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22
たちの悪い悪夢のように、あの忌々しい歌がいつまでもフーヴァルを追いかけてきた。
たとえ銀の短剣を持っていようが、四人がかりだろうが、妙な薬を嗅がされようが、ただの人間がフーヴァルに勝てる見込みはない。
人間と殴り合うときには人間の力に合わせてやるのがフーヴァルの信条だったが、四人がかりで一人を仕留めようとするなら、相手は人間ではなくケダモノだ。本気を出したフーヴァルの手にかかった四人の襲撃者は、あっという間に石畳の上のゴミに変わった。
「口ほどにもねえ……」
腕を食いちぎったときに口に入った血を唾と一緒に吐き出しながら、フーヴァルは混乱にごった返す通りを走った。
可愛い可愛いわたしの坊や
アール・ライリー オー
調子っぱずれの歌が、街の至る所から聞こえてくる。自分を追ってる者の声なのか、幻聴なのかもわからない。
俺はいま、ちゃんと走れているのだろうか? それとも、ここはすでに悪夢の中で、本当の俺は地面に倒れたまま無様に足をびくつかせてるだけなんじゃないか?
アール・ライリー。ホライゾン号で、フーヴァルはそう呼ばれていた。
蒼き刃の本当の名前を知る者は多くない。例外が、この異名を手に入れる前──子供の頃からの知り合いだ。ほとんどは死んだが、オチエンの盟友、イグナシオ・パドロンは……まだ生きている。
なにが、亡き盟友の秘蔵っ子だ。
おそらく、親父があの噂を聞きつけた時点で、フーヴァルの首には懸賞金がかかっただろう。オルノアの財宝を手に入れるためなら、あいつは実の子供にだって懸賞金をかける。
奴らが行動に起こすまでに時間がかかったのは、連中が〈鮫喰らい〉への恐怖と、親父への恐怖を天秤にかけていたからだ。結局、勝ったのは親父らしい。
「クソッタレ……!」
世界が回転しはじめ、足をまともに動かすこともできない。踏み込んだ先から地面が崩れ、奈落の底に落ちてゆく。
あの赤い霧の薬が何であれ、即効性のある毒は消えるのも早い──はずだ。あとどのくらい持ちこたえたらいい? そもそも、持ちこたえられるのか?
どこにいるんだ 可愛い坊や
見つけて殴ってふん縛りゃ
至上の宝は俺らのもの
三回目の花火があがる。
四回目があがる頃には、出港準備が整う。いざというときには、フーヴァル抜きでも出港するようにと言ってある。有象無象に群がられて身動きがとれなくなる前に、さっさとここから逃げて欲しい。
俺は何としてでも、あいつを連れて逃げなければ。
さっきあの店で、ゲラードを自分の見世物に巻き込んだ。どっちがどっちのスケだろうと、フーヴァルとの繋がりがあることがわかれば、親父はそれを利用する。
馬鹿だった。自分のしたことを後悔するなんて滅多になかったのに。あいつのことになると、後悔ばかり重ねている気がする。
「ゲラード……」
もう一度会えたら、謝って、逃げて……違う。まず逃げて、それから謝って──
「フーヴァル!」
顔を上げると、目の前にゲラードがいた。血相を変えて、フーヴァルの顔を覗き込んでいる。
「この血──それにその顔……!」
謝りたいと思った矢先に、目の前に連れてきてくれるとは、なんて都合の良い悪夢だろう。いや、現実か。悪夢みたいな現実。現実みたいな悪夢。
「悪……かった」フーヴァルは、海鼠並に腫れ上がった舌で言った。「お前に……あやまらねえと」
ゲラードはまったく聞いていなかった。
「船長は確保した! 急ごう!」
「ああ! 港はあっちだ!」
どうやらもう一人、ワトソンが一緒にいるらしい。彼はマリシュナ号の乗組員の中でも最高に腕の立つデーモンだ。手には血のついたカットラスを持っている。すでに何人か殺したあとなのだろう。
護衛までつけてくれるとは、なんて親切な悪夢なんだ。いや、現実か。
ゲラードはフーヴァルの肩を担ぐと、もの凄い勢いで走りはじめた。人混みが溶けて、色彩の群れのように背後に流れていく。
「花火はもう三回あがった!」息を弾ませながら、ゲラードが喋っている。「頑張れ! 港はもうすぐそこだ!」
その時、あの大砲のような音が、確かに聞こえた。
「無駄だ……四発目が鳴ってる」
フーヴァルは、自分がボロ人形になったように感じた。空中で上下に揺さぶられる度に、手足をばたつかせる子供の玩具。
「そうじゃない! あれは大砲の音だ!」ゲラードが耳元で叫んだ。
ワトソンも叫んだ。「畜生! マリシュナが攻撃を受けてる!」
「なんだと……? クソ……」
不意に、開けた場所に出た。視界は相変わらずゲロみたいにぐちゃぐちゃだが、港に着いたのだと言うことはわかった。
「野郎どもは……全員船に乗ってるか?」
ゲラードは「ええ!?」と言ったあとで、周りを見回した。「ああ、乗ってる。あとは僕たちだけだ!」
「よし……」
ワトソンが叫んでいる。「桟橋まで行けば、ヘインズの結界の中に入れる! そしたらロープを下ろしてもらって、船長を上から──」
「そんな時間はねえ」舌がようやく、海鼠から海牛くらいの厚さに戻った。
「ワトソン! ガル! お前らは先に行って船を出させろ。全速力で、なるべく遠くまで行け」
「フーヴァル!?」ゲラードがうわずった声を出す。
「船長はどうすんです!?」
