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「あんた、〈鮫喰らい〉のスケなのか?」
まただ。
ゲラードは、あのあと大通りを一通り見て回った。ここで話されている言語は実に様々で、共通語からフェリジア語、カルタ語に、浪語、さらには焔語や、東方の言葉まで入り乱れている。その中でゲラードは、共通語の会話に、特に耳を澄ませた。ダイラの状況がわかりはしないかと思ったのだ。
だが、かろうじて耳にすることができたのは、エレノアがまだ生きていること。オールモンドが力を振るっていること。逃げた王子──つまり、ゲラードの行方がわからないことくらいだった。
ゲラードは、成人したあとは滅多に人前に姿を見せなかった。宴の席でも、わざわざ客人に紹介されることの方が希だったほどだ。だから、この島の人びとに顔を見られただけで素性を言い当てられるようなことはないだろうが……自分の話題が聞こえると、どうにも落ち着かなくて、そそくさとその場を離れるしかなかった。
そんな中、先ほどフーヴァルに部屋を取るよう頼まれた〈燃える雄鶏〉亭を見つけたのだった。それまでに見かけた他の宿屋に比べてしっかりとした店構えで、窓から中を覗き込んでも、乳房をさらけ出したまま踊るご婦人も、食卓についたまま誰かとまぐわっている客もいなかったので、胸を撫で下ろした。おそらく彼は、ゲラードを気遣ってこの店を選んでくれたのだろう。情けない気もしないではないが、ありがたさの方が勝った。
フーヴァルの姿はまだなかったので、言われた通り彼の名前で部屋を取り、合流するまで酒場で腹を満たして待っていようと思った。
すると、なぜか別のテーブルの客が次から次へと顔を見せ、同じ質問をしはじめたのだ。
「あんた、〈鮫喰らい〉のスケか」と。
〈鮫喰らい〉がフーヴァルの異名であるのは知っていた。あの海賊旗を見れば明らかだし、報告書でも幾度となく見かけた異名だったから。
だが、わからないのはスケという言葉の意味だ。結局、曖昧に言葉を濁したり、何のことかわからないと言って誤魔化したりしてきたが、この一刻かそこらの間に、もう五回も代わる代わる尋ねられて、さすがのゲラードも気分が悪くなってきた。
おりしもその時、店の入り口からフーヴァルその人が入ってきた。彼の両側には娼婦とおぼしきふたりの女性がいて、それぞれ彼の両肩に頭を休め、腰に手を回し、腕に乳房を押しつけている。フーヴァルは、どうやら彼女たちを追いやろうとしているようだ。だが、あの皮肉っぽい笑みを浮かべたままでうまくいくかどうか──彼自身も気付いているはずだが、ああして笑っていると、彼はとても魅力的に見える。
「なあ、どうなんだい?」
フーヴァルの姿に釘付けになっていたので、すっかり忘れていた。さっきの質問者はまだそこにいて、詮索好きの目を遠慮なくゲラードに注いでいた。
「あんた、〈鮫喰らい〉の──」
「僕が〈鮫喰らい〉のスケだったら何だというんだ?」
途端に、酒場は静まりかえった。
どうやら、思った以上に大きな声を出してしまったらしい。
頬がカッと熱くなり、誤魔化しようもないほど赤面しているのが、自分でもわかる。ゲラードは虚しく咳払いをして、抑えた声で言った。
「その……一人にしてくれないか」
そのあと、彼がなんと言ったかはよく覚えていないが、少なくとも一人にはしてくれた。入れ替わるようにフーヴァルが席についたので、どうか今の騒ぎを聞かれていませんようにと、全ての神に祈った。
「お前が俺のスケだったら、今ごろ嘆願者の列ができてる」フーヴァルは、面白くて仕方がなさそうな声で言った。「お前のお情けに縋って、マリシュナに乗せてもらおうって魂胆だ。それか、ふん縛られて身代金のダシに使われるか。良かったな、俺のスケじゃなくて」
