるらしかった。それは、時間が経てば経つほどはっきりしていった。
真水の必要性を論じている最中に雨が降るなどというのは序の口だった。巨大な葉を丸めて作った即席の桶から溢れるほど水が溜まると、雨は嘘のように止み、また青空が広がった。森を歩けば乾いた薪が山ほど見つかり、ご丁寧に火打ち石まで転がっている。砂浜に戻れば、うたた寝していたフーヴァルの前に、まるで供物のように魚が打ち上げられている、という具合だ。
島を取り囲む浅瀬は、かなりの広範囲に亘って広がっていた。そして、海が深くなるところで、海水の色は唐突に深い碧に変わる。海水が澄んでいるおかげで、珊瑚礁や、そこに生息する色とりどりの魚たちの姿まで見ることができた。だが、そこから先へ泳いで行く勇気はなかった。少なくとも、ゲラード一人では無理だ。
時間が経っても潮が満ちる様子はなく、あたたかく穏やかな海水は、まるで産着のように島を包み込んでいた
フーヴァルは夜に期待をかけていた。星座の配置から大体の位置を知ることができるはずだと思っていたのだ。だが、当ては外れた。見知った星座は確かに見つけられたが、位置がてんでバラバラなのだ。同時に見えるはずのない冬と夏の星座が、まるで当たり前のように空に並んでいる。月までもが常識外れの方角から昇り、勝手気ままに夜空をうろついたかと思えば、いつの間にか姿を消していた。
フーヴァルの横顔は、ゲラードを不安にさせた。何しろ、出会ってからの四年の間で、これが初めてだったのだ──彼の心が挫けるのを見たのは。
彼は何も言わず、ただいつものように「クソッタレ」と吐き捨てただけだった。だが、その表情は暗く沈んだままだった。彼の力の原動力でもある、怒りの気配すら感じられない。
フーヴァルが着るための服がなかったので、ゲラードは自分の上着と下穿きとを彼に貸して、自分はシャツと脚衣を着ることにした。何度か手を怪我しながら焚き火をおこして、ようやく暖かい炎の恩恵にあずかった。
「どうやら、ここは文字通りの『硲の世界』らしい」ゲラードは、焚き火を見つめながら言った。「僕らの世界の常識がまるで通じない。食べ物も、水も、見返り無しに与えられる──まるで楽園だ」
「楽園なんてもんは存在しねえ」フーヴァルはむっつりと言った。
「だが、聖典には記されている。だろう? 神々と人とが交わって暮らしていた時代には、地上は楽園だった」
聖典──神話のはじめには、神々が名前を持たなかった時代が語られる。そのとき、この世界に争いはなく、飢えも、怒りも、悲しみも存在しなかった。
やがて神々の中から、特に力を持った何柱かが興る。陽神や月神、父なる嵐神──彼らは己を信奉するものたちを守り、雨や食料を与え、つつがなく暮らせるよう導いた。甘美な果物がそこら中で実をつけ、海は豊富な恵みを与えてくれた。神から与えられた食物には不思議な力があった。それをきれいに清め、もとあった場所に丁重に戻しておくことで、再び蘇り、また自分の元に戻ってくるのだ。
尽きることのない恵みの中で、人々は平和と繁栄を享受していた。
だが一柱の神の『贈り物』がすべてを変える。
黄昏の神・リコヴが人間に与えた『嘘』だ。
それをきっかけに、いままで平和だった世界には瞬く間に疑いが芽生えた。その疑いはやがて神にまで向けられ……争いが起こる。
長い、長い歳月をかけて、ようやく戦を制圧したのは陽神だった。彼は弟リコヴを追放し、彼を庇った月神をはじめとした、他の神々をも聖地から追放し、失墜させた。
陽神のもとで人間は栄え、月神は彼女に忠誠を誓う種族──人外を生み出した。二つの種族は時に共生し、時に争いながら、同じ時代を分かち合っている。そして、今の世界がある。
「ここは、太古の世界の……生き残りのようなものなのかも」