「いいから、さっさとしろ!」
ゲラードがそれでもまだ離れようとしないので、フーヴァルは思いきり押しやった。
「しっかりしろ! お前らはマリシュナの船乗りだろうが!!」
ゲラードが歯を食いしばる。「しかし──」
「了解! 船長!」
ワトソンは半分怒鳴るように言い、ゲラードの手を引っ張って走って行った。
よし。
フーヴァルは、自分の手足の位置を改めて確認した。両腕は肩の下、両脚も、ちゃんとケツの下についている。走りはまだおぼつかないが、それでも前進してはいる。
歪んでいた視界が、徐々に元に戻ってきた。
マリシュナ号の船尾には飛び道具の腕に自信がある連中が集まり、港に向かって、まるで雨のように矢や魔法を射かけている。放たれた氷の礫が、フーヴァルのすぐ後ろで弾けた。
「その調子だ、野郎ども……」
海まではあと三〇ナート。そこら中にゴロツキどもの死体が転がっているが、道はできている。船上からの援護射撃が、フーヴァルを守っている。だが、背後からはほとんど暴徒と化した海賊どもが追ってきていた。マリシュナ号の他の船も、出港準備を進めている。港を出るだけでは駄目だ。連中が追いかけてくることができないように、叩き潰さなければ。
全帆展開したマリシュナ号は速やかに速度を増し、援護射撃の矢が届かない範囲まで離れてゆく。おそらくヘインズが、帆に鷲の紋章を浮かび上がらせているのだろう。全ての風を集めて全速力を出すための、とっておきの魔法だ。
「よし……そのまま進み続けろよ」
だが、ここでフーヴァルが追っ手に追いつかれたら、一巻の終わりだ。
足の感覚は、ほとんど戻っていた。
大丈夫だ。いける。
いける。
港の終わりが近づく。海面には空き瓶や紙くず、腐った野菜に死んだ鼠が浮かんでいる。水は濁り、いやなにおいを発していた。
フーヴァルは躊躇わず、その海面に飛び込んだ。
「海に落ちたぞ!」と、追っ手の誰かが叫ぶ。
飛び込んだんだよ、阿呆め。
冷たい海水が身体を包む。水の温度が染みこんでゆくほどに、怒号が、喧噪が、街の灯りが遠ざかる。
ここは安全だ。ここでは誰も、俺に追いつけない。
皮膚の下を、言葉では言い表しようのない力が駆け抜けてゆく。頭のてっぺんから、首筋から、背中から、腰、そして爪先まで。力は身体の中で渦をまき、その渦に巻かれて、肉体がバラバラになり……また組み合わさる。そしてフーヴァルは、いままでとはまったく別の姿になった。
妖精の姿に。
海を総べる一族──人魚の姿に。
23
できることなら船尾に齧り付いて、フーヴァルが無事なのか、船に追いつけるかどうか見ていたかった。だが、船はヘインズの魔法によって全速力で港を離れている。帆船を動かすのは舵と帆だ。舵は一人でも扱えるが、帆はそうもいかない。操帆の角度を一つ間違うだけで、港の周辺に停泊する船や岩礁に突っ込んでしまう恐れがあった。ゲラードは、限界まで膨らんだ帆を制御する他の掌帆手と同じように索具を握った。
大丈夫だ。彼なら生き延びられる。
でも、もし大丈夫じゃなかったら?
『もし』を考えるだけで、心臓が破裂しそうになる。
どうして立ち向かわずにはいられない? どうして逃げるという選択肢を素直に選ばないんだ?
船は、あっという間に沖に出た。帆脚索を固定し、あとは風が導くまま、可能な限り遠くへ逃げる。しかし、追跡する船についての報告は止まなかった。まず二隻、それから五隻に増え、イサス・ボテラの島影から二隻が姿を現し、合計七隻の船がマリシュナ号を追ってきた。
アーナヴはゲラードを近くに呼び、浮球儀の観測を命じた。
「彼らは、この船にフーヴァルが乗っていると思っている……?」
「いいや。拿捕すればフーヴァルをおびき寄せることができると踏んでるんだろう」アーナヴが言った。「良くも悪くも、あいつは有名になりすぎた。あいつがマリシュナを見捨てないのは誰だって知ってる」
ゲラードは俯いて、下唇を噛んだ。
「なら、この船が逃げ切ることができたら……僕らの勝ちということ」
アーナヴは眉を上げた。
「フーヴァルが、話したか」
何のことを言われているのか、すぐにわかった。
彼が人魚の血を引いているということだ。ゲラードは頷いた。
「ならわかるはずだ。あいつなら心配いらない。問題は、俺たちがどれだけ早く逃げられるか」
しかし、彼が人魚なのは半分だけだ。七隻の船に追われているときに、それで事足りるのか、ゲラードには知るよしもない。
「そう……だと良いんだが」
その時、何か──耳には聞こえない音を聞いたような気がして、ゲラードは顔を上げた。
「どうかしたのか?」アーナヴが心配そうにゲラードを見る。
「今……」
まただ。また、聞こえた。
今度ははっきりとわかった。あれは──
「フーヴァルの声がする」不思議だ。とても理解できない言語なのに、それでも彼の声だとわかる。「歌を……歌っているみたいだ」
「何だと!? あの野郎」アーナヴが反射的にあたりを見回す。舵柄のある甲板は壁に囲まれていて、窓からしか外を見ることができない。彼は苛立たしげに唸って、言った。
「船尾楼甲板に登って、確認してこい」
動揺したアーナヴの顔に、青白い鱗が微かに現れていた。デーモンとしての彼の素顔だ。
「了解!」
駆け出そうとしたゲラードの腕を掴んで、彼はこう付け加えた。