ゲラードは目を閉じ、がっくりと肩を落とした。
「五人に尋ねられた。五人だぞ、この短い間に」ゲラードは言った。「スケという言葉の意味さえわからないのに」
すると彼は、あの『いい悪戯を思い付いた』と言う表情を浮かべた。
「まあ、知らない方が良いかもな」
「そんなに……よくない言葉なのか?」
彼はゲラードを無視して給仕に酒を持ってこさせると、水のように飲み干した。
「で、部屋はとれたか」
「もちろん。君の名前で。三階の南の角部屋だそうだ」
「よし。あの部屋はでかいから、男ふたりで使ったって何の不便もない」彼はニヤリと笑った。「今から、誰か引っかけてきてもいいんだぜ」
「誰が!」また、頬が熱くなる。「僕は……そういう無責任なことはしない」
『君と違って』という言葉が言外に滲んでしまったような気がして、フーヴァルの顔をちらりと窺う。だが、彼は気にしていないようだった。それどころか、さっきよりいっそう上機嫌に見える。
「それなら続きは部屋で呑むか」そして、ゲラードの怪訝そうな表情を見て笑みを大きくした。「おい、そう怒るなって」
彼は立ち上がり、ゲラードを先に行かせた。客たちの視線が追いかけてくるのを感じながらも、何でもない振りをして歩く。すると階段の手前で、フーヴァルの腕が肩に回された。彼は有無を言わさずゲラードを引き寄せ、酒場の客全員に──ひょっとしたら外にいるものにまで──聞こえそうなほどの大声で言った。
「残念だったな! 俺がこいつのスケだ!」
その瞬間、酒場がドッと笑いに包まれた。フーヴァルは大仰な辞儀をして、舞台袖に退場する役者のように堂々と、部屋へと向かった。
部屋は確かに広々としていたが、それに感心する余裕はすぐには戻ってこなかった。
「つまり、君が僕の……その……いわゆる、『オンナ』だと?」
スケという言葉の意味を知ったゲラードは、部屋の中央にある長椅子に腰掛けて、頭を抱えた。
「まあ、あんまり気にするなよ」
「名誉の問題だ。君の名誉の問題なんだ」ゲラードは弱々しく言いながら、顔を上げた。「君はそれでいいのか? こういうところでは、噂はあっという間に広がるのでは?」
「俺がお前のスケで何が悪い」フーヴァルはけろりとしたものだ。「まさかお前、この期に及んで『突っ込む方が偉い』とか考えてるクチじゃねえだろうな」
こんな明るい部屋で、そういうあけすけな物言いをされると、どうしても彼の目を見ることができない。
「もちろん違う! しかし中には──そういうことを、男らしさの証明だと考えるものもいるのではないだろうかと……」
「ま、そうかもな」
フーヴァルはフンと鼻を鳴らして笑った。それから、ゲラードの隣にどさりと腰を下ろした。
「でも、そいつらは全員、俺より弱い」
そして、手にしていた杯を宙に掲げて乾杯すると、中身を飲み干した。
ああ。
閉じ込めておこうと決心したはずのものが、また、胸から溢れそうになる。
ゲラードは目を閉じて、一つ小さな深呼吸をした。
「君が良いなら、これ以上は何も言わない」そして目を開けて、別の話題を持ち出した。「そういえば……お土産があるんだ」
意表を突かれた顔のフーヴァルを見て、心の中で快哉を叫ぶ。ゲラードは外套の衣嚢から、小さな布袋を取り出した。
フーヴァルが目を細める。
「あててやる──イカサマ賽子だな」
ゲラードはわざと目を眇めた。
「本気でそう思ってるなら……」言いながら、小袋を衣嚢に戻そうとする。
「待て待て、冗談だ」
フーヴァルは流れるような身のこなしで、ゲラードの手から小袋を奪った。そして惜しげもなく袋をひっくり返して、手のひらに中身を開けた。
転がり出たのは、一揃いの耳飾りだった。彼の瞳を思わせる小さな青玉が、白銀の輪にあしらわれている──それだけの、簡素な意匠のものだ。