「やめろよ」フーヴァルは不機嫌に言った。「そういう寝言を聞きたい気分じゃねえ」
ゲラードはムッとして言った。
「ここが普通の島じゃないと言ったのは、君だろ」
「普通の島じゃないのは確かだ。俺が言ってんのは、楽園の生き残りだなんだってヤツの方だ」
それは失敬、とゲラードは言った。
機嫌の悪いときの彼と会話をするのは難しい。これ以上彼の神経を逆なでする前に、議論を打ちやめにした方が良さそうだ。
ゲラードは手の中にある魚の骨に意識を向けた。
もしこれが、神からの贈り物だとしたなら──それを火にくべて、焼いてしまうのは間違ったことのような気がする。
食べたものの骨はきれいに清め、もとあった場所に丁重に戻すこと。それは陽神教の信者が幼い頃に教わることだ。とは言え教わった傍から、こうした教えがすっかり形骸化してしていることを思い知ることになるのだが。家々から出るゴミを回収するものたちのことを骨洗いと呼ぶのは、この戒律のちょっとした名残だ。
ゲラードは波打ち際まで歩いて行き、魚の骨を海水で洗い清めた。半分は好奇心、もう半分は、奇妙な確信をもって。
やがて、魚の骨が浜の砂と同じくらいきれいになると、それは思い出したかのように震え、ひとりでに泳ぎ出して、ゲラードの手を離れた。
あっと声を上げる暇もなかった。白い骨が夜の海の深みへと消えて行く前に、魚は再び、銀の鱗を煌めかせていた。
26
島の神秘を語るゲラードの興奮ぶりとは対照的に、フーヴァルはどんどん不機嫌になっていった。
自分の身体を思うように動かせない苛立ちと、慣れない環境とが彼を苛んでいるのだろう。ゲラードは彼の気分を上向かせようと、探索する度に見つかる様々な果物を土産にした。だが、彼は滅多に口をつけなかった。島に流れ着いて三日目の昼、とうとうフーヴァルは、のべつ幕なしに喋りまくる──と彼は言った──ゲラードに向かって「一人にしてくれ」と怒鳴った。
「苛立っても仕方ないだろう」ゲラードは冷静に諭そうとした。「君の体力が回復したら、ここから出ていく方法を考えよう。それまでは体力をつけて待つしかない」
そんなことは、フーヴァルだって百も承知のはずだ。だが、彼は意固地になっていた。
あの嵐の海のただ中で見ていたという幻影についても、彼はほとんど何も語らなかった。見たくないものを見たらしいことだけはゲラードにもわかった。けれど、それだけでは何の助けにもならない。
そう、問題は、彼が助けを求めないことなのだ。
結局ゲラードは、フーヴァルの望み通りにするしかなかった。彼を一人にして、島の探索に出ることにした。
どうやらここは厳密には一つの島ではなく、いくつかの小さな島が、白い砂浜によって三日月のような形につなぎ合わされたもののようだった。ゲラードとフーヴァルが流れ着いた岸は弧の先端にあった。いまふたりがいるのも、そこだ。これまでの探索では、ふたりがいる場所から三つ目の島までしか足を伸ばしていない。今日は島の隅々まで見てやろうと、ゲラードは意気込んでいた。
人魚は、ここで自分自身を探せと言った。だが、自分を探すよりもまず、ゲラードは、『硲の世界』がどういうものなのかを理解しようとしていた。
足下の白い砂は柔らかく、あたたかい。貝を背負った色とりどりのヤドカリや、小さな蟹を踏まないように注意しながら、ゲラードは歩いた。森からは何十種類もの鳥のさえずりが、海の方からは笑いさざめくようなイルカたちの声が聞こえている。木立の間に分け入れば、瞬きをする度に違う虫の姿を目にした。宝石のような甲虫や輝く羽を持つ蝶たちが、目の覚めるような色の花に憩っている。酔うほどに濃く甘い香りにひかれてやってくるのは虫ばかりではない。親指ほどの大きさの鳥が、目にも留まらぬ早さで羽根を動かしながら空中に静止し、長い嘴の先から蜜を飲んでいた。