「もし黒雲が見えたら、全ての帆を畳むよう、すぐに号令をかけるんだ。いいな?」
ゲラードは頷き、全速力で船尾を目指した。
「ガル!? こんなとこで何してんだ?」
船尾楼甲板の見張りについていたのはワトソンだった。
「アーナヴに言われてきた。雲は──」
まだない。だが、それよりもっと不吉な影が、こちらに近づいてきていた。
七隻の追跡者。いずれも、それぞれの海賊旗を掲げている。
ダイラで目を通していた報告書で読んだ覚えがあるものばかりだ。ジェフリー・オドネル船長のブラック・ブル号、アントン・セシル船長のハングドマン号……薔薇を咥えた髑髏の旗は、フェリジアのルナール・バイエ船長のトルテュ・ド・メール号だろう。他にも、マルディラのエンパラール号に、ソネット・ブラウ号……最後に島影から姿を現した、一番後ろにいる船の正体だけがわからなかった。あの海賊旗はなんだろう。蔓か何かのように見えるが、よく見えない。
「あいつら、きっと地の果てまで追ってくる」ワトソンが言った。「追いつかれたら、今度こそ終わりだ」
フーヴァルの声は、相変わらず聞こえていた。
吹きすさぶ風や、軋む索具の音、潮騒を圧して、さっきよりもはっきりと。
「あの歌が聞こえるか?」ゲラードはワトソンに訊いた。
「歌!? いいや」ワトソンは慌ててあたりを見回した。「お前には聞こえてるのか? 俺には何も……」
なら、これは僕の耳だけに聞こえているのだ。
前に聞いた人魚の歌のような、滑空する鳥を思わせる滑らかな声ではない。低く掠れて、時にひび割れたような荒さがある。だが、その響きには……力があった。荒ぶるものを手懐け、虜にし、彼らの中に潜む怒りを掻き立てて、歓喜と共に解放させる──そんな、扇情的とさえ言えるほどの力が。
そして、来るべきものがきた。
最初にやって来たのは風だった。生温かく湿気をはらんだ風が、七隻の船が浮かんでいる方角に向かって吹きはじめる。波が高まり、うねりはじめ……そして、夜の空から星が消えた。海上の空に、まるでインクを溢したかのように唐突に、漆黒の雲が現れる。
そう、あれは嵐を呼ぶ歌だ。
「帆を畳め!」ゲラードは叫んだ。「縮帆しろ! 全ての帆を畳むんだ!」
号令は繰り返されながら船首まで伝わった。その間にも雲は成長を続けた。渦を捲く乱雲のただ中で、今まさに、嵐が生まれ出ようとしていた。
瞬く間に膨れ上がる黒雲の中で、脈動のような稲光が、脅かすように夜の海を照らし出す。轟く雷鳴は、今にも襲いかかろうとする獣の唸りのようだった。
やがて礫ほどもある大粒の雨が降りはじめ、七隻の船は、雨の窓帷と夜闇の向こうに消えてしまった。空を裂くような霹靂があたりに響き渡り、光の柱が海と空とを繋ぐ。そして、嵐が幕を開けた。
荒波のようにうねり、昂ぶるフーヴァルの歌に追従するように、陣太鼓のような雷鼓が響く。狂おしいまでの旋律に、ゲラードは胸を掴まれた。魅了された。ゲラードだけではない。風が、波が、雨粒が、嵐そのものが、彼の紡ぎ出す歌に身もだえしているようだった。
大粒の雨に打たれ、びしょ濡れで、船は木の葉のように荒波にもまれていたけれど、マリシュナ号の船乗りたちは少しも堪えていなかった。それぞれの喉から、雄叫びや、遠吠えや、でたらめな笑いが迸っていた。
「これが……君の血」ゲラードは我知らず呟いていた。「君の力か……!」
「ガル!」掌帆長のルーが叫んだ。「お前も来い! そんなところに突っ立ってると、海に落ちるぞ!」
「了解!」
濡れて、不安定に揺れる甲板をよろめき歩きながら、メインマストの根元にある止索柵に向かっていく。嵐の時に甲板で身を守るには、丈夫なマストと繋がった索を掴んでいるのが一番安全だ。
だがその時、ゲラードは、それまでとはまったく違う音を聞いた。フーヴァルが奏でる人魚の歌でも、がなり立てるような舟歌でもない。嵐や、船がたてるいかなる音でもない。
空耳だろうか? いや、違う。
笛。
あれは……。
「嘘だろ」オーウィンが、ガタガタと震え出した。「ああ……ちくしょう……奴らが来やがった……!」
角笛だ。
そして、息を詰まらせるような悪臭がやってきた。
船員たちは、索を掴んだまま互いの顔を見交わした。そこに浮かんだ恐怖を、絶望を、なすすべもなく分かち合った。
その時ゲラードは、強烈な腐臭に滲む涙の向こう──暗い波間に、ぼんやりと光るものを見た。
こんなところに、あんな昔の船があるはずがない。だが、あるのだ。それは嵐の海をものともせず、平然と浮かんでいた。
青白い光を放つ、竜頭船。それが、瞬く間に数を増やし、まるで無数の漁り火のように海面を埋め尽くした。あらゆる種の、あらゆる時代の男たちを方々からかき集めて船に詰め込んだかのように、亡霊たちの着ているものはバラバラだ。彼らは統制された動きで橈を操り、この暴風雨の中、音もなく、ある一点を目指して進んでいる。
「臭いを嗅ぐな!」アーナヴが、抑えた声で言った。「目を開けるな。物音も立てるな。身を伏せて、じっとしていろ……奴らの注意を引くな」
だがゲラードは索を手放し、再び船尾に向かっていた。
「ガル!」
鋭く囁くアーナヴの声がしたが、止まれなかった。
「フーヴァルが……!」
フーヴァルが、危ない。
†