予想外だったのか、フーヴァルは手のひらを見下ろしたまま、固まっている。
「耳飾りをつけた君の姿を見慣れてしまっていたから。そこがあいていると、なんだか寂しいような気がしてね。もちろん、気に入らなければつけなくていい。売れば酒代くらいにはなるだろうし──」
「ゲラード」
名前を呼ばれると、心臓が止まりそうになる。「うん?」
フーヴァルは複雑な表情を浮かべていた。まるで、人からなにかを贈られたのが初めてで、どう反応したらいいかわからないとでも言うようだ。
「つけてくれよ」
「も、もちろん」
耳飾りを受け取り、留め金を外す。小首をかしげたフーヴァルの耳にそっと触れて、ピンの先を、穴に差し込んだ。彼が捨てたと言う、金の耳飾りの跡がしっかり残っていたから、新しいものも抵抗なく入った。
「できた」
「つけ心地は、悪かねえな」フーヴァルは首を振ってみせてから、フフンと鼻を鳴らした。「次に酒代を切らしたときまではこのままにしとくぜ」
「光栄だ」ゲラードも笑った。
フーヴァルがゲラードを見る。その目がきらりと輝き、ふたりの間に炎が生まれる。楽しいことを躊躇なく楽しみ尽くす、彼の性質そのもののような炎。それに身を委ねて、まかれてしまえば、息が止まるほどのひとときを味わうことができる。
不意に空気が濃度を増し、呼吸が重くなった。まるで罠にかかったように、この瞬間に囚われてしまう。
フーヴァルの視線が、ゲラードの身体を探ってゆく。彼が食らいつきたいと思っている場所を、赤裸々に明かしながら。
喉が凍り付いたように、言うべき言葉が出てこない。
フーヴァルがわずかに距離を詰めると、『お楽しみ』に取りかかろうとするときに一層濃くなる、彼の香りが鼻腔を擽る。
ああ、この香りに溺れてしまえたら。
ゲラードは、ぎゅっと目を瞑った。
「駄目だ」そして、フーヴァルの肩に手を置き、彼を遠ざけた。「気晴らしは、もうしない」
フーヴァルは、それを冗談と受け取ったようだ。「焦らすなら、もっと色気のある言い回しを選べよ──」
「そうじゃない。本気だ」
ゲラードの声に宿るものがようやくちゃんと伝わったらしい。フーヴァルは疑うような目でゲラードを見た。
「俺の名前で取った部屋に転がり込んでおいて、拒もうってのか?」
「酒代は僕が出す。それでいいだろう。足りなくなったら、その耳飾りを使えば良い」
するとフーヴァルは、ほんの一瞬頭の中で吟味してから、あっさりと引き下がった。
「そういうことなら、好きにしろ」
ゲラードは巨大な主寝室に鎮座する巨大な寝台をフーヴァルに譲り、自分は使用人用の小部屋にある硬い寝台に寝そべった。新米船員としての最初の給料であがなえる寝場所と考えれば、至極妥当だ。それに、始終揺れて、そこら中から軋みが聞こえる船の寝棚よりも、寝心地はずっといい。
船の上では、灯りと体力を節約するために、夜になったら眠る。その習慣がすっかり板についてしまったから、ゲラードは寝床を確保するなり横になった。身体は休息を欲していて、すぐさま瞼が降りた。
そのまま眠りを受け入れ、頭の中に渦巻く考え事を無意識の底に沈めてしまおうとする。だが、そううまくはいかなかった。
どうしても振り切ることができない故郷のこと。エレノアは無事だろうか。孤立して苦しんでいるのではないだろうか。宰相のオールモンドはどういった政治を行っているのだろうか。食糧不足は改善されただろうか。フェリジアとの貿易は、関税は、港の整備は……と、ここで思い煩っても仕方のないことばかりが頭に浮かぶ。そして寝返りを打てば、今度はフーヴァルのことが気に掛かる。今彼はまだ部屋にいるだろうか。下の階の酒場に繰り出して、しこたま酒を飲んでいるのだろうか。それとも、さっさとお相手を見つけて、あの馬鹿みたいに大きな寝台に連れ込んだだろうか。