楽園──あるいは硲の世界。どういう名前で呼ぶにしろ、ここが生命の宝庫であることは間違いなかった。
「ここには、あらゆる生命が存在しているようだ」ゲラードは呟いた。
ふと、頭の中に閃きが過る。
あらゆる生が存在している。見返りを求められることもなく、惜しみなく与えられる。
だが、どこを探しても見つからないものが一つだけあった。
『死』だ。
この発見をどう考えたらいいのだろうかと考えながら、ゲラードはあてどもなく歩いた。そうこうしているうちに恵みの雨が降りはじめ、日に焼けて火照った肌を癒やしてくれた。ゲラードは、一ナート先も見えないほどの雨の中を、半分手探りで進んだ。どこかで雨をしのげる場所を見つけなければ。すぐ止むとは言え、雨宿りもせずに待つには勢いが強すぎる。
その時、視界の端を何かが過った。
鳥ではない。獣にしても、大きすぎる。この島に熊が生息しているというならば話は別だが。
「僕らの他に、誰かいるのか……?」
勢いを増してゆく雨に視界を遮ぎられながら、ゲラードは、人影が消えた辺りに向かった。すると、降りしきる雨の幕の向こう側に、再びその人の背中を見た。遠くて、顔はおろか体型さえわからない。ゲラードは、それが敵である可能性をほんの一瞬考えた後で、自分の直感を信じることにした。
「おーい!」
声をかけると、その人影は立ち止まり、辺りを見回した。するとようやく、ゲラードにも彼の顔が見えた。
彼は──どういうわけか、懐かしさを抱かせる風貌をしていた。
壮年の男だ。この島での生活が長いのか、服はすり切れ、一つ一つの動作にも疲れが見える。だが、彼が顔を巡らして、はっきりとこちらを見返したとき、ゲラードはハッとした。その目の色が、自分ととてもよく似ていたから。だが、驚きに打たれるゲラードをよそに、彼はふいと顔を逸らした。幻影を見ているとでも思ったのだろうか──彼は再び歩き出した。何かを断ち切るように足早に。
「待って!」
ゲラードは駆けだしたが、濡れた砂浜に足を取られて思うように進めなかった。結局、追いつくことはできず、男は跡形もなく姿を消した。
消えた人影を──その気配を追って歩くうちに、ゲラードは大きな岩山にたどり着いた。そびえ立つ岸壁にはちょうど良く亀裂が入っていて、木の根がそれを押し広げている。隙間に身体を押し込んでみると、奥にはもっと開けた場所があることがわかった。好奇心に駆られてさらに奥へと進むと、広い洞窟に出た。
そして、空気が変わった。
雨のせいではない。日が当たらぬせいでもない。ただ、この洞窟の中には、外とは違う──研ぎ澄まされた空気が満ちている。
岩壁のほとんどを、洞窟の上からおりてきているらしい木の根が覆っていた。光源もないのに、洞窟内は奇妙に明るい。訝しみつつ足を踏み出すと、踝のあたりまで溜まった水に足が浸かった。木々はこの冷たく澄んだ水に向かって、根を伸ばしているのに違いない。ということは、これは真水なのだ。
岸壁を覆う木の根にしがみつきつつ、先へと進む。よく見ると、編み目のように張り巡らされた根の下に、なにかがあることに気付いた。細い根をそっと岩から剥がして、目をこらす。
ゲラードは目を瞠った。
「これは……」
壁画だった。
何を描いたものなのかは、よくわからない。どれも不可思議な形をしている。
星、あるいは太陽と月のような模様だったり、本能的な衝動を思わせる曲線だったり。気を失う直前に瞼の裏に浮かぶような色彩の爆発の中に、何か意志を持つ存在が描き込まれていた。
様々な色合いの渦や点線に彩られた、獣じみたなにか。いくつもの輪を身に帯びた球体。虹色の蛇。赤や緑の羽根を持つ鳥。宙を泳ぐ魚。そして、小さな蝶。