角笛の音が聞こえた……それで、気付いたら……昔の船さ──竜頭船と言うんだったかな? それがもう、海原を埋め尽くしていた。二百艘はあったんじゃないだろうか……みな異なる服を着ていた。別の国、別の時代の人間を、無理矢理一カ所に集めたみたいだったよ……。
あの男の話が真実だったことを、こんな風に確かめるつもりはなかった。
まさか、人が住む島のこんなに近くにまで出没するとは。
幽霊は生気を嫌うものだ。たとえ誘導されたとしても、生きた人間が大勢集まっている場所には近づくまいと思っていた。だが、奴らは現にここにいる。
数千人の酔っ払いどもの生気など屁でもないくらい、力を増しているのだ。
あの飲んだくれの話は概ね正しかったが、一つだけ間違っていた。船の数は、二百艘なんてものじゃない。三百はある。
幽霊の目当ては、嵐の中で藻掻いている六隻の船だ。その証拠に、ヴェルギル──シルリク王の幽霊が、フーヴァルが喚んだ嵐のまっただ中にいる。
こんなに強風が吹き荒れているにもかかわらず、おぞましい腐臭があたりに漂っていた。
フーヴァルは、幽霊たちに見つからないよう海中に潜った。だが、この状態で船まで戻るのは至難の業だ。荒れ狂う波のせいで思うように進めず、大きなうねりの中を、身を捻るようにして進んでゆくしかない。月明かりもない夜の海にいると、前と後ろ、上と下の感覚さえわからなくなる。
唯一の手がかりが、波の上に浮かんでいる幽霊船の群れだ。どの船もみなシルリクの幽霊に船首を向けていたから、船尾がどっちを向いているかさえわかれば、この場から遠ざかることはできる。
マリシュナ号が、十分遠くへ逃げていてくれれば良いが。
不意の嵐に戸惑う魚たちと並んで泳いでいるうちに、ようやく、虚ろに光る船影がまばらになってきた。
この姿になることを拒否し続けたせいで、泳ぎには慣れていない。覚悟はしていたが、ひどく消耗している。波にもまれて海底の岩にぶつかり、いくつも傷を負っていた。鮫は血のにおいにひかれてやってくる。この嵐の中で食事をするほど馬鹿ではないだろうが、もし囲まれても、今の自分では戦えない。
とにかく、すぐにでもマリシュナ号にたどり着かなければ。
皆の無事を確認しなくては。仲間を失えない──もう二度と。
焦るほどに、尾びれの動きがぎこちなくなる。そして焦るほどに、正常な判断力は失われた。
嵐の領域から離れて、波が落ち着いてきた。暗い海に浮かぶ巨大な船底を見て、フーヴァルはそれを……マリシュナ号のものだと思いこんだ。追っ手は全員嵐に沈めたし、自分は間違いなく、仲間の逃げた方向に進んでいると思っていたのだ。
波間に顔を出し、あたりを見回す。幽霊船はいない。
ほっと息をついて、上を見る。
そしてようやく、それが自分の船ではないことに気がついた。
雲間から覗く星明かりを背景に、棚引いているのは──大烏賊の海賊旗。
「こいつは……」
「よお!」
船尾に設えられた船尾回廊に、人影があった。姿は見えなくても、あの声を聞けばわかる。
頭を殴られたかのような衝撃と、目眩。
俺はまだ、夢を見ているのだろうか。
呆然としていたせいで、あたりに注意を払うことさえしていなかった。だが、もし警戒していたとしても、逃れることはできなかっただろう。水面下を横切る白い影に気付いた時には、もう手遅れだった。その白い影──いくつもの白い影が、渦巻きながらフーヴァルを取り囲んだ。
「ぐ……!」
ぬめるものがフーヴァルの尾びれ、腰、胴体に巻き付き、きつく締め上げる。まるで何百もの口に噛みつかれたような痛みが、全身に走った。
「ああ……っ!」
それは一本の太さが木の幹ほどもある触手だった。藻掻き、引っ掻いても、びくともしない。噛みつくと、それは怒りを露わにするように色を変え、また元の色に戻った。まるで──いや、これはまさしく烏賊の脚。あの男が言っていた、化け物烏賊の脚だった。
無数の脚にがんじがらめにされたまま、フーヴァルは船尾回廊にいる男のところまで持ち上げられた。彼が掲げていたランタンのおかげで、その顔も、奴が浮かべていた笑顔も、はっきりと見えた。
「可愛い可愛いわたしの坊や」
古い、古い友が、フーヴァルを見下ろしていた。
「ジャクィス・キャトル……?」
彼は言った。
「久しぶりだな! アール・ライリー!」
たちの悪い悪夢のように、あの忌々しい歌がいつまでもフーヴァルを追いかけてきた。
たとえ銀の短剣を持っていようが、四人がかりだろうが、妙な薬を嗅がされようが、ただの人間がフーヴァルに勝てる見込みはない。
人間と殴り合うときには人間の力に合わせてやるのがフーヴァルの信条だったが、四人がかりで一人を仕留めようとするなら、相手は人間ではなくケダモノだ。本気を出したフーヴァルの手にかかった四人の襲撃者は、あっという間に石畳の上のゴミに変わった。
「口ほどにもねえ……」
腕を食いちぎったときに口に入った血を唾と一緒に吐き出しながら、フーヴァルは混乱にごった返す通りを走った。
可愛い可愛いわたしの坊や
アール・ライリー オー
調子っぱずれの歌が、街の至る所から聞こえてくる。自分を追ってる者の声なのか、幻聴なのかもわからない。
俺はいま、ちゃんと走れているのだろうか? それとも、ここはすでに悪夢の中で、本当の俺は地面に倒れたまま無様に足をびくつかせてるだけなんじゃないか?