結局、寝心地がいいはずの寝台の上で、ゲラードは波にもまれる小舟のように何度も寝返りを打ちつづけ、しまいには船酔いになったみたいに気分が悪くなってきた。全身が怠く、眠りを欲している身体が不満をあげているようだ。だが、こうなっては、眠るのは無理そうだ。
ゲラードは一杯の水を飲むために、使用人部屋をそっと抜け出した。確か、部屋の中央にあるテーブルの上に、水差しが用意されていたはずだ。
フーヴァルが使っている方の部屋はがらんとしていて、人の気配がない。思い悩んでいたことが的中したのだろうと、ゲラードはため息をつき、素焼きの敷瓦の床を裸足で歩いた。開け放たれた窓にかかる薄い綿の窓帷が、階下から聞こえるくぐもった楽の音に踊るように、夜風に揺れていた。
水は覚えていた通りの場所にあった。魔方陣が刻まれた水差しの中の水は冷たく、未練がましく残っていた眠気の、最後の欠片まで消し去ってしまった。
もう一度ため息をついて、窓の外に目を向ける。
そこにフーヴァルがいた。
彼がこの部屋にいて、夜を共にする相手を探しに行かなかったことを喜ぶ資格は自分にはない。けれど、嬉しかった。
彼は窓の外の広縁に独りたたずみ、眼下に広がる港と、その向こうの海を見つめていた。誰にも見られていないと思っているときの彼には、どこか無防備なところがあった。それは裏を返せば、彼が普段、片時も気を抜かずにいるということかもしれない。彼はいつでも、彼を取り巻く観衆に、強い自分を見せようとしている。初めて彼に会ったときには、その鮮烈な眩しさに惹かれた。
でも、今は──。
この先ずっと、彼を越えることはできないだろうと思う一方で、フーヴァルにも脆い部分があることが、ゆっくりとわかりかけてきたような気がする。それを分かち合うことを、彼は許してくれるだろうか? 今ではなくても、いつかは?
ゲラードは、まだ栓の開いていない酒瓶を手にすると、裸足のまま広縁に向かった。
「あんた、〈鮫喰らい〉のスケなのか?」
まただ。
ゲラードは、あのあと大通りを一通り見て回った。ここで話されている言語は実に様々で、共通語からフェリジア語、カルタ語に、浪語、さらには焔語や、東方の言葉まで入り乱れている。その中でゲラードは、共通語の会話に、特に耳を澄ませた。ダイラの状況がわかりはしないかと思ったのだ。
だが、かろうじて耳にすることができたのは、エレノアがまだ生きていること。オールモンドが力を振るっていること。逃げた王子──つまり、ゲラードの行方がわからないことくらいだった。
ゲラードは、成人したあとは滅多に人前に姿を見せなかった。宴の席でも、わざわざ客人に紹介されることの方が希だったほどだ。だから、この島の人びとに顔を見られただけで素性を言い当てられるようなことはないだろうが……自分の話題が聞こえると、どうにも落ち着かなくて、そそくさとその場を離れるしかなかった。
そんな中、先ほどフーヴァルに部屋を取るよう頼まれた〈燃える雄鶏〉亭を見つけたのだった。それまでに見かけた他の宿屋に比べてしっかりとした店構えで、窓から中を覗き込んでも、乳房をさらけ出したまま踊るご婦人も、食卓についたまま誰かとまぐわっている客もいなかったので、胸を撫で下ろした。おそらく彼は、ゲラードを気遣ってこの店を選んでくれたのだろう。情けない気もしないではないが、ありがたさの方が勝った。
フーヴァルの姿はまだなかったので、言われた通り彼の名前で部屋を取り、合流するまで酒場で腹を満たして待っていようと思った。
すると、なぜか別のテーブルの客が次から次へと顔を見せ、同じ質問をしはじめたのだ。
「あんた、〈鮫喰らい〉のスケか」と。
〈鮫喰らい〉がフーヴァルの異名であるのは知っていた。あの海賊旗を見れば明らかだし、報告書でも幾度となく見かけた異名だったから。