夢の中にしか存在しない存在。
ゲラードはこの存在を知っていた。思わず壁画に手を触れて、呟く。
「君は……こんなところにいたのか」
ゲラードは、壁画に描かれた友に導かれるように、さらに奥へと進んだ。
†
この島についてから、ずっと感じていた居心地の悪さから、どうしても抜け出せない。
怪我は治っていたし、飢えているわけでもない。それなのに、自分の中から何かが吸い出されてゆくような不快感──ほとんど恐怖に近い焦燥のようなものを、フーヴァルは感じていた。
この島は普通じゃない。
あの人魚が言ったという『硲の世界』という言葉が何を意味するにせよ、この世の理から外れた場所であることは間違いない。
そういう場所は大抵が妖精の縄張りで、吸い込まれたら最後、二度と出られるかもわからない。運良く出られたとしても、二百年後──あるいは二百年前──の世界に放り出されて、右も左もわからないまま死ぬことになりかねない。そういう妖精の悪戯を面白おかしく語った物語は腐るほどある。
おとぎ話に興味はないが、その教訓には耳を傾ける価値がある。
怪しげな木の虚だとか、穴とか、隙間とか、硲には絶対に近づくな、ということだ。
それなのにあの王子様ときたら、脳天気に島を探険して回っている。
フーヴァルはため息をついて、巨石にもたれた。
力をつけて、ここを抜け出して、早く仲間の元へ帰らなければ。
いまやマリシュナ号は船長抜きで、オルノアの宝に目がくらんだ有象無象や、ジャクィスから逃げなければならなくなった。
ジャクィス。
彼との再会の、いったいどこからどこまでが幻だったのかはわからない。けれど、彼が死んでいなかったことは間違いないのだろう。フーヴァルの動揺を引き出そうとして他人がなりすましたにしては、彼はあまりに……ジャクィスだった。
早く、戻らなければ。
しかし、そう思う心の裏側で、戻ってどうなるという疑問が湧いてしまう。
ジャクィスの言葉は、毒のように身体を巡っていた。
──まさか、お前がエイルのために粉骨砕身してるなんて、誰が思う? 陸でも、ホライゾンでも、アラニですら居場所を見つけられずに、逃げちまったお前が?
逃げたんじゃない。俺が連中を見限ったんだ。
──フェリジアに追われている最中、オチエンはずっとお前のことを話してたよ。アールがここにいれば、アールがいてくれたら──ってな。それでお前はどこにいた? どこにいたんだよ、アール!
俺は皆のところに戻ろうとしてたんだ。
けれど、オチエンにはそんなこと、知るよしもない。
彼はフーヴァルの裏切りに失望しただろうか。いざというときに姿をくらますフーヴァルより、最後まで傍で戦ったジャクィスを頼もしく思っただろう。
その通りだ。俺は逃げたんだ。俺はいつも……そうやって逃げる。
そもそも、俺はそんなにご立派な存在じゃないんだと、心の中ではわかっている。なのに、彼らが見たがる幻を装うのをやめることができない。
〈浪吼団〉の団長。マリシュナ号の船長。〈鮫喰らい〉のフーヴァル。
その幻を、本物にすることができたら。
けれど、そうやってあがく度に間違える。そして裏切る。失望させる。そして逃げる。
いつだってそうだ。
フーヴァルは、顔の周りを飛び交う蠅をはらう気力もないまま、そうしてぼんやりと海を眺めていた。
ほとんど茫然自失していたせいで、視界の中で、不意に浅瀬が盛り上がり、その中から人影が立ち上がるのを見ても、すぐには反応できなかった。瞬きをしてようやく気付いた時には、来訪者は、大きな目でフーヴァルの顔を覗き込んでいた。
彼は言った。
「ねえ……生きてるよね?」
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