アール・ライリー。ホライゾン号で、フーヴァルはそう呼ばれていた。
蒼き刃の本当の名前を知る者は多くない。例外が、この異名を手に入れる前──子供の頃からの知り合いだ。ほとんどは死んだが、オチエンの盟友、イグナシオ・パドロンは……まだ生きている。
なにが、亡き盟友の秘蔵っ子だ。
おそらく、親父があの噂を聞きつけた時点で、フーヴァルの首には懸賞金がかかっただろう。オルノアの財宝を手に入れるためなら、あいつは実の子供にだって懸賞金をかける。
奴らが行動に起こすまでに時間がかかったのは、連中が〈鮫喰らい〉への恐怖と、親父への恐怖を天秤にかけていたからだ。結局、勝ったのは親父らしい。
「クソッタレ……!」
世界が回転しはじめ、足をまともに動かすこともできない。踏み込んだ先から地面が崩れ、奈落の底に落ちてゆく。
あの赤い霧の薬が何であれ、即効性のある毒は消えるのも早い──はずだ。あとどのくらい持ちこたえたらいい? そもそも、持ちこたえられるのか?
どこにいるんだ 可愛い坊や
見つけて殴ってふん縛りゃ
至上の宝は俺らのもの
三回目の花火があがる。
四回目があがる頃には、出港準備が整う。いざというときには、フーヴァル抜きでも出港するようにと言ってある。有象無象に群がられて身動きがとれなくなる前に、さっさとここから逃げて欲しい。
俺は何としてでも、あいつを連れて逃げなければ。
さっきあの店で、ゲラードを自分の見世物に巻き込んだ。どっちがどっちのスケだろうと、フーヴァルとの繋がりがあることがわかれば、親父はそれを利用する。
馬鹿だった。自分のしたことを後悔するなんて滅多になかったのに。あいつのことになると、後悔ばかり重ねている気がする。
「ゲラード……」
もう一度会えたら、謝って、逃げて……違う。まず逃げて、それから謝って──
「フーヴァル!」
顔を上げると、目の前にゲラードがいた。血相を変えて、フーヴァルの顔を覗き込んでいる。
「この血──それにその顔……!」
謝りたいと思った矢先に、目の前に連れてきてくれるとは、なんて都合の良い悪夢だろう。いや、現実か。悪夢みたいな現実。現実みたいな悪夢。
「悪……かった」フーヴァルは、海鼠並に腫れ上がった舌で言った。「お前に……あやまらねえと」
ゲラードはまったく聞いていなかった。
「船長は確保した! 急ごう!」
「ああ! 港はあっちだ!」
どうやらもう一人、ワトソンが一緒にいるらしい。彼はマリシュナ号の乗組員の中でも最高に腕の立つデーモンだ。手には血のついたカットラスを持っている。すでに何人か殺したあとなのだろう。
護衛までつけてくれるとは、なんて親切な悪夢なんだ。いや、現実か。
ゲラードはフーヴァルの肩を担ぐと、もの凄い勢いで走りはじめた。人混みが溶けて、色彩の群れのように背後に流れていく。
「花火はもう三回あがった!」息を弾ませながら、ゲラードが喋っている。「頑張れ! 港はもうすぐそこだ!」
その時、あの大砲のような音が、確かに聞こえた。
「無駄だ……四発目が鳴ってる」
フーヴァルは、自分がボロ人形になったように感じた。空中で上下に揺さぶられる度に、手足をばたつかせる子供の玩具。
「そうじゃない! あれは大砲の音だ!」ゲラードが耳元で叫んだ。
ワトソンも叫んだ。「畜生! マリシュナが攻撃を受けてる!」
「なんだと……? クソ……」
不意に、開けた場所に出た。視界は相変わらずゲロみたいにぐちゃぐちゃだが、港に着いたのだと言うことはわかった。
「野郎どもは……全員船に乗ってるか?」
ゲラードは「ええ!?」と言ったあとで、周りを見回した。「ああ、乗ってる。あとは僕たちだけだ!」
「よし……」
ワトソンが叫んでいる。「桟橋まで行けば、ヘインズの結界の中に入れる! そしたらロープを下ろしてもらって、船長を上から──」
「そんな時間はねえ」舌がようやく、海鼠から海牛くらいの厚さに戻った。
「ワトソン! ガル! お前らは先に行って船を出させろ。全速力で、なるべく遠くまで行け」
「フーヴァル!?」ゲラードがうわずった声を出す。
「船長はどうすんです!?」
「いいから、さっさとしろ!」
ゲラードがそれでもまだ離れようとしないので、フーヴァルは思いきり押しやった。
「しっかりしろ! お前らはマリシュナの船乗りだろうが!!」
ゲラードが歯を食いしばる。「しかし──」
「了解! 船長!」
ワトソンは半分怒鳴るように言い、ゲラードの手を引っ張って走って行った。
よし。
フーヴァルは、自分の手足の位置を改めて確認した。両腕は肩の下、両脚も、ちゃんとケツの下についている。走りはまだおぼつかないが、それでも前進してはいる。
歪んでいた視界が、徐々に元に戻ってきた。