だが、わからないのはスケという言葉の意味だ。結局、曖昧に言葉を濁したり、何のことかわからないと言って誤魔化したりしてきたが、この一刻かそこらの間に、もう五回も代わる代わる尋ねられて、さすがのゲラードも気分が悪くなってきた。
おりしもその時、店の入り口からフーヴァルその人が入ってきた。彼の両側には娼婦とおぼしきふたりの女性がいて、それぞれ彼の両肩に頭を休め、腰に手を回し、腕に乳房を押しつけている。フーヴァルは、どうやら彼女たちを追いやろうとしているようだ。だが、あの皮肉っぽい笑みを浮かべたままでうまくいくかどうか──彼自身も気付いているはずだが、ああして笑っていると、彼はとても魅力的に見える。
「なあ、どうなんだい?」
フーヴァルの姿に釘付けになっていたので、すっかり忘れていた。さっきの質問者はまだそこにいて、詮索好きの目を遠慮なくゲラードに注いでいた。
「あんた、〈鮫喰らい〉の──」
「僕が〈鮫喰らい〉のスケだったら何だというんだ?」
途端に、酒場は静まりかえった。
どうやら、思った以上に大きな声を出してしまったらしい。
頬がカッと熱くなり、誤魔化しようもないほど赤面しているのが、自分でもわかる。ゲラードは虚しく咳払いをして、抑えた声で言った。
「その……一人にしてくれないか」
そのあと、彼がなんと言ったかはよく覚えていないが、少なくとも一人にはしてくれた。入れ替わるようにフーヴァルが席についたので、どうか今の騒ぎを聞かれていませんようにと、全ての神に祈った。
「お前が俺のスケだったら、今ごろ嘆願者の列ができてる」フーヴァルは、面白くて仕方がなさそうな声で言った。「お前のお情けに縋って、マリシュナに乗せてもらおうって魂胆だ。それか、ふん縛られて身代金のダシに使われるか。良かったな、俺のスケじゃなくて」
ゲラードは目を閉じ、がっくりと肩を落とした。
「五人に尋ねられた。五人だぞ、この短い間に」ゲラードは言った。「スケという言葉の意味さえわからないのに」
すると彼は、あの『いい悪戯を思い付いた』と言う表情を浮かべた。
「まあ、知らない方が良いかもな」
「そんなに……よくない言葉なのか?」
彼はゲラードを無視して給仕に酒を持ってこさせると、水のように飲み干した。
「で、部屋はとれたか」
「もちろん。君の名前で。三階の南の角部屋だそうだ」
「よし。あの部屋はでかいから、男ふたりで使ったって何の不便もない」彼はニヤリと笑った。「今から、誰か引っかけてきてもいいんだぜ」
「誰が!」また、頬が熱くなる。「僕は……そういう無責任なことはしない」
『君と違って』という言葉が言外に滲んでしまったような気がして、フーヴァルの顔をちらりと窺う。だが、彼は気にしていないようだった。それどころか、さっきよりいっそう上機嫌に見える。
「それなら続きは部屋で呑むか」そして、ゲラードの怪訝そうな表情を見て笑みを大きくした。「おい、そう怒るなって」
彼は立ち上がり、ゲラードを先に行かせた。客たちの視線が追いかけてくるのを感じながらも、何でもない振りをして歩く。すると階段の手前で、フーヴァルの腕が肩に回された。彼は有無を言わさずゲラードを引き寄せ、酒場の客全員に──ひょっとしたら外にいるものにまで──聞こえそうなほどの大声で言った。
「残念だったな! 俺がこいつのスケだ!」
その瞬間、酒場がドッと笑いに包まれた。フーヴァルは大仰な辞儀をして、舞台袖に退場する役者のように堂々と、部屋へと向かった。
部屋は確かに広々としていたが、それに感心する余裕はすぐには戻ってこなかった。
「つまり、君が僕の……その……いわゆる、『オンナ』だと?」
スケという言葉の意味を知ったゲラードは、部屋の中央にある長椅子に腰掛けて、頭を抱えた。
「まあ、あんまり気にするなよ」
「名誉の問題だ。君の名誉の問題なんだ」ゲラードは弱々しく言いながら、顔を上げた。「君はそれでいいのか? こういうところでは、噂はあっという間に広がるのでは?」
「俺がお前のスケで何が悪い」フーヴァルはけろりとしたものだ。「まさかお前、この期に及んで『突っ込む方が偉い』とか考えてるクチじゃねえだろうな」
こんな明るい部屋で、そういうあけすけな物言いをされると、どうしても彼の目を見ることができない。
「もちろん違う! しかし中には──そういうことを、男らしさの証明だと考えるものもいるのではないだろうかと……」
「ま、そうかもな」
フーヴァルはフンと鼻を鳴らして笑った。それから、ゲラードの隣にどさりと腰を下ろした。
「でも、そいつらは全員、俺より弱い」
そして、手にしていた杯を宙に掲げて乾杯すると、中身を飲み干した。
ああ。
閉じ込めておこうと決心したはずのものが、また、胸から溢れそうになる。
ゲラードは目を閉じて、一つ小さな深呼吸をした。
「君が良いなら、これ以上は何も言わない」そして目を開けて、別の話題を持ち出した。「そういえば……お土産があるんだ」
意表を突かれた顔のフーヴァルを見て、心の中で快哉を叫ぶ。ゲラードは外套の衣嚢から、小さな布袋を取り出した。
フーヴァルが目を細める。
「あててやる──イカサマ賽子だな」
ゲラードはわざと目を眇めた。
「本気でそう思ってるなら……」言いながら、小袋を衣嚢に戻そうとする。
「待て待て、冗談だ」
フーヴァルは流れるような身のこなしで、ゲラードの手から小袋を奪った。そして惜しげもなく袋をひっくり返して、手のひらに中身を開けた。
転がり出たのは、一揃いの耳飾りだった。彼の瞳を思わせる小さな青玉が、白銀の輪にあしらわれている──それだけの、簡素な意匠のものだ。
予想外だったのか、フーヴァルは手のひらを見下ろしたまま、固まっている。
「耳飾りをつけた君の姿を見慣れてしまっていたから。そこがあいていると、なんだか寂しいような気がしてね。もちろん、気に入らなければつけなくていい。売れば酒代くらいにはなるだろうし──」
「ゲラード」
名前を呼ばれると、心臓が止まりそうになる。「うん?」
フーヴァルは複雑な表情を浮かべていた。まるで、人からなにかを贈られたのが初めてで、どう反応したらいいかわからないとでも言うようだ。
「つけてくれよ」
「も、もちろん」
耳飾りを受け取り、留め金を外す。小首をかしげたフーヴァルの耳にそっと触れて、ピンの先を、穴に差し込んだ。彼が捨てたと言う、金の耳飾りの跡がしっかり残っていたから、新しいものも抵抗なく入った。
「できた」
「つけ心地は、悪かねえな」フーヴァルは首を振ってみせてから、フフンと鼻を鳴らした。「次に酒代を切らしたときまではこのままにしとくぜ」
「光栄だ」ゲラードも笑った。
フーヴァルがゲラードを見る。その目がきらりと輝き、ふたりの間に炎が生まれる。楽しいことを躊躇なく楽しみ尽くす、彼の性質そのもののような炎。それに身を委ねて、まかれてしまえば、息が止まるほどのひとときを味わうことができる。
不意に空気が濃度を増し、呼吸が重くなった。まるで罠にかかったように、この瞬間に囚われてしまう。
フーヴァルの視線が、ゲラードの身体を探ってゆく。彼が食らいつきたいと思っている場所を、赤裸々に明かしながら。
喉が凍り付いたように、言うべき言葉が出てこない。
フーヴァルがわずかに距離を詰めると、『お楽しみ』に取りかかろうとするときに一層濃くなる、彼の香りが鼻腔を擽る。
ああ、この香りに溺れてしまえたら。
ゲラードは、ぎゅっと目を瞑った。
「駄目だ」そして、フーヴァルの肩に手を置き、彼を遠ざけた。「気晴らしは、もうしない」
フーヴァルは、それを冗談と受け取ったようだ。「焦らすなら、もっと色気のある言い回しを選べよ──」
「そうじゃない。本気だ」