マリシュナ号の船尾には飛び道具の腕に自信がある連中が集まり、港に向かって、まるで雨のように矢や魔法を射かけている。放たれた氷の礫が、フーヴァルのすぐ後ろで弾けた。
「その調子だ、野郎ども……」
海まではあと三〇ナート。そこら中にゴロツキどもの死体が転がっているが、道はできている。船上からの援護射撃が、フーヴァルを守っている。だが、背後からはほとんど暴徒と化した海賊どもが追ってきていた。マリシュナ号の他の船も、出港準備を進めている。港を出るだけでは駄目だ。連中が追いかけてくることができないように、叩き潰さなければ。
全帆展開したマリシュナ号は速やかに速度を増し、援護射撃の矢が届かない範囲まで離れてゆく。おそらくヘインズが、帆に鷲の紋章を浮かび上がらせているのだろう。全ての風を集めて全速力を出すための、とっておきの魔法だ。
「よし……そのまま進み続けろよ」
だが、ここでフーヴァルが追っ手に追いつかれたら、一巻の終わりだ。
足の感覚は、ほとんど戻っていた。
大丈夫だ。いける。
いける。
港の終わりが近づく。海面には空き瓶や紙くず、腐った野菜に死んだ鼠が浮かんでいる。水は濁り、いやなにおいを発していた。
フーヴァルは躊躇わず、その海面に飛び込んだ。
「海に落ちたぞ!」と、追っ手の誰かが叫ぶ。
飛び込んだんだよ、阿呆め。
冷たい海水が身体を包む。水の温度が染みこんでゆくほどに、怒号が、喧噪が、街の灯りが遠ざかる。
ここは安全だ。ここでは誰も、俺に追いつけない。
皮膚の下を、言葉では言い表しようのない力が駆け抜けてゆく。頭のてっぺんから、首筋から、背中から、腰、そして爪先まで。力は身体の中で渦をまき、その渦に巻かれて、肉体がバラバラになり……また組み合わさる。そしてフーヴァルは、いままでとはまったく別の姿になった。
妖精の姿に。
海を総べる一族──人魚の姿に。
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できることなら船尾に齧り付いて、フーヴァルが無事なのか、船に追いつけるかどうか見ていたかった。だが、船はヘインズの魔法によって全速力で港を離れている。帆船を動かすのは舵と帆だ。舵は一人でも扱えるが、帆はそうもいかない。操帆の角度を一つ間違うだけで、港の周辺に停泊する船や岩礁に突っ込んでしまう恐れがあった。ゲラードは、限界まで膨らんだ帆を制御する他の掌帆手と同じように索具を握った。
大丈夫だ。彼なら生き延びられる。
でも、もし大丈夫じゃなかったら?
『もし』を考えるだけで、心臓が破裂しそうになる。
どうして立ち向かわずにはいられない? どうして逃げるという選択肢を素直に選ばないんだ?
船は、あっという間に沖に出た。帆脚索を固定し、あとは風が導くまま、可能な限り遠くへ逃げる。しかし、追跡する船についての報告は止まなかった。まず二隻、それから五隻に増え、イサス・ボテラの島影から二隻が姿を現し、合計七隻の船がマリシュナ号を追ってきた。
アーナヴはゲラードを近くに呼び、浮球儀の観測を命じた。
「彼らは、この船にフーヴァルが乗っていると思っている……?」
「いいや。拿捕すればフーヴァルをおびき寄せることができると踏んでるんだろう」アーナヴが言った。「良くも悪くも、あいつは有名になりすぎた。あいつがマリシュナを見捨てないのは誰だって知ってる」
ゲラードは俯いて、下唇を噛んだ。
「なら、この船が逃げ切ることができたら……僕らの勝ちということ」
アーナヴは眉を上げた。
「フーヴァルが、話したか」
何のことを言われているのか、すぐにわかった。
彼が人魚の血を引いているということだ。ゲラードは頷いた。
「ならわかるはずだ。あいつなら心配いらない。問題は、俺たちがどれだけ早く逃げられるか」
しかし、彼が人魚なのは半分だけだ。七隻の船に追われているときに、それで事足りるのか、ゲラードには知るよしもない。
「そう……だと良いんだが」
その時、何か──耳には聞こえない音を聞いたような気がして、ゲラードは顔を上げた。
「どうかしたのか?」アーナヴが心配そうにゲラードを見る。
「今……」
まただ。また、聞こえた。
今度ははっきりとわかった。あれは──
「フーヴァルの声がする」不思議だ。とても理解できない言語なのに、それでも彼の声だとわかる。「歌を……歌っているみたいだ」
「何だと!? あの野郎」アーナヴが反射的にあたりを見回す。舵柄のある甲板は壁に囲まれていて、窓からしか外を見ることができない。彼は苛立たしげに唸って、言った。
「船尾楼甲板に登って、確認してこい」
動揺したアーナヴの顔に、青白い鱗が微かに現れていた。デーモンとしての彼の素顔だ。
「了解!」
駆け出そうとしたゲラードの腕を掴んで、彼はこう付け加えた。
「もし黒雲が見えたら、全ての帆を畳むよう、すぐに号令をかけるんだ。いいな?」