ゲラードの声に宿るものがようやくちゃんと伝わったらしい。フーヴァルは疑うような目でゲラードを見た。
「俺の名前で取った部屋に転がり込んでおいて、拒もうってのか?」
「酒代は僕が出す。それでいいだろう。足りなくなったら、その耳飾りを使えば良い」
するとフーヴァルは、ほんの一瞬頭の中で吟味してから、あっさりと引き下がった。
「そういうことなら、好きにしろ」
ゲラードは巨大な主寝室に鎮座する巨大な寝台をフーヴァルに譲り、自分は使用人用の小部屋にある硬い寝台に寝そべった。新米船員としての最初の給料であがなえる寝場所と考えれば、至極妥当だ。それに、始終揺れて、そこら中から軋みが聞こえる船の寝棚よりも、寝心地はずっといい。
船の上では、灯りと体力を節約するために、夜になったら眠る。その習慣がすっかり板についてしまったから、ゲラードは寝床を確保するなり横になった。身体は休息を欲していて、すぐさま瞼が降りた。
そのまま眠りを受け入れ、頭の中に渦巻く考え事を無意識の底に沈めてしまおうとする。だが、そううまくはいかなかった。
どうしても振り切ることができない故郷のこと。エレノアは無事だろうか。孤立して苦しんでいるのではないだろうか。宰相のオールモンドはどういった政治を行っているのだろうか。食糧不足は改善されただろうか。フェリジアとの貿易は、関税は、港の整備は……と、ここで思い煩っても仕方のないことばかりが頭に浮かぶ。そして寝返りを打てば、今度はフーヴァルのことが気に掛かる。今彼はまだ部屋にいるだろうか。下の階の酒場に繰り出して、しこたま酒を飲んでいるのだろうか。それとも、さっさとお相手を見つけて、あの馬鹿みたいに大きな寝台に連れ込んだだろうか。
結局、寝心地がいいはずの寝台の上で、ゲラードは波にもまれる小舟のように何度も寝返りを打ちつづけ、しまいには船酔いになったみたいに気分が悪くなってきた。全身が怠く、眠りを欲している身体が不満をあげているようだ。だが、こうなっては、眠るのは無理そうだ。
ゲラードは一杯の水を飲むために、使用人部屋をそっと抜け出した。確か、部屋の中央にあるテーブルの上に、水差しが用意されていたはずだ。
フーヴァルが使っている方の部屋はがらんとしていて、人の気配がない。思い悩んでいたことが的中したのだろうと、ゲラードはため息をつき、素焼きの敷瓦の床を裸足で歩いた。開け放たれた窓にかかる薄い綿の窓帷が、階下から聞こえるくぐもった楽の音に踊るように、夜風に揺れていた。
水は覚えていた通りの場所にあった。魔方陣が刻まれた水差しの中の水は冷たく、未練がましく残っていた眠気の、最後の欠片まで消し去ってしまった。
もう一度ため息をついて、窓の外に目を向ける。
そこにフーヴァルがいた。
彼がこの部屋にいて、夜を共にする相手を探しに行かなかったことを喜ぶ資格は自分にはない。けれど、嬉しかった。
彼は窓の外の広縁に独りたたずみ、眼下に広がる港と、その向こうの海を見つめていた。誰にも見られていないと思っているときの彼には、どこか無防備なところがあった。それは裏を返せば、彼が普段、片時も気を抜かずにいるということかもしれない。彼はいつでも、彼を取り巻く観衆に、強い自分を見せようとしている。初めて彼に会ったときには、その鮮烈な眩しさに惹かれた。
でも、今は──。
この先ずっと、彼を越えることはできないだろうと思う一方で、フーヴァルにも脆い部分があることが、ゆっくりとわかりかけてきたような気がする。それを分かち合うことを、彼は許してくれるだろうか? 今ではなくても、いつかは?
ゲラードは、まだ栓の開いていない酒瓶を手にすると、裸足のまま広縁に向かった。
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