ゲラードは頷き、全速力で船尾を目指した。
「ガル!? こんなとこで何してんだ?」
船尾楼甲板の見張りについていたのはワトソンだった。
「アーナヴに言われてきた。雲は──」
まだない。だが、それよりもっと不吉な影が、こちらに近づいてきていた。
七隻の追跡者。いずれも、それぞれの海賊旗を掲げている。
ダイラで目を通していた報告書で読んだ覚えがあるものばかりだ。ジェフリー・オドネル船長のブラック・ブル号、アントン・セシル船長のハングドマン号……薔薇を咥えた髑髏の旗は、フェリジアのルナール・バイエ船長のトルテュ・ド・メール号だろう。他にも、マルディラのエンパラール号に、ソネット・ブラウ号……最後に島影から姿を現した、一番後ろにいる船の正体だけがわからなかった。あの海賊旗はなんだろう。蔓か何かのように見えるが、よく見えない。
「あいつら、きっと地の果てまで追ってくる」ワトソンが言った。「追いつかれたら、今度こそ終わりだ」
フーヴァルの声は、相変わらず聞こえていた。
吹きすさぶ風や、軋む索具の音、潮騒を圧して、さっきよりもはっきりと。
「あの歌が聞こえるか?」ゲラードはワトソンに訊いた。
「歌!? いいや」ワトソンは慌ててあたりを見回した。「お前には聞こえてるのか? 俺には何も……」
なら、これは僕の耳だけに聞こえているのだ。
前に聞いた人魚の歌のような、滑空する鳥を思わせる滑らかな声ではない。低く掠れて、時にひび割れたような荒さがある。だが、その響きには……力があった。荒ぶるものを手懐け、虜にし、彼らの中に潜む怒りを掻き立てて、歓喜と共に解放させる──そんな、扇情的とさえ言えるほどの力が。
そして、来るべきものがきた。
最初にやって来たのは風だった。生温かく湿気をはらんだ風が、七隻の船が浮かんでいる方角に向かって吹きはじめる。波が高まり、うねりはじめ……そして、夜の空から星が消えた。海上の空に、まるでインクを溢したかのように唐突に、漆黒の雲が現れる。
そう、あれは嵐を呼ぶ歌だ。
「帆を畳め!」ゲラードは叫んだ。「縮帆しろ! 全ての帆を畳むんだ!」
号令は繰り返されながら船首まで伝わった。その間にも雲は成長を続けた。渦を捲く乱雲のただ中で、今まさに、嵐が生まれ出ようとしていた。
瞬く間に膨れ上がる黒雲の中で、脈動のような稲光が、脅かすように夜の海を照らし出す。轟く雷鳴は、今にも襲いかかろうとする獣の唸りのようだった。
やがて礫ほどもある大粒の雨が降りはじめ、七隻の船は、雨の窓帷と夜闇の向こうに消えてしまった。空を裂くような霹靂があたりに響き渡り、光の柱が海と空とを繋ぐ。そして、嵐が幕を開けた。
荒波のようにうねり、昂ぶるフーヴァルの歌に追従するように、陣太鼓のような雷鼓が響く。狂おしいまでの旋律に、ゲラードは胸を掴まれた。魅了された。ゲラードだけではない。風が、波が、雨粒が、嵐そのものが、彼の紡ぎ出す歌に身もだえしているようだった。
大粒の雨に打たれ、びしょ濡れで、船は木の葉のように荒波にもまれていたけれど、マリシュナ号の船乗りたちは少しも堪えていなかった。それぞれの喉から、雄叫びや、遠吠えや、でたらめな笑いが迸っていた。
「これが……君の血」ゲラードは我知らず呟いていた。「君の力か……!」
「ガル!」掌帆長のルーが叫んだ。「お前も来い! そんなところに突っ立ってると、海に落ちるぞ!」
「了解!」
濡れて、不安定に揺れる甲板をよろめき歩きながら、メインマストの根元にある止索柵に向かっていく。嵐の時に甲板で身を守るには、丈夫なマストと繋がった索を掴んでいるのが一番安全だ。
だがその時、ゲラードは、それまでとはまったく違う音を聞いた。フーヴァルが奏でる人魚の歌でも、がなり立てるような舟歌でもない。嵐や、船がたてるいかなる音でもない。
空耳だろうか? いや、違う。
笛。
あれは……。
「嘘だろ」オーウィンが、ガタガタと震え出した。「ああ……ちくしょう……奴らが来やがった……!」
角笛だ。
そして、息を詰まらせるような悪臭がやってきた。
船員たちは、索を掴んだまま互いの顔を見交わした。そこに浮かんだ恐怖を、絶望を、なすすべもなく分かち合った。
その時ゲラードは、強烈な腐臭に滲む涙の向こう──暗い波間に、ぼんやりと光るものを見た。
こんなところに、あんな昔の船があるはずがない。だが、あるのだ。それは嵐の海をものともせず、平然と浮かんでいた。
青白い光を放つ、竜頭船。それが、瞬く間に数を増やし、まるで無数の漁り火のように海面を埋め尽くした。あらゆる種の、あらゆる時代の男たちを方々からかき集めて船に詰め込んだかのように、亡霊たちの着ているものはバラバラだ。彼らは統制された動きで橈を操り、この暴風雨の中、音もなく、ある一点を目指して進んでいる。
「臭いを嗅ぐな!」アーナヴが、抑えた声で言った。「目を開けるな。物音も立てるな。身を伏せて、じっとしていろ……奴らの注意を引くな」
だがゲラードは索を手放し、再び船尾に向かっていた。
「ガル!」
鋭く囁くアーナヴの声がしたが、止まれなかった。
「フーヴァルが……!」
フーヴァルが、危ない。
†
角笛の音が聞こえた……それで、気付いたら……昔の船さ──竜頭船と言うんだったかな? それがもう、海原を埋め尽くしていた。二百艘はあったんじゃないだろうか……みな異なる服を着ていた。別の国、別の時代の人間を、無理矢理一カ所に集めたみたいだったよ……。
あの男の話が真実だったことを、こんな風に確かめるつもりはなかった。
まさか、人が住む島のこんなに近くにまで出没するとは。
幽霊は生気を嫌うものだ。たとえ誘導されたとしても、生きた人間が大勢集まっている場所には近づくまいと思っていた。だが、奴らは現にここにいる。
数千人の酔っ払いどもの生気など屁でもないくらい、力を増しているのだ。
あの飲んだくれの話は概ね正しかったが、一つだけ間違っていた。船の数は、二百艘なんてものじゃない。三百はある。
幽霊の目当ては、嵐の中で藻掻いている六隻の船だ。その証拠に、ヴェルギル──シルリク王の幽霊が、フーヴァルが喚んだ嵐のまっただ中にいる。
こんなに強風が吹き荒れているにもかかわらず、おぞましい腐臭があたりに漂っていた。
フーヴァルは、幽霊たちに見つからないよう海中に潜った。だが、この状態で船まで戻るのは至難の業だ。荒れ狂う波のせいで思うように進めず、大きなうねりの中を、身を捻るようにして進んでゆくしかない。月明かりもない夜の海にいると、前と後ろ、上と下の感覚さえわからなくなる。
唯一の手がかりが、波の上に浮かんでいる幽霊船の群れだ。どの船もみなシルリクの幽霊に船首を向けていたから、船尾がどっちを向いているかさえわかれば、この場から遠ざかることはできる。
マリシュナ号が、十分遠くへ逃げていてくれれば良いが。
不意の嵐に戸惑う魚たちと並んで泳いでいるうちに、ようやく、虚ろに光る船影がまばらになってきた。
この姿になることを拒否し続けたせいで、泳ぎには慣れていない。覚悟はしていたが、ひどく消耗している。波にもまれて海底の岩にぶつかり、いくつも傷を負っていた。鮫は血のにおいにひかれてやってくる。この嵐の中で食事をするほど馬鹿ではないだろうが、もし囲まれても、今の自分では戦えない。
とにかく、すぐにでもマリシュナ号にたどり着かなければ。
皆の無事を確認しなくては。仲間を失えない──もう二度と。
焦るほどに、尾びれの動きがぎこちなくなる。そして焦るほどに、正常な判断力は失われた。
嵐の領域から離れて、波が落ち着いてきた。暗い海に浮かぶ巨大な船底を見て、フーヴァルはそれを……マリシュナ号のものだと思いこんだ。追っ手は全員嵐に沈めたし、自分は間違いなく、仲間の逃げた方向に進んでいると思っていたのだ。
波間に顔を出し、あたりを見回す。幽霊船はいない。
ほっと息をついて、上を見る。
そしてようやく、それが自分の船ではないことに気がついた。
雲間から覗く星明かりを背景に、棚引いているのは──大烏賊の海賊旗。
「こいつは……」
「よお!」
船尾に設えられた船尾回廊に、人影があった。姿は見えなくても、あの声を聞けばわかる。
頭を殴られたかのような衝撃と、目眩。
俺はまだ、夢を見ているのだろうか。
呆然としていたせいで、あたりに注意を払うことさえしていなかった。だが、もし警戒していたとしても、逃れることはできなかっただろう。水面下を横切る白い影に気付いた時には、もう手遅れだった。その白い影──いくつもの白い影が、渦巻きながらフーヴァルを取り囲んだ。
「ぐ……!」
ぬめるものがフーヴァルの尾びれ、腰、胴体に巻き付き、きつく締め上げる。まるで何百もの口に噛みつかれたような痛みが、全身に走った。
「ああ……っ!」
それは一本の太さが木の幹ほどもある触手だった。藻掻き、引っ掻いても、びくともしない。噛みつくと、それは怒りを露わにするように色を変え、また元の色に戻った。まるで──いや、これはまさしく烏賊の脚。あの男が言っていた、化け物烏賊の脚だった。
無数の脚にがんじがらめにされたまま、フーヴァルは船尾回廊にいる男のところまで持ち上げられた。彼が掲げていたランタンのおかげで、その顔も、奴が浮かべていた笑顔も、はっきりと見えた。
「可愛い可愛いわたしの坊や」
古い、古い友が、フーヴァルを見下ろしていた。
「ジャクィス・キャトル……?」
彼は言った。
「久しぶりだな! アール・ライリー!」
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